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2006年6月25日 (日)

夏日待

しばらくこもります。

『夏日待(なつひまち)』は、「天文廿四年癸卯 卯月廿五日」の日付がある八女に伝わる百首和歌です。六年前にこれを読んでいなければ、乙骨太郎乙との出会いも又、なかったと思います。その一首目が君が代で、年のみのりを予祝する歌でした。

 喜見か代のためしにすめる千年川

  かはらぬたねに春や立つらむ  (美濃守源鑑述)

戦国時代の地方武士(名前から武士じゃない人も混じっているかもしれません)が24人で巻き上げた和歌は、季節のめぐりや人事や景物を織り込み、さまざまなことを教えてくれます。国文の先生方には百首和歌は格別珍しくもないのでしょうが、私にはこれが初めてで唯一であり、五百年近く前のものということで夢中になりました。ちょうどそこに連句誌れぎおんという古典の取水口があったことも幸いでした。しかし、そのうちにきちんとまとめようと思っているうちに、第一解読者の先生(松崎英一氏)が亡くなっておられることに気づきました。ーことし役場へ行って松崎氏の連絡先をうかがおうとしたら、亡くなりましたという返事に、たいそう驚きました。まだ60ほどの先生であったそうです。私は、横着しているうちに、とうとう一度もお会いできませんでした。ーわからぬ点を読んでくださったり正してくださった俳諧学者の東明雅先生もお亡くなりになりました。

縁がつながっていました。石橋秀野(八女にお墓がある)のかつての俳句仲間や俳句の弟子が今もご健在で、芥川賞受賞作家で俳人の清水基吉氏(戦時横光利一の俳句の運座で秀野と同座)は俳誌「日矢」を主宰されています。その俳誌に乙骨太郎乙直系の総領跡取である孫娘の菊枝氏のご主人・永井友二郎氏が所属しておられたことは驚きでした。また、東京の世古諏訪氏(秀野が旧制松江高校で俳句を指導した弟子の一人)の奥様が伊丹の柿衞文庫(どういう因果か秀野の絶句短冊が所蔵されており、それを初めて伊丹に行ったときに岡田利兵衛の孫娘岡田麗氏が特別に見せてくださった)の岡田家の方だったことも、そして東明雅先生の奥様が世古諏訪氏から俳句を学ばれていたことも、ずらずらとつながっている縁のふしぎさには打たれます。歌人の永井菊枝氏は俳句誌「鷹」に所属されていたこともおありだった、そして飯島晴子に指導をお受けになったと知ったときには、ここまでシンクロするとはと感心しました。わたしは俳人飯島晴子の句が好きです。

夏日待とは、夏のひまち(民俗行事、宗教行事)です。寝ないでお堂におこもりして一晩中歌をよんだり飲食したりした・・とあります。秋の実りを予祝する行事の一つだと思います。

『小伝 乙骨家の歴史』が出て、円交五号を書き写したときに感じた疑問のいくつかが解けました。初代の乙骨太郎左衛門と徳川家康との結びつき、ことに戦国の野をともに駆け回って、軍功に乙骨の姓と「蚊帳釣草の茎に桔梗紋」の家紋を賜った話は、なんともいえず心捉える話で、時代の覇者の軍神は、名前を部下に賜うことが出来るし、そのものの真価を見抜き、それを象徴化してみせる霊神でもありました。

また、乙骨太郎乙が登場する特異なノンフィクション時代物である八女出身の小島直記による『無冠の男』上巻に書かれていた、敗れた覇者徳川家について沼津へ下る旧幕臣乙骨太郎乙が自らもたいへんな子沢山だったのに、のちの経済学者で日本史家・田口卯吉少年を家に預かり、小学校へ通わせた、そのあたりをもう少し知りたいと思っていたのですが、菊枝氏の本で「太郎乙は卯吉の天分を認め、戊辰の戦乱の中で困窮の極にあった彼を沼津に伴い自宅に寄寓させ、兵学校に通わせた。太郎乙は当時自宅においても英学の私塾を開いていたが、そこでも卯吉をよく教導した。」と書かれていたので、太郎乙の目の確かさ、人に注ぐ慈愛がよくわかりました。さすがに君が代を国歌に選んだ人は徳ある人でした。

永井菊枝、すなわち乙骨菊枝氏自身に関しての記録もあり、呉竹寮勤務(奉職というらしい)についての記述が目を引きます。呉竹寮とは皇室のおひめさまたちを養育するおうちのことらしい。具体的には大奥、その遺物。どっひゃー!!そんなことも私は今回初めて知ったわけで、太郎乙を知ったおかげで、ショウヘイコウもクレタケリョウもいろんな日本史の知識が増えてうれしいです。(いかに自分が末端にいるのかわかった。それでも別段こまりはしないで生きていけますが)。

石橋秀野を研究していたおかげで、昭和天皇の第一皇女照宮については存じ上げていたのがせめてものなぐさめでしょうか。

  皇孫御誕生を喜びたてまつりて(大正十四年十二月九日)

文化學院中學部四年生 藪秀野

 大宮の方よりひびく號砲になみだぐましき喜びをする

 いと殊に近くかがやく星のありめでたき宵をことほぐがごと

皇女照宮のおそばちかくで仕えた人が、旧幕臣乙骨太郎乙の孫だったということ。もとはといえば、大奥の歌でもあった君が代を国歌に推薦した太郎乙。いつの世も、皇族の傍には、時代時代のいちばん優秀な人たちが、ひっそりと咲く野の花にも似て、はべっておられたことに、初めて実感として思いが及びましたことを喜んで、筆を置きます。

では、どなたさまもお元気で。またお会いできる日を楽しみにしています。

                           姫野 恭子 拝

連句的参照、呉竹寮:http://www.nippon-heater.co.jp/president/imperial/imperial.html

2006年6月24日 (土)

詩人宗左近の言葉

今朝、西日本新聞一面に、詩人宗左近の死を報じてあった。亡くなっていたことがわかった、というようなあいまいな書き方なので、命日がいつなのかはまだ判然としない。

先月、宗左近氏の文章をまるごと引用させていただいたのを思い出した。俳人の鍬塚聰子氏に「眞鍋天魚先生の花冷の句はいつの作品か」と尋ねられて答えるのに、なんとなく思いついた文章をそのまま写したのだった。

この文章を読めば、眞鍋呉夫(天魚)と宗左近は同郷(福岡)、同年だということが分かるし、宗には何か自虐のための圧倒的負の遺産があることも分かる。いっぽうで、

 「意識下への無痛覚こそが、文明である。

 人間の独特の痛覚こそが、思想である。

 無意識世界の記憶こそが、創造である。

 したがって、蘇える祈りの自殺体、それが詩でなくてはならない。」

引用文末尾のこの数行は、非常に哲学的で、多くの謎をはらんでいる。

その謎を解くことはできないものだろうか。

わかったふりは簡単なことだ。

2006年6月23日 (金)

