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2006年9月 9日 (土)

切字論、川本皓嗣 3-1

今年中にすべて打ち込もうと思っているのですが、川本皓嗣のヒット作「切字論」、9/5付、当ブログ記事続きです。右のカテゴリー欄の「切字論」をクリックすると、これまでに打ち込んだ分が読めます。

                  3

  連歌時代からの沿革をたどってみると、発句に切字が要請されたのは、明らかに発句の完結性・独立性を保証するためである。なぜ発句に限ってそういう手立てが必要かというと、もしはっきり句末で完結したという形を整えなければ、発句はそのまま脇句と結びついて、和歌と少しも見分けのつかないものが出来上がる恐れがある。そうなれば、長句(五・七・五)と短句(七・七)を別人がかわるがわる「付けて」いという、連歌の独自性そのものが損なわれるからである。

 すでに平安後期の源俊頼『俊頼髄脳(としよりずいのう)』永久一、1113以前か)には、こう明記されている。「そのなから(歌の半分。上句の五・七・五)がうちに、言ふべき事の心[表現内容]を、いひ果つるなり。心残りて、付くる人に、言ひ果てさすはわろしとす」。これは短連歌(五・七・五+七・七またはその逆)についての注意だが、長連歌の発句では、発句の完結性への要求が、なおさら強くなる。したがって切字は、和歌とは異なる連歌・俳諧というジャンル自体の存立にかかわる重大な約束であり、どうしてもはずせない絶対要件である。この点は、俳諧辞典のたぐいにも、つねに明記されているところである

 そこで問題となるのは、切字がどのようなやり方で発句の独立をはかるかという点である。これについてはさきに触れたように、切字のもっとも重要な働きは、一句を二つに切り分けることだというのが、一般の見方であるように見える。浅野氏の言い方を借りれば、一句をそうして両断することで、「内容の重量感」ないし「とりあわせの複雑さと妙味」が増し、その重みによって、発句が一篇の詩として独立することができるのだという。しかしそれならば、よくあるように切字が句末にきて、浅野氏のいう一句一章の句ができるときはどうなるのか。この場合、切字は句を二分するという本来の、もっとも重要な役目を果たせないことになる。浅野説によれば、だからこそ一句一章の句には、なおさら「内容の重量感」や「情緒の複雑さ」が必用なのだという。だがそうだとすると、そもそも切字が本来の任務をおろそかにしてまで、なぜわざわざ句末に置かれることがよくあるのかという、当然の疑問が残ることになる。

 実は取り合せや二句一章論に代表される発句の修辞論、意味論は、俳諧史の上から見れば、いわば芸術としての発句の〈詩〉を濃密にするための工夫のなかで、主として芭蕉以後にだんだん練り上げられていったものである。したがって、ジャンルとしての発句の存立に、どうしても欠かせない基本条件ではない。現に連歌時代の発句には、二段構えの構成をもたない、一句一章的で平坦なものがきわめて多い。

          3-2へ、つづく。

源俊頼『俊頼髄脳』・・・http://oak.zero.ad.jp/teru/gakusyu/karon/tosiyori/

藤原定家筆『俊頼髄脳』発見・・・http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200608100019.html

和歌論・・・http://www5b.biglobe.ne.jp/~kamunaki/kokubun/wakaron.html

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