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2006年7月27日 (木)

Turn  Over 2

『二人日和』(原題:Turn Over  天使は自転車に乗って)は、ダンスホールでの一組の男女のダンスシーンから始まる。と同時にいきなり、全身にタンゴの曲を浴びる。うわあ。これがバンドネオン。これがアストロリコの音。そして・・利華さんのボス、門奈さんの音!うわあ。

初めて門奈紀生の音を聴いた。力強く、繊細で、透明ないろをして、うつくしかった。

バンドネオンって形はアコーディオンだけど、音がぜんぜん違う。どこかハーモニカの音に似ていない?口で吹くハーモニカを蛇腹ふがふがの手動風送り式にしたような哀調のある音が、ゆらぎをともなってかなでられる。それを、あの、鶴みたいでピノキオのゼペットじいさんにもどこか似ている(大失礼)、気高く慈悲深い雰囲気の紳士が演奏なさる。この序曲は、「RECUERDOれくえるど」という曲であった。そして、利華さん!画面右手の暗がりのなかに、姿はみえないけど彼女がいて、ヴァイオリンを弾いている。・・なにか胸がどきどきした。ダンサーの緋色と黒のコントラスト、部屋のなにもなさげな装飾ながら、壁にたれていた緋色のドレープカーテン。ダンスもけばいんじゃなくて、しっとりと和風の色気がある優雅なものだった。まず、この冒頭シーンが印象につよく刻まれる。

画面は終始うすぐらかった。私の好きな言葉に小暗いというのがあるが、まさにそれだ。いのちのもつ、根源的なおぐらさ。ストーリーは、子のない熟年夫婦(というんだろうかな。ちょっと老人というには早く、かといって中年というのも)の妻が不治の病にかかり、夫がみとる。単純にいえばそれだけの話で、それに若くてきれいな青年と娘さんが絡む。・・とかけば、いかにも重苦しい闘病ドラマのようだが、これはまったくそうではない。闘病ではなく、運命としての病に従うのである。ゆだねるのである。水のように。

このドラマの主役は京都の川であり、水である。また、水のようにめぐるわたしたちの命である。

「千恵さん」という藤村志保演ずる妻が病気の進行に伴って御飯がのどを通らなくなる。かんしゃくをおこして夫・栗塚旭に八つ当たりする妻、だまってうけとめる夫。そのあたりから周りで洟をすすりあげる音がきこえだしたけれども、私は悲しくなかった。隣の鍬塚さんが泣いているなと思ったときも。でも、たぶんあれがクライマックスだったとおもうが、亡くなる間際、いよいよ最期の時期にさしかかったと悟った妻と夫が向き合って、ことばを投げあうシーンには、深くうたれて涙がひとつぶこぼれた。

「ここからはあてひとりでいくんどす。あんたはんはついてこんでおくれやす」(みたいなことを千恵さんはけなげにもいった、死出の旅に)

かつては駆け落ちまでして一緒になった夫婦。淡々とすぎる日常。そこに現れる手品が趣味の青年。(こういう筋は、三島由紀夫の『朝焼けの二人』と似ている。倦怠期の夫婦がそれぞれ若い恋人をもつ。川端康成の『眠れる美女』よりはましかも)。

うすぐらい京の町家で昔ながらの和の暮らしをしている夫婦でも、水は神社に毎朝汲みにいき、豆を挽いたコーヒーを飲む。神祇装束師という職業も京都の職人としての誇りを大事にする仕事だ。この夫婦の何気ない会話、ことに千恵さんのどことないユーモアに悲愴さは消える。