博多ーアトピー治療

博多

  ドーム球場の前。九州医療センター前。

博多

  昼食時、ラーメン屋さんの前でサラリーマンの行列ができていた。

博多

    築港の李さん恋し夏つばめ

九州医療センターでのアトピー治療その2回目。生後三ヶ月の乳児から大人まで二十人ほどの患者とその家族を前に、九州一のアトピーのお医師今山修平先生がアトピー性皮膚炎の講義をなさった。えっと、テレビのお笑いで時にコメントなさる天然ぼけ風の紳士がいらっしゃるでしょう。おかっぱ頭でふおっふぉっふぉって笑い方をされる中年の。彼に似た風貌のどこか浮世ばなれした先生で、話がなんともいえず面白かったです。こんなかんじ。「ぼくはかゆみがわからないから、患者さんに頼んでかゆい皮膚を少し分けてもらうんです。そうやってたくさんの皮膚を集めて、いろいろと研究してぼくはちょっとだけ有名にならしてもらう。そうするとまた、おもしろいことがわかってくるんです。」「末端と中枢という考え方があるでしょう。こういうことです。たとえばクマに襲われたとする。まず、ふつうは命からがら逃げます。逃げる時あちこちを怪我して血が出ていても、そんな時は気づきません。で、助かったらがくがく震えが来て、まあこんなとこを怪我してるといって、急に痛みも出てくる。でもかゆみなんてのは、一番最後でしょ。そういう選択を無意識のうちにひとはやってます。」「アトピーのかゆみがうさんくさいのは、ゲームをしていたり、何かに夢中になっているときにはかいていないからです。はしかのときや熱が四十度もあったりしたら、まずかゆみは出ません。おかしいな、なぜだろう、と思うゆとりもない。ゆとりがなきゃかゆくならないし、また手の届く範囲しかかゆくないのがこの病気のへんなとこです。」「アトピーは免疫過剰であるわけですから、いろいろなことを人類に教えてくれます。風呂に入る、熱い四十度の湯に肩までつかるなんてことやってるのは、日本人と韓国人と中国人のごく一部だけで、世界の半分のにんげんは風呂なんてはいらない。アトピーの人の皮膚は傷がたくさんついている布みたいなもんですから、穴がいっぱい開いていて、そこから水分が蒸発します。だからかさかさになり、よけいかゆい。熱い湯は皮膚の脂肪分を溶かします。35度くらいの低い湯に入り、首、脇、股、足の裏をちゃんとあらうだけにします。シャンプーはいけない。」「食事ですが、ノートを作って、毎回何を食べたか、書きます。そうするうちに、なにをどのくらい食べた時にかゆみがひどかったかが見えてくる。なんでも書いて、僕に教えてください。ふつうは、唐辛子やカレーでは汗が出るからかゆくなる。砂糖もよくない。アイスなんて冷たいからうまいけど、あれが溶けてごらんよ、めちゃくちゃ甘いし、くえたもんじゃない。あぶらべっとりはいけません。油はいい油を少し。マーガリンはひどい。使うならバターを少し。」「下着とパジャマ。絹のがよろしい。メリヤスなんてとんでもないことです。薄い皮膚を一枚足してあげる感じで、絹がいいです。中国で上下百円のを買ってくるのがいいけど、そうもいかんでしょうから、探せば四千円ほどで買えるから。」「それと、爪とぎ。やすりの一番上等のを買ってきて、ていねいに爪を手入れしておくこと。寝ていてかゆいとこをかいても絹ごしなら、また、爪があらくなければ、ダメージは少ないです」。等々。

さて、上記の助言に従い、さっそく、絹の下着を買いにいく。あるとおもう?ないない、そんなの。女性用ならあるんですパジャマも。でも、男用はトランクスがあっただけ。さて、どうする。どこにあるだろうか。

こういうことをやってみて、はじめてハッとしました。長男の姉である娘がよく言ってたのですが、「お母さん、アトピーがあると貧相にみえるから、せめて着るものは上等の着せてあげてよ」って。私はつい、どうせ首周りがよれよれになって薬で変色するんだから安物がたくさんあったほうがいい式の考えをしてました。でも、それは間違った対処法だったようです。

さいごに、掃除の仕方ですが、むかしのように、ぬれぞうきんでふくのが一番いいそうです。ことに、たたみをお茶ガラをまいてふくのが、とてもいいそうです。ダニの害の抗体をお茶殻はもっているらしい。

先生がおっしゃったように、アトピー性皮膚炎ではすべてのことが、興味深い教えに導いてくれます。いくつも病院をかえることの意味までも。

参照:「アトピー性皮膚炎が治るということ」http://www5c.biglobe.ne.jp/~atopy/paperimayamakannatopy.htm

スキンケア:http://www.sunwhite.net/community/medical.html

今山修平先生:http://www.enkeidatsumou.net/doc10.html

2006年6月21日 (水)

農業土木 2

農業土木 2

右手の水浸しの小さな田が昨日残った「あぜみち」と名づける田。ここを植えるには、田植え機械をもって、小さな土橋を越えねばならず、それをめんどうがって最近は山の請負人に依頼するようになった。左の植田が昨日植えた田。

農業土木 2

これは三角田とその奥の田とのあいだに設けた板一枚(にみえるけど未確認)の水路。三箇所ある。抜いたり嵌め込んだりして水量を調節する。

農業土木 2

ここはクリークに沿った側になる。一枚の田に二箇所ある、クリークへの「落水口」(父はおてみなくち、といっている)。文字通り、田んぼに一度入った水をクリークへと落とす。黄色いビニールは肥料袋のリサイクル。丈夫だから色々に使うが、ここでは田の土手(あぜ)を守っている。

農業土木 1

農業土木 1

まだ、あらみずがかかったばかりの田。小溝が二重に田を取り巻いているような状態。(田植えのときだけです、このあふれんばかりの水は。)

農業土木 1

農業土木2のクリークの上に架かる手造りの橋。草の下は石橋か土橋か不明に。

農業土木 1

これがメインの「いかり」。クリーク(農業土木2に写っているものとは別の川)からの水流が左から右の田んぼへ流れ込む。板は四枚、これを「入りみなくち」と呼ぶ。田を植えるまで板は外されていて水の通路になっていた。この四枚の板を水が越さないように管理する。苗の状態と水のかかり具合を見る「田まわり」がこれからの父の日課になる。ことに梅雨の水があふれて、かぶらぬようにする。

乙骨家の歴史

乙骨家の歴史

2006年6月20日 (火)

田植え

本日、五時おきで、田植えをする。

農家にとって田植えと稲刈りは、火急のときにも等しい。国家総動員ならぬ一家総動員令が出て、五時には全員前にならえをして集合する。ホント。(チュウボウの次男はのぞく。)

そんなに早くから何をするかと言えば、「よこみち」と名づけている田んぼに、苗配りをしておくのだ。農家じゃないヒトのために解説しておくと、明るい農村だったわが村も、宅地が増え(農地がずんずん減り)、新しい居住者が古い土着人より多くなり、そういう中で農業をするのは気を使うのだ。たとえば朝は七時まで待って、草刈をする。草刈機の音はうるさいから。なんだそんなの当然じゃない、と思われるかもしれない。でも、百姓にとっては七時まで待つ、ということはどれだけ辛抱を要することか。日の出とともに起きるのだ。夏ともなれば五時前には明るくなる。涼しいし、あさめしまえには草刈をしたい。でもできない。うずうずして七時になるのを待つ。

田植えも、それと同じく、朝、通勤の車がたくさん通る道のヨコにある田に植えるので、邪魔にならないように、まだ誰も起きてこないときに、苗を配っておく。田植えを実際にしてくれる請負人と仕事に取り掛かるのは、交通量が少なくなる八時半過ぎである。

機械があっちの端からこっちの端まで折り返す。あとにはきれいなさ緑の苗がそよそよと頼りなげに首まで水に浸かって揺れている。パレット苗一枚で二往復分くらいか。機械は四条植えだから、機械の爪に四つのパレット苗を補充する。そのとき、忘れぬように苗に水を掛けてあげると、滑りがいい。この作業は、博多祇園山笠での「きおい水」みたいだ。稲作は一から十まで「水」なのである。

みんな麦わら帽をかぶっていた。私は五十ババというのに帽子を忘れ、半袖だった。梅雨あけしたという感じの暑さに、もろに日焼けする。そうじゃなくても今年初めて眉の下にしみを発見したっていうのに・・。まあいいか。よくないけど。年を自覚しよう。

天皇さまのお田植えみたいに、長靴をはいて田んぼに入ったら、深くて足が抜けなくなった。やっぱり裸足がいちばんです。

青鷺のつがいが植えた田に舞い降りてきた。おいしい虫でもいたのかしらん。

約二反半の面積の細長い二枚の田に、十一時には無事植え終わる。土橋の向うのちびっちゃい田(あぜみち、という名まえ)が残ったが、これは別の請負人にお願いしてある。

2006年6月19日 (月)

