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2006年10月 6日 (金)

月の座 2

「連句とは一口にいえば月花をたねにした遊である。」とは、安東次男の至言です。

芭蕉捌「冬の日」第一歌仙の初折裏七~九句目(月)

田中なるこまんが柳落(おつ)るころ   荷兮  場
  霧にふね引(ひく)人はちんばか   野水   他
たそがれを横にながむる月ほそし    杜國   自

この杜國の月の句がこころを離れない。ダンディーな月だなとおもうから。荷兮のむづかしい句はよくわからないけど、零落したんだろうな、こまんという芸妓かそういう花柳界の花が・・というようなかんじは伝わる。柳というと、昨春に行った京都の木屋町や祇園の高瀬川沿いにあった柳しか思い浮かばないくらいだから、そういう情緒をうたったものだろう。
霧のなかに舟をひく人のすがたがぼんやり見え、その姿は前に傾いたり後ろに反り返ったり身をしなわせて舟を引いている。いまなら差別用語としてさっさと片付けられるちんばという情け容赦のない語も、ここでは却って一幅の山水画のなかの仙人みたいな詩語として昇華される。そして杜國の夕月。舟に揺られているおとこの視線がとらえた細い月。たそがれを横にながむる。こんな抽象的でドライな表現、いまの俳人はだれもできやしない。すごくモダンで気障で、感心します。

ところで、先日来、菊歌仙のナオの月で、もたつきましたが、いくらなんでも、きっちりと整理をしておかなければ、はじめて歌仙を巻くのに付き合ってくださった方々に申し訳が立たないと、調べていました。あいかわらず、東京堂の連句辞典が行方不明で、詳細なことをきちんと引用して説明することができません。こういう神隠しはしょっちゅうです。また出てきたら、引用いたしますが、とりあえずとりいそぎ。

函館の杉浦先生から、ばどさんの「朝の月あなたが置いた月見草」にたいして、「月の文字はとても重いです。二度も繰り返すのはくどい。有明の、と一語でよいのでは」との助言をいただきました。そのときは、なにげなく、ばどさんは川柳人だし、有明のようなみやびなことばでは、即物的な味わいがなくなりますから、このままでいきます・・なんて横着なことを申し上げてしまったのです。けれども、今日、『1990年の獅子料理』(窪田薫編)を読み返しておりますと、窪田宗匠が式目について書かれた文章がたっぷりとありました。そのなかで、月の件、マンスの月が出たら、異名の月にする・・というところがでてきました。一月二月などがマンスの月です。すっかり数字にばかり気をとられていて、肝心の二月のって文字を忘却していました。これはいくらなんでも、たしかにくどい。

ああそうだったのか。杉浦先生はそれに気づいておられてあんな助言をなさってくださったんだなあ。それじゃなくても、は一巻に三個も出ることばです。菊歌仙の場合、月見草にまで月がでる。であれば、先生のおことばどおり、有明にと変えたほうがすっきりします。 次の部分を変えます。

ナオ十一句目  有明にあなたが置いた月見草   bud

それと、雑の月はありませんでした。ただ、うわさの月といって、実体のない月はあります。紙の月とか。でも、それを使っても、ことばとして月がでるわけですから、やはり月の座になるでしょう。たしかにたしかに、月はなにより重いです。

こんばんは中秋の名月?でしたっけ。それとも十六夜の月でしたっけ。風が強いですね。昨夜はきれいな月がでていました。

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