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2006年5月15日 (月)

玄奘と九条

もう一冊引用します。十年以上前ですが、大牟田の谷口慎也氏の俳句誌に二年ほど所属してました。そのとき、原稿用紙十枚のうち八枚が引用という文(笑)を書いて送ったらボツだったというものです。どうもそれが未練がましいので、お願いします。むかし「そこに行けば いろんな夢が かなうというよ 誰もがみな 行きたがるが はるかな世界」で始まる歌がはやりました。それを記憶に蘇らせながら、こむずかしいところはすっとばして、でも肝心なぶぶんは忘れないで、目を走らせてもらえればとおもいます。

 

 「仏教人間学としての世親唯識説の根本的研究」

                稲津 紀三・著

第四部  世親の一生と壮大な文明史

 第一章 世親一生の歴史的現実を探ねて(随筆風に)

  その四  玄奘三蔵の証言

 『勝鬘経』は、アヨージャ国の友称王の王宮の奥深くに、我々を誘ってくれる。王宮の在る所が、アヨージャ国の都城になるわけだけれど、それは、今日のインドの地理上では、何の辺になるのだろうか。

 玄奘三蔵の『西域記』によると、アヨージャ国の全領域は「周囲五千里」とあるが、それは、地図でみると、今日のウッタラ・プラデーシュ州の主要部分を占めている。

 そして、その都城については、

「国の大都城は周二十余里、穀稼豊盛にして花果繁茂す。気序和暢、風俗善順、福を営むことを好み、学芸に勤しむ。伽藍百有余所、僧徒三千余人、大乗小乗を兼ね習学す。天祠十所、異道は寡少なり。」

 と記録されている。正法が興隆して、法化が深く人心に浸透し、人々は福祉、学芸に努め、自然もまたこれに偕和する、という理想郷の名残りが、玄奘の眼に映じたのだろう。

 そこには、誰か大きな指導者が有ったはずである。その名は、伐蘇畔度(ヴァスバンドゥ Vasubandhu)世親である。もともと、玄奘が、アヨージャを訪問した最大の関心事は、世親の遺風を、面のあたりに偲ぶことにあった。それで、その大都城に、世親が生前住した精舎を見つけて、それを特筆する。

「大城中に故き伽藍有り、是れヴァスバンドゥ菩薩(世親)が数十年中、大小乗の諸異論を製作したる所なり。そのそばの故き基は、是れ世親菩薩が、諸国王、四方の俊秀、沙門、婆羅門等のために講義説法せる堂(跡)なり」

 伽藍というのは”僧伽藍さんがらん”の僧を略した呼称で、”samga-aramaサンガ・アーラーマ”の訳で、僧伽の園という意味であり、精舎とも訳されている。そのような「僧伽の園」で、いちばん大切なものは、その名の示すとおり、正法の僧伽、人の和聚である。正法が隠れれば、僧伽も離散する。後に残るのは建て物や庭園ばかりである。それもやがて廃址になる命運をもつ。多くの人は、ほんとうの意味の”さんが・あーらーま”を知らないから”伽藍”と聞くと、奈良京都あたりの虚構の堂塔を連想するかもしれない。しかし、玄奘がアヨージャ大城中に見た世親の「故伽藍」は、それとは少しちがうようである。

 そこには、巨大な堂塔を暗示するものは何もない。そこは、世親が数十年間瞑想執筆した故園で、そのたたずまいは何も書かれていない。側に講堂の基壇が残っていたというから、そこに集まった僧伽(さんが)の人達の散策安息した園林があったのだろうが、世親その人の起居した建物ーおそらくは草庵ーは土に帰していたのだろう。しかし、そこから生まれた世親の新しい仏教は、すでに世界史を動かす兆候を見せ始めていた。