想い出深い雛人形を飾ろうとして、千恵が倒れ、手品青年がちえさん!といって駆け寄る美しい場面。あとで千恵がしみじみ言う科白、「名前なんて呼ばれたのは何年ぶりでっしゃろなあ・・」には、まったく女として共感を覚えた。結婚で何が喪われるかといえば、それぞれの性だから。このあたりの演出はまさにオトナのあじわいである。(そういえば鍬塚さんは人を呼ぶとき、どんな高齢者でも名前にさんづけだ。その意味を、この場面で痛いくらい実感した。85にはなられると思える樹の代表俳人鮫島康子さんは、入院中おばあさん扱いされたと怒って退院なさったこともあった。誇りは何より大事であるし、いくつになっても女は女なんだなあと思う)。

京都の景色と自然に密着した行事。町家の佇まいと、建具や茶箪笥などの古い調度品のうつくしさも、また見所だった。

黒由玄という栗塚旭演ずる夫の名が、テーマに沿った名で、水の物語を語るに相応しい。くろいゆえに玄いなんて。そして、アストロリコの「黒由玄のテーマ」という曲がとてもすばらしいとおもった。序曲は一点とても強い緋色がまじっていた、いわば赤い印象の曲だったが、これはどこまでも黒い。かなしくて、せつない小節が繰り返される。門奈ボスのバンドネオンに追いすがるようにヴァイオリンが絡み、しばらくソロ、その後、ピアノが入り、またソロ。というように、それぞれの持ち味を生かしながら、一つのテーマに奉仕する。まさに連句のような音楽だ。人数(四重奏)も音色も連句人が歌仙をまくような。これは「DAR  VUELTAだる・ぶえるた」という曲だった。玄さんが画面に出るとこれが要所要所で流れていたので、あたまにこびりついてしまった。

ターン・オウヴァーとは、トランプでカードが裏返しされること、青年が手品を千恵に教える場面でさりげなく使われている。天使は自転車に乗ってという副題がついているが、青年がいつも自転車で来て帰ったからと、トランプにその模様が描かれていたからだ。

白描画ということばがある。水墨画のことだが、まさにそんなあじわいの、ほのあかるく、ほのぐらい、カラー映画なのにモノクロのような、邯鄲の夢のような、あの黒由玄が最期に仕上た紫の神祇装束のような夢幻のいろの、ものを多くいわない、映画だった。

さいごに、劇中、ねえ、あの曲はなんていう曲だった?と千恵さんが玄に尋ねるタンゴは、鍬塚さんが教えてくれたのだけど、ボケの私は忘れてしまった。想い出のなんたらというんでしたよね?(いいかげんだなー)「想い出に捧ぐ」・・と鍬塚さんは言ったんだっけ。ー序曲のレクエルドがそれでした。笑(これは、説明を見ますと、世界的に有名なオスバルド・プグリエーセが若き日に思いを寄せた女性を題材にした曲と書かれています)。

帰路は戸畑の鍬塚さんいきつけのゆんたす珈琲店で珈琲をのみ、会場で求めたCD「二人日和」をずっと聴いて帰った。

アストロリコのみなさん、たましいの琴線にふれる映画音楽をありがとうございました。

※小倉から帰宅後、夕食をたべようとすると、起きてきた次男が、「もう大丈夫やけん、行かして」とわたしに頼む。体がもとに戻れば、そらそうやろなあと思い、もう八時近くだったが、高速を一路またこんどは大分路の九重まで走る。阿蘇長者原着が九時半。だいじょうぶかーと友達や先生にむかえられ、息子はすっかり平常にもどったようだ。それを見届け、また帰ったが、どういうわけか道に迷い、まっくらな山中で何度も同じところを往復していた。こういうのをきっと狐にばかされたというんだろうな。結局、九重じゃなく湯布院まで出てしまい、そこから高速にのり、家に着いたのは十二時過ぎだった。一日で五百キロ以上も走行したのは初めての経験だった。やれやれ。

