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2006年7月31日 (月)

まこと忌

「二人日和」を観にいった日の夜、息子を九重のキャンプ地まで車で送った。あの帰りのことがふしぎと頭から離れない。雲が足元から湧いてきて、すごい速さで流れてゆく。来た道の逆を辿っていたはずだった。でも逆のほうへ走っていたらしく、由布院の表示が出る。間違いに気づいて引き返し、今度は逆に走ると、記憶に全く無い道。それで辺りは真の闇。車も通らない。こわくてまた引き返すと、最初行った湯布院へ抜ける道に出た。違うここじゃない、どこかに来た道があるはずなのに。そう思ってあせり、おろおろと四往復ほどしたろうか。

さいごは他の車が通るのを待って、それにくっついて走り、運よく湯布院インターに出ることが出来た。この道に迷っていた時間は一時間弱。

そのあいだにいろんな想いが去来した。

映画のなかで死にゆく人が言った「ここからは自分ひとりでいく」んだということば。四年前、六月の朝、東京に特別な癌治療に行った連句会の同志貞永まこと氏から電話を受けた。声が、前と、全然、変っていた。のどのがんだったから。手術をしたから。その電話が最後だった。「東京の懐かしい友だちに会って、陶芸のまねごとをしたりしていたけど、もうきついよ。今は寝てる。ひめさん、連句(あと数句を残していた。巻いている途中だった)、わるいけど、もうできない・・句を考えようとするけど、なにも考えられない。あたまが・・もうろうとして・・そちらでなんとかしてください・・数日後に、奥さんに迎えに来てもらって大分に帰る、大分の病院に」

この電話を受けて、動揺した。いまわのきわにあるひとを、見舞いたい、と、強く思った。貞永さんがとても可愛がっていた天真実くんにも告げると、姫野さん、ぼくは行きたいよ、大分に貞永さんが帰って来たら、貞永さんに会いたい。お見舞いに行きたい。と泣きそうな顔で言う。

連句会「亜の会」のボス、前田圭衛子先生に相談すると、即座に言われた。

「恭子さん。ここからは家族や。絶対に行ったらあきまへんで。あなたもまことくんも。」

石橋秀野が蝉時雨の中、宇多野療養所に入院した七月二十一日から、亡くなる九月二十六日までの時間。貞永まことが大分の病院に再入院し、今日、亡くなるまでの時間。

  追悼句  鳴きやまぬものみな焚べし夏の月   恭子

  「死は懈怠」  たふれればふみつけてゆく黄蝶かな  〃 

  まこと忌の雲湧き奔る山の果て    〃

   

     

 

2006年7月30日 (日)

きのふのそら

きのふのそら

久留米ゆめたうん北側の窓から。水平に筑後川が流れているのが見えるでしょうか。八月に入るとここの川岸で花火大会があります。

サンダルとトランペット

部屋のドアを開けたら、いきなり目に飛び込んできた。

女もののサンダル。

えっ・・アイジン?恋人?・・と、頭の中をことばがぐるぐるまわったけど、気づいたときにはスーパーの袋を両手に、あがりこんでいた。夫のマズイというような目とぶつかる。女のヒトがきてるん?と聞くと、うん、と悪びれずいう。音がして、彼女は押入れに隠れたみたい。どうしよう、想定していなかった。

わすれていたわけじゃない。夫は男だって。携帯電話をいつだったか間違って開けたとき、沢山女の名前があったことも知ってる。なのに、自分がそれらの女性といつか現実に出会うだろうなんてこと、思ったことなかった。

・・気づいたら、誰か分らない押入れの女性に声をかけていた。まるで猫に声をかけるみたいに。

「いいよ、出てきても。」

夫が全身で私を部屋から押し出した。

「出て行けよ!かわいそうやんか、かのじょが。帰れよ!」

まってよ、私のサンダルと荷物返して。車のキーが入ってるから。

身一つで夫に外に吐き出されて、ドアをきつく閉められてしまったので、そういったら、漫画みたいにドアから手だけだして、荷物をポイポイーほらよって。

なんか、ひどくない。ものすごくみじめ。

四年前の自分は、泣いて帰ったのを覚えてる。あのときは、単身赴任最初の冬休みで吹雪がふいていて、こどもをつれてとまりにいったら、部屋にいっぱい女の長くて細い髪の毛が落ちていて、掃除だけして、こども二人をおいて帰ったんだった。さすがに兄の方は事情を察して、俺も帰るといってくれたが、いいからあんたも居り、といって一人で帰った。石橋秀野ノートの最終章を帰宅後、一気に書き上げたのを忘れない。それがなければどうなっていただろうと後で何度も思った。

でも、今回は、ショックだけども、悲しくはなかった。夫のいうとおり、「彼女がかわいそう」と、わたしもそうおもえたから。だれかしらないけど、夫とあそんでくれてありがとう。そんなふうにもおもえた。

夫のために買ったサンダルや食糧を全部持って帰ろうとして、ふっと我に返り、サンダルと十六茶二リットル入り二本はドアの横に置いてきた。

家に帰って足を洗うと、右足の小指の下を怪我しており、血を見たら急に痛くなる。「あ。これが皮膚科の先生がおっしゃった末端と中枢というやつだな」

なぜか、高校時代三年間ずっと好きだった男子に失恋したときのことを思い出した。卒業間近、手紙を書いて、会ってもらった。その人は部活でトランペットを吹いていた。星野の山奥の出で、山持ちの分限者の家の人(昔は)らしく、学校が遠いので、久留米に下宿していた。事務室の前に蘇鉄の樹が数本ある植え込みがあり、そこに腰をおろしていろいろと話してくれた。受験勉強が今のすべてで、女とつきあってる余裕なんてない、とまず言われた。次に、癌で最近父親が亡くなって、とても大きな経験をしたと思う、ともいった。付け足しの話の一つに、下宿の話があって、「ある日、先輩の部屋のドアをぱっとあけたら、うわってびっくりした。おんなとやりよったっちゃん。」と彼はいった。え、女とやる。何を?ああ、きっとあれね。と、なんとなくわかったけども、そこのとこだけ白抜きの科白みたいに浮き上がっていつまでもドキドキと記憶に残った。その日以来、私は受験とかどうでもよくなり、全く勉強する気になれず、適当に受けて適当に進学した。ー痛みをわすれたころ、博多のバス停で私の目の前を同じ緑色のシャツを着た男女がよぎった。あ、彼だ、と気づいたけど、もう心は少ししか痛まなかった。あんなに必死で片思いしてたことがふしぎだった。

さいきん次男が塾の送迎時に車中で聴くリップスライムの曲に、トランペットの音がとても印象的な曲がある。曲名を知らない。それを聴けば、反射的に初恋の人を思うし、こんどからは、連句的に、夫の彼女も、思うだろう。顔を見なくて、よかった。今時分はきっと彼女もそうおもっているような気がする。

後記:リップスライムの曲は「Funkastic Battle」で、息子がいうには「あれはトランペットじゃなくてギター!ホテイさんが弾いとんよ」。ここで又一つ発見。音がトランペットに似てる!でも良く聴けば、確かに語尾の震えが管楽器とはちがう。ギターの音がアコースティックとかフォーク等とは全く異質なんです。なんていうギターなのでしょうね、ハードエッジ・ギター?なんなんだそれは!(ホテイさんて誰と思って調べましたら、今井美樹の夫の布袋さんでした。)平成生れの次男の世代がヒップホップやラップが好きなのは、幼少のころはやったポケモンキャラの名前を唱える歌に源流をたどれる、とおもいませんか。

課題句「横」

五月末頃に六月号を引用してから間があいてしまいました。気づけばもう八月号が来てます。俳句誌『樹(たちき)』(中津市三光森山、瀧春樹主宰、毎月刊)七月号より。

  

 課題句「横」

             太田一明 選

特選

  横丁を一つ違えば蝶のくに      古永 房代

  聖五月死んだふりする横車      小森 清次

  横たはる身のいづこより麦埃     姫野 恭子

佳作

  猫が行く五月の横断歩道かな     山下 整子

  縦横に鐘響かせて初夏の街      竹原 とき江

  走り梅雨横断歩道に金平糖      澄 たから

  散る桜まだあるという横恋慕      堀井 芙佐子

  箴言は梅酒の瓶の横に置き      依田 しず子

  横綱のあの目線なし五月場所     木村 賢慈

  横町の主を捜す夏つばめ        田中 恵

  横文字の看板多き花の山        宮川 三保子

入選

  マスクしていても気になる横の人    阿部 禮子

  若草を踏むあしあとの横恋慕      末永 晴海

  横一列匍匐前進葱坊主        林 照代

  ジーパンの横に裂けたる初夏の風    神無月代

  横笛の名手祭りの夜を飾り      井上ちかえ

  北の娘へ祈り届けと横田さん     島 貞女

選者吟

  横四方固めのつもりゲンゴロウ   太田 一明

主宰吟 

  蚕豆に莢太りゆく横恋慕      瀧 春樹

ゲスト吟  

  横ざまに滑りゆくなり蟻地獄     斧田 千晴

※八月号は「魚」、九月号は「口」。十月号は「飾」十一月号「散」。なにかひょいとデキましたら、ご一報くださいまし。(川柳家も連句人も自転車の方も音楽家も大歓迎します。決まりは、課題の文字を入れて、季語もいれて五七五を作ることだけです。)

