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2006年9月 5日 (火)

切字論、川本皓嗣 2-2

(きのうからの続きです。かなり前に八女図書館蔵書で読み、とても感動してコピーを取り、人にも送った記憶があります。こういうのこそ、著作権のどうのとけちなことをいってないで、ひろく公開すべきです。)

 とはいえ、こうして切字の位置ひとつに頼って一句を二分したり、すべての発句を構成の上で二種に大別したりするやりかたが、本当に適切だといえるだろうか。たしかに「病雁の夜さむに落て旅ね哉」には句中の切字がない。しかしよく見ると、「夜さむに落」ちるのは「病雁」であり、一方「旅寝」をするのは語り手の「私」である。あっさり「落て」と言い渡されてはいるものの、むろん病雁が落ちたから、だから私が旅寝をするというわけではなく、したがって意味の上では、「旅ね哉」と上の+二字との間に大きな飛躍がある。すぐには意味の続かないこの二つの字句の強引な連辞化にこそ、この句の力がひそんでいる。この両者の間の断絶を、切字のある「六月や」と「峰に雲置あらし山」の間の断絶と比べてみるとき、どちらがより大きいと言えるだろうか。また、もし「秋風や」が独立体だというならば、「旅ね哉」も同様に、「私はー旅ねをすることだ」と、文の形に言い換えることができるはずである。

 切字さえ問題にしなければ、「病雁の」の句と「六月や」の句との間には、一篇の俳句として、いかなる本質的な違いも認めることができない。どちらも「二句一章」的な、あるいは「取り合せ」的な二段構えになっている点では同じことであり、ただその分かれ目が、必ずしも切字の位置とは一致しないだけである。

 私見では、主として芭蕉以後の発句について「二句一章」論を一般化すれば、句は文体と意味の上で「基底部」と「干渉部」に二分される。前者は表現の誇張(重複)や矛盾(対立)によって読み手の意表をつく部分(病雁の夜さむに落て)、後者は基底部への重複的あるいは対立的な干渉によって、意味を完成する部分(旅ね哉)である。「病雁の夜さむに落て」は、それほどに厳しい寒さという誇張(そして、ふだんなら羽根を列ねて月の面をかすめていく優雅な雁が病んで墜落するというショッキングな矛盾)を含んでいる。そして「旅ね哉」はそんな寒い夜にひとり(病雁のように群れを離れて)旅寝をする心細さという意義への方向づけを果たす。

 そしてその場合、切字の位置は、かならずしも基底部と干渉部の境界の目印とは重ならない。たとえば、

 <蛸壺やはかなき夢を>夏の月    芭蕉

では、面白い対立を内に含むのは、どう見ても< >でかこんだ基底部であり、「夏の月」はそこに背景を添える(そして夏の短か夜を暗示することで、はかなさの含意を補強する)ものである。この句を、切字に頼って「蛸壺や」と「はかなき夢を」 以下に切り分けたりすれば、基底部の文体的興味がすっかり失われることになる。かりに芭蕉がどうしても意味上の切れ目を切字の位置に一致させたかったとすれば(そして句の出来ばえさえ気にしなければ)、おそらく「蛸壺のはかなき夢や・夏の月」とでもしたことだろう。そもそも切字ひとつを盾にとって、俳句というジャンル全体を、一句一章と二句一章の二種に区分するのは、本末転倒というべきだろう。

    3へつづく。

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