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2006年5月30日 (火)

梅雨間近

梅雨晴れ間

梅雨晴れ間

梅雨晴れ間

たまねぎは早生と晩生があり、どちらも収穫後、数個ずつくくって陽に干してから、小屋の軒下に吊って保存します。だんだん乾いてくると実がしまるので、くくりひもを途中で結びなおします。写真の大きい梅は豊後梅です。裏庭の陽のあまりささないところに生りました。小梅は先日農協のお店で買ってきて、もう漬けました。(母がです。笑)きのうは、らっきょうをたくさん収穫して、そろえて、あらって、らっきょう酢を買ってきて漬けました。(母がです。すみません)。あまったので、叔母にも分けました。こどもたちが帰宅後、「うわっなんだこの匂いは!」と言っていなくなったのは言うまでもありません。

いま、サツキの花がぱらぱらと、エビネ蘭はひっそり、そして裏の目立たぬところに雪ノ下が咲いています。

  番長も俺も毛深き雪ノ下  穴井 太

はとぽっぽ

  ぽっぽっぽ はとぽっぽ

  まめがほしいか ソラやるぞ

  みんなでなかよく たべにこい

     「はと」   乙骨三郎・作詞

福岡では、こどもが幼稚園から小学校へあがる節目のときに、『はとぽっぽ』を演じます。もしかしたら、全国共通の儀式なのか、そうではないのかを私はよく知りません。小学校の運動会で、プログラムのお昼いちばんに次年度の入学生をあつめて円になり、、曲にあわせて先生や自分の住む地域の上級生のリードで簡単な踊りを踊るのです。その曲名が昔から『はとぽっぽ』なのです。

いままでじっくり考えたことがなかったのですが、「君が代」を国歌にと進言した明治時代の旧幕臣にして儒学者・英語学者の乙骨太郎乙に興味をもち調べるうち、三男の三郎が東京音楽学校の先生であったことを知りました。乙骨家の家風は、とにかく勉強が好きな一族で、子沢山の子のどの子もみな今でいう東大やお茶の水女子大を出ているようなところです。それでいてどの人も、ちっとも構えていないしすかしていない。むかしのことばでいうなら、腰が低いというのでしょうが、この言い方はなんとなく秀吉的で意図的で下心ある感じがしてすきじゃありません。だから・・なんというのがいいのか、私の語彙では表現できません。「名利に恬淡であった」という永井菊枝氏の言葉が、一番ぴたっとあてはまる気がします。

その「名利に恬淡」をもっともよくあらわしているのが、乙骨三郎の童謡の作詞です。この「はと」の歌詞も三郎がつくったものであり、ほかにも多くの名作があります。(「乙骨三郎」参照)。

「はとぽっぽ」をきくと、まずこころに浮かぶのは、一年行った(無理に行かされた)白百合幼稚園の遠かったことと、行きたくなかったこと、ほぼ毎日泣いていたこと、でもお友達が出来てからは行くのが楽しみになったことです。それと、小学校へあがるとき、このはとぽっぽをおどる列に母親から押し出されるようにして加わり、心細さに振り返ったとき、母親が泣いていたことです。

そのときは泣いてたとは思わなかったのですが、あとで何度もその場面が浮かぶたび、あれはやはり涙をふいてたんだなあとおもいました。でもこどもですから、感動して泣くということまでは分からなかった。

その後、自分でも母親になり、毎日なりふりかまっていられないような感じで日がすぎて、一人二人と子を幼稚園から小学校へ送る節目の「はとぽっぽ」のときに、おなじようにこみあげるものがあり、自然になみだがあふれました。

時代とともに歌はかわるけれども、この「はとぽっぽ」だけはかわってほしくありません。その作詞者が乙骨家の人だったことに気づいたとき、なにか大きい暗示をいただいたきもちになりました。

2006年5月29日 (月)

課題句「異」

課題句「異」

    太田 一明・選

       月刊俳句誌『樹(たちき)』6月号より

特選

   地虫出て生き方異なる空がある  佐藤綾子

   花万朶異宗の寺々巡りけり     井上ちかえ

   燕来る異郷にむすめ置いたまま  田中 恵

佳作 

   しばらくは異姓でいいよチューリップ  小森清次

   「異議あり」の声する方へ紋白蝶    古永房代

   梅雨寒や異議あり夢の中の挙手    依田しず子

   朧夜の坂の途中は異人墓      林 照代

   亀鳴く句俎上に異議のあれやこれ   木村賢慈

   異文化も手真似で通じ花の道    太田つる子

   山桜異彩放って極まりぬ      猪ノ立山貞孝

   山ざくら異教石像二十六      竹原ときえ

入選 

   菜の花や遠くに白き異国船   宮川三保子

   異母姉妹同じリュックの春休み  阿部禮子

   諳んずる句も異口同音花の下   堀井芙佐子

   春の雷人事異動の割れガラス   広重静澄

   水彩展異才を放つ玻璃若葉    神無月夜

   枳殻垣のぞいてみれば異人かな   姫野恭子

   満開の桜の下に何の異もなし    島 貞女

選者吟

   風光るいつでも異議のない小腹   太田一明

主宰吟 

   異端とはあるいは鬼才花は葉に   瀧 春樹

ゲスト吟(今回は間に合いませんでした。佳句を戴きました。) 

   ためらいの卯の花腐し異邦人     斧田千晴

 

課題句作品募集:太田一明 選

課題の文字をよみ込み、有季定型未発表句。 

一課題ごとに三句まで。締切厳守。

次号 「魚」 6月20日締切 樹8月号掲載

    「口」 7月20日締切 樹9月号

会員外の方々の投句をお待ち申し上げます。通りすがりにうた投げ入れよ梅雨の空。

選者・太田一明氏は若き日に伝統俳句結社「自鳴鐘」にて研鑽をつまれ、のち瀧春樹主宰と出会われて「樹」に入会された句歴30数年のベテラン俳人です。句集に『花茣蓙』あり。

 日本の塩は海塩初明かり    太田一明

 水仙やじわりじわりと国腐る    〃

 さくら咲くまでの一年ねむりたし  〃

参照・横山白虹(よこやまはっこう。故人)

 ラガー等のそのかちうたのみじかけれ  横山白虹

    ・http://www.hb-arts.co.jp/000901/tsuido.htm

    ・http://nantosei.hp.infoseek.co.jp/akira03.html

連句的参照:

   白虹:http://www.kumagaya.or.jp/~carl/bow/index.htm

   蘇軾:http://zyh.cocolog-nifty.com/xinsheng/2006/04/post_f258.html

※何の断りもなく引用を始めましたが、選者の知るところとなりました。太田氏は「順位をつけるのは不本意であり、毎月ストレスがたまる」そうです。笑。お察しいたします。でもどうか続けていただきたいです。課題句は楽しいです。きっと川柳家もそうだろうと思うのですが。(川柳の鍛錬はこの手法ですから。)それと、これは『樹』本体をご覧戴かねば分からないのですが、このコーナーには毎号、書が付されていて、それがとても楽しみなんです。今月は十一世紀宋の詩人蘇軾の、非常にエレガントでのびのびとした「異」の字を見ることが出来ます。書家でもある瀧春樹『樹』主宰の企画であり采配によるのですが、ただ一字のことなのに、古い時代の書がここに置かれることで、全体がぐっと引き締まり、自由な時空枠を獲得するから不思議です。

先日、『樹』で月評を担当されている鍬塚聰子氏から俳句誌『豈(あに)』を7冊も戴きました。一冊をはらりと開くと、そこに筑紫のいわいと同名の俳人の評論があってつい読むと、非常に共感する内容にうれしくなりました。(「豈」40号)。ことに、優れた読みは作者自身さえ気づかぬ点まで指摘してくれるというところ、全くその通りです。筑紫磐井氏は桂信子の山口誓子評を誓子自身がそういって驚嘆したと紹介されていたのですが、『樹』でも鍬塚氏の読みが深く鋭いと同人の澄たから氏等から驚きの声がきかれます。私も以前、広重静澄氏の結婚祝賀と戸畑の弥勒句会(美禄句会)100回祝賀句会が小倉であったとき、樹の若き同人・宮本千賀子氏の感覚的な句を評してズバリ作者の心情を言い当てられた鍬塚さんにとても驚きました。 

それと同様のことを太田一明氏の選評でも感じます。以前、拙句「薬袋(やくたい)に仕舞ふ真冬の星一顆」を評して、この星は花や野菜の種であるとおもった、自分の母はよく薬袋に種をしまっていたからだ・・と読んでいただいたときに、おなじことを思いました。そしてそういえば、我が家のねんねばあちゃんもそうだった、薬袋に入れた種をよく郵便受けに入れてたなあと、忘れていたことを懐かしく思い出しました。まさに読み手の数だけよみがあり、詠み手の数だけうたがある。俳句はよみての潜在意識を刺激し総動員する、まさに日本独自の「お委ね文芸」だと思います。

2006年5月28日 (日)

父と夫

うちの父と母はとっても仲がいい。昭和四年と五年生れだが、いま、どちらも76歳である。

もう七年ほどになるか、先に父が大正琴を習い始め、二年後に母もそれに加わった。純粋にボケ防止である。上手になろうとかおっしょさんになろうとか、そんな野望を抱くには年をとりすぎている。それが最近年に一度の発表会に出るのをイヤがり、それを苦にし始めたころ、おりよくお仲間が病気とか看取りとかで辞められた。わたりに船とばかり、二人は辞めた。つい先月のことだ。

父は若いころから歌が好きだった。演歌とポップスである。父のひそかな夢は、NHKののど自慢にでることだったが、とうとう叶わぬままいきそうである。笑。でも、年に一度はクラシックギターが趣味の弟(70ぐらい)と甥(自称叔父の弟子、58ぐらい)と一緒に演奏会をひらく。といっても、たいそれたものじゃない。ただ、好きな曲をギター組が爪弾き、父はマイクを持ってカラオケみたいに歌うのである。あとは世間話とお酒。

以前びっくりしたことがあった。いとこの結婚式のとき、父が歌う歌を聞いた。平尾昌晃の「アメリカ橋」を気持ちよさそうに歌うではないか。そんな歌、私は知らなかったので、口あんぐりだった。どっからそんなに耳ざとく曲を仕入れてきたんだろうと今でも不思議だ。

私の父は戦争のため農学校を中退している。無学な百姓であった。馬鹿正直でくそまじめな百姓であった。高度経済成長の時代、伯父の世話で筑後の小さな化学薬品を扱う会社に勤める。以後勤続三十年。八時から五時まできっちり時間通りに働き、家では母が一人でやっていたイチゴ栽培や米づくりを手伝い、今に至る。お酒を少し嗜む程度でギャンブル、女、一切しない。母一人である。ああなんか、こうやって書いてる私のほうが切ないくらい、まじめなおとこである。

そんな父を見て育った私が結婚した男は、普通のサラリーマンだった。いや、ふつうよりガッツがあるのかもしれない。私は一度も外に働きに出かけたことがないからだ。夫の稼ぎが多いわけじゃないのだが、外で働きたいというきもちになれないでいる。教育費を思って、お勤めしなきゃという強迫観念に囚われるときもあるけども、なぜか追い込まれてからにしようと逃げてしまう。

夫はいま、単身赴任で、結婚以来はじめての自由な独身生活をエンジョイしている。なにしろエンジョイだ。笑。それが、よかったわねえと妙に夫のきもちで大目にみてやれる自分がいる。四十代はつらかったけど、あきらめるとは、こういうことなのかとありがたい。

いつもいつも、家族のために働いてくれるおとうさん、ありがとう。え、なに?(自分があそびたいためだよって言ってる。笑)

