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2006年9月29日 (金)

丸山豊と西東三鬼

きのう読んでいた本で、「水上源蔵という言霊」(5/7付かささぎの旗)に取り上げた久留米の母音派の詩人で、私がこの世界に入る機会を作ってくださった故丸山豊先生のことが書かれている箇所にばったり出合いました。『証言・昭和の俳句』上巻(角川選書333)の鈴木六林男(むりお)インタビュー(聞き手・黒田杏子)より引用します。(p64)

 新聞社によっては記事に書くことと書かないことがあります。丸山豊という詩人に『月白の道』という単行本があるんです。全集も創元社から出ています。そこでは「退却ばかりやった。戦争のことは書けないことに書かないことがある」ということを言っています。大岡昇平の「野火」のなかで、日本人の敗残兵が日本兵を射殺して焼いて食う話が出てきますね。それに類するものじゃないでしょうか。「書けないことと書いてはならないことがある」というのは。そういう書きづらいところがありますね。それを正直に書くと検閲に引っ掛かる。いまでもちゃんとした検閲のコードがありそうでね。(西東三鬼についての鈴木六林男の一連の談話)

鈴木六林男氏は最近亡くなりましたが、山本健吉の評論などでもたびたびお名前をおみかけする長老俳人でした。それで、気になることもあって、ぼつぼつ読んでおりますが、当の健吉への文句が書かれている箇所もございました。引きます。

 西東三鬼が難に遭う(※京大俳句事件。新興俳句運動にかかわる多くの俳人が特高に捕まった事件。だが、三鬼は最後に捕らえられた。そのことで三鬼は検察側のスパイだとする嫌疑をのちに負う)二日前の昭和十五年八月二十九日、石田波郷、山本健吉と秀野夫妻らは三鬼らと葉山で海水浴をやった。そんな仲ですから山本健吉さんにも証言(三鬼は無実だとする証言)を頼んだんですけど、あの人は文芸家協会会長でして、「会費をもらっている人の反対側にはなれない」と言って断ったんですね。その手紙は捜せば残っています。ぼくは捨てないから。親展できました。
 それを聞いた藤田弁護士はものすごく憤慨して、「会費をもらっているからグループの仲間を相手にして闘えないなんて、何のために山本健吉は文学をやっているんだ」と言っていましたが、いやなものを拒否するのは自由ですからね。
 ところが、その話を聞いた安東次男氏が、山本氏は京都でいてるときに三鬼に家をこしらえてもらったというのにと、これも憤慨したようです。
 初めて住んだところは家の中に吹雪が入ってくるような家だったようです。そんなんで夫人の石橋秀野さんは風邪をひいて結核になったんでしょう。敗戦直後で食うものもないし、栄養失調もあったのでは。それで三鬼さんが奔走して、出町柳の近くへ、少しましな家を世話してあげた。
 山本健吉が石橋秀野と娘さんを連れて神戸まで訪ねてくると、三鬼さんは自宅の畳を上げて、神戸元町のヤミ市へ売りに行って金をこしらえてきて、三人にメシを食わせたと言うんです。これは、関西では周知の話です。そのことも安東次男氏が三菱の神戸支店におったから知っているわけですよ。山本さんと三鬼は戦前からの知己ですから、それくらいのことは三鬼はしたでしょう。 

以上は一部の引用であるが、ここまで書いて、このインタビューがいつ行われたのか気になり、本を見てみるものの、どこにもその記録がない。平成14年に出た本だが、もともとは俳句総合誌に連載されたのをまとめたものであるから、こういう肝心なことが不明なのは惜しい。→これはちゃんと記載あり。平成であり、健吉の死後であった。

というのも、私は秀野を調べていたころに健吉の本を読んだので、健吉が証言を断ったということはともかく、西東三鬼への健吉の愛情、友情は本物だと知っているからである。それは「石橋秀野ノート」にも引用している。健吉は晩年「往時渺茫」という題の自伝を書いたがその中でちゃんと書いている。秀野の葬儀の写真にも三鬼は写っている。ともかく西東三鬼はふしぎな魅力のある俳人で、極道のような怪しいお医者でもあり、結婚しておるのに、その生活から時代のどさくさまぎれに逃れて、神戸の異人たちや娼婦やらが暮らす洋館で気ままな暮らしをした。去年「夜の桃」という西東三鬼自伝を読んだが、そのなんともいえず好い加減な暮らしぶりには感動を覚えた。まだ離婚もしていないときに、年増の看護婦に頼まれて、自分は彼女の一世一代の願いをかなえてやった・・つまり、子種を宿してあげたという。それで当の看護婦の田舎へ、彼女の老いた親を安心させるために、婿どのの顔をして、はるばる二人ででかけてゆくのだが、長崎だったかとにかく九州の田舎だった。そこの方言交じりの克明な描写が、のどかでなんともおかしかった。事態の深刻さなんてこれっぽちも伝わってこない。スケールがちがうのだ。まさに、
  四月馬鹿三鬼この日に忌を合はす (佐野まもる)
という追悼句(三鬼は昭和三十七年四月一日六十二歳歿)に合致するユニークで懐の深い俳人であった。

なぜか丸山豊の話から、西東三鬼の話になってしまいました。
26日は秀野忌でした。
  

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コメント

こんばんわ
石橋秀野という人をまるで知らないので・・と思って開いたら1ページ目でここに着きました☆
いつか石橋秀野ノートを読ませてください。
図書館にもありますかね?

石橋秀野ノート、私がもらっています。
今度お持ちします。
私はほとんど読んでいない。きょうこちゃんごめんね。

えめさん、ありがとうございました。
それぞれの出会いがありますよね。

昔から俳人はワイルドであった。と少女のころの秀野さんが書いている通り、彼女もワイルドです。どんな理論も役に立たない世界。

そういうものなのでしょう。
ぼん、それでいいんよ。きのうは来院ありがとう。

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