 斧田さんの「蟻地獄」句、余韻ある名句でした。このあいだ、聖マリア病院待合室で読んだ、蟻地獄の百種を超す別名をフィールドワークで調べた本を思い出しました。こんなに名前があるってことは、それだけアリジゴクってみんなに愛されているんですね。あとしさり、とかいうのもあったっけ。変ったところでは、アリジゴクは熱さましになったらしく、薬として使われていたようです。どんな味でござんしょう。斧田さん、また作ってくだされ。

    

 

2006年7月27日 (木)

Turn  Over 2

『二人日和』(原題:Turn Over  天使は自転車に乗って)は、ダンスホールでの一組の男女のダンスシーンから始まる。と同時にいきなり、全身にタンゴの曲を浴びる。うわあ。これがバンドネオン。これがアストロリコの音。そして・・利華さんのボス、門奈さんの音!うわあ。

初めて門奈紀生の音を聴いた。力強く、繊細で、透明ないろをして、うつくしかった。

バンドネオンって形はアコーディオンだけど、音がぜんぜん違う。どこかハーモニカの音に似ていない?口で吹くハーモニカを蛇腹ふがふがの手動風送り式にしたような哀調のある音が、ゆらぎをともなってかなでられる。それを、あの、鶴みたいでピノキオのゼペットじいさんにもどこか似ている(大失礼)、気高く慈悲深い雰囲気の紳士が演奏なさる。この序曲は、「RECUERDOれくえるど」という曲であった。そして、利華さん!画面右手の暗がりのなかに、姿はみえないけど彼女がいて、ヴァイオリンを弾いている。・・なにか胸がどきどきした。ダンサーの緋色と黒のコントラスト、部屋のなにもなさげな装飾ながら、壁にたれていた緋色のドレープカーテン。ダンスもけばいんじゃなくて、しっとりと和風の色気がある優雅なものだった。まず、この冒頭シーンが印象につよく刻まれる。

画面は終始うすぐらかった。私の好きな言葉に小暗いというのがあるが、まさにそれだ。いのちのもつ、根源的なおぐらさ。ストーリーは、子のない熟年夫婦(というんだろうかな。ちょっと老人というには早く、かといって中年というのも)の妻が不治の病にかかり、夫がみとる。単純にいえばそれだけの話で、それに若くてきれいな青年と娘さんが絡む。・・とかけば、いかにも重苦しい闘病ドラマのようだが、これはまったくそうではない。闘病ではなく、運命としての病に従うのである。ゆだねるのである。水のように。

このドラマの主役は京都の川であり、水である。また、水のようにめぐるわたしたちの命である。

「千恵さん」という藤村志保演ずる妻が病気の進行に伴って御飯がのどを通らなくなる。かんしゃくをおこして夫・栗塚旭に八つ当たりする妻、だまってうけとめる夫。そのあたりから周りで洟をすすりあげる音がきこえだしたけれども、私は悲しくなかった。隣の鍬塚さんが泣いているなと思ったときも。でも、たぶんあれがクライマックスだったとおもうが、亡くなる間際、いよいよ最期の時期にさしかかったと悟った妻と夫が向き合って、ことばを投げあうシーンには、深くうたれて涙がひとつぶこぼれた。

「ここからはあてひとりでいくんどす。あんたはんはついてこんでおくれやす」(みたいなことを千恵さんはけなげにもいった、死出の旅に)

かつては駆け落ちまでして一緒になった夫婦。淡々とすぎる日常。そこに現れる手品が趣味の青年。(こういう筋は、三島由紀夫の『朝焼けの二人』と似ている。倦怠期の夫婦がそれぞれ若い恋人をもつ。川端康成の『眠れる美女』よりはましかも)。

うすぐらい京の町家で昔ながらの和の暮らしをしている夫婦でも、水は神社に毎朝汲みにいき、豆を挽いたコーヒーを飲む。神祇装束師という職業も京都の職人としての誇りを大事にする仕事だ。この夫婦の何気ない会話、ことに千恵さんのどことないユーモアに悲愴さは消える。

想い出深い雛人形を飾ろうとして、千恵が倒れ、手品青年がちえさん!といって駆け寄る美しい場面。あとで千恵がしみじみ言う科白、「名前なんて呼ばれたのは何年ぶりでっしゃろなあ・・」には、まったく女として共感を覚えた。結婚で何が喪われるかといえば、それぞれの性だから。このあたりの演出はまさにオトナのあじわいである。(そういえば鍬塚さんは人を呼ぶとき、どんな高齢者でも名前にさんづけだ。その意味を、この場面で痛いくらい実感した。85にはなられると思える樹の代表俳人鮫島康子さんは、入院中おばあさん扱いされたと怒って退院なさったこともあった。誇りは何より大事であるし、いくつになっても女は女なんだなあと思う)。

京都の景色と自然に密着した行事。町家の佇まいと、建具や茶箪笥などの古い調度品のうつくしさも、また見所だった。

黒由玄という栗塚旭演ずる夫の名が、テーマに沿った名で、水の物語を語るに相応しい。くろいゆえに玄いなんて。そして、アストロリコの「黒由玄のテーマ」という曲がとてもすばらしいとおもった。序曲は一点とても強い緋色がまじっていた、いわば赤い印象の曲だったが、これはどこまでも黒い。かなしくて、せつない小節が繰り返される。門奈ボスのバンドネオンに追いすがるようにヴァイオリンが絡み、しばらくソロ、その後、ピアノが入り、またソロ。というように、それぞれの持ち味を生かしながら、一つのテーマに奉仕する。まさに連句のような音楽だ。人数(四重奏)も音色も連句人が歌仙をまくような。これは「DAR  VUELTAだる・ぶえるた」という曲だった。玄さんが画面に出るとこれが要所要所で流れていたので、あたまにこびりついてしまった。

ターン・オウヴァーとは、トランプでカードが裏返しされること、青年が手品を千恵に教える場面でさりげなく使われている。天使は自転車に乗ってという副題がついているが、青年がいつも自転車で来て帰ったからと、トランプにその模様が描かれていたからだ。

白描画ということばがある。水墨画のことだが、まさにそんなあじわいの、ほのあかるく、ほのぐらい、カラー映画なのにモノクロのような、邯鄲の夢のような、あの黒由玄が最期に仕上た紫の神祇装束のような夢幻のいろの、ものを多くいわない、映画だった。

さいごに、劇中、ねえ、あの曲はなんていう曲だった?と千恵さんが玄に尋ねるタンゴは、鍬塚さんが教えてくれたのだけど、ボケの私は忘れてしまった。想い出のなんたらというんでしたよね?(いいかげんだなー)「想い出に捧ぐ」・・と鍬塚さんは言ったんだっけ。ー序曲のレクエルドがそれでした。笑(これは、説明を見ますと、世界的に有名なオスバルド・プグリエーセが若き日に思いを寄せた女性を題材にした曲と書かれています)。

帰路は戸畑の鍬塚さんいきつけのゆんたす珈琲店で珈琲をのみ、会場で求めたCD「二人日和」をずっと聴いて帰った。

アストロリコのみなさん、たましいの琴線にふれる映画音楽をありがとうございました。

※小倉から帰宅後、夕食をたべようとすると、起きてきた次男が、「もう大丈夫やけん、行かして」とわたしに頼む。体がもとに戻れば、そらそうやろなあと思い、もう八時近くだったが、高速を一路またこんどは大分路の九重まで走る。阿蘇長者原着が九時半。だいじょうぶかーと友達や先生にむかえられ、息子はすっかり平常にもどったようだ。それを見届け、また帰ったが、どういうわけか道に迷い、まっくらな山中で何度も同じところを往復していた。こういうのをきっと狐にばかされたというんだろうな。結局、九重じゃなく湯布院まで出てしまい、そこから高速にのり、家に着いたのは十二時過ぎだった。一日で五百キロ以上も走行したのは初めての経験だった。やれやれ。

