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2006年5月22日 (月)

恋の語彙 3  眞鍋呉夫論

 花冷のちがふ乳房  眞鍋呉夫論 

           宗 左近

     『眞鍋呉夫句集』 宗左近編(芸林21世紀文庫)より

 二十一歳の第一句集”花火”に並んで現れる二句を、順序をさかさまにして、書き写す。 

  ひとりぼつち雲から垂れたぶらんこに

  かなしみつのりくればしろぐつはきもあへず

 この「ぶらんこ」は、雲にしか繋がれていない。この捉えかた、それだけでわたしはもはや感動する。その通りだよ、タマシイは。わたしの中のものが、強く共鳴する。そして、空中に揺れている「ひとりぼつち」に強い眼差しを送る。すると、白い素足の光が鋭く目を搏つ。ああ、とわたしは声をあげる。

 白い煌きは、白い煌きを拒絶するのか。純潔は、おのれ以外の純潔を排除するのか。その悲しみの極まりは、もう一つの悲しみの極まりを否定するのか。

 なるほど、ここに不思議なことがある。眞鍋氏とわたしは、ともに大正十五年に小学校へあがった同学年である。まったくの同時代。そして、同じ福岡県の生れで育ち。十八歳からの三年あまりは、学校は別にしろ、会うことはなかったにしろ、同じ東京で青春をすごしている。

 その中の二句、「雲から垂れた」と「しろぐつはきもあへず」に、その六十年以後のわたしは感じいった。何に?呉夫青年の青春の生々しい生体に。そして、そこに並ぶわたしの青春の、同じく生々しい死体に。

 だが、なぜ、むこうの青春は生体で、こちらの青春は死体なのか。

 十七歳からほぼ十年間のわたしは、かなり激烈なニヒリストであった。自己の、否定というよりは虐殺こそが生きる目的にほかならなかった。美と心中するのが、念願であった。詩に、熱中した。しかし、それは詩を扼殺するのが目的であった。純潔が、美の別名であった。それを、見つめて、おののいた。しかし、それは、純潔を破壊したい衝動を抑えたいために外ならなかった。

 では、呉夫青年の純潔はおのれ以外の純潔を排除するのか。その悲しみの極まりは、もう一つの悲しみの極まりを否定するのか。その通りである。ただし、その排除と否定の時の相手の痛覚と悲しみをいつまでもおのれのものとする。つまり、永続してやまない加害意識に犯されて終ることがない。だが、それを直截には表現しない。ほとんど相手と合体し、相手そのものとなって、表現する。

 『花火』の次の三句は、相手になりかわってのその独特な加害者感覚をよく表現している。

 狂ひたる少女の胸よ光あふれ

 聲出して哭(な)くまい魚も孤獨なる 

 わがひとの不幸のほくろやみでもみえる

 つまり、被害者である相手を、そのまま無害者として蘇らせる愛が働き出る。そして、それが、加害者である眞鍋青年を、おのずから救済するのである。当人は気づかないかもしれないけれど、宗教者のものに似た愛の働きがあるのではなかろうか。

 もともと、眞鍋青年は生と死の二つの同時共存に敏感である。その双方に強く魅かれる。その何よりもよい例が、句集の題名にもなった存在、花火。

 花火上りまた上りわれむなしきに

 咲くことが散ること。炎えることが消えること。昇ることが落ちること。生きることが死ぬこと。それらの生と死の二重同時存在=美。

 その美の言語化による端的具象化、それが『花火』上梓のほぼ半世紀後の、一向に老いることのない眞鍋青年の鋭い念願となる。そして、句集『雪女』(やがて暦程賞および読売文学賞を受賞)が生れる。

 『花火』との違いは、はるかに広く深まっている自然と人間への愛情である。

 白地着てひと恋しさに耐へてをり

そして、人間の魂そのものを見る眼力が鋭く光りを増してきている。

 生身霊(いきみたま)青蚊帳ぐるみ透きたまふ

 白桃を映せしあとの曇りをり

そのうえ、この句集には、題名通り、人外の存在、人間と非人間の合体の超越存在、雪女が登場してくる。その三句をあげる。 

   M-物言ふ魂に

 雪女見しより瘧(おこり)をさまらず

 雪女溶けて光の蜜となり

 うつぶせの寝顔をさなし雪女

「瘧をさまらず」とは、身体の震えがやまなくなったとは、つまり雪女に取りつかれてしまったということ。しかし、なぜなのだろうか。雪女が、生と死の、この世とあの世の、二重共時存在であるからである。つまりは、おのれが、その二重存在であると知って以来、もう一つの二重存在(=雪女)と合体しないことには、おのれの世界が自立できなくなるという脅えに、日夜悩まされるからではなかろうか。

