無料ブログはココログ

« 詩人宗左近の言葉 | トップページ | 部下を庇い連行された小隊長 »

2006年6月25日 (日)

夏日待

しばらくこもります。

『夏日待(なつひまち)』は、「天文廿四年癸卯 卯月廿五日」の日付がある八女に伝わる百首和歌です。六年前にこれを読んでいなければ、乙骨太郎乙との出会いも又、なかったと思います。その一首目が君が代で、年のみのりを予祝する歌でした。

 喜見か代のためしにすめる千年川

  かはらぬたねに春や立つらむ  (美濃守源鑑述)

戦国時代の地方武士(名前から武士じゃない人も混じっているかもしれません)が24人で巻き上げた和歌は、季節のめぐりや人事や景物を織り込み、さまざまなことを教えてくれます。国文の先生方には百首和歌は格別珍しくもないのでしょうが、私にはこれが初めてで唯一であり、五百年近く前のものということで夢中になりました。ちょうどそこに連句誌れぎおんという古典の取水口があったことも幸いでした。しかし、そのうちにきちんとまとめようと思っているうちに、第一解読者の先生(松崎英一氏)が亡くなっておられることに気づきました。ーことし役場へ行って松崎氏の連絡先をうかがおうとしたら、亡くなりましたという返事に、たいそう驚きました。まだ60ほどの先生であったそうです。私は、横着しているうちに、とうとう一度もお会いできませんでした。ーわからぬ点を読んでくださったり正してくださった俳諧学者の東明雅先生もお亡くなりになりました。

縁がつながっていました。石橋秀野(八女にお墓がある)のかつての俳句仲間や俳句の弟子が今もご健在で、芥川賞受賞作家で俳人の清水基吉氏(戦時横光利一の俳句の運座で秀野と同座)は俳誌「日矢」を主宰されています。その俳誌に乙骨太郎乙直系の総領跡取である孫娘の菊枝氏のご主人・永井友二郎氏が所属しておられたことは驚きでした。また、東京の世古諏訪氏(秀野が旧制松江高校で俳句を指導した弟子の一人)の奥様が伊丹の柿衞文庫(どういう因果か秀野の絶句短冊が所蔵されており、それを初めて伊丹に行ったときに岡田利兵衛の孫娘岡田麗氏が特別に見せてくださった)の岡田家の方だったことも、そして東明雅先生の奥様が世古諏訪氏から俳句を学ばれていたことも、ずらずらとつながっている縁のふしぎさには打たれます。歌人の永井菊枝氏は俳句誌「鷹」に所属されていたこともおありだった、そして飯島晴子に指導をお受けになったと知ったときには、ここまでシンクロするとはと感心しました。わたしは俳人飯島晴子の句が好きです。

夏日待とは、夏のひまち(民俗行事、宗教行事)です。寝ないでお堂におこもりして一晩中歌をよんだり飲食したりした・・とあります。秋の実りを予祝する行事の一つだと思います。

『小伝 乙骨家の歴史』が出て、円交五号を書き写したときに感じた疑問のいくつかが解けました。初代の乙骨太郎左衛門と徳川家康との結びつき、ことに戦国の野をともに駆け回って、軍功に乙骨の姓と「蚊帳釣草の茎に桔梗紋」の家紋を賜った話は、なんともいえず心捉える話で、時代の覇者の軍神は、名前を部下に賜うことが出来るし、そのものの真価を見抜き、それを象徴化してみせる霊神でもありました。

また、乙骨太郎乙が登場する特異なノンフィクション時代物である八女出身の小島直記による『無冠の男』上巻に書かれていた、敗れた覇者徳川家について沼津へ下る旧幕臣乙骨太郎乙が自らもたいへんな子沢山だったのに、のちの経済学者で日本史家・田口卯吉少年を家に預かり、小学校へ通わせた、そのあたりをもう少し知りたいと思っていたのですが、菊枝氏の本で「太郎乙は卯吉の天分を認め、戊辰の戦乱の中で困窮の極にあった彼を沼津に伴い自宅に寄寓させ、兵学校に通わせた。太郎乙は当時自宅においても英学の私塾を開いていたが、そこでも卯吉をよく教導した。」と書かれていたので、太郎乙の目の確かさ、人に注ぐ慈愛がよくわかりました。さすがに君が代を国歌に選んだ人は徳ある人でした。

永井菊枝、すなわち乙骨菊枝氏自身に関しての記録もあり、呉竹寮勤務(奉職というらしい)についての記述が目を引きます。呉竹寮とは皇室のおひめさまたちを養育するおうちのことらしい。具体的には大奥、その遺物。どっひゃー!!そんなことも私は今回初めて知ったわけで、太郎乙を知ったおかげで、ショウヘイコウもクレタケリョウもいろんな日本史の知識が増えてうれしいです。(いかに自分が末端にいるのかわかった。それでも別段こまりはしないで生きていけますが)。

石橋秀野を研究していたおかげで、昭和天皇の第一皇女照宮については存じ上げていたのがせめてものなぐさめでしょうか。

  皇孫御誕生を喜びたてまつりて(大正十四年十二月九日)

文化學院中學部四年生 藪秀野

 大宮の方よりひびく號砲になみだぐましき喜びをする

 いと殊に近くかがやく星のありめでたき宵をことほぐがごと

皇女照宮のおそばちかくで仕えた人が、旧幕臣乙骨太郎乙の孫だったということ。もとはといえば、大奥の歌でもあった君が代を国歌に推薦した太郎乙。いつの世も、皇族の傍には、時代時代のいちばん優秀な人たちが、ひっそりと咲く野の花にも似て、はべっておられたことに、初めて実感として思いが及びましたことを喜んで、筆を置きます。

では、どなたさまもお元気で。またお会いできる日を楽しみにしています。

                           姫野 恭子 拝

連句的参照、呉竹寮:http://www.nippon-heater.co.jp/president/imperial/imperial.html

« 詩人宗左近の言葉 | トップページ | 部下を庇い連行された小隊長 »

コメント

姫野さん、また戻ってきてくださいね。
私は新しい仕事の構想を考えながら
つたないブログを続けていきます。

うん、ありがとう。
なんのことはない、たまってしまったんです、書かなきゃいけないものが。それと読まなきゃいけないものが。
あさよさん、あの句集のタイトルきまったね。表紙もいいし、すごく愛情を感じる。ひとりでできるものじゃないんですねえ。裏側からみせてもらったかんじ。勉強になりました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 夏日待:

« 詩人宗左近の言葉 | トップページ | 部下を庇い連行された小隊長 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31