桜桃忌

きょうは、太宰治の命日(っていうよりも、遺体発見日で誕生日)だそうです。桜桃忌といいます。ゆすらうめが桜桃ですけど、死の直前の作品名にちなんでそう呼ぶようです。

わがやには桜桃はありませんが、すももの樹が一本ありまして、たっぷりとした緑陰に艶やかな紅い実を結びます。暗い葉陰のなかの鮮やかな紅色。

「愛することは命がけだよ。甘いとは思わない。」

なんて言葉が、吐ける人でしたし、女と心中できる人でした。

それが不幸せなことかどうかは誰にもわかりません。甘い果汁の滴りを舌先に感じてしまうからです。入水したのは、きっと、黒南風のふく、この田植え時の、とうとうとした水明かりのせいだったのではないでしょうか。

梅雨時は、ぶあつい時の堆積の底で、なにか紅い情動のようなものが蠢きます。それをずっと、太宰治は目の端に見ていたのではないでしょうか。堕罪という名の情動。

私は、太宰治の「走れメロス」と「待つ」が好きです。

ところで。はなしはぜんっぜんかわりますが、サッカー観戦、巷ではもりあがっていますね。私は昨夜、対クロアチア戦で初めて見ました。見てるのがきついきつい、でもいい試合でした。この試合ならば、どういう観戦をされたか、このおかたに聴いてみたいものです。

http://blog.goo.ne.jp/nammkha0716/e/66c6469e504e3ebc041c2757582d342a

(チベット語で夏目漱石の「坊ちゃん」を現地の学生と読んだ異色の活動家は、対オーストラリア戦の敗北を、大東亜戦争・太平洋戦争の敗戦と重ねて批評されています。すごい芸だとびっくりしました。愛媛の「遊子」の片上雅仁先生、ご紹介ありがとうございました。)

2006年6月18日 (日)

田水引く

水を引く

今朝、北窓から見えた、村で一番早く水が引かれた田。この状態を「あらみずをひく」と父たちは申します。

このあと、「あらしろをあける」んです。荒代掻きともいいます。つまり、田植え前の地を滑らかにすることです。具体的には素足で水の入った田んぼに入って、土くれの大きいのは砕き、草は抜き、傾斜があれば均すんです。(何しろ一度しかやったことがありませんで、迫力がなくてすみません)

次には、「田んぼのイカリ」を写すことが出来ると思います。ご存じかどうか、田のイカリというのは、水田の水の出入りを管理する注ぎ口のことで、板数枚を使います。方言かもしれず、よそではどう言うのでしょうか、また、農業土木の正式な用語ではなんと言うのでしょうか。

我が家の田んぼは、この写真とは反対の方角にありますが、まだ水は引いてません。

2006年6月15日 (木)

『小伝 乙骨家の歴史』刊行

去年、冬至に始めた当ブログの中心にすえた「君が代研究ノート」に、最も多く引用させていただいたのが、乙骨一族の交友誌「円交五号」です。昨年十月、沼津の明治史料館でコピーをとってもらったのは、そのほんの一部でしかなかったのですが、乙骨太郎乙の没年の確認を問い合わせたり、君が代を国歌に進言した太郎乙の真価に気づいてからはその人となりを知りたい旨ご協力を仰いだりしましたので、資料提供者で太郎乙の子孫である永井菊枝氏が手許の貴重な一冊をお譲りくださり、その全貌を知ることができました。内容があまりに公的で、歴史的、文化的、資料的価値を有するものであることに思い至り、全文を書き写してでも広くご紹介をしなければいけないという思いに駆られ、迷わず「本の丸写し式紹介」を小分けしながらこれまでの半年でほぼ終えました。非常識なことだったと思います。しかし、著作権法がどうの、プライバシーがどうのと、そういうことはあまり考えたくなかった。いろんな人たちに知って欲しいし、国の歌君が代について、これまでの狭いイデオロギー論争とは違った視点で、長い日本の歴史の中において真剣に考える核石としたかったのです。

去年、このブログを始めるまえに、自分が以前まとめた俳人の石橋秀野についての研究書と、暦論と題する日本の暦と八女に残る戦国時代の百首和歌のよみを一冊にまとめて出版しようと思っていたのですが、乙骨資料ととりくむうちに、そちらのほうが全然手付かずになってしまいました。何かを始めて熱中してしまったら、ほかのことが全く手につかなくなるのです。でも、いくらなんでも、無責任だと反省しました。天文年間の和歌の読みはブログで紹介すると言うわけにはいかないです。紙に書いたものでなければ、当時の武士たちにも、読みを手伝ってくださった今は亡き先生がたにも礼を失すると思います。

本日、『小伝 乙骨家の歴史ー江戸から明治へ』永井菊枝著、フィリア刊(星雲社)をご恵贈いただきました。手に取り、頁をひらき、内容のすばらしさに驚いております。写真資料や色んな珍しい歴史的資料がたくさん挿入されており、円交五号(君が代研究ノートにほぼ所収)を本ブログでご覧頂いた方々には、それを小見出しとして、あっと驚くような挿話が、奥行のある歴史的事実に照らされて、この中身の濃い一冊のなかに浮上してきます。日本史研究者にとってはこの上ない面白さの必読の一書です。どうぞみなさま、手にとってご一読されますようにお祈りいたします。何もわけのわからぬままに、かくも大きなご縁をいただけましたことに、深く感謝いたします。ありがとうございました。

(ちょっと考えましたことは、乙骨家は清和源氏の流れをくむ諏訪郡乙事の五味氏が先祖とあります。西暦二千年に解読した岩戸山古墳の伊勢社に伝わる西暦でいえば1555年頃の100首和歌を奉納した武士のリーダーの名前が美濃守源鑑述だったこと、なんとなく符牒みたいです。そういえば、先日からコメントいただいたタンゴバンド・アストロリコの麻場利華氏の文章に五味こうすけの名が入ってたのを今思い出しましたが、ひょっとして収斂されていくのでしょうか。同じ時代の同じ地へ。ーこんなこと考えたら、たのしいですね。だれもみな、もとをたどれば、ただ一本の血筋に連なるのです。いまさらながら、人類みなきょうだい・・を実感します。)

この本とご主人の本のご紹介を、またゆっくり致したいと思います。とりいそぎ、乙骨菊枝様、念願の御著書の刊行を心よりお祝い申し上げます。かつてなく、すばらしいご本です。

ざっと一読後、思いついたキャッチコピーを本書に捧げます。

「白洲正子を超えたー乙骨という強靭で無骨な一本の蚊帳つり草」

2006年6月14日 (水)

アレルギー治療

月曜日、佐賀のお医者様のご紹介で九州医療センターという大病院の皮膚科を二十歳の長男が受診した。我が家の子達は三人ともアレルギー体質で、免疫グロブリンIgEが目が飛び出るほどの数値を示す。といっても、私にはそのグロブリンアイジーイーの意味や働きすらよくわかっていないのだが。赤ちゃん時代からどの子も病院通いから縁が切れない。ぜんそくで出たり、鼻炎で出たり、アトピー性皮膚炎で出たり、アレルギー性結膜炎といって目に出たり、病気の総合デパートみたいににぎやかだ。ことにどの子も持っているのがぜんそくで、秋や春の行楽日和にどこかへ行くと、決まって夜中、誰かがぜえぜえいいはじめ、そのまま救急外来へ直行ということが多かった。

夫が強いアレルギー体質で、その遺伝をもろに被っている。いまも夫はぜんそくが温存されていることを思うと、一生治らない病気らしい。特効薬が発明されるか、遺伝子治療などの療法が確立される以外、これといった治療がない。長男はぜんそくはひどくないかわり、アトピーが出てかゆみがひどい。思春期から出始めた。いろいろな病院や療法を試したが、うまくいかない。ステロイドも恐ろしい。そうこうするうち、本人も私も疲れてしまって、どこを頼ったらいいのか、何を信じたらいいのか、わからなくなった。

