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2006年5月17日 (水)

玄奘と九条3ー詩人タゴール

タゴールは晩年の講演『仏陀』の中でこう言っている。

「さらに貴い捧げものが、阿育王によって仏陀の足下にささげられた。王は石に文字を刻んで、自己の過ちを広く懺悔し、愛と非暴力(アヒンサー)の法の栄えを宣言し、その石柱に、主[仏陀]に対する敬虔な帰依を表白した永遠の聖語を遺した。彼の如き帝王が、かつて地上にあったであろうか。・・・王の大業は、仏陀の正覚からあらわれている。その仏陀の名は、往時より今日なお一そう熱烈に呼びかけられなければならない。・・・今日この兄弟ごろしの非行に毒された国にあって、われらは仏陀から一言の教えを聞かんことを乞いねがう。”一切衆生への慈悲が解脱への道である”と説いたそのひとから。人類の中の至高の人よ、再び世にあらわれて、人の内なる至上のものを、破滅より救わんことを」[『仏陀』より]

 これは、一九三五年五月十八日、タゴール満七十四歳、カルカッタ唯一の正統仏教団体「大菩薩会」主催の釈尊降誕祭に招かれた時の講演の一説である。世界は第二次大戦に突入する前夜の様相を呈していた。彼は、ガンジーとは異なった立場から、切にインドの独立を願ってきた。そしてやがて来るべきその日のために、インドの国と人の依るべき至高の精神を、自国の歴史の中に探ね、永い精進の末到達した全てを、ここに吐露した。それは、ヴェーダ・ウパニシャッドから、仏陀・阿育にわたって実現した人類の聖なる願望に、彼自身が燃焼された大音声(だいおんじょう)であった。この講演は、ベンガル語で読まれて、指導的な地位にある人達に、深く浸透したもようである。独立後のインド共和国憲法制定の国会に、その証拠があらわれてくる。

 一九五○年[昭和二十五年]一月、インド連邦の国会で、共和国憲法を決定して、インド共和国が成立したとき、国旗、国歌、国家紋章など、国の根本精神の象徴が制定された。国旗は、ヨコ三色に染め分けた生地の中央に仏陀の法輪を顕し、国家紋章には、阿育(アソカ)王が捧げたサルナートの石柱の部分が定められ、国歌には、タゴール作詞作曲の「ジャナ・ガナ・マナ・おんみに勝利あれ(ジャヤ・ヘー)」が用いられた。以上をよく見ると、それらは、タゴールのあの講演が指針になって現れてきていると、考えないわけにゆかないのである。

 それより三年以前の昭和二十二年(1947)日本は憲法を改正し、「戦争放棄」の国民の決意を表明して、新しい国再建の歩みを始めていた。両者ー日本とインドの憲法ーは精神的基盤を共通にしている。そして、双方とも、精神的伝承を掘り下げる上において、共通の忘れものをしている。アヨージャの存在である。ー62年2月記ー

 七 アヨージャの故都

 私のアヨージャの歴史徘徊の目的は、勝鬘夫人の王宮の在った故都と、世親が終生活動した行迹の地を、今日のインドの地誌の上に探ねて、歴史の今昔を偲びたいことにあった。それは、どうやら同世代の同一の場所らしく、それが、まもなく探しあてられそうになってきた。

 玄奘三蔵『西域記』のアヨジャ国見聞記を見ると、「周囲五千里、国に大都城あり、周二十里」と記録されている。周囲五千里というのが、当時のアヨジャ国の全領域だとすると、それは、今日のインド連邦の、ウッタラ・プラデーシュ州の主要部分を占め、北辺は、釈迦の国ネパールと境を接し、南はガンジス本流の北岸一帯、東辺は、バラナシ(ベナレス)対岸のラムナガルから、西北辺は、デリー東方のラムナガルのあたりまでを含む地域と考えられる。インド全土の中で、最も気候温和で豊穣な地で、文化史的に見れば、この地は、早くインドの国土に来住したアーリャ種の人達が、壮大な理念を以て、新しい国造りに成功した歴史を湛えている。人はそれを忘却しても、山河はそれを記憶しているだろう。その歴史が、後年ここにアヨジャが出現してくる心地ー精神的基盤ーになるだろう。しかし、それは後にふれることにして、今は、当面の問題を追ってゆこう。