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コメント

めまぐるしい一日でしたね。お元気様。映画があなたの文章で、わたしのなかにまたよみがえってきました。ありがとう。わたしは「いい映画だった」としか言えません。

いい映画でしたね。
いい俳句のように余韻があります。
そして、今頃になって、とても悲しい。

恭子さん 今日28日は熊本へ行きました。寺本の父の奥さんが82歳でなくなって、胃ガンでした、葬儀でした。日記展が終わったら、父の様子を見に行こうかなと思っていた矢先でした。奥さんが昨年呉入院したら、父も具合が悪くなり栄養失調という病名で入院した経歴があるので、50年連れ添ってなにもかも頼っていた奥さんが亡くなったらどんなにか気落ちするだろうと思って、慰めになればと・・・・父は足腰が弱っていて外へ出ないので、葬儀は参列せず家にいましたので、火葬場へは行かずに、父のいる家へ。次男’(私の弟)夫婦と同居していますので、いない間に、ちょっと気が引けたのですが、家でひとりぼっちで居る父と久しぶりにいろいろ話しました。満州で終戦を迎え、匪賊が来るので金目のものは鶏小屋を彫って隠したという話を母から聞いていたのですが、それを再確認したり、私と姉は4歳離れていて、当時としては珍しいのでひょっとして間に生まれた子を中国においてきたのではという疑いも持っていましたので、それが単なる妄想と言うことが判ってほっとしました。
で、葬儀の間、黒由玄さんの想いと父のそれとがだぶって、涙がぽろぽろ。父も無口で、奥さんを「ルイ子」とも名前では呼んだことにない人ですので余計ダブります。でも、父に言わせれば日本の男の6割は無口だと・・・・・その無口な父を今日はずいぶん喋らせてしまいました。わたしはルイこさんにお礼を言いたくて参列しました。父と結婚してくれてずっと一緒に生活してくれて弟を二人も産んでくれてありがとうと。

そうだったんですか。
義理のおかあさまのご逝去、お悔やみもうしあげます。
遠路、大変でしたね。
一度お会いしたときの寺本直氏の鍬塚さんそっくりなお顔が、うかびます。骨格が似ておられる。あと、オーラが似ている。
五十年ですか。映画の夫婦は45年でしたよね。秀野さんも書いていたけど、夫婦って長くいるそれだけだけでもう尊いんだと。
十歳ほど年下だったのかな、奥様るいさんは。それでもやはり、あの時代の男は料理なんて自分ではなさいませんでしょうからね。うちの父もそうです、母と私に頼りきり。栄養失調。ご心配でしたね。でも弟さんがいらっしゃるなら安心ですね。
お父様と話をなさったことが、これまで、本当になかったのですねえ。いつか、もう十年近く前に樹の新年句会で父上と会われたのが、生後すぐ別れてから二度目だとかおっしゃってましたから。ああいう席では個人的な感慨にふける余裕もなかったでしょうし。
いつか、れぎおんでやらせてもらった、昔の生活のアンケート(やった当人の私はどっかへいってしまってる!)に、昭和19年生れの鍬塚さんや昭和24年生れの貞永さんたちが子ども時代の苦労を淡々と書かれていたことを時に思い出します。すごい苦労だった。苦労しらずの者からみれば。
松本におられるという鍬塚さんの実の母上を、お父上はあの日羽犬塚までご一緒した車中で同情的に言っておられました。よく聞き取れなかったけど、まるで、自分に言い聞かせるようだった。一度しかお会いしていないのに。印象が鮮明です。

どうか、お元気でお過ごし下さい。

恭子さん
北九州から博多の百道まで「二人日和」を見に行った若い友人がいました。藤村志保さんのフアンでもあり、着物にも興味ある方でした。
中津から父を同乗させていただいたのでしたね。ありがとうございます。戦後の虚脱と失業という不運が重なった離婚だったのでしょうか。詳しくはお互いに言いませんからわかりませんし、それ以上は訊きません。どちらが悪いとは言えません。4歳上の姉は母を苦労させてと父を恨んでいたらしいのですが、次女の結婚式に九州にきたついでに次女夫婦と私と一緒に熊本の父に会い、氷解したようです。いろいろあります。

ありがとうございます。
ほんとに、いろいろありますね。勉強させてもらってます。

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