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2006年9月14日 (木)

切字論、川本皓嗣 3-2

9/9からのつづきです。間があいてしまいました。おまたせしました。

 試みに『菟玖波集つくばしゅう』(延文一、1356)に収められた発句を例にとって見ると、句末に切字がくるもの、たとえば、

  風ふけば花にちりそふ心かな    道生(どうしょう)法師
    さゆる夜は風と月とにふけにけり  救済(きゅうせい)法師
  水をせき月をたたへて夏もなし   二条良基(よしもと)

 などは、一句のなかに、いかなる文体上・意味上の対立や矛盾も見られない(「夏もなし」は、〈夏の暑さも忘れてしまう〉の意)。言い換えれば、「情緒の複雑さ」も「重量感」もない。

 また、句の途中に切字があるものについてさえも、事情はほとんど変わらない。

  日にそへて青葉になりぬ遅ざくら    道生法師
  雲かへり風しづまりぬ秋の雨      救済法師
  なけばこそ名はのこりけれほととぎす   同

ここでもやはり、切字を境として、その前後ではっきり文脈が変わるわけではない(「なけばこそ」の句は、〈時鳥は鳴くから尊いのに、なぜ鳴かないのだ〉の意)。また、『新撰菟玖波集』(明応四、1495)に目を転じても、切字の種類や用法は『菟玖波集』よりずっと多彩になるとはいえ、切字があるから句が二段構えになるとか、切字がないからことさらに意味が重層化されるということはない。切字の目的は一句の完結性を保証することにあるが、それはあくまでも形式上の問題で浅野氏のように、「内容の重量感」の問題を持ち出すのは、やはり切字にこだわるあまりの本末転倒だという他はない。

 それでは、なぜこういう論理の矛盾をおかしてまで、切字と二句一章の相関性がたえず力説されるのだろうか。その要因は発句を独立させるという切字本来の任務が見失われたためではけっしてなく、むしろ切字が句中と句末の両方に出現するという、ふしぎな事実のせいだろう。たとえば、「風ふけば花にちりそふ心かな」の「かな」のように、句末にくる切字が一句を後続の句から「切り離す」働きをもつことは、すぐにわかる。しかし、「日にそへて青葉になりぬ・遅ざくら」の切字「ぬ」が、句の途中にありながら、この句を「切る」というのはいったいどういうことか、うまく説明がつかない。ここに、切字がその名のとおり、一句を二つに「切り分ける」ものだという、はじめから内部に矛盾をはらんだ解釈が生まれる素地がある。

 しかもこの解釈は、近代に始まったものではない。すでに江戸時代の俳論書にも、ときおり同じような思い込みが見られ、議論の混乱に輪をかけている。切字が発句の独立を支えるという、ひろく認められた事実を明らかにするためには、ぜひとも句中の切字という奇妙な現象を説明しなければならない。これは逃れようのない問題であって、その点があいまいにされているために、切字論がはなはだ歯切れの悪いものになるか、あるいは浅野説に見られるような矛盾を招くことになる。もっとも浅野氏は、内部の齟齬はともかく、一方の見方を厳密に突き詰めたという点で、貴重な貢献を果たしたと言えるだろう。 

※ 文中、何度も浅野氏の、と出ておりますが、浅野信『切字の研究』(1962)を指します。

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