Turn  Over 1

昨日はめまぐるしい一日だった。

五時起きで「黒マリア」を書く。

七時、阿蘇に合宿にいくはずの次男を起こすが、体調がわるいといって寝ている。色々準備もして、あんなに楽しみにしていたのに・・!体が弱いと可哀相だとこんな時痛感する。学校に連絡して、行けるようになれば連れてまいりますと訳を話す。前日病院で年に二回受ける脳波検査をしたとき、睡眠薬を倍のんだらしく(体重が46キロくらいなのに50キロといったようです。まったく!)体調が崩れてしまった。睡眠薬は恐ろしい。考えてみたら覚醒時と睡眠時の二種の脳波を一時間以内にとるなんて随分な気がするが、これが医学の常識なんだろうか。素人には分らない。医薬品卸の仕事をしている夫にいうと、心配するな、お前は先走って要らん心配ばかりする。ちゃんと眠気がとれたら大丈夫だ。薬が効きすぎただけったいーとのんきだ。それよりアンタ、もすこし大きく構えて人生楽しんだらーなんてことまで説教してクダサル。あんた、いっつも自分の首を自分で締めてひーこら苦しんでご苦労さんなこってーだってさ。へいへいご忠告ありがたいことでごぜえますだ。笑

ハッと気づけば、水曜は一人中学生とお勉強を一緒にする日だった。(小倉に映画、はたして行けるのか。)ゆうたくんが九時半ころ来て、最も苦手という国語をやる。私たちの子ども時代の記憶にはっきり刻まれているアイスキャンディー売りのお話。こどもの目から見たアイスキャンディー売りの戦争での喪失体験へのこどもらしい悼みが自然に描かれていて、読むものに考えさせる力をもった文章だった。確か、立原えりか。(このひとの「ヘンゼルとグレーテル」が今も宝物)。ゆうた君は空手少年で釣りキチでもあり、俳句を時々作らせると野生的な句ができる。語彙はこどもっぽい。こどもの俳句指導は、無駄話をしているときに、あ、それを句にしようよ!と指摘してあげることだけだ。何が季語で何を書くのかわかっていないから。それさえわかればこどもは体験と観察の宝庫だから。うちの次男も去年まではノッてくれたのにな。つくづくこどもは13までだと俳句からもそう思う。それをすぎれば一種のオトナだ。ふしぎとこのころから虫を気持ち悪がったりするのも符牒めく。それまでは仲間のように身内のように虫をいとおしみ。

さあ、十時半!行けそうだ。寝ている次男は夫がいうようにほっぽって、映画に行くことにする。じゃがいもとたまねぎを持って(笑)。九州は梅雨明け、気持ちを切り替えよう。ああよかった!八女広川から高速で戸畑まで一時間半である。お誘いしていた日記の広場主宰で俳人の鍬塚聰子さんちにお迎えにゆく。ほんとは、ご近所の俳人澄たからさんも誘いたかったが、彼女は忙しいので声をかけるのをためらった。(ビデオになったらみてね。)

西小倉の会場ムーブにちょうどいい時間につく。地下二階の駐車場に駐車できた。会場は中高年でいっぱいだ。平日だったが中年男性の姿もちらほら、七十代のご夫婦も。思ってたように女性ばかりでもなかった。

鍬塚さんとお会いするのは今年二度目だが、いつ会っても若々しく華やいだ雰囲気の人である。花がある。そうそう。役者デビューされるそうで、びっくりした。オーディションに受かったのよーといって、ポスターを下さる。三島由紀夫の「班女(はんじょ)」。鐘下辰男演出。リーディング・セッションというやつだって。どんなのかぜんぜんわからんけど、ま、何はともかくめでたい。彼女にはそういうの、非常に向いていると思うので。私よりちょうど十歳年上の色気ある鍬塚さん。こども四人いてみな大学までやり終え、還暦にして役者デビューなんてかっこよすぎじゃ。

といってるうちに、映画が始まる。

2006年7月26日 (水)

黒マリア

八女図書館と佐賀図書館と久留米図書館によく行きます。

雨の先日、閉館間際の久留米図書館に本を戻しにいったとき、十冊近くまた借りてきたのですが(全部をきれいによめるわけではありません。意識の向かう方向に触れた本という意味です。鉱脈をあてるダウジングってこんなでしょうかね、きっと)、そのなかに、タンゴの本が一冊ありました。で、パラパラとめくると、最初のところで、移民の歴史が書かれていて、黒マリアの写真が目に飛び込んできました。

ああ、と思いました。あれはもうずいぶん前、「連句誌れぎおん」で恋の歌仙を巻いたときに、「黒マリア」と題する一巻を巻いた。題は私がつけたので、記憶しています。留め書きも私が書いたので。関西の小説家(斧田と同じく超マイナー、だがめちゃくちゃ硬派)三木祥子さんが出された一句、

 黒マリア受難生み出す陰を持ち   祥子

からとりました。ほんとにこの句をみたときは、おおっ!と感動したのを忘れません。(陰はホトと読みます)。

ミッションスクール短大に通った二年間、キリスト教にかなり感化されましたが(毎月教会に行ってレポートを出さなきゃならなかった)、それでも、仏教と神道で育った身には、アクセサリー的な信仰でしかなく、エキゾチズムはかっこよかったのでしたが、どうも処女受胎とかが腑に落ちなかったのです。とても偽善的に思えて。

歌仙を巻いたそのころは、ムスメがまだ高校生で、コミケってのに熱中してまして、そのお付き合いのお仲間に漫画『ゼロ』という薀蓄漫画の原作を書いておられる作家の娘さんがおられて、戴いた「ゼロ」にちょうど黒マリアのがあったわけです。(この作家は「緋が走る」という陶芸漫画の原作も別名で書いておられる。「ゼロ」は愛英史、「緋が走る」はジョー・指月という名です。代表作に「アストロ球団」がある、山口県人)。

こういう話題は入り込むと抜けられなくなりますのでしませんが、このブログの始まりから陰陽五行の冬の色、黒がちょっと気になってまして、水もきになってまして、それでつい、書きました。

「ミッドウエー海戦」にコメント下さったアストロリコのヴァイオリン奏者麻場利華さんのアサバとはあちら南米のことばでは「黒」を意味する言葉らしく、こういうのってふしぎですよね。

2006年7月25日 (火)

蚊帳釣草と雨の川

蚊帳釣草と雨の川

家への私道脇に蚊帳釣草ばかりが生えていました。

蚊帳釣草と雨の川

筑後川を六五郎橋の上から。はるか向うは有明海です。千年川とか一夜川と歌によまれた筑後川は、雨が降ると表情ががらりと変ります。

2006年7月21日 (金)

家庭訪問

次男の中学校の家庭訪問がありました。

一年生だった去年は、はちゃめちゃで、部活動顧問でもある担任の先生(男)が、何かといえばすぐに家庭訪問して下さいました。じぶんちの仏壇のお金を友達にいわれてとったけども、それが苦しくて自分から白状した事件。おなじ友達にいわれてタバコを買い、喫った事件。(黙っていればばれなかったのですが、タバコを学校に持っていってみんなに見せたので、すぐに御用となった。)クラブ仲間とささいなことで殴りあいの喧嘩をした事件。(空手を二年間習っていたので、ちょっと。)さいごは、本屋で「未成年は買ってはいけない」本を集団で買っちゃった事件。(これは私も本屋に出向き、息子とともに侘びを入れました。ほんとにはずかしかったです。)

そのつど、先生が家に説明に見えましたし、学校にも呼び出されました。とるものもとりあえず出向くと、相談室の机にちょこんと座らされ、神妙な顔で、友達と二人、反省文を書かされていました。親子ともども頭を垂れて、それからしばらく謹慎を言い渡されました。子は坊主あたまになりました。仏壇のお金事件と喫煙事件は、同じ友達がからむものです。話を聞けば、かれは、さびしい子でした。お父さんは小さい時に亡くなって、お母さんしかいないのです。でも、片親の子はいまどき全国に大勢います。そういうのはいいわけになりません。その子のお母さんは、ごめんなさい、うちの子がとんでもないことを誘って・・といって、ただただ泣かれました。こちらこそ、唯々諾々と従って、止めなかった。おなじように悪いです、と言うしかなかった。うちの父親も単身赴任中であり、どこか響きあうものがあったのだろうか・・と後でおもったことです。

夫はとても次男には甘くて、三人目ではあるし、年をとってからの子は可愛いのか、猫かわいがりしていました。上二人のときには育児は私にまかせっきりで母子家庭かというような待遇だったのに、次男だけは自らおむつもかえたし、乳母車も押しました。赤ん坊のときから、夏になれば八女の川に連れていき、毎年、毎日曜日、泳がせました。こんなにまめな人だったかとあやしむくらいに。

それが次男が五年生になるころ、単身赴任です。ちょうどいい親離れの時期でした。

次男は父親から見事に自立しました。去年色々と問題を起こした時期、たばこ事件で父親から目が飛び出るほどの叱責を受け、叩かれもし、初めて懲罰を受けたので、おそれるようになったんだと思います。私なんてうるさいクソババアくらいにしか思っちゃいないでしょうが、父親には一目も二目もおいてます。それが良かったと素直に思えます。その証拠に、二年生になったら、ぜんぜん落ち着いてきました。もうみっともないことはしないし、あいかわらずおきゃんですが、やっていいこと悪いことの区別はつきます。