「もういい。自分でなおすから」

と、いったんは薬も塗り薬も拒否した長男だったが、昼夜逆転するほどかゆみがひどくなり、面相もかわり、これではいけないと漢方薬を飲みだす。少し、ほんの少し気分が上向く。そこへ、夫が九州一のアトピー医の紹介状を知り合いのお医者さんに頼んでくれ、それを持って先日、受診したのである。(紹介状がないとかかれない。)

初日は検査をしたばかりで、次回は23日の予約だが、病気の説明から始まるらしい。次男のぜんそく治療のとき、年配のかんごふさんから甘やかしを皮肉られたことがあったので、今度も親としてどこまでハタチの息子に付き添うべきか、遠慮もあり、医師にあうのを控えたら、次からは親も来るようにと言われた、とのこと。

長女は今、博多の大きな病院で食事を作る仕事をしているが、長男を心配してメールをくれた。「苦しさは本人にしかわからないけど、大学だけはやめないでちゃんと行ったがいいよ。アトピーの子はいっぱいいるし、甘えるなっていっといて」と書いていた。笑った。いっちょまえの説教いえるようになったじゃない。いいお姉ちゃんだなあ。

ひと月、大学は休んでいる。自律と自立の問題でもあり、なにも言わず見守っている。一つ、ありがたいのは、あるコンビニで皮膚病の息子を使ってくださることだ。去年そこのコンビ二にパート募集の貼紙をみつけたとき、「アトピーが顔にあっても雇ってくださいますか」ときくと、「構いませんよ。逆に引っ込み思案が治りますから、ぜひ面接にやってください」と言う返事をもらってうれしかった。というのも、以前さるスーパーでアルバイトした息子は、この病を汚いとそれとなくいわれた(それは差別発言じゃなく、ほんとうにその通りなので仕方ないが)ことがあり、ほかの子はレジ打ちなのに、息子は掃除や商品補充役という体験があったからだ。それを思うと、このコンビニの人たちには頭が上がらない。そのかわり、クリスマスや連休など他のバイトの子たちが休みがちなときに、息子は代理でいやな顔せず入る。誰ともつきあわない孤独な生活は、こういうときに思いがけぬ役に立つんだなと、私はなんだかおかしくなる。まさかそういうことまで見越して人を雇っているのじゃないんだろうけど。しみじみと、ありがたいです。

2006年6月13日 (火)

医療センターから

医療センターから

医療センターから

医療センターから

昨日アトピーの治療に行った九州医療センターからの眺め。ヤフードームそば、都市高速をももちでおりて二分。駐車場広し。八女から一時間以内。今度こそなおすのだ!

2006年6月11日 (日)

誕生日

暦での入梅です。きょう夫の誕生日でした。

仕事用のスーツを二年に一度、デパートのイージーオーダーで作ります。たばこであける穴が多いので、二着で高級品一着分くらいのものにします。職業上スーツが消耗品なので、それでいいんです。色は紺か濃いグレイ。今日行ったのですが、セールが近いうちにあるそうなので、それまで待つことにし、採寸だけしました。遠くから採寸を見ていたら、胸囲が一メートル超えてた、脅威。脚、みじか。きこえたらおこるだろうかな。ま、おげんきそうでなによりです。わたしはこのひとを19のときから知ってるのだなあ、と感慨深い。昔は細かったのですよね。脚の長さは同じだけど。

いつもどさくさにまぎれたふりして、チロルチョコ一個しかプレゼントしないのですが、ことしは奮発して、青春の歌シリーズの1970年代のCDをあげようと思いました。が、わたすのをわすれました。笑

荒井由実と甲斐バンドとチューリップとイルカと宇崎龍童が入ってます。

荒井由実、二十歳のころ、ガードウーマンしてたころに、ルームメイトの黒ちゃんが大好きで毎日聞かされてたので、自然と好きになってました。とても懐かしい。元気でおかあさんやっているかな。むすめ三人だか四人だか生まれたって言ってたっけ。ひょっとしてもうほんとのバアバになったのかも。彼女の気の強さと弱さといじわるもやさしさも気高さも欲深さもみんなみんなまるごと、いろんな記憶の場面とともに、泣きそうな気持ちで思い出します。別れた嫁さんみたいに。笑

古い歌をきくのもいいものですね。

追記:今朝、溝浚い。父が出る。年々、参加者が減るので、大変だ。一度しか私は出たことがないが、溝の水の中に腰まで浸かって水流を邪魔する草を刈ったり、芥を取り除いたりする、田植えの下準備である。「アーチ伝来」に通じるけど、水利がまず一番大切で、ご近所との関係と上流、下流の関係もスムーズじゃなければいけない。稲作は和社会の基幹産業だ。

2006年6月10日 (土)

佐賀 2

佐賀 2

佐賀 2

佐賀 2

よりによって新館の方の正面玄関「のきした」です。

佐賀玉屋にあるクリニック(旧館の方でした)を訪ねていったのですが、人も車も少なくてのどか、駐車場は分かり易い斜め前のスーパーマルキョウのビル一階のを使いましたが、あいているし、只だし、いうことありません。ふと沼津駅前の通りにあった古い小さなデパートを思い出しました。デパートってたとえ建物が古くても小さくてもやっぱりデパートなんですよね。どこか格式があって、スーパーにない品(ヒン)があります。

2006年6月 9日 (金)

たんま!

月のはじめにひいた鼻かぜがぬけない。無病息災で半世紀、でもかぜはたまにひく。二年に一回くらい。ルルをのんだりコンタックをのんだりすると、そのときは洟がとまるけど、口の中がげげってくらい苦い。プラス体がだるい。かぜでだるいんじゃなくて、くすりでだるいんだとおもう。飲むのをやめるとだるさがとれるので、もうほうっておこう。

なすべきことがどっさりだ。まず俳句を投函しなきゃ。みんなのぶんは一人を除いて揃った。次に佐賀へ行く。夫の担当のお医者さんから福岡におられるという「九州一のアトピーのお医師」の紹介状を頂いてくる。夫の部屋の掃除と洗濯、買い物もしてくる。

あれ。いっぱいあるとおもったのに、書き出せば今日絶対しなきゃいけないのは、これだけです。よかった。なんとかいけそう。

きのうご紹介の本「アーチ伝来」について、すこし書き加えておきたい。実は頂いたばかりでまだ巻末の「和社会の掟」しか読めていません。肝腎の弘法大師の布教以外の仕事ー灌漑事業については未読ですが、「みんなしゃかいのおきて(と訓むらしい)」を読み、今更ながら、「そうだった。必要なのは、この視点だった」と気づかされました。太平洋戦争で日本の戦争指導者たちは裁かれたのですが、その時の速記録を当たるとどの人もどの人も「自分はそうしたくなかったのに」と言っているそうです。これは責任を負わないことを意味します。この軍事裁判でA級戦犯といわれる人々が戦争を指揮していながら、それは本意ではなかった、そうするしかなかったからだと申し開きをしている事実を捉えて、ドイツの場合と比較、あるいは著者永田圭介氏が二年前に世に出された清朝末期の女性革命家漢詩人・秋瑾のいさぎよい責任の取り方(革命が失敗して官憲にひっぱられるとき、かくも大勢の同志を死なしめたのは自分の責任である、死罪は当然、といって、堂々とした「武士道」のような見事な死に際をみせた。公衆の面前で慫慂として首をはねられた)と比しても、どうしてだろうと腑に落ちないくらいのふがいなさである。そのような無責任の精神をうみだし、かたちづくるものは何なのか。それが和社会であり、主語のない会話が支配するくに日本である・・・。そういうことが静かに書かれています。

長らく中国で仕事をされてきて、いろいろと彼我の違いに思い至られたのでしょうし、稲作農業の灌漑をお調べになったことも、また連句という和の文芸をなさっていることも、すべてがこの思考へと導くアーチになったようです。

2006年6月 8日 (木)