参照:平尾昌晃http://hirao-masaaki.co.jp/

※昨日今日と数度三月四日付けの「ミッドウエー海戦」に興味深いコメントを戴きました「利華」様ですが、その後のやり取りで「麻場利華」様と判明しました。プロの音楽家、ヴァイオリン奏者です(京都在住)。プロのかたですので、きっちりお名前とお仕事をご紹介すべきと思いました。ちょうど戦死された大叔父様が床屋だったとおっしゃったことから、甲斐よしひろ(家業は床屋さん)の自伝「九州少年」を連想したんですが、その甲斐さんの曲「裏切りの街角」はイントロに「紫のタンゴ」を拝借しているということを自伝で打ち明けておられたんですよね。そういうこととも見事に連結しており、ふしぎな縁を感じます。

参照:http://www.broad-web.com/mark/events_new/astro/

   :http://www.syoubei.com/htm_folders/2006folder/vol34_060115.htm

2006年5月27日 (土)

種おろし

種おろし

種おろし

種おろし

五月二十日の種浸しからようやく発芽した籾種を今朝はパレットの苗床に蒔きました。。上から順に、培土だけのパレットに充分な水をまき、商店街のくじ引き機みたいな機械で取っ手をぐるぐる回して種を土におろしまして、覆土をし、最後はきれいに並べて、鳥から籾を守るために黒い寒冷紗(かんれいしゃ。たしかこの字と思いますが)で覆う。暑い日は一日に三回は水遣りをして毎日田植えまでこの農の庭で管理する。去年この作業を七十五歳の父母と叔母と私の四人でやっていたら、となりのおじさんがチャチャを入れに来てくれたのを思い出しました。とっても元気だったのに、ことしはもういない。父母は七十六になり、いよいよ来年はもう苗作りはだめかもしれません。休憩をはさみながら、なんとか終わりました。ほんの少しですが。やれやれ。(おばさん、いつもありがとう。)

2006年5月26日 (金)

雨のふる日に

今朝、中二の次男が試験のため少し早めに学校へでたあと、ふりはじめた雨が強弱をつけてやむことなく降りつづいている。

きのうは単身赴任の夫がすむ街、佐賀へいき、おひるを一緒にたべようと誘ったけど「月末は忙しい」とにべもなかった。米と収穫したばかりのジャガイモ・たまねぎを二個づつ持っていく。しきっぱなしの布団を片付け、シーツやカバー類を洗濯。洗濯機のなかには洗ったばかりの洗濯物があった。

ふとんを干して、まくらを干して。自分用昼ごはんは、マルキョウで買った粉末ケチャップソース付きの茹で麺スパゲティ(商品名忘却、新製品。新製品だいすきなんで)に、持ってきたたまねぎとにんじんとソラマメの茹でたのを五粒入れて、にんにくスライスと一緒に炒めたのを食べる。麺に歯ごたえがあってイケるけど、こういうの、味濃い。佐賀のマルキョウは八女のに比べると魚が充実しているので好きです。

時間がどんどんすぎる。アイロンをカッターシャツ五枚にかける。テレビをつけると、おおっおくさまドラマをやっている。なつかしい。今陽子とか出てる。脇役のおばばです。でも、あいかわらず内容がどぎついなあ。ふりかえれば、私が小学生のころから「よろめきドラマ」とよぶ昼メロは存在した。小5のころファンで一目散に下校し見ていた。題名も覚えてる。だけどいわない。笑。(主役は細川俊之で鼻のよこのもりあがったほくろが印象的だった)。こどものときはみてたのに、いまはみたくない。なんでだろうか。

ふっと、鍬塚さんちの猫ももたろうのことをおもう。あれは必死で孤独に耐えている姿なのかもしれない。脈絡なく猫の姿が浮かぶなんて。とってもとってもさびしそうなねこのすがた。鍬塚さんは男女四人のこどもさんたちを全員大学へやって立派に育てあげられた、いまどき珍しい賢母である。乙骨太郎乙一族のものがたりを書き写しているときも、鍬塚さん一家のことが浮かんだほどである。先日、戸畑の鍬塚さんちで初めてお会いしたご主人の姿と愛猫ももたろうの姿が、わたしのなかでなぜか重なってしまうのだ。それはこどもたちがみんなはばたいてしまったあとのさびしさを、無言のうちに漂わせておられるからなのじゃないか、といまになって思い至る。俳人は表現していくぶんか発散できるけれど。

 碑(いしぶみ)の数へきれない冬日かな  鍬塚聰子

穴井太句碑除幕式での句だそうである。深い余韻をのこす名句だ。

2006年5月24日 (水)

天魚先生のことば

 『雪女』の問題

             眞鍋 呉男

 俳句の歳時記には、まま、不思議な季語が残っている。冬の季語としての「雪女」「鎌鼬(かまいたち)」「竈猫(かまどねこ)」などはその数例にすぎぬが、宇宙ロケットによる月面への到達さえ可能となった今日、「雪女」や「鎌鼬」の実在を信じている人は、もうどこにもいまい。「竈猫」の存在が、すでに過去の事象として忘れられかけていることも、事実であろう。しかし、それではなぜ、

  雪をんなこちふりむいていたともいふ   素逝

  御僧の足してやりぬ鎌鼬          虚子

  何もかも知つてをるなり竈猫        風生

というような句が、われわれの源泉の感情を揺り動かさずにはおかぬのか。

 それには、なるほど、零落した信仰の残滓のせいだとか、雪を豊年の瑞祥として眺めてきた農耕的な心性のせいだとか、少なからぬ理由が考えられよう。

 しかし、だからといって、これらの季語を生みだすに至ったより根源的な契機が、われわれの生命の母胎としての自然への畏敬にほかならなかったことを見おとすならば、その眼は節穴にひとしい、と言われても仕方があるまい。

 即ち、そういう本質的な意味では、「雪女」や「鎌鼬」や「竈猫」などは、時代錯誤的であるどころか、むしろ、最も未来的な可能性を孕んだ季語中の季語だ、といっても過言ではない。また、その本有の意義は、ほとんど上代の詩歌における歌枕の意義に相ひとしい。

 なぜなら、山本健吉氏もその画期的な労作「歳時記について」(『最新俳句歳時記』文春文庫版所収)で指摘しているように、上代の詩歌における歌枕は、生命の母胎としての「土地と、土地の名と、土地の精霊」をたたえるための特殊な表現だったからである。ただ、この両者に相違があるとすれば、前者は主に時間を基準として分節されているのに、後者は空間を基準として集約されている、という一事にすぎない。

 これを要約するに、「雪女」や「鎌鼬」や「竈猫」などによって代表される季語は、時義通り、われわれの蜉蝣(ふゆう)の生命を長大な時空に向かって解き放つための卓抜な発明であり、昇華装置にほかならない。のみならず、われわれの先人たちがこういう昇華装置を設けたのは、無論、詩歌の世界の中だけではない。たとえば彼らは竈のうしろには竈神を祭り、邸宅には夢殿を設け、村落には鎮守の森を造成した。中世の社会では草庵を営み、内裏の清涼殿には鬼の間を造り、荒海障子(あらうみのそうじ)には手長足長を描いた。

 ところが、かつて御歌所の講師をつとめたこともあるという坊城俊民氏は、さきごろ竣工した皇居の新宮殿を評して、「新宮殿には鬼がいない」と言っている。つまり、新宮殿に象徴される現代の文明には鬼がいない。雪女もいなければ、手長足長もいない。ということは、現代の文明や社会から自然への畏敬が失われかけていることを意味しているのではないか、というのである。

 はたしてしからば、影も形も不鮮明な、こういうノッペラボウな文明は、われわれにいったい何をもたらすのか。それはたかだか、柳田國男のいわゆる「迷ひも悟りもせぬフィリステル」(「妖怪談義」)の大群を放(ひ)りだすだけであろう。その結果、自他の生命に対する軽視と、自然の激烈な復讐を招来するに至るであろう。

 それにしても、われわれの生命の母胎としての人智を超えた自然への畏敬を失わせるような文明とはいったい何であるのか。

     平成壬申一月二五日

                  

   「雪女」再考

         ― 定本化に際して

      M-物言ふ魂に

   雪女見しより瘧(おこり)をさまらず

         (句集「雪女」序句)

 わが国の昔話や俳諧などによって伝承されてきたいわゆる「雪女」は、前近代の豪雪地帯における雪の猛威から生まれた幻想だという。しかし、私をして忌憚なく言わしむれば、この種の妖怪の本質は、新しい詩と宗教と科学に分化する以前の混沌とした、それだけにきわめて創造的なエネルギーのかたまりのようなものであろうと思う。

 それで思いだしたが、檀一雄さんがまだ健在だったころのことである。車で新潟まで十七号線を北上したことがあるが、その時の案内役であったSさんの、

 「高橋お傳や塩原太助、それから磔(はりつけ)茂左衛門や國定忠治の在所もこの沿線ですよ」

 そんな話を聞いているうちに、いつのまにか、爪に火をともすような忍苦の一生を送るか、蓆旗(むしろばた)を立てて決起するか、それともアウトローとして世間の裏道を歩くかーさながらそのいずれかを択ばざるをえないような、当時の荒涼たる現実の中にタイムスリップしてしまって、

 「こんな所で思春期を迎えた多感な少年が、くる日もくる日も天地を埋めつくさんばかりに吹きすさぶ吹雪のなかに閉じこめられているうちに、ふっとうつつに雪女を見てそのあやしい魅力に取りつかれてしまったとしても、すこしも不思議ではないではないか」

 身にしみて、そう思ったことを覚えている。

 いずれにせよ、われわれの先人が創出したこの「雪女」という秀抜な形象には、自他の生命の母胎としての自然と女性に対する憧憬と畏怖の念が見事に総合されている。また、だからこそ、必ず「抱かれれば死ぬ」という話が付随しているのである。

 ところが、私はある読者から、掲出の、

 「この句集の序句には献辞がついている。してみると、作者は現代にも雪女がいると思っているのか」

 そんな意味の疑問を、友人を通じて伝えられたことがある。

 無論、雪女は現代にもいる、と私は思っている。生剥(なまはぎ)も座敷童子(ざしきわらし)もいると思っているが、それはいったいなぜなのか。

 柳田國男はその名著『妖怪談義』のなかで、次のような聞書を紹介している。

 「明治四十三年の夏七月頃、陸中上閉伊郡土淵村の小学校に一人のザシキワラシが現はれ、児童と一緒になつて遊び戯れた。但し、尋常一年の小さい子供等の外は見えず、小さい児がそこに居る此処に居るといつても、大人にも年上の子にも見えなかつた」

 これを要するに、

  すべての見えるものは、見えないものを表徴している。

  聞こえるものは、聞こえないものを表徴している。

  感じられるものは、感じられないものを表徴している。

  だから、おそらく、考えられるものは、考えられないものを表徴しているのであろう。

                   (ノヴァーリス)

 ― というのが私の答であるが、私はこの箴言を思いだすたびに、どこからか、(この世のことなに一つとして「あやしからざるはなきぞとよ」)という本居宣長の嘆息が聞こえてくるような気がするのである。

    ヘルメットぬげばあの夜の雪女

  平成戊寅弥生吉日   

          天魚  眞鍋呉夫

 ※いずれも 『眞鍋呉夫句集 定本雪女』 (邑書林)所収。

荒海障子:http://sano-a238.hp.infoseek.co.jp/history-tategu3.htm

清涼殿鬼の間:http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_seiryoden.html

手長足長:http://www.sakaiminato.net/site2/page/guide/point/miru/mizuki/youkai/ashinaga/

高橋お傳:http://www.geocities.jp/saiyuki0419/oden/NOx0.htm

塩原太助:http://www.geocities.jp/enza2002jp/edo-dou7.htm

磔茂左衛門:http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page115.html

國定忠治:http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0810.html

真夜中にゴミを出す人

   真夜中にゴミを出す人 

                 姫野恭子

 真夜中にゴミを出す人

 電信柱の傍にうずくまる

 黒いビニール袋の塊たち

 