あとは、本気を出してお勉強をするだけです。笑

学校にかばんを置いて帰るので、ちゃんと持って帰るようにと今年の担任の先生(女)はおっしゃいました。授業中、みんなを笑わせてくれてありがとう、ともおっしゃいました。ありがたいことに、今回はそれだけでした。ほっ。

2006年7月20日 (木)

部下を庇い連行された小隊長 2

今朝の投稿欄に、今月初めに引用した記事(http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_6962.html)についての反響が載っていました。

 「抑留の悲劇に亡き父を重ね」

         北村 かずゑ(61、熊本市、主婦)

 十六日の「五十九年ぶり涙で握手」の記事のお二人の笑顔に、涙が止まりませんでした。先日の「こだま」(西日本新聞投書欄の名前です、姫野注)の投書に胸打たれ、おふたりの再会を心から祈っておりました。しかし、極寒のシベリア、それも冷酷を極める収容所。小隊長は無事に帰国されたのだろうかと、胸を痛めておりました。

 私の父は五島列島の福江で終戦を迎えました。父の部隊に、仙台出身の星さんという下仕官がおられ、実に部下思いだったため、誰からも慕われていたそうです。復員準備で忙しいなか、その下仕官が、遠く離れた上官に敬礼をしなかったというので軍紀違反に問われ、留め置かれることになったそうです。既に軍隊は瓦解しているのに。

 父が会いたいと言うので、河北新報(仙台市)に問い合わせたり、仙台に旅するたびに調べたりしましたが、探し出せないまま父は逝きました。今回の再会を喜びつつも、おふたりの悲劇が二度と繰り返されないことを祈ります。

 ※この投書を読んで、ハッと気づいて7・16付け同紙を探しましたら、34面に「極寒のカザフでソ連兵から守ってくれた小隊長に礼を言いたい・・」「新潟の男性、筑後の吉山さんと再会」「59年ぶり 涙で握手」の見出しで、肩を組み、手をつなぎあう二人の元日本兵の姿が大きく報じてありました。生きておられたのですねえ!よかったですねえ!あの記事を読んでから、家族とも話したのですが、きっとソ連兵に殺されたのじゃないだろうか・・と。ところが、ちゃんと生還されていて、写真のお二人をそのままご紹介できないのがもどかしいくらい、とてもお若いし、お元気なのです。驚きました。以下、簡単にご紹介します。

小保さんと吉山さんは、旧満州に駐屯した日本陸軍部隊の関東軍13044部隊に所属。終戦直後、旧ソ連カザフスタンのウスチカメノゴルスク収容所に連行された。冬は氷点下40度にもなり靴下は凍って足に張り付くほど。採石作業などの過酷な労働を強いられた。食事はミカンの缶詰に注がれたえん麦のかゆ。栄養不足で仲間は次々に減り、埋葬する際「いつか自分もこうなる」と覚悟を決めていた。

二年目の冬、60キロあった小保さんの体重は40キロに。衰弱した部下を見て、吉山さんは作業を中止させ、体を温めるよう指示した。気温は氷点下39度。監視役のソ連兵の銃を取り上げ、「部下を死なすわけにはいかん。無事に日本へ帰すのがおれの使命なんだ」。連行された吉山さんは准尉で階級が高かったこともあり、特別の罰は受けなかった。

抑留者の引き揚げが始まった翌年の1947年、小保さんら下級兵士が先に帰国、翌年帰国の吉山さんとはそれが最後になった。

小隊長としか呼べなかったので、名前を知らず、「准尉で九州なまり」の記憶しかなかったが、今年、国会議員の口添えで厚生労働省から当時の軍名簿を入手して名前を知る。その後に本紙(西日本新聞)に投稿した。

筑後市の料亭で再会した小保さん(80歳)は「私が今幸せに生きているのはあなたのおかげです」と59年間言いたかったことばを吉山さんに言って感謝した。二人が口をそろえたのは「収容所は生き地獄だった」。「乗り越えるには、みんなが一丸となるしかなかったですからね」と吉山さん(現在90歳)はいって、しっかりと手を握り合った。

人民中国

上京の折、松本杏花氏から『人民中国』7月号をいただきました。

以前、同じ本を蘇州にお勤めの連句人で『アーチ伝来』の著者永田圭介氏からもらったことがありました。カラー頁が多く読みやすい中国の月刊誌です。アサヒグラフみたいなかんじの本。定価400円。

7月号には現代中国の農業についての特集が組まれていて、米や茶やイチゴや・・同じような作物がとれる八女の百姓としては興味深く読みました。目をひいたのは、田植えが人による投げ植えだったことです。私もこのあいだの田植えで、長靴が深みにはまってしまい動きがとれなかったので(笑)、数株を投げ植えしました。それでもちゃんとイネは地に刺さるし、風にそよぐんです。機械が残す四隅のほんのちょっとを手植えするのと違って、広大な田んぼ全体に投げて植えるのは想像を絶する気がしますが、それでも腰をかがめて植えていくよりは楽にちがいありません。(広西チワン族自治区ーとありますが、どこいらでしょうか。)

日本の都市と地方でのくらしぶりは、いま、さほど違うことはありませんが、中国では都市部と農村部では天と地ほどの差があるらしい。ことに文化の水準。それというのも交通網が出来ていないからで、道路が通じたところでは、取引ができるので豊かになります。いま、どうやったら豊かになれるか、それを模索する農民でいっぱいと書かれています。

文章とともに景色の写真が載っているのですが、見たこともない植物がありました。サルオガセというんです。眞鍋呉夫句集の句のサルオガセとは別物です。まるで白糸の滝みたいに植物に絡み付いていて、奇妙な眺めです。やまびこ仙人の長いひげのようです。

ほかには、韓国と同じく中国も、とても整形がさかんだというレポートがありまして、驚きました。なんだか、気鬱になりますねえ。整形で「この人みたいな顔にして下さい」とスターの写真を持ってくる。そういう人が増えると、似た顔ばかりにならないでしょうか。なんだか、日本の地方がどこも同じ表情なのと似ています。

2006年7月17日 (月)

八女郡黒木町

八女郡黒木町

この小さなトンネルを抜けるとき、子ども時代に乗った国鉄矢部線を思い出します。叔父が国鉄職員で当時終点の黒木の官舎に住んでいたので、弟と二人、ディーゼルカーと呼ぶ汽車に乗って、泊まりにいくのが楽しみでした。そこでは夕方一定の時刻になると、町中にオルゴールみたいな音色が響き渡るので、とても遠くに来た気がして物悲しかったものです。

八女郡黒木町

スサノウ神社大藤近くの「マルモ醤油店」。ここの「醤油の実」という純もろみを買います。二梅雨寝かせた三年ものを蔵出ししたもので、これをしぼれば醤油になるそうです。いわゆる市販の「もろみ」って甘いじゃないですか。あれが苦手です。聞けば、あの甘いもろみの麹と醤油の実の麹とはまったく違うそうです。醤油のもとを食べるような懐かしい味です。昔むかし自分ちでも作っていた醤油のかぐわしい匂いを思い出します。

八女郡黒木町

ミーハーと思いますが・・・。黒木瞳のファンなので。

醤油屋さんで「女優の黒木瞳さんの実家はどこですか」ときいて教えてもらいました。すぐ近くでした。醤油屋の若大将(と、店員さんは言った)は黒木瞳と高校まで同じだったそうです。写真は黒木瞳さんの実家を通り過ぎたところ。この通りはメーンストリートの一筋南、矢部川寄りです。黒木は小さいながらも城下町だったので、町がちんまりとまとまっています。それにしても、初めて訪ねてみて、ほんとに清流矢部川の近くなのに驚きました。あの川は流れが速くて、とても水温が冷たいんですよね。そこで彼女は毎日まっくろになって泳いでいたんでしょうねえ。山猿みたいでカッコイイ。野生的で。笑

2006年7月15日 (土)

二人日和

ようやくお風呂工事がおわりました。きのうは八時までかかって、なんとか風呂が使えるようにして帰られました。チチが一番に入ろうと思っていたようですが、孫に先を越され、一番風呂は次男でした。こんどのは掃除が簡単でいいです。お風呂に入れることも、洗濯機が使えることも、なんてありがたいんでしょ。・・なんていいながら、欲をいえば、星空が見える浴槽に浸かりたい。今後の夢としてとっておきましょう。

きのう、戸畑の「日記の広場」主宰・鍬塚聰子氏から、北九州は小倉の女性センター・ムーブで上映される『二人日和』の詳しい案内がありました。ありがとうございました。以下に写します。

◆◆第27回映画「二人日和」とバザーの集い(有料)
   
