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2006年6月 6日 (火)

戦艦大和

 ふと思いつき、引用します。広重静澄氏は元船員です。

月刊俳句誌「樹」2006年3月号より

連載「さざ波の向うから」第67話    

    戦艦大和

               広重 静澄

 下車前途無効余寒の軍港に    戸塚時不知

 映画「男たちの大和」を見ました。私は内容よりも、むしろ映画で見る実物大の戦艦大和を楽しみにして映画館へと向かったのでした。

 商船と軍艦の違いはどこにあるかご存知でしょうか。簡単ですよね。貨物を積むか積まないか、ただそれだけです。商船は貨物を積むことを目的にしているから必ず船倉(ホールド)のスペースを中心に造られていますが、軍艦はまったく違います。戦うための装具を目一杯配置し乗組員も三千三百人。すごいですねえ。長さ二百六十三メートルの大和に三千三百人ですよ。一メートル当たり十人以上も乗っていたことになります。商船なら全員集合しても二十人です。

 山本五十六長官は「大和」や「武蔵」が造られるずっと以前から「もう大艦巨砲の時代は終わった。これからは飛行機の時代なんだ。戦闘機と航空母艦を主体にした海軍に生まれ変わるべきである」と訴え続けていたそうです。

 しかし当時の上層部は日露戦争でバルチック艦隊をほとんど全滅させるという神がかり的な大勝利に酔い痴れて、その過去を引き摺り、すでに時代は空に移っていたことに耳を貸そうとはしなかったのでした。

 でもスクリーン一杯に広がる大和の上甲板(じょうこうはん)は美しかった。艫(とも)から艏(おもて)まで全面に敷き詰められた木が目にまぶしかった。今も自衛艦や航海訓練所の練習船には木甲板(もくこうはん)を設けてあります。木のぬくもりがあります。木の肌触りは優しくて、裸足で歩くあの心地良さは帆船日本丸のチーク材を思い出して靴下を脱ぎたくなった私でした。

 大和ではその上甲板で海軍体操が行われていました。柔剣道の鍛錬も日課のように木甲板の上で行われていただろうと思います。私たちも練習船では木甲板に青畳やマットを広げて、相撲柔道空手を楽しんだものでした。ハワイでは茶道の心得がある者が地元の人々に野点(のだて)の宴を催し好評でした。木甲板に青畳が良く似合っていました。

 船にはその船独得の船型があります。人がそれぞれ体形が違うのによく似ています。そして軍艦と商船ではとことん違う特徴的な部分があるのです。それは、ボディラインです。大和の全身を上空から見るとまるで錦鯉とそっくりの形をしています。波の抵抗を理想に近いところまで減らした形、それがあのように魚そっくりの流線型となりました。

 大和のシルエットから、ついうっとりと女性の曲線美を重ね合わせてしまったのは私だけでしょうか。中央部分の豊かなふくらみと船首尾のキュッと締まった姿はまちがいなくグラマーであると太鼓判を押します。

 一方商船は船首と船尾は細く尖っていますが、残りはすべて直線です。船倉により多く荷物を積み効率のいい揚げ荷役ができるように直線になっているのです。

 大和は呉の海軍工廠で造られました。不沈艦と言われたのは大きいからではありません。厚み四十一センチもある舷側(げんそく)の外板。二十三センチの甲板。更に浸水を最小限に食い止めるための千百四十七もある防水区画。それに加えて最先端の注排水システムを備えていたのですから不沈艦と呼ばれて当然だと思います。

 大和は昭和十六年十二月八日、日本が真珠湾を攻撃したその八日後に生まれ洋上デビューしました。実戦参加は翌年、昭和十七年六月のミッドウエー海戦です。

 日本の機動部隊は空母四、戦艦二。対するアメリカは空母三隻のみの戦艦ゼロ。それなのに日本軍は機動部隊のはるか三百マイルも後方に大和を含む圧倒的に優勢な戦力を擁していた。してはいたものの、作戦の暗号を完全に解読されていてその動きは筒抜けだったのです。

 六月五日午前四時、アメリカの空母から百五十一機の戦闘機が発進。前方の日本起動部隊を不意打ちし、空母四隻はすべて沈没。大和は世界に誇る四十六インチ砲が火を吐くこともなく、アメリカの空母に追いつくこともできず、一度も戦わないまま瀬戸内海の柱島基地に引き返すというデビュー戦になったのでした。

 戦闘速力が最大二十七ノットというのは時速五十キロに相当します。赤レンガの東京駅が時速五十キロで走るのと同じ大きさです。燃料をじゃぶじゃぶ使うのは当たりまえ。船の速力を十ノットから倍の二十ノットにしたら、燃料消費は三乗で効いてきますから十ノットのときの八倍も消費するのです。だから大和も武蔵もほとんど動いていません。いいえ重油が満足に支給されない状況だったから動けなったのです。

 昭和二十年4月六日、沖縄への水上特攻部隊として命令が下されたとき黒板に白チョークで「死ニ方ヨウイ」と書いた上官がいました。明日は死ぬと決められた攻撃前夜、上級士官は二手に分かれて殴りあいが始まりました。犬死には嫌だというグループとお国のために喜んで死ぬというグループです。そこに長嶋一茂が扮する白淵大尉が見回りの途中現れてこう言ったのです。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた。破れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」

 つつましく生きよと遺訓終戦忌  佐保田乃布

参照:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060704-00000010-maip-soci

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