 街が眠っている

 昼間 車の喧噪に充ちていた通りに

 走り過ぎる車はまばら

  

 ガソリンスタンドもパチンコ店も

 喫茶店もアドバルーン工場も

 フェルト倉庫も郵便局も

 みんな地面にひっそりとうずくまる

         真夜中にゴミを出す人

         星空はいつしか忘れた

         見あげても 星を探せぬ夜々

         コンクリートの中で錆びつく

         銅色(あかがねいろ)の魂

 

         プランターの中で

         アリマキに蟻は忍び寄る

                 (1990夏-博多区那珂)

2006年5月23日 (火)

お茶摘み後

お茶摘み後

お茶摘み後

お茶摘み後

5月20日撮影。4月21日,28日付写真とおなじ場所(八女市岡山)。

連句作者・眞鍋天魚の句

先日、俳人・連句人の鍬塚聰子氏から聞かれた、眞鍋呉夫の「花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく」はいつの作かという問いですが、きのうの引用文では答えになっておりませんでした。そこで再度探しましたところ、ありました。わかりました。昭和62年10月号の『俳句四季』掲載の「眞鍋呉夫の句」(那珂太郎)が『定本雪女』(邑書林句集文庫、1998年)に収録されており、そのなかで語られております。

  眞鍋呉夫の句 

         那珂 太郎

 二、三年前から天魚子眞鍋呉夫に誘われ、佐々木基一(大魚)、野田眞吉(魚々)両氏を交へた通称魚の会の連句の座に加はり、三魚氏の驥尾に付して自ら黙魚と名のって、歌仙や胡蝶を試みることになった。近頃は作家夫馬基彦(南齋)氏も参加しいよいよ賑やかとなったが、数箇月前の「俳句四季」に佐々木氏によって胡蝶「傀儡の巻」が紹介されたことがある。

 日頃物を書くのは密室での孤独な作業だとしてきた私など、一座の人々の興味津々たる座談の方につい気をとられがちで、句作に集中できず、人前で即座に付句をなすのがいかに難儀なものかと思ひ知らされ、連衆に迷惑をかけること屢ヽである。そんなとき宗匠の天魚子は、捌きを兼ねながら当意即妙の句を生み、しかも前句から鮮やかに飛翔し、場面を転換して滞りをやぶるところ、感嘆させられるばかりだ。たとへば、

  酒酌みつ一期一会をいとしみて   魚々

    鴉がつつく辻堂の軒        黙魚

  夏の月こんなところにドラム罐    天魚

 やや古風な打越と前句との付合を一転させて、当世風の「ドラム罐」を出し、しかも「こんなところに」のくだけた口語調で次の展開への自在感をしつらへ、あるいは、

  ビル街の歌声酒場跡もなし      黙魚

    二度ベル鳴らす郵便配達     大魚

  瀧口に押し流さるる夢を見て     天魚

 ヴィスコンティの映画を面影とした前句から、「二度ベル鳴らす」の勢ひを受けて「押し流さるる」といふ激しい恋を暗示的に匂はせ、しかも多義的にいか様にもよみとれる夢のイメェジを紡ぎ出し、あるいは、

 こぶこぶのこぶしのやうな蒲萄の樹  黙魚

    橋の上から用を足す月      大魚

 UFOを見に行つたままゐなくなり   天魚

 月からきはめて現代的なUFOを導き、漂泊と不在の感を醸して諧謔と奇異な現世離脱の意識を匂はす。思ひ切った想像力の飛躍と、「虚」の中にこめられた「実」には驚くほかない。

 ところで天魚子は連句ばかりでなく、俳句作家としても非凡独特の才能の人である。かつて飯田龍太氏がその著『龍太俳句鑑賞』で、「露の戸を突き出て寂し釘の先」を採り上げ、「親殺し子殺しの空しんと澄み」、「月天心まだ首だけが見つからず」、「水漬きたる兵士ら還りきし月夜」を列挙したことがあるが、俳壇一般ではどれほど天魚子の句は注目されてゐるだらうか、いささか心許ない。

 今日、俳句作家の多くはなんらかの形で結社に属してゐる。といふより、極言すれば結社に属さなければ、俳句作家として登録されないと言つていい位である。そんな中で天魚子はどんな既成の結社にも属さず、独立独歩の句境を展いてゐるのだ。前記魚の会の連句では、中途で時間切れになるとあとは文音で満尾することがあるのだが、そんなとき、天魚子は付句と別に、必ずといつていい位発句を墨書してくる。あるいは他用の手紙のあとにも、しばしば句を書き添へてくる。最近もたとへば、

  花冷(はなびえ)のちがふ乳房に逢ひにゆく

 の一句が書かれてきて、ぎよつとさせられたものである。句中に物語が籠められてゐて、読者の想像に挑撥的にはたらきかける。「花冷」の季感と、中年の秘事密会ーひめやかな恋情とがうまく照応し、「ちがふ乳房」といふ言ひ方がなんともにくい。

  望(もち)の夜のめくれて薄き桃の皮

 これも、艶な季感と物の質感がみごとに捉へられてゐるが、単なる季感や質感にとどまらず、かなり濃密なエロティシズムを漂はせる。私など、鈴木清順の名作「ツィゴイネルワイゼン」の一場面、大楠道代が爛熟した桃を舐めるところを唐突ながら彷彿させられたが、かういふところ、いかにも小説作家の俳句だと思はせずにはおかない。物語的なものを内蔵する浪漫的な句が天魚子には多い。

  春あかつき醒めても動悸をさまらず

 これは「密会」と題する一連の作中に置けば、いや単独句としてよんでも、明らかに恋の句である。しかし、あの西行の、「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさはぐなりけり」を当然のこと連想させ、これをおもかげとすると、多義性重層性を帯びて、恋の句であると同時に無常の句ともよめるのである。

 かういふ浪漫性はじつは彼の弱年期からの資質特性といつてよく、彼にはつとに昭和十六年、十八歳から二十一歳までの句を蒐めた『花火』といふ句集一冊があるが、すでにそこでも、

 秋空へ人も花火も打ち上げよ

 解剖の女体廊下を曲りくる

 恥毛剃る音まで青き夜の深み

 くすり嚥むより青鳩一羽よぎる虚空

 わが性はさびし運河に放尿す

 虹ひくし少女溺れし川の上

 秋は雨降り少年の白靴(くつ)汚れたり

 するどく感覚的、かつ浪漫的情感をもつ。これが約半世紀も昔の、二十歳前後の作なのだ。

 近年の作でも感覚の鋭さもまた変らないが、「刺青の牡丹を突つく鱵(さより)かな」「聖なるかな(サンクトウス)夜明け青きに喘ぐ口」など浪漫性の際立つもの以外にも、

 白魚の腸(わた)透き見ゆるあはれさよ

 葱剥(む)けば光陰ひそと光りすぎ

 月に透き感じる竹となりにけり

のやうな伝統的な細みに通ふ句もあり、また、

 月光を頭に溜めて死んでゐる

 金庫運ぶ生き馬の眼ががらんどう

 夢の世に菱の焼酎盛りこぼし

などの想像力による独得の把握、さらに、

 防毒面かぶつた我とすれちがひ

 荒縄で己が棺負ふ吹雪かな

といつた自己対象化による、主観句とも客観句ともつかぬ、諧謔的でしかも不気味な句もある。

(本原稿は「俳句四季」昭和六十二年十月号に掲載された「眞鍋天魚の句」を改題、一部加筆・訂正したものです。)

    (『雪女』初版本に栞文として挿入)

 鍬塚聰子氏のホームページ:http://satokono.littlestar.jp/

 (もうすぐ、地道に続けておられるこどもの日記のひろばだよりが500回になるそうです。ホームページの表紙は虹です、彩雲という滅多に見られない虹を、去年五月五日に見られて写真に収められたという、貴重なもの。)

  

2006年5月22日 (月)

恋の語彙 3  眞鍋呉夫論

 花冷のちがふ乳房  眞鍋呉夫論 

           宗 左近

     『眞鍋呉夫句集』 宗左近編(芸林21世紀文庫)より

 二十一歳の第一句集”花火”に並んで現れる二句を、順序をさかさまにして、書き写す。 

  ひとりぼつち雲から垂れたぶらんこに

  かなしみつのりくればしろぐつはきもあへず

 この「ぶらんこ」は、雲にしか繋がれていない。この捉えかた、それだけでわたしはもはや感動する。その通りだよ、タマシイは。わたしの中のものが、強く共鳴する。そして、空中に揺れている「ひとりぼつち」に強い眼差しを送る。すると、白い素足の光が鋭く目を搏つ。ああ、とわたしは声をあげる。

 白い煌きは、白い煌きを拒絶するのか。純潔は、おのれ以外の純潔を排除するのか。その悲しみの極まりは、もう一つの悲しみの極まりを否定するのか。

 なるほど、ここに不思議なことがある。眞鍋氏とわたしは、ともに大正十五年に小学校へあがった同学年である。まったくの同時代。そして、同じ福岡県の生れで育ち。十八歳からの三年あまりは、学校は別にしろ、会うことはなかったにしろ、同じ東京で青春をすごしている。

 その中の二句、「雲から垂れた」と「しろぐつはきもあへず」に、その六十年以後のわたしは感じいった。何に?呉夫青年の青春の生々しい生体に。そして、そこに並ぶわたしの青春の、同じく生々しい死体に。

 だが、なぜ、むこうの青春は生体で、こちらの青春は死体なのか。

 十七歳からほぼ十年間のわたしは、かなり激烈なニヒリストであった。自己の、否定というよりは虐殺こそが生きる目的にほかならなかった。美と心中するのが、念願であった。詩に、熱中した。しかし、それは詩を扼殺するのが目的であった。純潔が、美の別名であった。それを、見つめて、おののいた。しかし、それは、純潔を破壊したい衝動を抑えたいために外ならなかった。

 では、呉夫青年の純潔はおのれ以外の純潔を排除するのか。その悲しみの極まりは、もう一つの悲しみの極まりを否定するのか。その通りである。ただし、その排除と否定の時の相手の痛覚と悲しみをいつまでもおのれのものとする。つまり、永続してやまない加害意識に犯されて終ることがない。だが、それを直截には表現しない。ほとんど相手と合体し、相手そのものとなって、表現する。

 『花火』の次の三句は、相手になりかわってのその独特な加害者感覚をよく表現している。

 狂ひたる少女の胸よ光あふれ

 聲出して哭(な)くまい魚も孤獨なる 

 わがひとの不幸のほくろやみでもみえる

 つまり、被害者である相手を、そのまま無害者として蘇らせる愛が働き出る。そして、それが、加害者である眞鍋青年を、おのずから救済するのである。当人は気づかないかもしれないけれど、宗教者のものに似た愛の働きがあるのではなかろうか。

 もともと、眞鍋青年は生と死の二つの同時共存に敏感である。その双方に強く魅かれる。その何よりもよい例が、句集の題名にもなった存在、花火。

 花火上りまた上りわれむなしきに

 咲くことが散ること。炎えることが消えること。昇ることが落ちること。生きることが死ぬこと。それらの生と死の二重同時存在=美。

 その美の言語化による端的具象化、それが『花火』上梓のほぼ半世紀後の、一向に老いることのない眞鍋青年の鋭い念願となる。そして、句集『雪女』(やがて暦程賞および読売文学賞を受賞)が生れる。