○日時:7月26日(水)①10:30~②14:00~③18:30~
     福祉バザー 10:00~17:00
     寄贈品バザーは午前の部終了後
○会場:ムーブ 2Fホール 
○料金:大人1,000円/高大生500円
          (当日:大人1,200円/高大生700円)
     ※託児(300円)先着20人(要予約)
○主催:高齢社会をよくする北九州女性の会
          
     ↓ くわしくはコチラ ↓
http://genki365.net/gnkk03/pub/sheet.php?id=3480
       『二人日和』
  
   映画音楽担当「アストロリコ」のサイト
 
「 Ciao,Chao, Rica!」麻場利華さんのラジオ番組が聴けます。

2006年7月14日 (金)

東京 4

九日朝に三鷹の永井菊枝氏を訪ねようと思っていた。前もって訪問を断るのが礼儀なんだが、それをするのがいやで、勝手に訪ねていこうと決めていたのだが、松本さんにそれじゃいけない、先方の都合を聞きなさいとたしなめられた。そこで前夜、お電話でご都合を伺うと、歌会で留守というお返事。ほらね。

じゃ、どこへ行きたい?今日はあいているからどこでもつれていってあげるよーと松本さんに聞かれて思いついたのが、調布の深大寺である。そこには十年来、気になっている仏像があった。「ほんとうは浅草の鬼灯市が今日から始まるから、そこへ行こうかと思ってたんだけど」と松本さんはおっしゃったが、私が見たがっている深大寺の白鳳佛は御存知ないそうで、希望をかなえて下さることになった。

人が蟻並みにうじゃっといる新宿駅で待ち合わせたが、奇跡的に間違わず落ち合って、○○方面行きの電車にのる。(失念)。調布駅で降り、駅前から深大寺行きのバスに乗り換える。電車のなかで、ふっと調布にお住まいの連句人、川野蓼艸(かわの・りょうそう)先生を思い出し、連絡すると、「山門の前で待ってなさい。すぐ行くから」とおっしゃる。お言葉通り、ものの十分もしないうちに川野先生が見えた。写真をご覧下さい。ベレー帽に群青色の綿シャツ、オフホワイトのパンツに見えないけど白い靴でした。(これでうちのチチとおないどしかよ、とひそかにつぶやく。誕生日までほとんどいっしょなんですよね、言わないけど。)

深大寺は古い武蔵野のおもかげを今に遺しているといわれる通り、とっても森深い地にあった。鬱蒼と繁った樹木のあおが滴るように目にしみた。医院の仕事を息子さんに譲られ晴れて隠居となられた川野りょうそう氏は、この日、昼まで時間が空いているとのことで、一度しか深大寺にきたことがないという松本さんにとっても、初めての私にとっても、へえっと驚くような案内をしてくださった。

私と松本さんだけでは決して気づかなかったと思う、境内には驚くほど沢山の句碑や歌碑が樹木の陰に埋もれるようにして、ひっそりと建っていた。それをひとつずつ紹介して下さって、説明も行き届いたものをしてくださる。たとえば、中村草田男の有名な「万緑の中や吾子の歯生え初むる」自筆句碑を指しながら、「もしこれが孫の歯だったら孫俳句に堕してしまってつまらなかったろう」とか講釈をつけられるので、分りやすかった。そのすぐ傍らには高浜虚子の句碑と胸像が鎮座している。虚子の草書みたいな行書は読みづらいが「遠山に日の當りたる枯野かな」とよめる。えーっと、なんでここに虚子の句碑があるっておっしゃったのかな。メモしとけばよかった。確か、一時的にここに虚子は住んでいたというんじゃなかったっけ。すみません、記憶があやふやで。

そのむかいに、目指す白鳳佛のお堂があった。ガラス戸越しに拝顔できるようにしてある。椅子にすわった珍しい「倚像いぞう」というタイプの仏像である。石橋秀野の句を読み解いているころに、たまたまこの像を詠んだ句をみつけ、それを秀野ノートに書いた以上、ずっと確かめなくては・・と思い続けてきた。

やっと、あえたね。おや、きみは中宮寺のみろくにどこかそっくりじゃないか。

こころでそんな言葉をかけながら、じっと顔をみる。大きさといい、黒くひかるからだといい、似ている。勿論、中宮寺の弥勒はエレガントでなよやかであり、一方こちらはなんとも素朴で、いかにも性格がいいという感じの仏像である。にもかかわらず、似ているモノを感受したということは、同じ時代の空気をまとっているということなのだろうか。

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深大寺 2

深大寺 2

深大寺のいちばん奥まった処にある、石田波郷と星野麦丘人の師弟句碑です。

 吹き起る秋風鶴を歩ましむ  波郷

麦丘人の句を失念してしまいました。ごめんなさい。ここは深大寺本堂上のお山の上になるようです。このむこうには波郷のお墓もあるんだと川野先生が教えて下さいました。先生はこれら句碑の除幕式に出席されたそうです。だれも気づかぬ句碑でした。

深大寺 2

説明してくださる川野りょうそう先生と、漢詩にくわしいさいたまの松本きょうかさん。

深大寺 2

高浜虚子句碑。

 遠山に日の當りたる枯野かな   虚子

深大寺 1

深大寺  1

参道入り口は蕎麦屋さんがひしめいていました。深大寺そば、有名です。お昼はここでとろろそばをいただきました。鶯が啼いて、静かで、そばもとってもおいしかったです。

深大寺  1

深大寺の高名な山門。扁額にはなんて書いてあったかな。二文字でした。高仰?待てよ、それは前日に行った湯島聖堂だったかも。(いいかげんで、すみません)。どうかご自分でご確認ください。

深大寺  1

唯一枚写してもらったのですが、いい具合にぼけておりました。背景の赤や黄色の原色は、七夕飾りの短冊です。

鬼太郎茶屋の写真:http://blog.goo.ne.jp/ssj19430903/e/1c4c9362dc5c5bf54ad7b4f1a6481670

湯島聖堂

湯島聖堂

孔子像。そうか。だから、「ひじりばし」っていうのかな。

湯島聖堂

有名なかいのき。ウルシ科。楷の樹、いわれがあるようです。

http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/kainoki.html

http://www2.saganet.ne.jp/ko-si/seibyou/kaijyumonogatari.htm

http://nogijinja.or.jp/yuisho/main.html

http://www.harenet.ne.jp/ugaidani/shizutani/

湯島聖堂

屋根の色が美しかった。はじっこのシビっていうのでしょうか。水を噴き上げているのが珍しい。

参照:「湯島聖堂」斯文会のサイトです。http://www.seido.or.jp/

※この中の『史跡湯島聖堂』のところを開きますと、おしまいちかくに、聖堂は関東大震災で入徳門と水屋をのこして全て焼失したこと、再建を建築家「伊東忠太」が担ったことが書かれております。いま、その伊東忠太の名前で記憶が蘇えりました。西牟田靖著『写真で読む「僕の見た大日本帝国」』で取り上げてあった、靖国神社の狛犬(靖国通り側)とサハリンの狛犬が似ており、それをたどると、魑魅魍魎が大好きだった伊東忠太にたどり着いた・・という一節です。狛犬のデザインをしたのが伊東忠太だったそうです。彼は、西牟田さんの本によりますと、朝鮮神宮や台湾神社など代表的な海外神社の数々を設計した建築家で、戦前の日本を代表する建築家として文化勲章を受章しているそうです。

湯島:http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/s-yushima1.html

聖堂の大成殿およびしびときりゅうし:http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/bunkyo/taiseiden.htm

2006年7月13日 (木)

東京 3

8日の午後一時半から上野の国立博物館でジョー・プライスさんの講演会を聞いた。松本さんと湯島聖堂を見て、昼食をお茶の水駅前の高級おふらんす料理店前の庶民的な中華の店(ラーメンたんたんめん冷麺方面の)でゴマ味冷麺を食べ、ちからが湧いてきた所で松本さんは漢詩の会へ、わたくしめは上野へと別れた。

上野駅へおりて横断歩道を渡ると、左右に人波がわれている。さてどっちへいけばいいのか、松本さんが教えてくれたのになんにも聞いてなかった私は適当に左に行ったところ、間違った。

そこらを歩く為に歩いている感じの戦中派のおじさんに道を尋ねた。すると、上野のお山を越える散歩を毎日自分に課している・・とおっしゃり、ついて来なさいと先導して下さった。歩きつつ、ここらは昔、草野球場があったんだよと教えて下さる。なんとなく乙骨三郎のことを思い出し、訊いてみたくなったが、ぐっとこらえた。美術館や博物館や動物園が集中していて、博物館は岡の上だった。館の手前で散歩のおじさんとは別れ、ふと右をみると、何かの行列がぐるりと樹木たっぷりの一角を取り巻いていた。あれはなんだったんだろう。長蛇の列をみることがないので珍しく、最後尾に並びたくなったが、これもこらえた。