アーチ伝来

アーチ伝来

「アーチ伝来」 永田圭介・著 編集工房ノア、六月五日刊。

(帯文より)『満濃池』という、わが国最大の池を、小高い岡から眺めると、不思議な興奮に駆られる。

 「これが、池か」

 想像を超える広大さで、この池面は人の心を圧倒する。

 満濃池の名を高からしめたのは、いうまでもなくアーチ理論を応用した、弘法大師空海による扇形堰堤の築堤だろう。

 しかし伝えられているように、空海が設計・施工を指導して巨大な水圧を支え、満濃池を長く崩壊から守った経緯については、定量的な記録がない。

 本書は彼の唐留学の跡をたどり、アーチ構造の技術習得を現代の農業土木技術と対照して伝承の矛盾を衝き、『史実としての土木技師空海像』を追求したレポートでもある。

 併載:「江南の道」トレース記・「和社会の掟」

著者紹介:2004年「競雄女侠伝ー中国女性革命詩人秋瑾の生涯」出版。

1935年、大阪生れ。連句人。連句誌「れぎおん」同人。連句結社「海市の会」(鈴木漠主宰)同人。日本ペンクラブ会員。現在、装和技研(蘇州)建材科技有限公司副董事長。

大奥

大奥

先週帰郷したムスメが置いていった本の一部。批評はこの人のをどうぞ。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/ohoku.html

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/aisubeki1.html

2006年6月 6日 (火)

戦艦大和

 ふと思いつき、引用します。広重静澄氏は元船員です。

月刊俳句誌「樹」2006年3月号より

連載「さざ波の向うから」第67話    

    戦艦大和

               広重 静澄

 下車前途無効余寒の軍港に    戸塚時不知

 映画「男たちの大和」を見ました。私は内容よりも、むしろ映画で見る実物大の戦艦大和を楽しみにして映画館へと向かったのでした。

 商船と軍艦の違いはどこにあるかご存知でしょうか。簡単ですよね。貨物を積むか積まないか、ただそれだけです。商船は貨物を積むことを目的にしているから必ず船倉(ホールド)のスペースを中心に造られていますが、軍艦はまったく違います。戦うための装具を目一杯配置し乗組員も三千三百人。すごいですねえ。長さ二百六十三メートルの大和に三千三百人ですよ。一メートル当たり十人以上も乗っていたことになります。商船なら全員集合しても二十人です。

 山本五十六長官は「大和」や「武蔵」が造られるずっと以前から「もう大艦巨砲の時代は終わった。これからは飛行機の時代なんだ。戦闘機と航空母艦を主体にした海軍に生まれ変わるべきである」と訴え続けていたそうです。

 しかし当時の上層部は日露戦争でバルチック艦隊をほとんど全滅させるという神がかり的な大勝利に酔い痴れて、その過去を引き摺り、すでに時代は空に移っていたことに耳を貸そうとはしなかったのでした。

 でもスクリーン一杯に広がる大和の上甲板(じょうこうはん)は美しかった。艫(とも)から艏(おもて)まで全面に敷き詰められた木が目にまぶしかった。今も自衛艦や航海訓練所の練習船には木甲板(もくこうはん)を設けてあります。木のぬくもりがあります。木の肌触りは優しくて、裸足で歩くあの心地良さは帆船日本丸のチーク材を思い出して靴下を脱ぎたくなった私でした。

 大和ではその上甲板で海軍体操が行われていました。柔剣道の鍛錬も日課のように木甲板の上で行われていただろうと思います。私たちも練習船では木甲板に青畳やマットを広げて、相撲柔道空手を楽しんだものでした。ハワイでは茶道の心得がある者が地元の人々に野点(のだて)の宴を催し好評でした。木甲板に青畳が良く似合っていました。

 船にはその船独得の船型があります。人がそれぞれ体形が違うのによく似ています。そして軍艦と商船ではとことん違う特徴的な部分があるのです。それは、ボディラインです。大和の全身を上空から見るとまるで錦鯉とそっくりの形をしています。波の抵抗を理想に近いところまで減らした形、それがあのように魚そっくりの流線型となりました。

 大和のシルエットから、ついうっとりと女性の曲線美を重ね合わせてしまったのは私だけでしょうか。中央部分の豊かなふくらみと船首尾のキュッと締まった姿はまちがいなくグラマーであると太鼓判を押します。

 一方商船は船首と船尾は細く尖っていますが、残りはすべて直線です。船倉により多く荷物を積み効率のいい揚げ荷役ができるように直線になっているのです。

 大和は呉の海軍工廠で造られました。不沈艦と言われたのは大きいからではありません。厚み四十一センチもある舷側(げんそく)の外板。二十三センチの甲板。更に浸水を最小限に食い止めるための千百四十七もある防水区画。それに加えて最先端の注排水システムを備えていたのですから不沈艦と呼ばれて当然だと思います。

 大和は昭和十六年十二月八日、日本が真珠湾を攻撃したその八日後に生まれ洋上デビューしました。実戦参加は翌年、昭和十七年六月のミッドウエー海戦です。

 日本の機動部隊は空母四、戦艦二。対するアメリカは空母三隻のみの戦艦ゼロ。それなのに日本軍は機動部隊のはるか三百マイルも後方に大和を含む圧倒的に優勢な戦力を擁していた。してはいたものの、作戦の暗号を完全に解読されていてその動きは筒抜けだったのです。

 六月五日午前四時、アメリカの空母から百五十一機の戦闘機が発進。前方の日本起動部隊を不意打ちし、空母四隻はすべて沈没。大和は世界に誇る四十六インチ砲が火を吐くこともなく、アメリカの空母に追いつくこともできず、一度も戦わないまま瀬戸内海の柱島基地に引き返すというデビュー戦になったのでした。

 戦闘速力が最大二十七ノットというのは時速五十キロに相当します。赤レンガの東京駅が時速五十キロで走るのと同じ大きさです。燃料をじゃぶじゃぶ使うのは当たりまえ。船の速力を十ノットから倍の二十ノットにしたら、燃料消費は三乗で効いてきますから十ノットのときの八倍も消費するのです。だから大和も武蔵もほとんど動いていません。いいえ重油が満足に支給されない状況だったから動けなったのです。

 昭和二十年4月六日、沖縄への水上特攻部隊として命令が下されたとき黒板に白チョークで「死ニ方ヨウイ」と書いた上官がいました。明日は死ぬと決められた攻撃前夜、上級士官は二手に分かれて殴りあいが始まりました。犬死には嫌だというグループとお国のために喜んで死ぬというグループです。そこに長嶋一茂が扮する白淵大尉が見回りの途中現れてこう言ったのです。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた。破れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」

 つつましく生きよと遺訓終戦忌  佐保田乃布

参照:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060704-00000010-maip-soci

ブロック塀

そういえば、あったな。「へいマン」というキャラが。中年の哀感漂うおやじがなにかというと塀の上を駆け回るんだ。へいマンはへい、へい!とおらびながら色んな塀をクリアしていた。アホらしくて好きだった。世の中には色んなアホがいるなあと感動した。(たしか「っポイ!」という漫画です→違ってました「サディスティック19」でした)。

13歳の次男ですが、サッカーが目下いちばんの関心のまとでして、ブラジル留学させてとか無茶言います。帰宅するなりボールを蹴っています。食の細い子で、晩御飯食べるのもおいといて、まずはケリます。自分の13歳のころと比べても、ほんとに御飯を食べません。たったのおちゃわん一杯。私は最高7杯たべたよ。と言ってもふうんって動じない。それに寝るのが遅いです。12時前に眠ったのは数えるほどしかない。おかあさんは10時にはぐっすり寝てたよ。と言ってもへえという顔してる。161センチはチビだよ、せめて165センチはいきなよ、もう14になるんだし。とつっこむと、やっと真顔になりました。「寝なきゃ大きくならん!」という忠告には従いましたね。一度だけですが。笑

去年はよしくんちのブロック塀にボールを蹴っ飛ばして一人反復練習をしていました。(すみさん、ごめんなさいまし。)こんどはお隣のブロック塀相手にボールを蹴ってたそうです。しかも夜の九時ごろ。ほんとに失礼しました。イタチかと思って眠れなかったそうです。笑。祖母が祖父がおわびにいったのでした。(肝心の本人と母はあとからわびました。すみませんでした。)なぜ気づかなかったのだろう。はて。