 『花火』との違いは、はるかに広く深まっている自然と人間への愛情である。

 白地着てひと恋しさに耐へてをり

そして、人間の魂そのものを見る眼力が鋭く光りを増してきている。

 生身霊(いきみたま)青蚊帳ぐるみ透きたまふ

 白桃を映せしあとの曇りをり

そのうえ、この句集には、題名通り、人外の存在、人間と非人間の合体の超越存在、雪女が登場してくる。その三句をあげる。 

   M-物言ふ魂に

 雪女見しより瘧(おこり)をさまらず

 雪女溶けて光の蜜となり

 うつぶせの寝顔をさなし雪女

「瘧をさまらず」とは、身体の震えがやまなくなったとは、つまり雪女に取りつかれてしまったということ。しかし、なぜなのだろうか。雪女が、生と死の、この世とあの世の、二重共時存在であるからである。つまりは、おのれが、その二重存在であると知って以来、もう一つの二重存在(=雪女)と合体しないことには、おのれの世界が自立できなくなるという脅えに、日夜悩まされるからではなかろうか。

 異常?病気?惑乱?いいや、これこそが、人間の本来なのである。

 しかし、それを語る前に、句集『雪女』以後に書かれた雪女をテーマとする句を、年代を問わすに列挙する。

 雪をんな打身の痕(あと)のまだ青く

 雪をんな魂(たま)ふれあへば匂ふなり

 雪女抱けば吹雪の音がして

 雪女くるらし鷺の蓑毛立ち

 雪女あはれ鵠(くぐひ)の頸を秘め

 雪を来て恋の躯(からだ)となりにけり *

 密会の腕のしびれや夜の雪 *

 水晶の中の光が憔悴す *

 夜の雪やラムネの玉は壜(びん)の中 *

 足跡のかすかに蒼し雪女

 雪女いま魂触れ合うてゐるといふ

 ヘルメットぬげばあの夜の雪女

 非在=想念の雪女が次第に現前化されてきている。雪女からの愛が届いてくるからである。相手もまた切なくなってくるのである。ただし、嗅覚、聴覚、觸覚。それの働きが主である。視覚=文明光線のもとにさらされると、一挙に非在化してしまう。白い闇=雪のなかの生きものだからこそ、匂い立つ肌をもつ女性(にょしょう)。

 *印をつけた四句は、素直に受けとめれば、雪女の句ではない。しかし、雪女を詠んだと取ったほうがはるかに面白い。憔悴した水晶の中の光=雪女なのである。そうであってこそ、妖しく白い関係が匂い出る。そして、半透明のラムネの青い壜の中の透明の、やはり青い玉こそが、文明のなかに閉じこめられている天然(?)の生きもの、それぞ眞正な大自然の歌、詩のみの生んだ純正なタマシイの生きもの、非在の想念=想念の非在の光、雪女なのである。

 しかし、純潔でありたいために純潔そのものをも拒む〈花火〉であり続けた八十歳青年は、ついにある日、抱きしめていた非在を突き離して、日光をあびても溶けない少女として実在化する。その実に美しい作品をもう一度書きたい。

 ヘルメットぬげばあの夜の雪女

そして、この句のそばに、たいへんわたしの好きな一句を並べる。

 花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく

ああ、一つの「ちがふ乳房」こそ、雪女なのである。そして、変らぬ眞鍋青年の俳句なのである。つまり、ここにあるもの、それが眞正の詩なのである。

 わたしは、いま、あらずもがなの数行を書き加えて、小さな花束を編み終えることにする。

 意識下への無痛覚こそが、文明である。

 人間の独特の痛覚こそが、思想である。

 無意識世界の記憶こそが、創造である。

 したがって、蘇える祈りの自殺体、それが詩でなくてはならない。

  ※底本:句集『花火』昭和16年、こをろ発行所刊。

       句集『雪女』平成十年、邑書林刊。

   『眞鍋呉夫句集』2002年4月1日初版発行より引用。   

           

2006年5月21日 (日)

玄奘と九条4ー阿踰闍行

『世親唯識説の根本的研究』(稲津紀三著)より引用。

  八  遍路行の終極(Ⅰ)

   ― 阿踰闍(アヨージャ)への郷愁

 私の遍路行には、しばしば触れたように、大きい目当てが二つあった。その中第一の世親一生の活動の場所については、幸い玄奘三蔵の『西域記』の記録によって、その所在が明瞭になる。即ち、「周囲二十里の大都城」で、玄奘は、その城中に、世親が生前に止住した精舎を面(ま)のあたりに視たことを証言してくれる。それによって、われわれはその「大都城」を今日のインド地誌の上に見つけさえすればいい。また、その「大都城」は、インドに最盛期をもたらしたグプタ王朝第三代の英主、チャンドラ・グプタ二世ー後にヴィクラマ・アーディトヤと号すー大王の造営したものにちがいない。そこまではわかっても、その大都城は、今日は影も形もない。その影でも見つけられれば文化史上の大きな貢献になるだろうに、と思っていたら、執念というか、どうやら、それらしいものが形をあらわしてきた。見ると、それは今日のインド連邦のウッタル・プラデーシュ州の州都ラック・ナウらしいのである。

 思うに、グプタ朝の首都として栄えたそれだけの大都城が、一旦の異変で跡かたも無くなってしまったのは、もっぱらイスラム教国の侵奪によるものだった。その破壊は激烈をきわめ、寺塔の破壊から、経巻の焚焼、僧尼の虐殺と、その暴戻(ぼうれい。乱暴で、むやみに人民をいじめること。新明解国語辞典ー姫野註)は、今に語り草になっている。特に仏教的気風を憎悪したらしい。彼らは、左にコーラン右に剣の信念に立つから、破壊はコーランの恩み(めぐみ)を与える方便になる。殊に繁栄した都市は侵略者の好餌になる。その上そこは、すでにグプタの王が放棄した王城なので、抵抗を受けることなく、恣しいままに破壊行動を加えることができただろう。それを考えると跡かたもなく潰滅した原因がよくわかる。そして、侵略者はその手に入れた都市の後に自分の住みよい都市づくりをするのが常で、イスラム教徒は、その同じ場所にイスラム風の都城を造営して、これをアウドゥ(Oudhu)と名づけ、ムガル大王の一族の某が居城にした。アウドゥはおそらくアヨージャのアラビア風の発音であろう。この推論が当っているとするなら、アヨージャの世親の精舎はアウドゥ市の下に眠っていることになる。その後、英国の殖民政策推進機関になっていた東印度商会がインドの支配権を掌握し、ムガル王国はタジマハルの遺跡を残して亡び、アウドゥ王は降伏して英国の支配に協力することになった。その後、インドに「セポイ・ミュティニー」[セポイ=インド民兵の叛乱]とよばれる事変が発生し、その鎮圧の過程のなかで、アウドゥの市名が[ラック・ナウ]に変わり、第二次大戦後のインド独立の新しい行政区割りによって、現在はウッタラ・プラデーシュ州の州都になっている。

 この市名の変更については、おもしろい挿話がある。

 セポイの叛乱については、インドでは政府筋も含めて一般に、独立運動の実力行動の発端になった事変として、これを是認し評価している。今日では、対内外的な配慮から”セポイ”の表現をとらないで、その年代を数字で示して”あの時”とよんでいる。その事変の事実関係についてはインド史のどこにも出ているが、タゴールの父デーヴェンドラナート・タゴールは、隠遁の志に引かれて、ヒマラヤ山麓のシムラに行っていたとき、その叛乱に遭遇し、それが精神的に大きい転機になって、世を救う新しい祈りを以て、カルカッタの自家に帰って、後半生の聖願に生きることになった経験を、その自伝(アートマ・チャリタ)に書いている。拙訳があるのでご参照いただきたい。彼はイスラム文化に変わったアウドゥには興味がなかったから、カルカッタに帰る途次その附近を通るけれども、それには触れていない。

 しかし、アウドゥは相当大きい都市で、英人や英軍部隊は、そこに難を避け、反乱軍の攻撃を受け、英国軍隊の救援を受けることになったが、その時内部の誰かが外部の縁者に「ラック・ナウ(luck now-今や幸運)と電報し、それから、それが市名に用いられることになったというのである。ラック・ナウは、インド名ではなく、英語名である。

 そのような次第で、グプタのヴィクラマ大王家と世親の協力によって、高度の仏教文化を創出した「大都城アヨージャ」は、イスラムによって破壊を被り、同じ場所にイスラム文化を内容にするアウドゥ市が築かれ、それは破壊はされなかったが、英国風の近代文化を受け容れて、名も英語化してラック・ナウとよばれることになった。私のこの推論が、大方の同意を得られるか、どうかわからないが、若し同意を得られるなら、今日のラック・ナウ市の根底には、グプタのヴィクラマ王家と世親によって創造された高い仏教精神が眠っていることになる。そして、いつの日、誰かが来てそれをよび醒ますのを待っているのだろう。

参照:セポイの叛乱:http://www.maitown.com/cgi-saku/se/dekigoto4.cgi?month=5&mday=10

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

連句的参照「ラックナウ」:http://dhbr.hontsuna.net/archives/200604.html

2006年5月20日 (土)

不登校とウナギ

きょうは次男の中学校の参観日でした。一年ぶりです。二年生になって、全体的にかなり落ち着いた印象を受けました。あたらしいクラスでの先生を交えた懇談会に出て、先生からのお話やほかのお母様方やお父様がたのお話を聞くうちに、ひとり、学校に出てこられない生徒さんがいると知りました。私はすぐ、長女の経験を思い出し、人事とは思えませんでした。本人はもとより、おやごさんはどんなにかつらいことでしょうか。

先日、かたづけものをしていた母が、こんなのが出てきたよと通知表をくれました。それは長女が中一のときのもので、みると、一学期はオール1です。わすれもしません。引っ越してきて中学の入学式後、また行けなくなり、一学期はぜんぜん行かなかったので、オール1をいただいたのでした。結局、小学六年生の丸一年間と中学一年の一学期間を学校には行きませんでした。では、なにをしていたかといいますと、博多から祖父母と曾祖母のいたいなか(いまのココですが)に単身あずけられて、そのころの家業だったイチゴ栽培の手伝いをやったり、山から竹を伐り出したりする作業(イチゴ栽培の備品になります)の手伝いをしてました。そして勉強のほうは、お坊さんがなさってた塾に二年間お世話になりました。そういう縁でした。

それほど行くのがいやだった学校へ行くようになったのも、ささいなことだったと思います。担任の先生が、よく訪ねてくださいました。そして早く学校に出てらっしゃい、と声かけをしてくださいました。人づてでなく、娘の顔をみにきてくださったのです。さらに、一番ありがたかったのは、同じ地域のクラスメイトの女子が、いこう!と誘いにきてくれたことでした。それと平行して、私のいとこが、「学校に行ったら、オッチャンがうなぎを食べに連れてってやるからな!」と娘に約束してくれました。現金なことに、これで、ひょっこりある日学校に行けるようになり、それからは普通に学校生活を送れるようになったのです。今思うと、そのどれもが、とても大事な有難い心のこもった援助でした。どんなにうれしかったことでしょうか。おかげで、遅れることなく農業高校の生活科に進学できました。決してあのときのご恩は忘れてはいません。

そんなことを、きょうはひさしぶりに思い出し、なんとかその子が学校へ来れますようにと祈らずにおれませんでした。

種浸し

種浸し

台風一号のせいもあって雨の日がつづき、ようやくの晴れです。待ちかねたように朝五時おきの父が、種浸しをしました。洗面器みたいですが、盥です。これだけの種でたんぼ約二反ぶんのヒノヒカリがとれます。発芽するまで、数日間はこのまま、このまま。

2006年5月19日 (金)

博多座

博多座

博多座

博多座

博多座ってそんなに大きくなくて、こじんまりしてました。二千人入るのかな。写真にあるように、二階席と三階席まで。席がどこか事前に分からず、オペラグラスを忘れ、残念でした。私は高校三年生以来コンタクトしてますが、最近ようやく花目になりかけみたいです。笑。近眼で遠視になると、どうなるんだか。うーんわからない。もっとひどくなってから悩もう。

北島三郎は歌が上手でした。って、なんかほかにいいかたないの。(はい、ありません)