 異常?病気?惑乱?いいや、これこそが、人間の本来なのである。

 しかし、それを語る前に、句集『雪女』以後に書かれた雪女をテーマとする句を、年代を問わすに列挙する。

 雪をんな打身の痕(あと)のまだ青く

 雪をんな魂(たま)ふれあへば匂ふなり

 雪女抱けば吹雪の音がして

 雪女くるらし鷺の蓑毛立ち

 雪女あはれ鵠(くぐひ)の頸を秘め

 雪を来て恋の躯(からだ)となりにけり *

 密会の腕のしびれや夜の雪 *

 水晶の中の光が憔悴す *

 夜の雪やラムネの玉は壜(びん)の中 *

 足跡のかすかに蒼し雪女

 雪女いま魂触れ合うてゐるといふ

 ヘルメットぬげばあの夜の雪女

 非在=想念の雪女が次第に現前化されてきている。雪女からの愛が届いてくるからである。相手もまた切なくなってくるのである。ただし、嗅覚、聴覚、觸覚。それの働きが主である。視覚=文明光線のもとにさらされると、一挙に非在化してしまう。白い闇=雪のなかの生きものだからこそ、匂い立つ肌をもつ女性(にょしょう)。

 *印をつけた四句は、素直に受けとめれば、雪女の句ではない。しかし、雪女を詠んだと取ったほうがはるかに面白い。憔悴した水晶の中の光=雪女なのである。そうであってこそ、妖しく白い関係が匂い出る。そして、半透明のラムネの青い壜の中の透明の、やはり青い玉こそが、文明のなかに閉じこめられている天然(?)の生きもの、それぞ眞正な大自然の歌、詩のみの生んだ純正なタマシイの生きもの、非在の想念=想念の非在の光、雪女なのである。

 しかし、純潔でありたいために純潔そのものをも拒む〈花火〉であり続けた八十歳青年は、ついにある日、抱きしめていた非在を突き離して、日光をあびても溶けない少女として実在化する。その実に美しい作品をもう一度書きたい。

 ヘルメットぬげばあの夜の雪女

そして、この句のそばに、たいへんわたしの好きな一句を並べる。

 花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく

ああ、一つの「ちがふ乳房」こそ、雪女なのである。そして、変らぬ眞鍋青年の俳句なのである。つまり、ここにあるもの、それが眞正の詩なのである。

 わたしは、いま、あらずもがなの数行を書き加えて、小さな花束を編み終えることにする。

 意識下への無痛覚こそが、文明である。

 人間の独特の痛覚こそが、思想である。

 無意識世界の記憶こそが、創造である。

 したがって、蘇える祈りの自殺体、それが詩でなくてはならない。

  ※底本:句集『花火』昭和16年、こをろ発行所刊。

       句集『雪女』平成十年、邑書林刊。

   『眞鍋呉夫句集』2002年4月1日初版発行より引用。   

           

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コメント

恭子さん 早速にありがとうございます。検索を現代仮名遣いでしていたので、出てこなかったようです。しかも「花冷」でなく「花冷え」でしていたので、尚更でした。友人からのメールがそうなっていたので、ついうっかり・・・・・最近微細な点がるーずになって、しかも記憶が曖昧で、花目ではなく花脳になってるのか((((((((o_△_)o ?

花目、花脳。先がたのしみです。笑
きょうの新聞に花逢忌がのってました。それと、詩人伊藤ひろみのアメリカでぶっとばすというエッセイ、とてもあこがれた。日本でいうなら熊本から京都までほどの距離を週に一度は運転してフラリと出かける。うっっひゃーうらやましー!

真鍋呉夫 白桃 乳房
検索でここへいらしたかた
朝のつづきです
この文章いじょうの真鍋論は書けないなあ

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