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2006年9月23日 (土)

歌仙「菊」 22

ばどさんから届いた付句、です。はじめの内は、なにをどうつけるのか、わからない。というのも、連句作品の読みかたがよくわからないから。今はまってる漫画に「道士郎でござる」ってのがあって、「今日から俺は」の人が描いたやつですが、もんのすごくおかしい。三ページに一回は大笑いします。あのなかで、ネバダ州から来た武士道の男道士郎が出会うワルガキに、「袖すりあうも他生の縁」の説明をするとこがあって(第三巻)、とてもおかしい。人をみて勝手に思いついたストーリーで過去生の縁を語り、人をくっつける。テレビによく出る霊能者みたい。でもそれがけっこう説得力あって聞いたやつらは囚われる。なんかぜんぜん関係ないけど、それをおもいだした。・・・ごめんなさい。関係ない話をしました。

べたつきの句を親句(しんく)、うんと離れた句を疎句(そく)といいますが、親句と疎句の中間を投げてくださった。

二月になって書く初日記

蹴り起こされた元日の朝

春着ぶかぶか孫のおねだり

下線部が新年の季語です。初日記、これが断然いい。前句との付け味がいい。固くなってから切る餅は、ぜんざいに入れる餅かもしれないが、そんなに力を入れなくても切れるうちに餅は切っておくはずだ、先走った嫁、あるいは姑なら。前句の人物の人となり、それでつけた句。ーってんで、正月もひと月すぎてやっと書く初日記。
蹴り起こされた・・は、サラ金句に戻る。ばどさんがつけた句にとって、サラ金の句は打越(うちこし)句にあたります。連句のきまり、前句とは付き、打越句からは切れること。春着は場面設定としてはいいけど、ぶかぶか、ということばが蛉さんのどろどろぐちゃぐちゃと同じたぐいのことばだし、あの句がめだっているだけに控えたい。孫にねだられるもサラ金に容易に戻る。しかし、春着は新鮮、あまり最近の俳人は使わない季語だとおもいます。
「われ春着乳足らふ獅子の仔を前に   石橋秀野 昭和16年2月」
ばどさん、すばやくつけ句をだせるなんて、すごいよ。連句向きです。感がいい人なんでしょう。さすが、あさよさんのおみたての人。

歌仙「菊」(仮題)

初折オモテ
発句 生きたまま脳に届いて殖えて菊    冬樹 (秋)
脇   赤とんばうを放ちやる空        姫野 (秋)
第三 三日月に「子とろ子とろ」の響くらん  鍬塚 (秋・月)
四    シナモン味のパンをください     倉本 (雑)
五  スカートがはらり自転車から下りて   杉浦 (雑)
六    早き朝には冴ゆる橋げた       沢 (冬)

ウラ  
一  背振山ちぎれちぎれに雪降り初む    澄 (冬)
二    よく似た痣を見せ合つてをり      朝世(恋前)
三  短髪のうなじは白き指睦び    bud(恋)
四    発泡酒までおまけで釣るか    蛉(夏・恋離れ)
五  「親王誕生」こんなところに祝ひ旗 恭子(時事)
六    一挺二挺五つ玉十露盤     聰子(雑)
七  満月のうしろへ急ぐ馬の群れ    朝世(秋・月)
八    刈田狼藉許すまじいぞ      清志(秋)
九  啄みてひと声啼きしかちがらす   都(秋)
十    言へない一句少年にあり     たから(雑、恋前)
十一 黄昏におさげひつぱる花篝        bud (花・春・恋)        
十二   ひらきひもとく春潮の渦       恭子(春、恋)

名残おもて

一  亀鳴くや張りて重たき右の乳    山本伽具耶kaguya(春)
二    どろどろどろっとぐちゃぐちゃぐちゃと   蛉(雑)
三  ああ僕の弔電四時に着くはずの       聰子(雑、無常)
四    吹雪の中をサラ金に行く           清志(冬)
五  餅を切る手に包丁の食ひ込みて        たから(新年)
六    二月になつて書く初日記           bud(新年)
七                              朝世(雑)
八                               伽具耶(雑)
九                               蛉(雑)
十                               都(夏月)
十一                              恭子(夏)

十二

二年前まで、連句を十年もあきることなくやってきて、句のつけ方はどうやって案じていたかといえば、なんにも方法がなかったわけじゃなく、無に架ける座標がちゃんとあった。それのひとつが、句を「自、他、場」にわけるやりかた。

なんだジタバとは。たとえば、名残おもて(ナオ)の1はちちがはっておもいなあいたいなあとおもっているのは、その人ですから、主語は自分。だから「人情句の自」、2はただのオノマトペ、擬態語だから場の句。3は自。4は誰がと書かれてないが、自。5はこれも書かれてないが実感あることから自。
という目でみれば、自分を詠んだ句が四つも続いた。それを打ち破らなければいけない。連句人なら、三句目で別の視点の句を出す。自、自、他、とか自、自、場とかになるよう、最初から(句を案ずる前から)足かせを設けて句を作る。
でも、まったく初めての人が、なにもないところからどんな句を出されるか、みてみたかった。付け味だけで、連句を巻き進めてみたかった。式目をなにもいわずに。

これまで式目のはなしをわざと避けてきました。初めての人ににげられたらヤだなという一心です。それと、単にめんどくさかった。まじで。笑
でも、いわなきゃいかんとおもって。先だって見知らぬ人からコメントいただいたし。

ウチコシというコトバがあります。打越と書く。第三は発句と打越、四句は脇句と打越、五句目は第三と打越、みたいに前前句との関係がうちこしです。連句のつらなる句のうち、アトランダムに三句取り出し、その関係をみると、隣り合う句は太い糸でかかぼそい意図でか結びついていますが、一句隔てた関係は赤の他人です。何の関連もない。三つの句が並んでも、話が続いてはいません。
こんなふうに、連句は延々とつづくけど、目的があるわけじゃない。ひとの人生のように、挙句(あげく。あがり)にむけて、四季のめぐりを経ながら、月と花という、彼岸と此岸に架け渡す季語の王様をことさらに愛でつつ、愛と憎、虚と実をないまぜにして、自然界と人間界のあらゆるものをうたっていく過程が連句のおもしろみです。変化のためにすべてが奉仕する。とどまってはいけない。おなじところにいてはいけない。数学的だし、時間論みたいだし、言霊をあつかう唯識論みたいでもある。文学っていうと、紙に書かれてじっとしているものだけど、俳諧は、じっとしていない。読む人にとって常に動いている虚空が整然とつづく行間にある。そこが、かけねなく、おもしろい。

次は、私を予定していたのですが、自の句が四句も続いてしまいました。・・ありえん。少々のわざでは転じられない。最後の手段は、あさよさん。こまったときの朝世さん頼みです。いそがしいんだったね。お墓まいりだったね。でも、待つから。あなたのふわっと地面一メートルの浮揚感がここにほしい。二日ほど待つから。

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