時間はちょうど。「若冲と江戸絵画展」だけの入場券を買い、平成館へ急ぐ。なんでというほど中は広い。お茶の水駅でちらりと見えたニコライ堂と同じ屋根の表慶館が工事中で北村薫の『冬のオペラ』中のトリックが確かめられず残念である。

講演はアメリカ人コレクター、ジョー・プライスさんが自身で編まれたビデオを見つつ「どうして若冲の絵に魅かれたのか」を説明されるもので、同時通訳付だった。私の耳で聞いたお話では・・自分はオクラホマで大学の工科の勉強ばかりしてきた。記憶、記憶、また記憶することの繰り返しが勉強の総てだった。或る日、父が塔を建てるのでその設計を父の友人で建築家のフランク・ロイド・ライトに依頼した。こまごまとした折衝を父が私にするようにいう。私は初めてこの高名な建築家と近く接することになる。ライト氏は私にいろんなことを教えてくれた。塔を建てるということは、自然の生きた樹木に学ぶということだよ。草木は、風が吹いても風に撓い、地震がきてもしっかり地面にへばりついている。根っこ、茎、はっぱの一枚一枚がそれを可能にしているんだ。私達はそれに学ばなければならない。自然は神と同じ頭文字を大文字で書くべき存在なんだ。

ロイド氏は東洋美術にも詳しかった。氏にくっついて行った美術商であるとき、誰の絵か分らないがとてもこころ捉える一枚の蒲萄の絵を見つけた。江戸の画家伊藤若冲の絵だったが、そういう知識は何もなかった。ただ、ロイド氏の言った言葉とその絵が自分のなかで一つに重なって見えた。まだ若冲の絵なんて誰も注目しない時代に私はせっせと絵を買い集め、気づいたらおのずから若冲のコレクターになっていた。

若冲の絵は確かに自然の写生だが、具象画とは微妙に違う。装飾的であり、作者の中の審美眼を潜り抜けたものを綿密な配慮のもと、再構築したものだ。自然そのものではないが、輝くような自然のいのちに充ちている。私はそこに涙があふれるような感動を覚えた。じっさい、若冲の絵の何枚かを見て、わたしは涙が自然とわきおこるのをおさえることが出来なかった。私のスポーツカーはすべて絵に消えた。

私はタヒチも愛する。タヒチの自然は生の自然だ。タヒチ女性が化粧もせず、生のままで美しいように、タヒチの自然はそのままで美しい。しかし日本の自然は、人の繊細な手が加えられた美である。日本女性の美もまたそうであるように。どちらも、私には同じ自然であり、どちらの自然も女性も私は愛している。(プライス氏の奥様は昔、氏の通訳だったかわいらしい日本人女性であった)。

2006年7月12日 (水)

東京 2

急に思い立ったので、新幹線だった。自由席の禁煙席に半日座っていた。着いたのが夕方(昼近くに発ったから)で一日目は終了。土曜は朝一で九段下の靖国神社へ参拝にゆく。東京の電車はなんてごちゃごちゃしてるんだろう。路線も色分けしてあるとはいえ、乗り換えのときにぼーっとしてたら大変な目にあう。JRと思っていたら私鉄だったりして、ややこしいし、こんがらがってくる。距離的には近い千駄ヶ谷から九段下まで行く時も、一度乗り換えなきゃいけない。そして階段を昇ったり降りたり。本がたくさん詰まった荷物を提げて苦行僧みたいだった。数日腕がしびれた。

その夜、連句で親しくさせていただいてた松本杏花さんに電話をした。太郎乙の八十の賀の漢連詩をよんで下さったさいたま市在住の俳人である。松本さんは私が上京したらいっしょに永井邸についていきたいとおっしゃっていた。突然なのでどうだろうかと心配だったが、ふしぎと体があいてらして、八日の靖国参拝のあと、十一時にお茶の水駅で待ち合わせ、湯島聖堂を案内していただく。私は昌平坂学問所というのを一度見てみたかったのだ。聖橋を渡りきり、階段を下りてしばらく歩くと、鬱蒼とした森に囲まれた聖堂があった。昔よりかなり敷地が狭くなっているというが、ふつうのお宮くらいの広さはある。

松本さんと会うのは、何年ぶりだろうか。平成十五年の秋、伊丹かきもりぶんこで連句人による連歌会というのに参加したとき以来だ。なつかしく、うれしかった。連句の縁は、こんな風にとってもあったかい。まるで寝起きをともにした肉親のように。あるいはぶざまな癖も知りぬいた古い愛人のように。

松本さんは今、中国に凝っておられる。夢中になっておられる。おととし、「拈花微笑ねんげみしょう」という題の句集を漢訳付で出された。(ちなみに、このタイトルの花の字は、華ではないかと言われようが、漢字の国中国ではこの簡略な字です)。中国語も勉強されているし、漢詩も漢俳(かんぱい)もなさる。来年は二冊目の漢訳句集を出されるとのこと、こころは中国へ飛んでいる。この点『アーチ伝来』の永田圭介氏とそっくりだ。そして、驚くべし、喜ぶべし、松本さんの第一句集『拈花微笑』が、中国で話題になり、売れているらしいのだ。歴史ある自分たちの国の文化は衰退しているのに、日本にはまだそれが洗練された姿で残っている・・と中国のこころある人々は気づき始めているのだろう。

私も太郎乙や耐軒のこころに少しでも近づきたくて、漢詩をのぞいてみたくなる。だから、湯島聖堂では漢詩入門の本を買った。

蚊に刺されながら、案内者のおかげで、みるべきところはきっちり見てこれた。お昼からは上野の国立博物館に行かねばならず、松本さんも同じ時刻に近くの漢詩の会に出られるというので、そこでいったん別れた。九日の再会を約して。

もらい風呂

月曜から我が家はお風呂をいじっている。築百年以上の古い家の風呂場は、何度か手を入れながらもどうにかしのいでいけてたのだが、母が急に思い立ち、ユニットバスに入れ替えることになった。ユニットというのはプラモデルみたいに組み立て式の風呂場で、壁や付属品や浴槽すべてがセットになっている。それが、屋根が低くて入らないというので、天井からやり直している。暑いときに、ご苦労さまだ。

大工さんが福岡の南区から見える。五人。どの人も楽しい。汗をかく量が半端じゃないので、お茶の用意が結構たいへんだ。麦茶をバケツ二杯ぶんくらい作り、冷やしておく。別に水出し緑茶も用意する。問題はお菓子。甘い物や油っぽいのが残る。スイカやメロンやキウイなど水菓子がいいみたい。でもそれだけだと力が出ないので、ゆで卵とか、ふかし芋とかお出しする。塩を下さい、舐めます。といったのは一番若いヒデ選手似の大工さん。ほんとに塩を舐めながら仕事をしたこともあるって。かっこいい。

仕事人も大変だが、家族も梅雨時に風呂のない生活は過酷である。おまけに洗濯機も使えないので、戦前みたいな暮らしを強いられる。たらいで洗濯なんて下宿時代いらいだ。

梅雨明けしたように、よく晴れて気温がぐんぐん上がる。大人は風呂が一日置きでも体を拭けばいいと思うけど、子どもはそうはいかない。月曜、さっそく次男はべんがら村の温泉に入りにいく。ところが月曜が休みだったのだ。ガックリして帰ってきた。

「たか、よしくんのおかあさんが入りにきてもいいってよ」と言ってみたら、「えっほんとう!」というや、もう姿が見えなくなっていた。むかしむかしの「もらいぶろ」というきれいな日本語を思い出した。よしくんちのおかあさん、ありがとう。

2006年7月11日 (火)

東京 1

唐突に東京へ行ったのは、一つは応募していた東京国立博物館の講演会案内(江戸の画家伊藤若冲展。ジョー・プライスというアメリカ人コレクターがその魅力の発見について語られるというもの。←これがとても深いお話だった)が届いたからだ。それも講演当日(8日)の数日前に。親と子を抱えていれば、いきたいなあ・・とは思っても、行けるかどうかは当日まで不明である。しかし、私のような立場の主婦には、今しか行けるときがないのも事実で、年に一度のことではあるし、行かせてもらった。

東京では、会いたい人がいた。乙骨太郎乙の直系の孫である永井菊枝氏と、このブログの師匠の横浜のアッサムさんである。結局、永井菊枝氏には先方の都合で会えなかった。でも、ひさびさにお電話で聴いたお声はとってもお元気で、嬉しかった。

大好きなあっさむさんには、あえた。土曜も仕事をしておられた。想像通り、まかふしぎな雰囲気の人だった。大人っぽいのか子どもっぽいのか。とてもマニアックでおたくっぽくもあり、でも私と違ってのめりこまない慎重さがある。さめた禁欲的な印象を受ける。一年近く毎日ブログでつきあっていたので、興味があった。私より一回り年下である。でも、やはり今思い返すと、あちらのほうが年配のひとのような感じであるのはなぜなのだろうか。