うれしかったのは、前座歌手がいなかったこと。すべて一人で、何十曲を歌ってました。劇は昔なつかし大衆演劇そのもので、私はあちこちねてしまったけど、年配のひとたちは涙ながしてました。それみて、おおっとおもった。歌のラストスパートとソーラン節の踊りがすごかった。あんなに大勢のひとが支えているとは。楽団ひとつ。踊り手の集団がいくつか。太鼓のグループもひとつ。(大分のグループって。向かって右手にいた男女2名の太鼓叩きさんの女の子のすごかったこと。今日の一押しはカノジョ。あんな勢いのいい和太鼓打ちって初めて。小倉の祇園太鼓やその他いろいろみたけどね。目が釘付けになった)。さぶちゃんはことしで歌手生活45周年だそうです。昭和13年?14年?そのあたりの生まれみたいですから、年はおのずとでてきますが、根っから歌手だなと感心しました。声量が桁外れにおおきい。からだ、ちさいのに。ちょうど、私の父みたい。160センチもないからだで、ものすごく声が大きくて、存在感があるんです。むかしのひと(失礼)は、いまのひととくらべて、からだの使い方がちがうんですよね。そういう、気合のめいっぱいつまった、ひとでした。「風雪流れ旅」に津軽三味線がなかったのはとても残念だったけど、きょう見れてよかったと感謝しました。レストランのお弁当もベーグルサンドもおいしかったし。そうそう、トイレのアプローチにかけてある三点ものの中国の画家の横長のリトグラフもとても印象的だった。グアン・イエイ?たしかそんな名の画家です。母は三回ほど博多座に劇や歌を見に来たことがあっても、私は今回が初めてでした。

最後に、演劇での共演者に田村亮さんがいらして、お兄さんが亡くなったばかりなのに、役者さんはやはりすごいです。名優だった田村高廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

はづかしい

じぶんははずかしいと書くとはづかしくないので、はづかしいとかくであります。

いまから、北島三郎を博多座に見に行きます。それがちょっと、いや、かなりはづかしい。母の代理で行くんです。じぶんでいくんじゃありませんから。父も行かんというし。・・しかたない。郵便保険の観劇友の会とかいうやつです。なぜか全部、演歌歌手ばかり。よしいくぞうもそのまえも人にけんをあげていかなかったので、もったいないということで、日ごろ家におこもりしている私におはちがまわってきたであります。

ゴールデンウイークのこどもの日から一週間次男が喘息で入院したのですが、軽トラで迎えにいくと、しきりに照れて、「なんで軽トラ。ダサ。はずかしい」といいました。はじめてこいつの照れるのをみた。もうすっかり元気になって、サッカーしまくりであります。入院なれして、読書のためのおこもりとおもっているふしもあります。この病気のおかげで彼は読書好きになったし、孤独にたえる力がついたようです。何がさいわいするかわかりません。

2006年5月18日 (木)

魚の吐く虹

北冥に魚あり虹を吐いてをり   有馬朗人

北冥の魚とは中国古典の荘子のことばだそうです。知ったかぶりはやめます。よくわかりません。でも、冥王星や冥土のメイの字に北ですと、宇宙にも方角があって、広大な空の海のなか「北冥」に位置する巨大な魚が、あわわわとにじをはきだしておるのだ・・という姿が浮かんできます。(かってによみます。笑)たぶん、きっと、そう遠くないヨミだと思うのですが。例によってとっても失礼なことをまっすぐに申し上げますと、私はこの高名な俳人をごく普通の写生句をよむ人(星野椿氏のような)と思い込んでおりましたので、この句にたいそう驚きました。まるで、まるで眞鍋天魚の句のようではありませんか。いえ。眞鍋天魚の句はもっと艶っぽいですか。有馬朗人のこれは稚気と知性の幻想句です。

ちょうど、「マリオットの盲点」の「グリーンフラッシュ」で虹が出てきました。

http://assam226.tea-nifty.com/mariotte/2006/05/green_flash.html#comments

このひとつき、乙骨一族の資料入力をお休みして、十数年来気になってる本を写経するような気持ちで打ち込んでいますが、昨日のぶんに、天則(天為)という概念がとてもややこしい顔で出てきました。もっと簡単に言えないものかな、と思いますが・・。元文部大臣・有馬朗人主宰の俳句結社の名は『天為』だそうです。

※昨日、岩手県出身で川崎市在住俳人の山元志津香氏から季刊俳句・連句誌『八千草』皐月号をいただきました。いつもありがとうございます。上掲句は巻頭に戴かれてある句です。

枯野明るしちまちまと草吹かれ   山元志津香

御降りやヒマラヤ岩塩曉けの色    同

夫郷にまだ知らぬことちょろぎ噛む  同

赤い傘緋をふかめ来る細雪    同

笹鳴きは妻を呼ぶらし草城忌   同

拝み掌につかむ雪虫即是空    同

春霖や抽出し整理といふ遊び   同

「未草(ひつじぐさ)」の姫宮降嫁新松子  平野きぬ子

角々(かくかく)と都会は明ける冬の朝   同

注連飾る藁に信濃の香りあり   物江晴子

いのいちに神棚からの煤払い   同

哀しみの多く語らず枯芙蓉     中野英歩

コスモスや蒸篭(せいろ)けぶらす道の駅  四戸和彦

変哲もなき虚子の墓初時雨     内山弘幸

カリヨンの歌懐かしき冬芝生     同

枯草の中の測量息子かな     山下升子

湯豆腐に指ぬくめつつ建仁寺   八塩グレース

蘇る記憶の父の御慶かな      同

あらたまの海わたる風煌めけり   内山洋子

離れ住む娘の空遠し寒北斗     松本紀子

          以上、八千草同人作品より

地の重し大芍薬の崩れ落ち  有馬ひろこ(天為)

ケルンに捧ぐ芋焼酎の氷柱割り   今井聖(街)

踏青や深き古代の轍跡   嶋田麻紀(麻)

眈々とこの世うかがふ孕み猫  三田きえ子(萌)

窓ガラス拭き完璧な冬である  岩城順子(白)

忘れもの取りにくるやう戻り寒    関口恭代(帆)

隠密となりし鼬と二日月     澁谷 道(紫薇)  

喪に沈むバチカン王国花の冷え  別所真紀(解纜)

初雪や欅の樹形華やげる    西岡正保(獺祭)

うさぎよりやさしくをりぬお正月  佐藤喜孝(あを)

逃げ水の逃げ惑ふ果て狐塚  松村多美(四葩)

春窮の象に足音なかりけり   岩淵喜代子(ににん)

まんさくのうすき匂ひを雨の中  野木桃花(あすか)

白鳥を見にゆく畦を横切って  和田順子(絵硝子)

みちのくの睫毛のごときつららかな  松尾隆信(松の花)

淡雪てふ無心ひろごりゆく疎林   山本つぼみ(阿夫利嶺)

青すすきの青年みな顔亡くしたる  赤石憲彦(俳句未来)

春寒し背ナに雪置く狛兎    宮下太郎(れぎおん)

のちの世も牡丹焚く火の中に棲む   姫野恭子(九州俳句)

こきこきと背骨軋ませ弓始   鈴木 漠(おたくさ)

     以上、山元志津香抄出受贈誌作品集より

  参考:まんさくの花:http://www.hinomaru-sake.com/

     ヒマラヤ岩塩: http://www.gplanet.jp/what's.html

  すいません。検索したら、どちらも商品でした。笑

  

2006年5月17日 (水)

いつのまに〜

いつのまに〜

ぱんまつり、おわっと〜!せっかくお皿二枚ぶんのシールあつめたのに。わびし〜来年用にしよう。

玄奘と九条3ー詩人タゴール

タゴールは晩年の講演『仏陀』の中でこう言っている。

「さらに貴い捧げものが、阿育王によって仏陀の足下にささげられた。王は石に文字を刻んで、自己の過ちを広く懺悔し、愛と非暴力(アヒンサー)の法の栄えを宣言し、その石柱に、主[仏陀]に対する敬虔な帰依を表白した永遠の聖語を遺した。彼の如き帝王が、かつて地上にあったであろうか。・・・王の大業は、仏陀の正覚からあらわれている。その仏陀の名は、往時より今日なお一そう熱烈に呼びかけられなければならない。・・・今日この兄弟ごろしの非行に毒された国にあって、われらは仏陀から一言の教えを聞かんことを乞いねがう。”一切衆生への慈悲が解脱への道である”と説いたそのひとから。人類の中の至高の人よ、再び世にあらわれて、人の内なる至上のものを、破滅より救わんことを」[『仏陀』より]

 これは、一九三五年五月十八日、タゴール満七十四歳、カルカッタ唯一の正統仏教団体「大菩薩会」主催の釈尊降誕祭に招かれた時の講演の一説である。世界は第二次大戦に突入する前夜の様相を呈していた。彼は、ガンジーとは異なった立場から、切にインドの独立を願ってきた。そしてやがて来るべきその日のために、インドの国と人の依るべき至高の精神を、自国の歴史の中に探ね、永い精進の末到達した全てを、ここに吐露した。それは、ヴェーダ・ウパニシャッドから、仏陀・阿育にわたって実現した人類の聖なる願望に、彼自身が燃焼された大音声(だいおんじょう)であった。この講演は、ベンガル語で読まれて、指導的な地位にある人達に、深く浸透したもようである。独立後のインド共和国憲法制定の国会に、その証拠があらわれてくる。

 一九五○年[昭和二十五年]一月、インド連邦の国会で、共和国憲法を決定して、インド共和国が成立したとき、国旗、国歌、国家紋章など、国の根本精神の象徴が制定された。国旗は、ヨコ三色に染め分けた生地の中央に仏陀の法輪を顕し、国家紋章には、阿育(アソカ)王が捧げたサルナートの石柱の部分が定められ、国歌には、タゴール作詞作曲の「ジャナ・ガナ・マナ・おんみに勝利あれ(ジャヤ・ヘー)」が用いられた。以上をよく見ると、それらは、タゴールのあの講演が指針になって現れてきていると、考えないわけにゆかないのである。

 それより三年以前の昭和二十二年(1947)日本は憲法を改正し、「戦争放棄」の国民の決意を表明して、新しい国再建の歩みを始めていた。両者ー日本とインドの憲法ーは精神的基盤を共通にしている。そして、双方とも、精神的伝承を掘り下げる上において、共通の忘れものをしている。アヨージャの存在である。ー62年2月記ー

 七 アヨージャの故都

 私のアヨージャの歴史徘徊の目的は、勝鬘夫人の王宮の在った故都と、世親が終生活動した行迹の地を、今日のインドの地誌の上に探ねて、歴史の今昔を偲びたいことにあった。それは、どうやら同世代の同一の場所らしく、それが、まもなく探しあてられそうになってきた。

 玄奘三蔵『西域記』のアヨジャ国見聞記を見ると、「周囲五千里、国に大都城あり、周二十里」と記録されている。周囲五千里というのが、当時のアヨジャ国の全領域だとすると、それは、今日のインド連邦の、ウッタラ・プラデーシュ州の主要部分を占め、北辺は、釈迦の国ネパールと境を接し、南はガンジス本流の北岸一帯、東辺は、バラナシ(ベナレス)対岸のラムナガルから、西北辺は、デリー東方のラムナガルのあたりまでを含む地域と考えられる。インド全土の中で、最も気候温和で豊穣な地で、文化史的に見れば、この地は、早くインドの国土に来住したアーリャ種の人達が、壮大な理念を以て、新しい国造りに成功した歴史を湛えている。人はそれを忘却しても、山河はそれを記憶しているだろう。その歴史が、後年ここにアヨジャが出現してくる心地ー精神的基盤ーになるだろう。しかし、それは後にふれることにして、今は、当面の問題を追ってゆこう。