2006年6月 5日 (月)

円交会の歴史 2

 正木みち氏の御文章の続きです。「円交」五号より引いています。 

    戦後の円交会

 戦後八年以上経ち、そろそろ「もはや戦後ではない」という様な声も聞かれる様になった頃、円交仲間にも昔を懐かしむ声が起こり、漸く会の復活を見る事になる。昔の「えんこ」達即ち円交一世達も齢既に不惑を超えたり、又は不惑に近づきつつあったから、その二世達を含めて会員の数は非常に増えて来ていた。円交会生みの親のおしゅん伯母も戦後すぐに亡くなっておられたので、復活後は、私の母千代やお美津叔母が顧問という格になっていた。以下、戦後の円交会を年代順に記す。

 第一回  昭和29年5月23日 信濃町貸席「明石」  出席38名

 第二回  〃  30年5月    杉並小林邸       〃48名

 第三回  〃  31年9月30日  同上           〃40名

 第四回   〃 32年6月16日   同上          〃46名

 第五回   〃 33年4月29日   同上           〃48名

 第六回   〃 34年4月29日   逗子観瀾荘       〃43名

 第七回   〃 35年5月5日    同上           〃57名

 第八回   〃 36年4月22日   同上            〃40名

 第九回   〃39年4月29日    湯島聖堂         〃55名

 第十回   〃43年6月2日    文京区原町寂円寺   〃63名

 第十一回  〃45年5月24日  中野新橋氷川神社    〃59名

 第十二回  〃48年9月30日  三鷹永井邸         〃69名

 (以上で)会場難の為、二世・三世を含めた大円交会は終り、その後、主として一世のみの小円交会が随時開かれて来た。)

         昭和38年1月   小室恒夫邸 

         〃 39年5月    〃 正夫邸

         〃 51年10月   小室正夫邸

         〃 52年5月    浦和藤井邸(戦後の円交会に小樽から正木みち初めて出席。藤井邸の藤見の宴。)

          〃53年5月    新日鉄新山谷寮(古山綾夫・巴夫妻金婚祝い)

          〃55年3月   原町寂円寺(土方辰三・幸夫妻金婚祝い)

          〃57年5月   新日鉄新山谷寮

 第十三回  〃62年5月24日  荻窪東信閣    出席62名

 第十四回  平成2年5月2日  六本木ウカリハ  〃58名

 第十五回  〃4年11月15日  信濃町陣屋     〃55名

[編者附記]以上戦前から戦後に至る円交会の歴史を記して頂きましたが、この間会長として終始まとめ役をされたのが、故古山綾夫氏、次いで小室正夫・恒夫御兄弟が二代目会長を、そして現在は乙骨清一郎、及び二世から古山正一、正木直子の三氏が三代目を勤めて下さっていることを附記して皆様のご尽力に深く感謝申し上げたいと思います。(編者とは永井菊枝氏で、編集発刊されたのは平成四年十月現在です。・・姫野註)            

円交会の歴史

  円交会の歴史

           正木 みち

 曽祖父耐軒まで遡らなくとも、祖父太郎乙に始まる乙骨家の家史のごときものを書いてゆくと当然円交会のことを詳述せずにはいられない。かつて一族の吹田順助氏(乙骨半二・三郎・五郎達のいとこ)が、文芸春秋だかの随筆欄に乙骨一族の円交会について書かれたことがあったが、時代の移り変わりと共に昔の事は忘れ去られるかも知れないし、或はまた我々の世代が老年に達してから父や祖父の事をもっと知っておけばよかったと思うのと同時に、私達の子孫の代の人達も我々の事について知りたいと思うかも知れないと「つれづれなるままに」円交会のことなどを記しておこうと思い立った次第である。

 円交会の始まりは「えんこ達の寄り合い」即ち「えんこ会」で、半二家のおしゅん伯母が、幼くして母久を亡くした甥の小室秀夫・正夫・恒夫三兄弟を慰めようと、お正月には大塚へよんで手製のまぜ御飯など御馳走し上の家(半二家)・下の家(三郎家)の子供達と一緒に賑やかに遊ばせたのがおこりだという。たまたま半二家の長男元造(通称元ちゃん)の誕生日が一月四日であった為、この日に集まると大概決められていた。この会名の由来については、会誌「円交」の中で巴姉が次の様に記している。

 「昔或る所に脳膜炎を患って白痴になった気の毒な子供がありました。その子は店の商品である大豆や小豆を右の手から左の手へとザラザラころがし耳の傍に持って行っては「えんこだよう」と言いながらその音を聞いているのが日課でした。我々大塚の住民はその様子を真似ては「えんこだよう」と言ってるうち、いつしか「えんこ」は「馬鹿」という意味に転化してしまいました。大塚の「えんこ」村はそんな「えんこ」達の寄り合いです。一人として「えんこ」の資格を持って居ない者はありません。奇跡といってもよい位です。尚、不思議な事は一度「えんこ村」に足を入れた者は必ず、たとえ銀時計拝領の光栄に浴した秀才でも、高女卒業の才媛でも「えんこ」化されるという偉大な魅力があるということです。その証拠には、他村から来て暫しの宿を「えんこ村」に求めた人達を御覧なさい。きっと日に二・三度は「あら、あたし今日もえんこしちゃった」といいう声をお聞きになるでしょう。「すっかりえんこ村に感化されシャボンと歯磨を忘れて帰ってしまいました」などという珍通信も御覧になるでしょう。ー中略ー

 「円交」はその「えんこ」に「まどかなまじわり」という意味を加えたものです。

     会誌円交第二号(大正十五年九月発行)より

 この様にして円交会が始まったのは大体大正十二年(1923年)以降だろうと思われる。というのは、その前年大正十一年七月に祖父太郎乙が亡くなり、又同居しておられた叔父叔母達も或は独立し、或は亡くなって、やや部屋のゆとりも出来、半二伯父夫婦に経済的余裕が出始めて来られた頃にあたるからである。それにしても、舅、姑、小姑等の大家族の中でさんざん苦労されたあと、身心に幾分の余裕が出来た頃、やれやれ少し楽をしようと言う事にならず、今度は甥達の面倒を見てやろうとされたおじゅん伯母の精力と情愛には心から敬服せざるを得ない。

 やがて江崎信五氏が大阪から出て来て東京で大学へ行く様になるし、ながい間台湾総督府に勤めておられた古山栄三郎伯父がやめて浦和に移り住む様になった為、古山家のいとこ達、丈夫さん、幸ちゃん、佑ちゃん、富ちゃん達も増えて円交会は一段と活気を増した。特に江崎の信ちゃん(通称信兵衛)はこの会となると人一倍ハッスルして円交会は最高に楽しいものとなった。遊びは昼間は戸外で羽根つきゲーム、室内ではトランプ遊び、それに何といっても紅白に分かれての百人一首など飽きる事なく繰り返したり又、信五氏が活躍する様になってからは、簡単なステージ式のものを作って、カラオケなどない時代ながら、歌をうたったり、寸劇のごときものをしたりする事さえあるという発展ぶりだった。昭和三・四・五年頃の最盛期には半二家・三郎家、浦和古山家と場所をかえて行った事もあった。

 半二家は昭和四年五月牛込横寺町に引っ越されたが、その後も毎年牛込で円交会は行われていた。やがて昭和十一年八月に又牛込から下落合に引っ越されたが、十一年九月半二家長男元造氏が死亡された為、翌年の円交会は行われず、十三年正月には下落合で行われた。併しその後会員の結婚、死亡、地方分散などで先細りとなり、戦争前後には全く消滅するに至った。戦前の円交会の歴史は大体以上の様であるが、その間、会誌「円交」が四号まで発行された。これは誰の発案か私にははっきりしなかったが、後に聞く所によれば、綾夫氏の発案に信五氏が大乗り気で賛同して実現したものだとか。毎号誰かが編集責任者となって、円交同人から自筆の原稿を集め、製本して回覧し、批評を書き加えて本部に戻すという仕組みで、「えんこ」達の寄り合いにしては非常に高度な発想のものであった。そして、