あっさむさんにずっと聞きたくて聞けなかったことを訊いた。独身だった。笑

「マリオットの盲点」で実際の写真も見たのですが、お寺の砂の庭の模様を作っておられるそうです。ひとことでいえば、お寺のしごと代理人みたいなものだそうです。砂の模様は毎日つけないといけないんですねえ。考えたこともありませんでしたが、お寺さんて景色を維持するのも結構大変なんですね。(岐阜の斧田さんとこの福乗寺は、どうなんだろう。それと、亜の会仲間だった山口の木戸葉三さんとこの円乗寺はどうなんだろう。って連句みたいについ連想しました)。

恵比寿にて

 一つづつ梅干食つて別れたり   (梅干は夏の季語)

玄米ごはんに梅干で、そば茶をかけて戴いたのですが、梅干がうそものじゃなくておいしかった。あれだけは本物にせものすぐ分りますよね。(って、この言葉も、連句会亜の会の宗匠だった前田圭衛子先生がおっしゃった言葉なんですが。私たち田舎ものはにせものを知らず、言われてみてそうなのかとおもった)。あっさむさん、お疲れのところ、ご馳走して下さってありがとうございました。都会でたべる田舎メシ、おいしかったです。

狛犬

狛犬

靖国神社境内入り口のです。

狛犬

同上。これが最も外にあります。西牟田靖さんの本に書かれていたものと思いますが。(でも、違うようだなあ。靖国通り側の狛犬って、これじゃないのでしょうか?まだいたのかな。右左一対のを二つ写してきたのですが、西牟田本のと比べると、どうも違うようです)。

それにしても、紅白の紐(電線かも)を掛けられていますね。これは広い参道の両脇にずらりと何段にも吊るす提灯(寄付金を上げた方々の名前入り)に関連するひもなんです。もし狛犬がたとえば乃木将軍とかの像であれば、滅相もなくってそんな失礼なことはできないのでしょうが、こまいぬだとなじんでいるのがおかしい。

狛犬

湯島聖堂の「鬼龍子きりゅうし」という聖獣。聖堂の屋根、流れ棟の四隅角に鎮座していたものを、展示してあります。想像上の「霊獣」で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるそうです。古代中国伝説の霊獣「すうぐ」によくにている、とあります。(右足に寛政十一未年八月、御鋳棟梁 松井大和(松平大和)、紀 清政 の銘あり)。

今日(七月十六日)、斯文会の湯島聖堂のサイトを読んでいましたら、大正十二年大震災で焼失した時、再建をになった建築家が「伊東忠太」であると知りました。だからだ!と嬉しくなった。じゃ、この鬼龍子も、魑魅魍魎が大好きだったという伊東忠太の設計だと思われます。実は私はこのきりゅうしを二枚、たてつづけに写していたのですが、それをみますと、まるで生きているようで、正直びびります。すんごくリアル。笑

※ 追記:リンクサイトhttp://www.geocities.jp/masa030308jp/mitama2005/intex3.htm

日本青年館

日本青年館

千駄ヶ谷駅附近の風景。ゆたかな緑の街路樹はナンキンハゼです・・じゃないですねどう見ても。笑
ナンキンハゼの並木は競技場側でした。長崎の町の街路樹がナンキンハゼでしたので、妙に印象的でした。晩秋には紅葉してるだろうな。実も赤くなるのかな。

日本青年館

9階の窓から見えた景色。神宮球場だと思いますが・・。

日本青年館

玄関まえの表示のレタリングが風景に溶け込んでいた。

七月七日から九日まで、東京へ行きました。いつも突然にしか行けなくて、今回も思い立って即行で上京しました。過去二回宿泊したことのある千駄ヶ谷の日本青年館に二泊しました。シーズンオフでしたので、とまれました。しかも十四畳を独り占めです。笑

参考までに、駅からは徒歩六分。宿泊料は素泊まり一泊四千五百円(六階和室)、二泊目の洋室(ツインで9階でした)はバストイレが共同じゃなく部屋にあったので、五千五百円です。静かですし、とても広いですし(一人なら当然ですが)、近くの森の樹木の古さには感動ものです。
ここにとまると、ドキュメンタリー映像の昭和十八年の雨の学徒出陣激励会というのを思い出します。

2006年7月 8日 (土)

靖国

靖国

靖国

靖国

午前中、靖国神社に初めて参拝いたしました。一番下の写真は、拝殿での参拝受付を済ませて、待機している部屋の壁にあったもの。拡大せねば、読めないようです。我が家の大伯父がガダルカナルで昭和18年に戦死していまして、その伯父のおかげで私たちの今の命があることを思うと(亡き伯父のあとに18の父が養子に入ったので)、一度、参拝に行かねばとずっと思っておりました。これで幾分気が済みました。

拝殿は二重になっており、一般の拝殿の裏にもう一つ祈祷所としての拝殿がございました。そこでは、申込用紙に、戦没者の遺族であれば、亡くなった英霊の名を記し、祭主の名と地を記すのです。三々五々集まったところで、打ち揃って神主のあとについて拝殿にあがり、浅葱色の袴の宮司さんはゆったりした間をとって、祝詞奏上のあと、一人ずつの願い事を神様に報告されます。それを参拝者は畏まって拝聴するのでしたが、いろんな土地から、遺族のかたが慰霊のためにおいでで、それが自分と同年輩だったり、とても若い人だったり、あるいは戦争を実際に体験されたかただったりしました。まず、そのことにとても感動する自分がいて、それから、拝殿にぬかづいているとき、大伯父の名が読み上げられるのを聴いて、わけもなく涙が流れました。遺族が最前列でした。隣の男性は両手を床について、頭を垂れたまま、微動だにされませんでした。そういう、微妙で神妙な感情は、初めてで、鳥肌がたちました。深く感動したからです。靖国神社は特別なところだと感じました。

境内は広く、清らかで、鳩があそんでいたり、鶯がきれいな声でさえずったり、蝉がすでに啼きだしていました。

ふっと思い立って、ささっと行って、よかったと思いました。アストロリコの利華さんが東京で公演をなさっていると知り、お会いできればと思ったのですが、連絡があとさきになって叶いませんでした。でも、同時期に、利華さんと岐阜の斧田さんから靖国に行ってきたと伺ったことが後押ししたのは事実です。おかげで良い旅が出来ました。有難うございました。

靖国神社:http://www.yasukuni.or.jp/

2006年7月 7日 (金)

現代川柳『点鐘』117号

スミサクさんに戴きました。拝読いたします。

毎号一人ひとりの作品にコメントを付けきっちり全員分掲載される。その律儀さ、ひたむきさ。そして、無駄を極限まで廃した装丁。(隔月刊。二つ折で八十円で郵送可。)全てにおいて、川柳独特の美学と志を感受します。

掲載順に印象的な句をひきます。

 これがゴリこれは川エビ試食する   草津市  畑山美幸

 西の湖のにごりの中に眠りたい            〃

(西の湖とは安土城近くの湖らしい。ゴリ句の次のにごりの句、出色。)

   百済観音賛歌(前書あり)

 君の前でぽかんと口を開けている   和泉市 小池正博

 光背になって千年待つつもり

 手首にもわずらわしきもの巻いている

 水瓶をふわっと拾う風の揺れ

 高さとは少女のままでいることと

 十年後会ったときにも春のまま

つい全句引用。すごくいい。見直した。ってか、教えられた。私は百済観音と救世観音とがいつもごったになって、梅原猛著「隠された十字架」や吉野裕子の本のイメージに侵食された想いしか持てなかったのです。ということは、私の中では百済観音は聖徳太子であり、北斗七星であったわけです。でも、今回調べてみたら、それは虚空蔵菩薩(!)であり、ほかにもいろいろわかりました。さて手首には何を巻いているのでしょう。輪ゴムか。笑

http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/

http://www.butsuzou.com/jiten/kudara2.html

 中空を自転車男こぎ登る   神奈川県 渡辺隆夫

この句、すみさくさんのあとがきで事故で亡くなられた柿木英一氏への追悼句だと知りました。

 母に何かがあって蛇口全開中  札幌市 熊谷美智子

 裸婦像をまぶしく仰ぐおばあさん        〃

「大通り公園に総ての花が咲いて賑やかな笑い声が聞こえる。緑の中に啄木像があって、ソフトクリームを歩き乍ら口にする修学旅行生。風向きで噴水をかぶってしまう。それを思う。」ースミサクさんのコメント、あたたかな写生。