 『西域記』に国に周二十里の大都城のあることを記しているのは、グプタ王朝第三代の英主チャンドラグプタ二世ー後にヴィクラマ・アーディトヤ(勇力の太陽)と号すーが造営したものにちがいない。玄奘は、その城中に世親が生前に所住して、執筆や講説に力を尽くした精舎が存在しているのを、見て、報告している。それによって、世親が終生の活動の本所になったのは、この都城にまちがいない。しかし、玄奘がここを訪れたのは、世親の没後約二百年で、当初のヴィクラマ大王はすでに亡く、その後を嗣いだ数代のグプタの諸王も、北方蛮族の侵奪に脅かされ、ついにアヨジャを放棄して、本領のマガダに退いた。後まもなく、その王統からシーラ・アーディトヤ(戒日王)があらわれて勢力を回復し、領内に、仏教の総合大学ともいうべき広大なナーランダ寺大学を創設して、父祖の遺志を嗣いで、仏法興隆に力を尽くした。玄奘三蔵は、このナーランダ大学に五ヵ年遊学することになった。戒日王は、異国から来た学僧に興味をもったらしく、巡行の途次、わざわざ呼んで声をかけたりしている。

 玄奘は、ナーランダ修学中に、折を見ては、近隣の釈尊ゆかりの地を遍歴して、見聞を記録したり、資料を収集したりしたもようである。その中でも、アヨジャの地に足を踏み入れて、すでに主はなきも、まだ廃墟にはなっていない大都城を発見し、中をさまよっているうちに、たまたま、世親菩薩の、生ける日そのままの精舎ー玄奘は「伽藍samgharama」と記すーが目の前に現れてきた。そのときの玄奘胸中の感動はいかばかりであっただろう。それというのも、玄奘の渡天求法の主目的は、世親一代の新しい人間の仏教学説を、直接、身を以て体得して、これを唐土にもたらすことにあったからである。それゆえ、このアヨジャ大城の発見は、玄奘にとっては、ナーランダ修学の、画竜点睛のような体験になったと言うことができるのではないかと思われる。同時に、それの記録は、後世の我々のために、貴重な証言を遺しておいてくれることになった。

 「アヨジャの大都城」は、ただにインドのみでなく、世界の文明史に大きなかかわりを持っている。特に、日本の飛鳥文化に深いかかわりをもっている。いわば、蒼瞑(そうめい)な大海流を照らす一つの燈台のような意義をもっている。それが今はあとかたもなく、痕跡を見つけるさえ難しい。そうした中で、その現実の姿を見た玄奘の証言は、我々に励ましを与える。そして、今日のインドの地図の上でその位置を探ねさせる。

 玄奘の「アヨジャの大都城」は、今日のインドの地誌で見ると、どこになるであろうか。私は、一つの推定を提言しよう。ーウッタラ州の州都ラック・ナウ(Luck-now)がそれであろう、と。ラックナウから東北へ百五十キロほど行くと「アヨジャ」という名の、静かな田園風景の町があって、鉄道が通じている。これが、昔なつかしいアヨジャの名を、今日にとどめる唯一の場所である。州政府は、ここを叙事詩ラーマーヤナ(ラーマ物語)の記念の地にしようとして、作者ヴァルミーキの記念館を造ったり、ホテルを建てたりして、観光政策を進めている。ここは、玄奘三蔵の見た大都城とは別の場所である。そしてその大都城の今日の姿はラック・ナウにある。この推定の根拠を述べなければならない。(最終章へつづく)

玄奘三蔵:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%94%B5

アヨジャ:http://www1.chugoku-np.co.jp/abom/97abom/inpa50/8/970705.html

2006年5月16日 (火)

玄奘と九条2-未来義務分詞

きのうのつづきです。

稲津紀三『世親唯識説の根本的研究』より

 それでは、アヨージャ国は、その理念を、どこから得たのだろうか、仏陀の教えからか、根本的にはそうなるだろうが、直接には、阿育王の法勅(ダルマ・リピ)にあらわれた正法国家の理想が、マウリヤ王朝の崩壊後、一小王国に、凝集された形で受け継がれた、と考えてはいけないだろうか。アヨージャは、文法上、未来義務分詞とよばれる構成でー「戦わるべきでない」-という意味で、哲学上の当為(ゾルレン)をあらわす言葉になる。国名が当為(法)をあらわしている。しかし、よく考えてみると、ただの当為ー「まさに何々すべし、或はすべからず」-と少しちがう。それは、漢訳語の「不可戦」を出してみると、はっきりする。不可戦ならば「戦うべからず」と読むのがふつうで「戦わるべからず」とは読みにくい。同種の語法に「不可思議」がある。

 ”不可思議(アチンティヤ)”は、仏教の奥義を言いあらわす言葉の一つである。釈尊がはじめてこれを出し、その後その趣旨が受けつがれ、日本の親鸞に、その用語が、特によく生かされている。

 「無義をもて義とす、不可称・不可説・不可思議の故にと、仰せさふらひき」等。

 アチンティアは、釈尊自身の正覚された「未聞法(みもんのほう)」を説かれるとき、それは、無明(むみょう)におおわれた常人の心識を以てしては、「思議せらるべからざる」ところ、或は「思議せらるべきでない」こと、という意味で用いられている。ところが、漢訳の「不可思議」になると趣がちがってくる。それは「思議すべからず」と読むのがふつうで「思議せらるべからず」とは読みにくい。人々はながい間、何となく「思議すべからず」という読み方をしてきたのも、仏陀正覚の「法」を見失う一因になったように思われる。

 もう一つ、恰好の例をあげておきたい。『阿弥陀経』で、仏陀が登場して、衆生に、彼(か)の国への願生を勧めるところで、漢訳では「応答発願生彼国土」と出ている。それは昔から「まさに彼の国に生まれんと発願すべし」と読んで、誰もあまり不審をもたないできた。そういう表現が三ヶ所ある。それは梵文では「彼国こそ衆生によって願われるべきである」となっている。前者だと、発願すべき主体者が衆生になる。後者だと、「阿弥陀仏の本願の報土」という、とてつもない広大無辺の法界が、衆を否応(いやおう)なしに引接(いんじょう)する趣きを表現する。親鸞の”自然(じねん)”の説が、よくそこをとらえている。

 「自然とは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、如来のおん誓ひにておのづからしからしむるを自然とは申す」

 親鸞だから、そこまで行けたのであるが、それでも、用語としての不可思議の問題は、なお解決されない。

 思うに、サンスクリットの、未来義務分詞とよばれる「・・・せらるべき」「・・・せらるべきでない」という語法は、他の国語に類例を見ない特異な語法と言えるのではないか。「・・・すべき」「・・・すべきでない」という語法が、人間の当為を表現するのなら、前者はそれよりも次元の高い、いうならば天則の当為を表現する語法であろう。言語そのものがそれだけの精神内容を内包していて、その精神内容が、仏陀によって実現され、したがって、用語としても、仏陀によって完成されたと、言えるのではないだろうか。

 私は”アヨージャ”の国名に心をひかれてここまできたが、それがはからずも「日本国憲法」の戦争放棄の理念を擁護する結果になったようである。天則の当為として。 

 六 かさねて戦争否定の国名について

 アヨージャ(ayodhya=a-yudh-ya)は、言語上「武器を以て戦わるべきでない」という意味だとして、それを国名にしていることについて、もう少し考えておきたい。「戦うべきでない」でなく「戦わるべきでない」という微妙な表現になっていることは、前節に注意したとおりである。

 その国名を、その国自身において、本来どういう意味に用いたのか、そこに、どのような主張が含まれていたのか、等々の事を知りたいと思っても、はっきりしない。それだけの資料がない。その国つくり当初の指導者ー国王か国師のごとき人ーの言説でも残っていないかぎり、判然としないのが当然である。このような場合、時代的にも近い所に、何か確かな例証があれば、それとのかかわりにおいて、ある程度を推測ー推定とまではいかないーすることができる。その大きい先蹤(せんしょう)を、マウリヤ王朝の阿育王(アソカ王)に見ることができる。アヨージャ国は阿育王の落とし子と言えるかもしれないのである。

 阿育王のことは、王自身に語ってもらうのが最善である。というのは、王が、石柱や巌壁を磨して、それに自己の願意を刻文して、広く国中の辺境にまでも布告した”ダンマ・リピdhamma-lipi”(「法誥のりのつげ」)が、前世紀中葉から今世紀初頭にかけて発見解読され、ヴィンセント・スミス(1901)とフルチェ(1925)の英訳によって世界に紹介され、阿育の生涯とその時代が明らかになった。それを王自身の言葉で語ってくれるのである。

 およそのりんかくを見ると、阿育(無憂)は、マガダ国のマウリヤ王朝第Ⅲ世として即位した時は、全インド統一の雄図を抱いていたと思われる。それは武力による征服で、そして八年後、南方カリンガ征服の後、烈しい殺戮戦争を行ったことの罪悪を懺悔し、廻心して仏陀に帰信し、僧伽に親近(しんごん)して自ら優婆塞(うばそく)となり、その後、人間として仏陀の「等正菩提にはげみ」、国王としては「武力による勝利は罪悪で、法による勝利が真実の勝利である」ことを宣言し、「一切の人類はわが子」という王者の心から、人々の永遠の福祉のために仏陀の正法を信行すべきことを訓告する。・・・詳しくは”法誥”を直接およみいただくよりほかにない。

 フルチェの”法の誥”全文の邦訳が、島地大等師監修の『真宗聖典』(明治書院版)に収録されている。邦訳そのものは、故白井成允先生若き日のご労作である。ところが、どういうわけか、そこでは”法誥”が”道誥”になり、文中の「法」もみな「道」になっていて、読者を戸惑わせる。思うに、その頃日本の学界では、仏陀の法の意味がよく理解されていなかったらしく、一般にもわかりにくいので、より解りやすいようにとの配慮から、法を道に替えたのだろうが、かえって混乱させた。これは、どうしても法でなければならない。この一事を別にすれば、白井先生の訳は、立派な貢献であった。

 タゴールは、中年以後、仏陀に近づいていくが、自国古代の阿育の”法誥(のりのつげ)”は彼を感動させ、それは、彼の仏陀観をいっそう深いものにさせた。(つづく)

参照) 島地大等師 http://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000210612230001

2006年5月15日 (月)

師弟関係

俳人・藤田湘子(俳句結社「鷹」主宰)は去年四月十五日に亡くなりました。

連句のご縁で文章を書かせて頂いている千葉の『摩天楼』主宰・星野石雀・櫻岡素子ご夫妻がこの大結社(同人数二千人近いとか)の古い同人でいらっしゃるので、遠くから垣間見るように仰ぎ見ておりました。

 愛されずして沖遠く泳ぐなり  藤田湘子

訃報によれば、この句が代表句とされます。

よみですが、わたくしは一読したときに、思春期の少年が母親からか教師からか疎まれて、ひねて一人さびしく泳いでいる姿をイメージしました。そして「なぜこれが?」と思いもしました。代表句にはよわいような印象を持ったからです。

その後、『俳句の方法』という藤田湘子の本でこの句の背景を知りました。

学生時代から俳句を志した湘子は「吟行に出かけるのに運賃が只になる」という理由で国鉄(当時)職員になりまして、水原秋櫻子に弟子入りします。そこで結社で学ぶことの意味を悟り、それを肯定的に細かく記しています。あるとき、独身だった藤田の交際相手を秋櫻子が気に入らず、それまでは非常に目にかけてもらえたのに、以後遠ざけられて冷や飯を食わされた時期がしばらくあったらしい。その悔しさ淋しさを詠んだものがこの句だとのことです。

そういう事情を知って読めば、また違う印象ではあります。俳句をしない人には「んなアホな」と思うでしょうが、一帝国の中で王の評価をめぐって右往左往する価値体系では、ありがちなことです。