  創刊号  大正十四年十二月

  第二号  〃  十五年九月

  第三号  昭和二年十二月

  第四号   〃 四年三月

 と言った具合に一応は順調に続くかに見えたが、そこが「えんこ」たる所以で、段々に皆面倒臭がってやらなくなり、自然消滅という運命をたどり、結局四号で廃刊という事になってしまった。

 やがて日本全体が、円交会華やかなりし昭和三、四年頃には思っても見なかった戦争への道を歩むことになり、会員もその頃は大部分それぞれの家庭を持っていたから、二世達のためにあちこち疎開するような有様で日本中が空襲に脅かされ、食糧確保に悩まされた時期であった。

 昭和二十年、私は神戸の空襲を逃れて、乙骨家の世話で同じ信州富士見へ疎開させて頂いた。そして、八月十五日、この疎開先で敗戦の玉音放送を聞き、燈火管制用の黒い布やら紙やらを引きはがし、やれやれとなったのだが、それからあとが又大変。日本中が衣食住に不自由し、皆汚い恰好をして食糧を手に入れる事に心身をすり減らした。疎開していた者達も次第に東京や大阪などの都市に舞い戻ったわけだが、まだ数年は生きるのがやっとという様な生活であった。私達は昭和二十三年四月に、富士見を引き払い、東京の調布嶺町の社宅に移ったが、二年後の二十五年十月に小樽に来て、ずっとここに住む様になったので、戦後の円交会については、古山巴姉の記録により以下に記させて頂く。

    ※戦後の円交会につづきます。

 正木みち氏は太郎乙三男三郎の長女で小樽にお住まいのようです。

 ほかに当ブログ4/6,4/7,4/8,4/10,4/11,4/17,4/20付記事でも父三郎のことや一族のことをていねいにつづっておられます。また、富士見疎開については2/28の「乙骨家の人々8」で古山巴氏(半二長女)が言及しておられます。疎開中に乙骨半二は妻おしゅん(発音はおじゅん)を亡くすのですが、その弔いの様子が印象的でした。  

2006年6月 4日 (日)

麦秋

麦秋

裏窓から見える麦畑。むぎごんの(麦刈)がおわりました。

麦秋

雪ノ下。昔は葉っぱの汁を中耳炎の薬に使ってました。

(おできの薬はつわぶきだったそうです。母いわく。)

麦秋

大型のアマリリス。今年で四年目です。

2006年6月 3日 (土)

塩を贈る

五月末日付、西日本新聞一面広告で見た、増補改訂版『「ガセネタ屋」乙骨正生の正体』ー幾度、司法断罪されようともデマを吹き続ける男がいる。― 佐倉敏明著、鳳書院刊、のことがまだあたまからはなれない。

ガセネタ屋だなんてことばは聞いたことがなかった。業界用語なんだろうか。(何の業界?)それに、この文章自体がなんだか奇妙だ。幾度断罪されてもデマを吹き続ける男がいる・・この言い回し、普通はいい意味でしか使わないのではなかろうか。奇妙な感覚がずっと残るのは、そういうへんてこさがこのコピーにはあるからだ。

この「幾度も司法断罪された男」の乙骨正生氏が、たとえここに喧伝されてるように本当にデマを吹き続けているとして、お金も気力も湯水のように使うようなデマ、普通の人間なら一度で十分だ。それを何のために吹くのか、そんなに何度も・・・と思うのが普通の常識ってものだ。どうも並の感覚では考えられない世界のようだ。新聞広告の一面を使ってまで一個人をののしるというのも、なんだか胸が重い。一国の政治指導者とか軍部を批判するというのとは次元が違いすぎる。せっかく大金をかけて宣伝するのなら、もっと生産的な価値をもつ本に注いでほしい。それにそんな胸が悪くなる見出しの本を第三者が買ってまで読むはずがないではないか。発泡酒しか売れないこのせちがらい世の中に。

大体の察しはつく。でも、これはあきらかな失敗だろう。まるでテキを褒めているかのような按配だからだ。ほんとうにへんなの。

それと似ていてちょっとおかしいが、これをご覧下さいまし。

http://www.forum21.jp/contents/03-2-15.html

この中には池田会長の飾らない姿と周りの人々の姿が活写されていて、ほんとうに面白い。どういう風に誌面が作られていくのか、まさに阿吽の呼吸である。ついおかしくって声をあげて笑ったほどだ。乙骨氏はこの文章を論敵を糾弾するために書かれているのだが、意外にもその逆の効果を挙げてしまったようだ。私はこれを読んで、池田会長のほんとうのこわさを思い知らされた気がした。それは会長が「憎めない」キャラクターであるということで、実際にさぞ魅力ある人物であろうなあと伺わせるのに充分であった。あれだけの集団を率いるのである。カリスマとはそうでなければなるまい。

おととい引用参照した乙骨氏の文章だが、あの中で氏は創価学会への人々の対処法を四つに分類されていた。そのうちの二番目に見てみぬふりをする人々というのがある。私はそれだ。だがそれを恥ぢてはいない。むきになって全力をかけて闘うものではないと思うから。それぞれに価値観が違う。命を救われている人も多いのだということも知っている。人の恋路を邪魔するつもりはない。

つまるところ、「正反対はおなじもの」という格言を思う。

どうか、どなたさまもご安全にいきまっしょい。(しょい。)

円交の末尾に連なって

        乙骨太郎乙の子孫の交友誌『円交』五号より

 円交の末尾に連なって

           小山 由紀子

 十一人兄弟の九番目に生まれた五郎の長女である私にとっては、物心のついた時には祖父、祖母は勿論、伯叔母は全部この世になく、残った半二、三郎、両伯父も余りにおえらくかけ離れた存在であったので、父の世代は伝説によって語り伝えられたような気がするのです。そんな半二伯父さんが、一度色々と世話をして下さった事がありました。放課後、花ちゃん(高野花。半二の末子)と連れ立ってぶらぶらと牛込まで歩いて出掛けました。学校前の大野屋脇の急な坂を下り、江戸川あたりより赤城神社の境内を抜けて賑やかな通寺町の通りに出、又、横寺町の通りにまがって牛込の家までは、上がり下りは多くとも「官許にごり酒や」「浅田宗伯邸」「尾崎紅葉旧宅」等史跡も多く変化に富んだ楽しい道でした。何時も電気のついていたお茶の間で、上機嫌の伯父さんは花ちゃんと私とを相手に珍しく色々と昔話を聞かせて下さいました。酔って猿股一つでマラソンに出かけ、北町交番のお巡りさんに「どちらまで?」と聞かれて「ちょっとアメリカまで」と言った有名な逸話を御本人から伺ったのもあの時でした。一番びっくりしたのは、まき子伯母さんがお茶の水の女学校時代、学芸会で英語の大演説をぶち、たまたま来合わせた江崎政忠氏がすっかり感心して、結婚を申し込んで来たという事です。鹿鳴館時代の才女だった伯母さんの面影と何時もは取り付く島もなかった伯父さんの洒脱な反面を見たような気がして懐かしく思い出されるのです。