 年寄りになろう庭箒を持って    名古屋市 神谷三八郎

年寄りになるのには脱力がいる。力って入れるより抜くのが難しいのだ。まずレレレのおじさんから始めよう。さんぱちろうさんの境地はもっと高い。

 そよ風は窓から少女の薄いスリッパ  松原市 本多洋子

薄いスリッパが健闘。ことばのひびき。

 断ち切ってしまえば流れにくくなる    高槻市 笠嶋恵美子

断ち切るには未練が残る、ってことかしら。

 膝の骨 気骨の骨を撫でている    富田林市 西村夕子

気骨のホネは膝のホネ。そうかな。なるほど。

 ひとりなら濡れたりしない傘を干す   富山市 舟渡杏花

 一本の野火が横切る日記帳      福岡市 清野玲子

 納豆のねばねば家庭裁判所      堺市 里上京子

 前衛のつもりで咲いているさくら       〃

 荒れる海見てから金魚おとなしい    高松市 若草はじめ

この句ですが具象句として読みますと、海が見える窓際が浮かびます。私は知らんのですけど、金魚って出身はどこでしょうね。海?川?アマゾン?荒れる海、金魚のおとなしさ。いつだって何にだって感情移入している作者がせつない。

 覚えたたての寿限無を聞いて下さるか  西宮市 佐藤純一

 首の皮一枚 ぐるぐる廻る洗濯機       〃

首の皮一枚で繋がって、まいにち渦のなかで自動的に廻る廻る。

 ロボットに涙腺は無い ガラスの森   札幌市 加藤かずこ

 ランダムな田植えでも米世界一     札幌市 干野秀哉

と言ってる間に、たちまちコメ輸入国に転落するだろう。自分の問題でもあり、確実にそういえる。

 みの節が冴え 糖尿病が増え   東京都 杉戸金一

 暮色へと迷わず走る救急車   名古屋市 中山恵子

 子を帰すために広げる新聞紙    〃

たとえば下宿してる娘にいろいろなものを新聞に包んで持たせる。救急車の句もすごくうまい。

 田舎の暮し 叩かれぬ土竜になる  鈴鹿市 小川柳女

どういうこっちゃ。うーむわかるようでわかんない。モグラとして好き勝手あちこち出没さしてもらうってことかいな?むしろ叩かれたほうがよくないか。ってか、叩きたい。笑

 黒豆のおかきそれなりのプライド  橿原市  西沢知子

 この辺がいいと埃をはらってる     〃

うんうん。黒豆のおかきって頑固なキコツがある。だいすき。あっさりしてもいる。すみさくさんの連句的コメントが又、泣かせるよー。「埃を払えば食べられるとは母の口ぐせ。もったいないと砂まみれの飴を水で洗って口にした事も。」

 入社して弾むこころが蝶になる  大阪府 若山 衛

こういう幸せな場面の句を読めてしあわせだ。マイナスのばっかり読んでます。

 雑学ゆたかに老いを旗揚げするか  新潟市 藤井比呂夢

「老いはそれなりが良いと思っている。」スミサクsaid.(Me,too.)←あほか。

 犬歯なら郵便受けに生えている  湘南市  平賀 胤寿

そうですね、そういうふうに見えます。で、それがなにか。

 薄紅の薔薇の意匠は誰がためか  堺市 小田明美

薔薇自身のためだとおもう。

 生活が掛かっている迷惑駐輪  川西市 一階八斗醁

どっちからも読めます。迷惑しているほうと、そこまでして駐輪してるほう。

 塗り絵に納まる年金のクレヨン  相模原市 瀧 正治

いま、大人の塗りえが売れている。誰が買うの。ハイ、ここにあります。

 粽を食べて昔話がしたくなる  尼崎市 春城武庫坊

 夢なんか見ないで少年健やかに  尼崎市 春城年代

 むかしの軒に今年の燕来てくれる    〃

いいなあ。この年代さんの二句。少年は夢なんて見ないよね、全くその通り。夜見る夢も、将来の夢も。それで一向にかまやしません。むかしの軒に今年のつばめが来てくれる。これなんて、やさしいよね。あたしゃなきそうだよ。こういう人がいるから又来年も燕はくる。

 落下する長い時間を欲しがりぬ (柿木英一追悼)姫路市 前田芙巳代

 男は無口かるい覚悟のある手帳   〃

 名もなき草の名を告げられし五月闇  〃

柿木さんは愛されていたのですね。こんなふうに詠んでもらえて本望でしょうね。

 夕日双塔あたりに極楽のとびら(当麻寺) 葛城市 阪本高士

 芍薬も牡丹も母に逢いました   〃

夕日の句ですが、ふしぎと弾力あるリズムをもつ音楽みたいな句です。

 ピーマンの花粉と五月病になる  弘前市 北里深雪

 沈んではいるがかきまぜて欲しい   〃

 うたかたやかりかり食べる ただ食べる   〃

 いっさいがっさいかっぱえびせんたべる音   戸畑区 鍬塚さとこ

 日溜りも八十才のがけっぷち  札幌市 中村迷迷亭

 飛入りが先導をする 村祭り   〃

 そこまでと神に言わせる日もあろう  〃

 飛ぶ絮毛 別れの痛さ追うように  〃

なぜかファンになった中村さんは八十歳ですか。そこまでいけば、みえてくるものがあるんだろうか。あるんだろうとおもいます。「摩天楼」の俳人・小川原嘘帥氏の句に、

 八十路には八十路の若さ今年竹    小川原嘘帥

この句は、中村さんの句と似た味わいがあるとおもいます。

 お茶会の床の間飾り 仏手柑  弘前市 諏訪夕香

あれはなんだろう。必ず床の間に何か季節のものを飾る。お茶会もですが、連句も正式には芭蕉の御影を飾ったりします。共通の精神があるんでしょう。

 勉強の嫌いな一本道もある  石巻市 保田二郎

小学六年のとき担任だった先生は、三十過ぎの独身だった。絵と蝶とりが大好きで、その影響を全員が受けた。戦争がえりの暴力教師で、怒れば往復びんたで教室一周ってこともあった。反面、そのころまだあった乾布摩擦で上半身はだかになると、発育のいい女子のムネをいやらしい目でぶしつけに見ていた。いまにしておもえば、なんて牧歌的な時代だったことか。その先生になぜか私はひいきされていて、それがとても苦痛だった。或る時、いつも宿題をしてこないH君が往復びんたをくらった。「なんでおまえはしてこない」「勉強するより叩かれたほうがましだからです」・・・今でも浮かぶ。いま、どうしているだろう。 

 鶯をじっと二時間聴いている  堺市  南野勝彦

 淫らですかとチュウリップ訊いてくる   〃

 貯め池とお山 明日の天気話している  〃

ことしは鶯がなぜか来ませんでした。一心行の桜を見にいったとき、山に鳴いていました。

 少年が並ぶ三角の美しさ  大阪市 北川アキラ

 天を指し地を指し感電する女神   〃

 御飯でもメシでも自動炊飯器   千葉市 西秋忠兵衛

炊飯器をよく買い換える。置き場所がなくて火の近くに置くからです。たいてい二年三年で駄目になります。最短一年というのもあったなあ。受難の炊飯器ですが、こんどのはすごいです。御かまだきに限りなく近づきました。保湿機能つきです。大事にします。もういじめません。

 

 

         

 

 

  

 

 

   

  

 

  

  

 

 

 

2006年7月 4日 (火)

白雨

白雨

白雨

2006年7月 1日 (土)

空のいろ

空のいろ

久留米市内

レンズ雲:http://www.noumaru.com/chiaki/lens.htm

     :http://the-cosmos.org/2003/2003-12/2003-12-01.html

そういえば、たしかにきのうはとても風がつよかったです。台風並みに。今日もとっても蒸し暑いですねえ。(七月二日記す。)

部下を庇い連行された小隊長

投書欄の今朝の記事が忘じがたく、引用させて頂きます。

 「忘れられない恩人の小隊長」

         小保 茂(80)

 私は終戦時旧ソ連に抑留され、極寒の地カザフスタン・ウスチカメノゴルスク収容所で氷点下四十度まで採石作業の強制労働をさせられました。

 二年目の冬のこと、隊員二十人の衰弱がひどいのを見かね、小隊長が「私が責任をとるから、作業をせずに皆、肩を組んで輪になり、凍傷にならぬよう動いていろ」。岩の上にいた監視兵が小隊長に詰め寄りました。「氷点下四十度まであと一度あるではないか!」小隊長はソ連兵の銃を取り上げ「この部下二十人を無事日本に帰すことがおれの使命なのだ!」

 小隊長は連行され、引き揚げの時には、お姿は見当たりませんでした。おかげで無事、日本の土を踏めたことを感謝するこの六十年間です。最近になって、関東軍一三〇〇四四部隊の渡邊中隊(第一中隊、松隊)の小隊長だった吉山英雄准尉と判明しました。九州のどこかのご出身です。再会して、ご恩返しすることを強く願っております。お心あたりの方はご連絡下さい。小保(旧姓仲山)=〇二五九(二九)××××(新潟県佐渡市・自営業

       西日本新聞朝刊七月一日「こだま」欄 

(※伏字の数字は、新聞社にお尋ねくださいますよう。)       

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