 『西域記』に国に周二十里の大都城のあることを記しているのは、グプタ王朝第三代の英主チャンドラグプタ二世ー後にヴィクラマ・アーディトヤ(勇力の太陽)と号すーが造営したものにちがいない。玄奘は、その城中に世親が生前に所住して、執筆や講説に力を尽くした精舎が存在しているのを、見て、報告している。それによって、世親が終生の活動の本所になったのは、この都城にまちがいない。しかし、玄奘がここを訪れたのは、世親の没後約二百年で、当初のヴィクラマ大王はすでに亡く、その後を嗣いだ数代のグプタの諸王も、北方蛮族の侵奪に脅かされ、ついにアヨジャを放棄して、本領のマガダに退いた。後まもなく、その王統からシーラ・アーディトヤ(戒日王)があらわれて勢力を回復し、領内に、仏教の総合大学ともいうべき広大なナーランダ寺大学を創設して、父祖の遺志を嗣いで、仏法興隆に力を尽くした。玄奘三蔵は、このナーランダ大学に五ヵ年遊学することになった。戒日王は、異国から来た学僧に興味をもったらしく、巡行の途次、わざわざ呼んで声をかけたりしている。

 玄奘は、ナーランダ修学中に、折を見ては、近隣の釈尊ゆかりの地を遍歴して、見聞を記録したり、資料を収集したりしたもようである。その中でも、アヨジャの地に足を踏み入れて、すでに主はなきも、まだ廃墟にはなっていない大都城を発見し、中をさまよっているうちに、たまたま、世親菩薩の、生ける日そのままの精舎ー玄奘は「伽藍samgharama」と記すーが目の前に現れてきた。そのときの玄奘胸中の感動はいかばかりであっただろう。それというのも、玄奘の渡天求法の主目的は、世親一代の新しい人間の仏教学説を、直接、身を以て体得して、これを唐土にもたらすことにあったからである。それゆえ、このアヨジャ大城の発見は、玄奘にとっては、ナーランダ修学の、画竜点睛のような体験になったと言うことができるのではないかと思われる。同時に、それの記録は、後世の我々のために、貴重な証言を遺しておいてくれることになった。

 「アヨジャの大都城」は、ただにインドのみでなく、世界の文明史に大きなかかわりを持っている。特に、日本の飛鳥文化に深いかかわりをもっている。いわば、蒼瞑(そうめい)な大海流を照らす一つの燈台のような意義をもっている。それが今はあとかたもなく、痕跡を見つけるさえ難しい。そうした中で、その現実の姿を見た玄奘の証言は、我々に励ましを与える。そして、今日のインドの地図の上でその位置を探ねさせる。

 玄奘の「アヨジャの大都城」は、今日のインドの地誌で見ると、どこになるであろうか。私は、一つの推定を提言しよう。ーウッタラ州の州都ラック・ナウ(Luck-now)がそれであろう、と。ラックナウから東北へ百五十キロほど行くと「アヨジャ」という名の、静かな田園風景の町があって、鉄道が通じている。これが、昔なつかしいアヨジャの名を、今日にとどめる唯一の場所である。州政府は、ここを叙事詩ラーマーヤナ(ラーマ物語)の記念の地にしようとして、作者ヴァルミーキの記念館を造ったり、ホテルを建てたりして、観光政策を進めている。ここは、玄奘三蔵の見た大都城とは別の場所である。そしてその大都城の今日の姿はラック・ナウにある。この推定の根拠を述べなければならない。(最終章へつづく)

玄奘三蔵:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%94%B5

アヨジャ:http://www1.chugoku-np.co.jp/abom/97abom/inpa50/8/970705.html

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