わたくしは「ホトトギス」の高浜虚子と杉田久女の師弟関係を連想しました。あるとき、虚子がすぱっと久女を切り捨てる。事情はあるにしても、俳人は激しいものであります。よいわるいではない。感覚と感覚とがしのぎをけずった結果、傍目には理不尽この上ないところから振り下ろされる斧。しかし、もっとも純粋なはだかの感覚から発される光の斧かもしれず。・・というのも、理性より微妙な感情が支配する世界だからです。

別の見方をすれば、この軋轢が名句を生む肥やしになるのですね。

玄奘と九条

もう一冊引用します。十年以上前ですが、大牟田の谷口慎也氏の俳句誌に二年ほど所属してました。そのとき、原稿用紙十枚のうち八枚が引用という文(笑)を書いて送ったらボツだったというものです。どうもそれが未練がましいので、お願いします。むかし「そこに行けば いろんな夢が かなうというよ 誰もがみな 行きたがるが はるかな世界」で始まる歌がはやりました。それを記憶に蘇らせながら、こむずかしいところはすっとばして、でも肝心なぶぶんは忘れないで、目を走らせてもらえればとおもいます。

 

 「仏教人間学としての世親唯識説の根本的研究」

                稲津 紀三・著

第四部  世親の一生と壮大な文明史

 第一章 世親一生の歴史的現実を探ねて(随筆風に)

  その四  玄奘三蔵の証言

 『勝鬘経』は、アヨージャ国の友称王の王宮の奥深くに、我々を誘ってくれる。王宮の在る所が、アヨージャ国の都城になるわけだけれど、それは、今日のインドの地理上では、何の辺になるのだろうか。

 玄奘三蔵の『西域記』によると、アヨージャ国の全領域は「周囲五千里」とあるが、それは、地図でみると、今日のウッタラ・プラデーシュ州の主要部分を占めている。

 そして、その都城については、

「国の大都城は周二十余里、穀稼豊盛にして花果繁茂す。気序和暢、風俗善順、福を営むことを好み、学芸に勤しむ。伽藍百有余所、僧徒三千余人、大乗小乗を兼ね習学す。天祠十所、異道は寡少なり。」

 と記録されている。正法が興隆して、法化が深く人心に浸透し、人々は福祉、学芸に努め、自然もまたこれに偕和する、という理想郷の名残りが、玄奘の眼に映じたのだろう。

 そこには、誰か大きな指導者が有ったはずである。その名は、伐蘇畔度(ヴァスバンドゥ Vasubandhu)世親である。もともと、玄奘が、アヨージャを訪問した最大の関心事は、世親の遺風を、面のあたりに偲ぶことにあった。それで、その大都城に、世親が生前住した精舎を見つけて、それを特筆する。

「大城中に故き伽藍有り、是れヴァスバンドゥ菩薩(世親)が数十年中、大小乗の諸異論を製作したる所なり。そのそばの故き基は、是れ世親菩薩が、諸国王、四方の俊秀、沙門、婆羅門等のために講義説法せる堂(跡)なり」

 伽藍というのは”僧伽藍さんがらん”の僧を略した呼称で、”samga-aramaサンガ・アーラーマ”の訳で、僧伽の園という意味であり、精舎とも訳されている。そのような「僧伽の園」で、いちばん大切なものは、その名の示すとおり、正法の僧伽、人の和聚である。正法が隠れれば、僧伽も離散する。後に残るのは建て物や庭園ばかりである。それもやがて廃址になる命運をもつ。多くの人は、ほんとうの意味の”さんが・あーらーま”を知らないから”伽藍”と聞くと、奈良京都あたりの虚構の堂塔を連想するかもしれない。しかし、玄奘がアヨージャ大城中に見た世親の「故伽藍」は、それとは少しちがうようである。

 そこには、巨大な堂塔を暗示するものは何もない。そこは、世親が数十年間瞑想執筆した故園で、そのたたずまいは何も書かれていない。側に講堂の基壇が残っていたというから、そこに集まった僧伽(さんが)の人達の散策安息した園林があったのだろうが、世親その人の起居した建物ーおそらくは草庵ーは土に帰していたのだろう。しかし、そこから生まれた世親の新しい仏教は、すでに世界史を動かす兆候を見せ始めていた。

 アヨージャ国の大都城と、城中に世親の精舎が存在したことは、玄奘三蔵が現実に見て証言してくれている。

 世親(C370-450)が活動した頃は、アヨージャ国の最盛期で、また、アヨージャを統治下におさめたグプタ王朝の最盛期でもあった。当時のアヨージャ国には、二重の統治勢力があったと思われる。昔(年代不詳)からこの地を領治していたラーマ王家と、それを傘下におさめることによって、一層大をなしたグプタ王朝とである。したがって、統治者の居住した王城が二つ存在したはずである。ラーマ王家の王城と、グプタ朝の都城とである。ラーマ王家の王城(王宮)は、現在のヴァラナシ(ベナレス)の対岸ラムナガルに在って、その末裔は近年まで存続し、現在でもその跡は歴然としている。しかし、『西域記』の玄奘三蔵は、これにはあまり興味を示さない。そして前記のように、世親の精舎のある「大都城」の見聞は、感動的に叙述している。その大都城は、グプタ朝の勢力によって造営されたものにちがいない。時の大王はグプタ朝第三代の英主チャンドラグプタ(月護)第Ⅱ世で、後にヴィクラマ・アーディトヤ(勇気の太陽)と号し、王朝の首都を、マガダの旧都パータリ・プトラ(華子城)から、この地に移し、ここで世親と出逢う。この出逢いが、世界史的に重要な意味をもつことになる。

 五 武器を以て戦われるべきでない

 アヨージャ(a-yudh-ya)の語は、文法上「武器をもって戦われるべきでない」という意味になる。漢訳では一応「不可戦」と訳されるが、この国名を初めて注意したのは、聖徳太子と同時代の、中国隋代「三論宗」開祖、嘉祥大師・吉蔵であった。しかし大師は少しまちがいをした。『勝鬘経宝窟』を著し、「不可戦国」の国名について「要害堅固で外敵から侵害されない」の意味に説明している。それはまちがいで、正しくは、阿育王の法勅に見える「戦いによる勝利は邪悪にして、法による勝利が真の勝利である」という訓告の趣旨に理解すべきであろう。勝利にせよ、繁栄にせよ、武器によって戦い取らるべきではない、法によって克ち得られるべきである、という精神をあらわしている。

 そうすると、それは現在の「日本国憲法」に、国としての戦争や武力行使を、国際紛争を解決する手段としては「永久に放棄する」意志を表示した精神と等しい。この憲法の表示は、非現実的だとして、これを更改しようとする勢力は、今日までも、今後も、国内の一方に存続するであろうが、それが主流となることは、あり得ない。また、そうさせてはならない。あの歴史の非常時期に、あの理念が、しかも一国の憲法に掲げられたことは、世界史的に重要な意義をもっている。そして、同じ理念を掲げた国が、二千年も前に出現していた。(長いので、あしたの後編につづきます。初版:昭和十二年。増補版:昭和63年) 

 

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2006年5月13日 (土)

公立病院から

公立病院から

八女公立病院3階から東をみる。お椀形のやまはたしか城山です。れぎおんの前田先生が八女に三回連句指導にみえたのですが、その印象はまるで八尾みたいだそうです。風の盆で有名な東北のいなかの。

あらがふことば

五月の句

 天牛は歩む抗ふ言葉として   小川双々子

 風青葉兄征きたれば嫂なし   的野 雄

 牡丹のいたるところにさまよへる   石田時次

 五月野はどこかにすさぶもののいて   岸本マチ子

 この世に死のあるを忘れて蓮見の衆   守田椰子夫

 わが使ふ道かぎられて暮の春    布施伊夜子

 穀雨の虚空蔵の黒暗暗たる暮色     姫野恭子

 

天牛:http://www.asahi-net.or.jp/~XF7K-TTI/tengyu1.html

   :http://www.k3.dion.ne.jp/~kamikiri/leaflongicorn.html

   :http://www.asahi-net.or.jp/~JD9H-NMMT/life_41.htm

 

2006年5月11日 (木)

俳人山下淳の目ー「香月泰男」

もう一度読もうと思っていた本が、今朝、押入れの奥からひょいと見つかった。信じられない。以前何度も探して見つけ出せなかったのに。こういうとき、あなたならどうします?そうです、なくならないように、まるごと引きます。あたまに直に入力すればなくならないからです。引用本、『流域雑記』は平成五年五月末に宮崎の鉱脈社より出された宮崎の俳人・山下淳(故人)の随想集で毎月の俳誌連載をまとめたものです。三年前同じ「九州俳句」につながるご縁で山下氏の奥様にこの本をいただき拝読し、とてもこころ動かされ、なにかせねばおれないようなきもちになってました。大きな疑問を投げかけられたような気持ちといいましょうか。今朝ここで再び出合ったのも何かの啓示、御付合いください。

 「香月泰男と黒田辰秋」 ー 『流域雑記』26

         山下 淳

一 香月泰男のシベリアシリーズのこと

 私はテレビをよく観るほうである。そして時間をつぶして後悔することが多い。テレビを見て、あとで時間が惜しかったと思ったことのないのがNHKの「日曜美術館」である。極言すると、テレビ番組で、いざとなれば他の番組は無くなってもよいが、「日曜美術館」だけは残って欲しいと思うくらいである。

 私は美術に関する専門家でもなく、実作者でもないが、とにかく絵画や陶器などの文字通りの愛好家である。正直のところ、俳句よりも、これらのものの方が好きだと言ってもよい。私は記憶力が乏しく、記録性も弱い人間で、「日曜美術館」の・・・(と番組のよさを手放しで絶賛する文章を省略します。)

 ところで、去る二月六日放映の「日曜美術館」で香月泰男画伯がとりあげられた。香月泰男については、私は大分前から深い関心を持って来た。特に「シベリア・シリーズ」がブームを呼んだ頃から関心を強めた。あれ以来、画壇や絵画について関心のある多くの人々は「シベリア・シリーズ」を中心として彼の作品に心を寄せ、香月泰男ファンが多くなったと思う。そして、それから人々は彼の作品を全面的に肯定しているように思う。

 しかし、私は、どうしてか、香月泰男の「シベリア・シリーズ」を全面的には肯定出来ないのである。あれだけ多くの方々から高く評価されている香月泰男の作品について、素人が、云々することは、とんでもないことだと思うが、私には私なりの根拠があるのである。香月泰男の作品についても「シベリア・シリーズ」がブームを呼んだ頃、その画集を数度見る機会があり、その他の作品も数点ぐらいは見る機会があったが「シベリア・シリーズ」によって、少しずつ疑問を抱きはじめた。そして、出来得れば香月泰男画伯に御会いして、直接に、いろいろ話をお聞きしたいと思っていたが、亡くなられたので、永遠にその機会を失ってしまった。

 私は、香月さんと同じようにシベリアで捕虜生活を四ヶ年間過ごしたが、その経験だけから「シベリア・シリーズ」を肯定出来ないということではない。香月泰男の生い立ち、あるいは画歴、それにシベリアの生活などについては、いろいろの資料や文献があると思うが、まだそういうものをほとんど読んでいない。ずばり言えば、私の勘から「シベリア・シリーズ」に疑問を持っているのである。

