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2006年9月11日 (月)

カルチェ・ラタンの労働歌

土曜の深夜、ふと思いついて「死ぬなと泣きし」を打ち込み、ずいぶん遅く寝た。それでも朝、ちゃんと目をさますはずだった。ところが明け方、はやく目がさめすぎて、困っているうち二度寝してしまい、ハッと目覚めたときはすでに八時になっていた。しまった。次男を七時に起こす約束だった。

大慌てで起こし、朝食もとらず身支度をして、ネットで場所を確認し、出かけた。サッカーの試合会場である筑後の中学校に。グランドで練習が始まっていた。

なにはともあれ試合に間に合ってよかった、と車を運転しながら、その時点でもまだあたまのどこかに残っていた、二度寝したときに見た倉本朝世さんの夢を思い出していた。

私はほとんど夢を記憶しない人間だし、人の夢をみることもあまりない。それがなぜ倉本朝世の夢をみたのか。もちろん、寝る前にうちこんだ歌仙のせいだ。うちこみながら、その句をだしたひとのこころをたどっていた。

みな、すごくうまい。ここまで人を真剣にさせる前田圭衛子宗匠の力に圧倒される。じつはあの歌仙を巻いた当時は、高木一恵氏の句のうまさばかりが目に付いた私だった。ところが、時間を置いて距離をおいて眺めると、それぞれがそれぞれの持ち味の句を出していて、眞鍋・岡井・高木三吟の「山鳥歌仙」にも負けないものを、ちゃんと持っている。

倉本あさよはうまい。そう、思ったのだった。彼女は都合六句だしているが、どの句も見事だ。ことに私の好きな句は「息つめてやがて切ない水の婚」。匂いの花の句(挙句の前にある、歌仙一巻の正花となる句)もすごくいいけど、この水の婚は絶品だ。句の内容や意味するものは漠然としているが、表現の持つ質感が清潔でうつくしい。これが彼女の生地だとおもう。

貞永まこと。この人もあらためてすごい俳人だと感じた。それは、連句を巻くときいつも感じていたことだが、前句を受けて、自分の句をだすとき、自分の位置がちゃんと誰よりも見えていた人だった。亡くなったのはこの歌仙を巻いた三年後の平成十四年夏だが、翌年一周忌が済んだころに、私は行きたがっていた天真実(てん・まこと)を乗せて、車で大分の彼のお墓に詣でた。産婦人科医であり多忙な奥様に前もって連絡していたので、仏前におまいりさせてもらったのち、先生の指示でお手伝いの人がすぐ裏の高台にある墓地まで案内してくださった。奥様のお話を聴き、かなしみのふかさをしる。

貞永まことは東京の人だった。私が会ったのは、全部で何回だろうか。亜の会の連句会では夏に合宿をやっていたが、それをいれてもおそらく六回くらいしかあってはいないだろう。なのになぜか兄のような親しみを感じていた。他の同志もみなおなじことをいうのがふしぎな気がする。

はじめて会ったときに、貞永さんは一冊の本をくれた。古本屋で買った本だといってた。「私のように黒い夜」という題の翻訳小説で、なぜか、とうとう読まないままだ。この想いは鍬塚さんにも感じることであるが、団塊の世代といわれる人たちの独特の感性を、貞永さんほど持った人はいなかった。社会性があり、いつも何かおおきなものに強い怒りをもち、句を詠んでいた。

 忘れないカルチェ・ラタンの労働歌  まこと

この句、貞永まことの本領発揮の句だとおもう。この歌仙にこれがあることが誇りなのだ。季語は労働歌。メーデー、五月五日、晩春の季語であり、彼の生きた青春の歌でもある。「姉のいた夏、いない夏」という映画があるが、あれをみると時代に生れることの意味がわかる。石橋秀野の政治性ともおそろしく繋がってくる。

「まことは何冊もノートを残していました。毎日十句以上詠む事を自分に課していたんです」・・と奥様はおっしゃっていた。「・・そのままにしてあるんですよ。彼が生きた部屋、そのままに。」・・と。

きょうは、九月十一日。

忘れていた。天真実くんの誕生日だった。かれは二十四歳にもなるのか。長らくあっていないが、元気だろうか。

※映画「姉のいた夏、いない夏」http://www.gaga.ne.jp/invisiblecircus/

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