 三郎伯父さんも隣に住みながらこれといったお話もせず済んでしまいました。しかし小学校三年の時でしたか、ピアノを買うのから先生まですっかりお世話をしていただきました。ピアノがはこび込まれるとふらりとお見えになって、素敵な名演奏を聞かせて下さいました。何の曲だか全く覚えていませんが、ピアノをゆるがすような強いタッチで陶然と弾いて居られました。何も知らない私はとてもこんなにはなれそうもないと不安になったものです。その不安が的中して不勉強と相まってとうとう物にならず終わったのですが、伯父さんのピアノは田口さんの家に居られた時に独習して会得されたものと聞き二度びっくりしたものです。大体乙骨兄弟は音楽に優れていたらしく、皆、師匠にもつかぬのに色々楽器をあやつったようで、父は長唄を好みレコード等を沢山買って来て居りましたが、とうとう或る日安物の三味線を手に入れて来ました。おとく、おろく両叔母がやっているのを(これとても特に習ったのではないらしい)見聞きして覚えたとかで、越後獅子や吾妻八景を弾いて居りました。弾きだすと夢中になって口をとがらしているのがおかしいと私共は笑ったものです。少々稽古した事のある原の祖母が聞いて、本当の音が出ているとびっくりしたり、又、小さい頃、かん高い声で唄っているのを聞いた太郎乙祖父さんがおつぎ祖母さんに「五郎は清元の師匠にするといいかもしれないな」などと冗談を言ったそうですから、音楽が日常茶飯になっていたのかも知れません。

 右を向いても左を見ても飲兵衛ばかりの間で、父は酒を飲みませんでした。元来は飲める体質なのでしょうが、ひどい蓄膿症と酒飲みへの反省がそうさせたのでしょう。それで大の甘党で、小遣はみなお菓子に使うといわれた位、今日の食べ歩きの元祖のように、あちらこちらとうまいといわれた店の菓子を買い、自分も食べ、子供たちにも食べさせて呉れました。おかげで、先天的、後天的にもしこまれた私は今でもお菓子屋の前だけは素通り出来ません。そのように菓子にうるさい父もお正月のお菓子は皆様のお書きになったように蒸羊羹と切ざんしょうなのです。私は何であの余りおいしくない切ざんしょうが登場しなければならないのかと不平を言いましたところ、「お正月のお菓子は昔からあれに決まっている」と、すましたものでした。江戸っ子のご多聞に洩れず、おそばが大好物でこれ又あっちこっちと連れ歩かれましたが、中でも連雀町の藪が大好きで、神田の古本屋を廻って藪に行くのがいつものコースでした。

 巴さんの文に半二伯父さんが鳥をむしって料理なさる事が見えて居りました(2/28付「乙骨家の人々8」)が、父も鳥や魚を上手に作るのです。横でちょこんと見ている私に「ここは肺臓で食べられない」「ここは肝臓で一番うまい」等と問わず語りに説明しつつ手際よく片付けて行きました。おかげで私も見よう見真似で人手のない時は何とかおっつけられるようになりました。或る時余り鮮やかにこなすものですから、「一体どこで覚えたの?」と聞いた所、「何、江戸っ子っていうのはこういう事が好きなのさ」と大照れに照れて居りました。

 半二伯父さんも三郎伯父さんも父も乙骨兄弟は、よしくもあしくも典型的な山の手の江戸っ子であったようです。晩年の或る日慨嘆していわく「乙骨の長女ってどうしてこう、かまわない、男の子みたいなんだろう。半二兄の処の巴がそうだ。三郎兄の処のみち子がそうだ。それにうちの由紀子だ」傍らで聞いていたお千代伯母さんが「それでも亭主がいい女房だと言っているんだから構わないじゃないか」と間髪を入れずあざやかに切りかえして下さいましたが・・・ご主人様方いかがでしょうか?巴姉、みち子姉の立派な思い出の記を読んで居りますと、お千代伯母さんのお説が正に当っていると思います。かえりみて私は・・・父の言葉のひとしお身にしむ今日この頃でございます。

参照:官許にごり酒屋http://www.hpmix.com/home/sugidama/C6_1.htm

   浅田宗伯邸http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/8445/hitorigoto.html

   浅田宗伯御影http://www4.point.ne.jp/~asada-iyasu/asada.html

   尾崎紅葉旧宅http://www.hutecc.jp/saka/SAKA/Saka_14.htm

   赤城神社http://www.akagijinja.or.jp/shrine/parishioner.html   

※赤城神社は乙骨太郎乙が所属していた漢詩結社「昔社」の連衆と八十の賀を祝って漢連句をまいたところです。(当ブログ1/13付「乙骨太郎乙の精神世界1」所収)

2006年6月 1日 (木)

乙骨一族の骨

六月に入りました。裏庭の柿の根元のアマリリスがもうすぐ開きそうです。家中のカーテンを外して洗い、窓硝子を磨きました。お寺での磨き方のように新聞紙を丸めて、少し水で湿らせ力を入れて拭きますと、きれいになりますね。

さて、乙骨一族の円交誌の引用を一月お休みしておりましたが、その間に三つ興味ぶかい動きがありました。一つは、音楽家乙骨三郎がらみです。太郎乙翁の八十のお祝い漢連句をきちんと読み解いて下さった、さいたま市のれぎおん同人で漢詩も学んでおられる松本杏花様が市政だよりを同封して送ってくださって、それに「案山子」の作詞者の顕彰記事が載っていたのです。乙骨三郎とは違うおかたでした。円交誌を書きうつしたとき、案山子も汽車も浦島太郎も鳩も日の丸の旗も三郎の作詞となっていました。それでこれを永井菊枝様に確かめようと手紙を書いたのです。返事には昭和女子大の近代文学研究叢書37巻のコピーが入っていました。

「明治四十三年に入って文部省は、これまで二十余年間民間に任せていた小学唱歌を新時代に適合したものに改善しようとして小学唱歌教育編纂委員会を結び、ここにはじめて作詞、作曲とも日本人の手になる「尋常小学唱歌」が生み出されるようになった。版権は文部省にあるので作詞、作曲者の名前はしるされなかったが、乙骨は「日の丸の旗」「兎」「鳩」「池の鯉」「浦島太郎」「汽車」などを作詞している。」(同誌「乙骨三郎」から引用。)

永井菊枝氏は、『「故郷」(兎追いしかの山・・)の高野辰之氏のようには乙骨三郎の名はあまり知られていなくてちょっと残念な気もします。しかし、三郎自身はそんな事全く問題にしていないですし、どうぞひっそりとしておいてくださいませ。』と結ばれています。

それを読んで、菊枝先生のおっしゃる通りだとおもいました。一つ、すっきりしました。自分の名が残ることよりも、作詞に籠めた想いがのこればよい、とするきっぱりとした意志。

二点目は、数日前に思いがけずも君が代研究ノートの中の「ミッドウエー海戦」にコメントがいただけたことです。これはご覧いただけます。(三月四日付http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_a355.html)私はうっかりして存じ上げなかった永井友二郎氏の御著書についても教えていただいた、世界的タンゴバンド「アストロリコ」のヴァイオリン奏者である麻場利華氏には本当に感謝いたしております。また、麻場氏にこのブログをご紹介くださった守山真理摸氏にもご好意ありがたく、本当に助かりました。こんごともよろしくお願いいたします。

三点目です。これはあまり、書きたくありません。というのも、これがためにどうなるか、これからのことが思いやられるからです。しかし、乙の骨をひとかけら、たしかに私もいただいたのですから、書かずに知らん顔で通り過ぎることは出来ません。勇気をだして書きます。

きのう、新聞の一面下の目立つところに『「ガセネタ屋」乙骨正生の正体』増補改訂版・佐倉敏明著・鳳書院、なる不穏な宣伝文をみつけました。えっ!乙骨一族じゃありませんか。なぜ。どうして・・こころがみだれます。乙骨正生とは・・。失礼ながら検索をしました。それで理由がわかりました。下記索引をご覧になって、何が問われているのかをご自分の目でお確かめください。http://www.forum21.jp/contents/contents9-1.html

さいごに、ひょんなご縁をいただいたアストロリコさんが音楽を担当している公開中の映画『二人日和』を、どうぞみなさまよろしくお願いいたします。

http://futaribiyori.com/top.html

地元京都・バリアフリー上映:http://www.miyakomesse.jp/event/10th_002.html

北九州高齢社会をよくする女性の会による上映:7月26日10:30~、小倉の女性センター「ムーブ」にて。(こどもの日記ひろば鍬塚聰子氏情報提供)

アストロリコオフィシャルサイト:http://www.astrorico.com/indexj.html

麻場利華ラジオ番組http://radiocafe.jp/index.html

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