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2006年6月 5日 (月)

円交会の歴史

  円交会の歴史

           正木 みち

 曽祖父耐軒まで遡らなくとも、祖父太郎乙に始まる乙骨家の家史のごときものを書いてゆくと当然円交会のことを詳述せずにはいられない。かつて一族の吹田順助氏(乙骨半二・三郎・五郎達のいとこ)が、文芸春秋だかの随筆欄に乙骨一族の円交会について書かれたことがあったが、時代の移り変わりと共に昔の事は忘れ去られるかも知れないし、或はまた我々の世代が老年に達してから父や祖父の事をもっと知っておけばよかったと思うのと同時に、私達の子孫の代の人達も我々の事について知りたいと思うかも知れないと「つれづれなるままに」円交会のことなどを記しておこうと思い立った次第である。

 円交会の始まりは「えんこ達の寄り合い」即ち「えんこ会」で、半二家のおしゅん伯母が、幼くして母久を亡くした甥の小室秀夫・正夫・恒夫三兄弟を慰めようと、お正月には大塚へよんで手製のまぜ御飯など御馳走し上の家(半二家)・下の家(三郎家)の子供達と一緒に賑やかに遊ばせたのがおこりだという。たまたま半二家の長男元造(通称元ちゃん)の誕生日が一月四日であった為、この日に集まると大概決められていた。この会名の由来については、会誌「円交」の中で巴姉が次の様に記している。

 「昔或る所に脳膜炎を患って白痴になった気の毒な子供がありました。その子は店の商品である大豆や小豆を右の手から左の手へとザラザラころがし耳の傍に持って行っては「えんこだよう」と言いながらその音を聞いているのが日課でした。我々大塚の住民はその様子を真似ては「えんこだよう」と言ってるうち、いつしか「えんこ」は「馬鹿」という意味に転化してしまいました。大塚の「えんこ」村はそんな「えんこ」達の寄り合いです。一人として「えんこ」の資格を持って居ない者はありません。奇跡といってもよい位です。尚、不思議な事は一度「えんこ村」に足を入れた者は必ず、たとえ銀時計拝領の光栄に浴した秀才でも、高女卒業の才媛でも「えんこ」化されるという偉大な魅力があるということです。その証拠には、他村から来て暫しの宿を「えんこ村」に求めた人達を御覧なさい。きっと日に二・三度は「あら、あたし今日もえんこしちゃった」といいう声をお聞きになるでしょう。「すっかりえんこ村に感化されシャボンと歯磨を忘れて帰ってしまいました」などという珍通信も御覧になるでしょう。ー中略ー

 「円交」はその「えんこ」に「まどかなまじわり」という意味を加えたものです。

     会誌円交第二号(大正十五年九月発行)より

 この様にして円交会が始まったのは大体大正十二年(1923年)以降だろうと思われる。というのは、その前年大正十一年七月に祖父太郎乙が亡くなり、又同居しておられた叔父叔母達も或は独立し、或は亡くなって、やや部屋のゆとりも出来、半二伯父夫婦に経済的余裕が出始めて来られた頃にあたるからである。それにしても、舅、姑、小姑等の大家族の中でさんざん苦労されたあと、身心に幾分の余裕が出来た頃、やれやれ少し楽をしようと言う事にならず、今度は甥達の面倒を見てやろうとされたおじゅん伯母の精力と情愛には心から敬服せざるを得ない。

 やがて江崎信五氏が大阪から出て来て東京で大学へ行く様になるし、ながい間台湾総督府に勤めておられた古山栄三郎伯父がやめて浦和に移り住む様になった為、古山家のいとこ達、丈夫さん、幸ちゃん、佑ちゃん、富ちゃん達も増えて円交会は一段と活気を増した。特に江崎の信ちゃん(通称信兵衛)はこの会となると人一倍ハッスルして円交会は最高に楽しいものとなった。遊びは昼間は戸外で羽根つきゲーム、室内ではトランプ遊び、それに何といっても紅白に分かれての百人一首など飽きる事なく繰り返したり又、信五氏が活躍する様になってからは、簡単なステージ式のものを作って、カラオケなどない時代ながら、歌をうたったり、寸劇のごときものをしたりする事さえあるという発展ぶりだった。昭和三・四・五年頃の最盛期には半二家・三郎家、浦和古山家と場所をかえて行った事もあった。

