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2006年9月 3日 (日)

切字論、川本皓嗣 1-2

(1からのつづきです。)

 だがそれならば、そういう二種類の切断のうち、切字本来の役割としては、どちらが本質的なのか。というのは、切字が途中にあって句を両断しているときには、むろん一句全体を他から切り離すという任務が果たせないし、逆に句末を固めているときには、句の切り分けという仕事がおろそかになる。その両方の役目を一挙に果たすことは、どう見てもむりなように思われるからである。そもそもこのように、かなり性質の違う働きをするものを、無差別に切字と呼んでいいものだろうか。また発句は連句の第一句としてではなく、それだけで独立して詠まれ、かつ読まれることも多い。この場合、一句全体はいったい何から切れているのだろうか。これは、おそらく俳句に親しむ誰しもが一度は抱くに違いない重大な疑問だが、この問題に正面から取り組んだ論考は、まだ見当たらないようである。

 これらの疑問は、せんじつめれば同じことに帰着する。問題の核心は、切字の「切れ」という語のあいまいさにある。連歌の時代から、切字はごく表面的な切字のリストと簡単な解説を除いて、秘伝とされてきた。去来でさえ、芭蕉から秘伝を授かりはしたが、ことの性質上、すべてを明かすことをはばまれたからこそ、これまで切字論があまり振るわなかったと見ることもできる。しかし、これも連歌の時代から残された数々の言説の性質から察するに、そうした明示的な説明の背後に、切字の働きの根幹に触れるような重大な秘密が隠されていたとは思えない。

 つまり、連歌というジャンルが成立したごく初めから、切字という語についてはある種の用法の混乱があり、その意味のあいまいさが人々を悩ませてきた。その上、切字に用いるときは四十八字みな切字という蕉門の伝承があって、なおさら話が厄介になる。そのもどかしさが、このように神秘めかした、あるいは奥歯にものの挟まったような物言いを強いたのであろう。秘伝の中身が拍子抜けするような些事だったという例としては古今伝授の「三木三鳥sanbokusantyo」を挙げるまでもない。

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