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2006年9月 4日 (月)

切字論、川本皓嗣 2-1

  (以下は川本皓嗣 の「切字論」から引用しております。)   

                   2

 切字については、近代以後に現れたほとんど唯一の系統だった論考として、浅野信『切字の研究』(1962)がある。これは、和歌の時代から芭蕉前後に至るまでの理論と実践を一望のもとにおさめる野心的な研究で、ことに資料の博捜ぶりと、文法論にも及ぶ分析の周到さにおいては他に類をみない。ここではその浅野説を直接の対象としながら、ひろく行われている切字論の再考を試みたい。したがって、扱う資料の一部は『切字の研究』に仰ぐものであることを明記して、浅野氏に感謝の意を表したい。(以後、他に明記のない数字は、同書の頁数を指す)。

 切字には句中にくるものと、句末に置かれるものとの二種類がある。そしてこれら二種類の切字の働きを、一応はっきり区別して、別々に考えようというのが一般の見方であるように見える。以下の浅野氏のことばは、そうした通念を代表するものである。

 切字が十七字一句の末端(これを座五ざごという)にある場合は、一句一章をなし、それ以外は二句一章をなす。二句一章の場合は切字が上五じょうごか中七なかしちかを中心として適宜随所に入る。(・・・・・)一句一章の場合はその構成が単体であるためにできるだけ含蓄ある詩情をこもらせて、一句の風格をととのえる。(二四一)

 二句一章というのは、句が切字を境として二部に分かれ、その両者の対立と呼応のなかに、暗示ゆたかな発句の「詩」が生まれるという考えかたで、発句が極端な短詩型でありながら、複雑な意味をもつ「まじめな詩」serious poetryとして成り立つわけを説明する試みの一つである。大正の初めに大須賀乙字おおすか・おつじが提唱したが、浅野氏によれば、すでに江戸時代、原田曲斎が『貞享式海印録じょうきょうしきかいいんろく』(安政六、1859)に説いているという。(二四三)

 発句が二段構えの構成をもつという観察は、いわゆる「取り合せ」と「句神くしん」の説(中村幸彦、二三一以下)、あるいは西脇順三郎の「二つの相反するものの融合」説(西脇、四一以下)、などをも含め、ひろく認められているところである。とはいえ、浅野氏に代表される一般的な切字論の上に立てば、世の発句のすべてが、切字の置かれる位置によって、構成上一句一章のものと二句一章のものと、大きく二種に分類されることになる。

 浅野氏によれば一句一章の句は、たとえば「病雁の夜さむに落て旅ね哉」のように句全体が「一つの独立体」となり、また二句一章の句は、「六月や・峰に雲置(く)あらし山」や「ほろほろと・山吹ちるか・瀧の音」のように、切字の直後で分かれた二つの部分が、それぞれに一個の独立体をなすという。ここで独立というのは、「ひろい意味での叙述(陳述)の完結」を意味する。たとえば、「秋風や」という上五は、見かけはどうであれ、「秋風がー吹いていることだ」というれっきとした文(主語+述語)と、文法学的に「等価」だという。(七-九)。

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