 アヨージャ国の大都城と、城中に世親の精舎が存在したことは、玄奘三蔵が現実に見て証言してくれている。

 世親(C370-450)が活動した頃は、アヨージャ国の最盛期で、また、アヨージャを統治下におさめたグプタ王朝の最盛期でもあった。当時のアヨージャ国には、二重の統治勢力があったと思われる。昔(年代不詳)からこの地を領治していたラーマ王家と、それを傘下におさめることによって、一層大をなしたグプタ王朝とである。したがって、統治者の居住した王城が二つ存在したはずである。ラーマ王家の王城と、グプタ朝の都城とである。ラーマ王家の王城(王宮)は、現在のヴァラナシ(ベナレス)の対岸ラムナガルに在って、その末裔は近年まで存続し、現在でもその跡は歴然としている。しかし、『西域記』の玄奘三蔵は、これにはあまり興味を示さない。そして前記のように、世親の精舎のある「大都城」の見聞は、感動的に叙述している。その大都城は、グプタ朝の勢力によって造営されたものにちがいない。時の大王はグプタ朝第三代の英主チャンドラグプタ(月護)第Ⅱ世で、後にヴィクラマ・アーディトヤ(勇気の太陽)と号し、王朝の首都を、マガダの旧都パータリ・プトラ(華子城)から、この地に移し、ここで世親と出逢う。この出逢いが、世界史的に重要な意味をもつことになる。

 五 武器を以て戦われるべきでない

 アヨージャ(a-yudh-ya)の語は、文法上「武器をもって戦われるべきでない」という意味になる。漢訳では一応「不可戦」と訳されるが、この国名を初めて注意したのは、聖徳太子と同時代の、中国隋代「三論宗」開祖、嘉祥大師・吉蔵であった。しかし大師は少しまちがいをした。『勝鬘経宝窟』を著し、「不可戦国」の国名について「要害堅固で外敵から侵害されない」の意味に説明している。それはまちがいで、正しくは、阿育王の法勅に見える「戦いによる勝利は邪悪にして、法による勝利が真の勝利である」という訓告の趣旨に理解すべきであろう。勝利にせよ、繁栄にせよ、武器によって戦い取らるべきではない、法によって克ち得られるべきである、という精神をあらわしている。

 そうすると、それは現在の「日本国憲法」に、国としての戦争や武力行使を、国際紛争を解決する手段としては「永久に放棄する」意志を表示した精神と等しい。この憲法の表示は、非現実的だとして、これを更改しようとする勢力は、今日までも、今後も、国内の一方に存続するであろうが、それが主流となることは、あり得ない。また、そうさせてはならない。あの歴史の非常時期に、あの理念が、しかも一国の憲法に掲げられたことは、世界史的に重要な意義をもっている。そして、同じ理念を掲げた国が、二千年も前に出現していた。(長いので、あしたの後編につづきます。初版:昭和十二年。増補版:昭和63年) 

 

 イラクから第九条が帰還する 渡辺隆夫

っていう川柳がのってました。最近のかその前の号の「点鐘」にです。記憶ですから完全ではないかも。ははーっ、そのときはごめんなさいまし。(確認のエネルギー残量不足)

※やっと今日確認しました。ぜんっぜんちがってました。(5・21記)

 サマワから第九条が帰ってくる   神奈川県 渡辺隆夫 

114号の「点鐘」です。記憶変形した句よりずっとまろやかでした。おわびします。

ところでこの渡辺さんの句には、サラリーマン川柳同様のなりふり構わぬこっけいな句が多くありますよね。(とごまかす)えっ「挙げてみなさい」といわれても困るんですが・・笑。

こないだ、佐賀のトラックバックをいただいたかたのサイトで、サラ川の優秀作を見ました。「うまい!」と笑った翌朝、それを引用した朝のワイドショーコメンテーターがまちがえてました。原句:片付けろ!いってた上司が片付いた   引用句:片付けろ!いってた上司が片付けられた    (じぶんのミスにあまく、人のミスはみのがさない)

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