 半二家は昭和四年五月牛込横寺町に引っ越されたが、その後も毎年牛込で円交会は行われていた。やがて昭和十一年八月に又牛込から下落合に引っ越されたが、十一年九月半二家長男元造氏が死亡された為、翌年の円交会は行われず、十三年正月には下落合で行われた。併しその後会員の結婚、死亡、地方分散などで先細りとなり、戦争前後には全く消滅するに至った。戦前の円交会の歴史は大体以上の様であるが、その間、会誌「円交」が四号まで発行された。これは誰の発案か私にははっきりしなかったが、後に聞く所によれば、綾夫氏の発案に信五氏が大乗り気で賛同して実現したものだとか。毎号誰かが編集責任者となって、円交同人から自筆の原稿を集め、製本して回覧し、批評を書き加えて本部に戻すという仕組みで、「えんこ」達の寄り合いにしては非常に高度な発想のものであった。そして、

  創刊号  大正十四年十二月

  第二号  〃  十五年九月

  第三号  昭和二年十二月

  第四号   〃 四年三月

 と言った具合に一応は順調に続くかに見えたが、そこが「えんこ」たる所以で、段々に皆面倒臭がってやらなくなり、自然消滅という運命をたどり、結局四号で廃刊という事になってしまった。

 やがて日本全体が、円交会華やかなりし昭和三、四年頃には思っても見なかった戦争への道を歩むことになり、会員もその頃は大部分それぞれの家庭を持っていたから、二世達のためにあちこち疎開するような有様で日本中が空襲に脅かされ、食糧確保に悩まされた時期であった。

 昭和二十年、私は神戸の空襲を逃れて、乙骨家の世話で同じ信州富士見へ疎開させて頂いた。そして、八月十五日、この疎開先で敗戦の玉音放送を聞き、燈火管制用の黒い布やら紙やらを引きはがし、やれやれとなったのだが、それからあとが又大変。日本中が衣食住に不自由し、皆汚い恰好をして食糧を手に入れる事に心身をすり減らした。疎開していた者達も次第に東京や大阪などの都市に舞い戻ったわけだが、まだ数年は生きるのがやっとという様な生活であった。私達は昭和二十三年四月に、富士見を引き払い、東京の調布嶺町の社宅に移ったが、二年後の二十五年十月に小樽に来て、ずっとここに住む様になったので、戦後の円交会については、古山巴姉の記録により以下に記させて頂く。

    ※戦後の円交会につづきます。

 正木みち氏は太郎乙三男三郎の長女で小樽にお住まいのようです。

 ほかに当ブログ4/6,4/7,4/8,4/10,4/11,4/17,4/20付記事でも父三郎のことや一族のことをていねいにつづっておられます。また、富士見疎開については2/28の「乙骨家の人々8」で古山巴氏(半二長女)が言及しておられます。疎開中に乙骨半二は妻おしゅん(発音はおじゅん)を亡くすのですが、その弔いの様子が印象的でした。  

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コメント

四つ葉のクローバーという歌曲の歌詞は乙骨三郎先生が邦訳されたものだと聞きましたが、一説にはほかの人の訳とも言われています。実際がどうなのかを知りたいのですが、お教えいただければ幸いです。

周坊 様
こめんとありがとうございます。
すみません、いまひらきました。
おつこつさぶろうせんせいの歌詞、まだ確認しておりませんが、折を見てしらべてみたいとおもいます。
お教えくださってありがとうございました。

四つ葉のクローバー、すぐにでてくるのは、
ガロの、と、つじあやののです。どちらも大好きです。

これ👇でしょうか、歌曲。

ガロでもつじあやのでもありません。
1910年ごろ東京音楽学校の先生をしていらっしゃったアメリカ人Rudolph Reuterさんが作曲した「四つ葉のクローバー」です。詞はElla Higginsonというアメリカの詩人が作った詩だそうですがその詩を邦訳されたのが乙骨三郎先生なのです。
下記のサイトをご参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E8%91%89%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC_(%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%86%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%9B%B2)

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