 私は香月泰男画伯が亡くなられて後、山口県立美術館にある香月泰男の特別展示室で、「シベリア・シリーズ」などを生で見せてもらった。その時、ちょうど徳山在住で、美術についても詳しく、見識を持っている俳人のOさんにも御逢い出来たので、ちょっとそのことを話すと、Oさんは香月泰男を批判することは、とんでもないことだと言う。しかし、そのOさんも私の意見を全面的には否定されなかった。これはOさんの本音ではなく、私への儀礼的な発言であったかもしれない。山口県立美術館で、学芸員の方に案内してもらって「シベリア・シリーズ」をたんねんに観ているとき、その学芸員の方が、ふと、「あなたのようにシベリアの生活をして来られた方は、この『シベリア・シリーズ』については、少し、異論があるのではないでしょうか」という意味の言葉を洩らしたことが、強く心に残っている。私はロシア語、いや、ロシア文字は少しはわかるので「シベリア・シリーズ」の画面に絵画的に書かれてあるロシア文字の「トウキョウ・ダモイ」の文字も読んだが、あの日本人捕虜たちが黒い長い蛇列を作って、ソ連のコンボーイ(警戒兵)に監視されながら足を曳きずるように歩む姿、シベリアに曳っぱって行かれるときと、帰還のためにナホトカへ向う長蛇の列のちがいがあると言われるあの絵画の構成は、ほんとうにシベリアで、重労働に苦しんだ人間だったら、あのような客観的の絵画が描けるものだろうかという疑問である。私は絵画の表現技術のことを言っているのではない。作家の内面と作品とのかかわり合いの問題である。私は絵画を描かないし、価値評価もわからないが、少しは文学にも縁のある人間であるから、作家と作品ということには深い関心を持つのである。

 あの「シベリア・シリーズ」は、その他の作品と共に、日本に帰ってから、しかも十数年後の一九六○年代の作品である。他の油彩は別にして、「シベリア・シリーズ」が彼の内面的な純粋な作家の良心としての欲求によって生まれたものかどうかという疑問がある。彼は、ある意味で、あの時期の出版界やジャーナリズムによって、あのような作品を描くように追い込まれたのではなかろうか。香月泰男の本心は、あれとは少しちがうところにあったのではなかろうか、つまり、心ならずも描いたのではないかという疑問である。

 これは私の主観というか、独断、あるいは単なる憶測に過ぎなくて、何の根拠もない私の勘であるのかも知れない。

 香月泰男のシベリア抑留生活についての記憶や文章は、いろいろあると思うが、シベリアでも絵筆を捨てなかった生活、いや時間が多かったということを聞いているーこれは思いちがいかも知れないが。

 彼の「シベリア・シリーズ」を中心とする作品は、戦争やシベリアで亡くなった日本人への「鎮魂」の作品だと言われているが、ある意味では「シベリア・シリーズ」は香月泰男の「贖罪」の作品ではないかと思う。

 ところで、去る二月六日の「日曜美術館」で「私と香月泰男」というテーマで、沢地久枝が語った。私は大いに期待して、午前九時の時間に、全神経を集中して観、聴きしたが、正直のところ、がっかりした。そして夜八時の再放送を改めて見たが、やはり、おなじ思いであった。前述のように私の「日曜美術館」そのものへの期待、しかも、対象作家が香月泰男で、それについて語る人が沢地久枝ということで、沢地が香月泰男を作家としてどうとらえるかということに強い関心を持っていたのであった。しかし、沢地の話は実に浅く、従来の「日曜美術館」に登場した人々と比較して、いかにも浅薄というか、ひとりよがりのおしゃべりに終始して、画家香月泰男ならびに作品に対し見据えているものはほとんど無かった。

 特に「シベリア・シリーズ」についての沢地の話は全く借りものに過ぎないと思った。香月泰男へ対する傾斜はよいが、それが単なるムード的鑑賞で、香月泰男の本質にはほとんど迫っていなかった。特に奇異に思ったのは、沢地は香月泰男さんにも逢っていないようだし、作品も、どれだけ観ているかどうか、しかも、正直に、自分はまだ行っていないが、山口県立美術館には香月泰男画伯の「シベリア・シリーズ」が展示されているから、是非、皆さんが観に行くようにという話などした。私は沢地久枝が女流作家として、しかもノンフィクション作家として、社会や人間を深く、自ら探求して書く作家として信頼していたが、いささか興醒めの思いがした。少なくとも作家である以上、香月泰男が晩年、玩具を作ってたのしんだことなどについて触れないと香月泰男という画家、そしてその作品の本質をとらえ得ないのではないかと思う。

 NHKの「日曜美術館」で、もっとも期待して待った沢地久枝の「私と香月泰男」は私の期待が大き過ぎたのかも知れない。

 山口県立美術館には山口県の生んだ二人の偉大なる画家、香月泰男と小林和作の特別室が設けられているが、この二人の画家の人間と作品は、いろいろの意味で、対照的であることも私にとっては深い意味があるものである。―1982・2・10

 ※文章を丸写しして、ようやく見えてきました。

 山下淳は、香月泰男を批判しているとばかり(以前読んだ時は)思ったのですが、実はぜんぜんそうじゃありませんね。香月泰男の本質を、だれよりも深い共感と理解のまなざしをもって、観たのです。だからこそ、軽佻浮薄なジャーナリズムにのせられ、消費されるだけの芸術、およびそのおたいこもち、に対して、無性に腹が立ち、かくも痛烈な批判をやっているのでした。この文章から発される気は、前回「水上源蔵という名の言霊」(5・7)で引用した久留米の詩人丸山豊の『月白の道』の一節ー戦争については、書けぬことと書かぬことがある。―という重いことばとみごとに重なっていきます。山下淳は香月泰男の絵を「贖罪」としてとらえることで、はじめて自分のはげしく揺れるこころをなだめることができたのです。 (なお、みだしの黒田辰秋についての文章が二で語られるのですが、ここでは引用をひかえます)

参考:http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/~kazukiyasuo/

   :http://www.geocities.jp/ing9702/kazuki.htm

   :http://www.art-museum.pref.yamaguchi.lg.jp/artmuseum/cgi-bin/author

ホロンバイル:http://www.china-embassy.or.jp/jpn/xwdt/t202158.htm

        :http://www.h6.dion.ne.jp/~yskasai/C/nomonhan1.html

        :http://www.art-museum.pref.yamaguchi.lg.jp/artmuseum/cgi-bin/detail?attrul=AA&id=00000018

2006年5月 9日 (火)

白い芍薬

白い芍薬

白い芍薬

白い芍薬

上の写真はケヤキだそうです(庭師さんいわく)が知ってるケヤキと違います。幹がくねくねして余り大きくならないです。夏はカブトムシがきます。ケヤキの種類がちがうのかな。芍薬は草っぽい花ですね、意外にも。「立てば芍薬、坐れば牡丹」っていうので、なんとなく牡丹よりも丈の高い花をイメージしていましたら、牡丹のほうが花も草丈も大きかった(4・20付写真)のであれれって感じです。え?あの意味はそういう意味じゃないのですか。これも種類によるのかもしれません。・・豌豆も蚕豆も収穫期です。そうそう。スナック豌豆、意外とヒットしましたよね!なにしろ皮ごと食べられるし、硬くなったら、豆だけ食べればいいし。あれは炒め物にもサラダにもいろいろ使えます。そのまま炒めるのがおいしいようです。

きょうは、サツマイモ苗が来たという電話があり、さっそく種苗店に買いにゆき、植えました。(はいすいません、私がじゃなくちちとははがです。笑)

参考:http://www.excite.co.jp/News/bit/00021125038875.html

   :http://www.farmersnet.net/museum/2003_2/sunakkuendo.html

2006年5月 8日 (月)

虹の橋

所属誌『九州俳句』編集長の中村重義氏が、大腸がんの手術と闘病の記録を句・歌集の私家版という形で上梓された。名付けて『虹の橋』、ちいさな美しい本である。(写真)

 ガン宣告 供花は野牡丹だけでよい  

 もしかしてもしかして死ぬ葛の花

 大腸ガンといふ鬼女がゐる紅葉山

 死に急ぐほどの名は無し凧(いかのぼり)

 麻酔は薔薇の香り頭蓋の真暗闇

 手術後の寒き身体の螺子ゆるむ

 白露や零るるはわが生命とも

 夕時雨肩を濡らして介護妻

 人工肛門(ストーマ)の朱き露頭に冬日染む

 三月や波のゆらぎは身のゆらぎ

 黄泉へ行く夢の続きの山ざくら

 血液を小瓶に三つ採られをり何の検査か知らされぬまま

 ガン告知遂にされたり覚悟してゐし妻あはれ声の震へて

 死刑執行待つ囚人の心もて大腸ガン手術の日を数へをり

 全身麻酔はすべての臓器眠るとふ臓器の睡り思へば愉し

 吻合の針残りたるわが腹部月光享けて輝く夜あらむ

 眠られぬ夜の幻に乱舞するWordsworthの黄金(きん)の水仙

 蛸の如き烏賊の如き雲流れをりおやおや今度は越前水母

 歳月は雲の形をとりながら西へ東へさだめもあらず

 何気なきバスの案内(あない)の声なども病み伏す耳に懐かしきもの

 注射痕、点滴洩れの残る腕ちりめん皺など刻めるあはれ

 臍の横にストーマ袋ぶら下げて大腸ガン手術後半年を過ぐ

 生と死の挟間を渡す虹の橋 If Winter comes,can Spring be far behind?

 

50句、50首のなかから、ことに印象深い作品を抽いた。

中村重義は1931年生まれ、北九州八幡在住の俳人であり歌人である。これはこの世界では異色であるといっていい。短詩型のなかでもっとも短い詩形をやってる俳人たちは往々にして短歌もたしなむ人を侮蔑的な表情で遇する傾向があるからだ。七七以下を切り捨てる覚悟を持たぬものに何が詠めるか、というのだ。いまだに連句が超マイナーな文芸であるのも同じ理由であろう。だが、すべての詩形で輝きを放つ仕事を残した寺山修司みたいな文学者もいる。私自身もすべての詩形それぞれのよさがあるから、いずれもすてがたいと思う者のひとりだ。

「虹の橋」という題は、だから、生と死に架け渡す橋であると同時に、俳句と短歌という二つの伝統詩形に渡す橋でもある。引用して改めて感じることだが、さすがに長年研鑽をつまれた方だけあって、ことばに無理がなく、とても自然なリズムでいのちが刻まれている。ことばあそびの余裕さえ感じられるほどだ。ワーズワースの一首などは昔学生だったころ、その名通りに言葉の値打ちをとことん敲いた詩人なんだなと思ったことまで思い出した。普通に平凡に見える歌であっても、ちょっとした言葉の処理に永いうたびととしてのキャリアがのぞく。一番すきな句と歌を引き筆をおく。(やはり作品として眺める自分がいる、おそろしいことだ。これは作者自身もその覚悟で出されたものだとおもう。)

  三月や波のゆらぎは身のゆらぎ 

  吻合の針残りたるわが腹部月光享けて輝く夜あらむ

 ワーズワース:http://pinkchiffon.web.infoseek.co.jp/book-daffodils.htm

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

句歌集・虹の橋

句歌集・虹の橋

句歌集・虹の橋

超結社俳誌・九州俳句誌編集長、中村重義著。病中吟50句 50首を収める。

2006年5月 7日 (日)

水上源蔵という名の言霊

 西日本新聞の連載「九州の100冊」、今朝の一冊で久留米の母音派詩人・丸山豊の随想『月白の道』(1970、創言社刊)が採り上げられている。筆者は小郡支局・池田郷。

 「私たちはおたがいに心の虫歯をもっていたほうがよい。・・でないと、忘却というあの便利な力をかりて、微温的なその日ぐらしのなかに、ともすれば安住してしまうのだ」

 「戦争については、書けぬことと書かぬことがある。・・・それをどこまでも追い詰めるのが勇気であるか、化石になるまで忍耐するのが勇気であるか、私は簡単に答えることができない」

 「やまのけものおまえもみじめ

  兵士の肉をはらわたに納めます

  そのけものを追いつめて

  私のはらわたに納めます

  その順序に名前などありません」

 記者池田郷が丸山豊の本から引用した箇所はこれだけだ。だがわたしはこの記者の文章に打ちのめされてしまった。

 丸山豊「月白の道」は私も読んでいたし、とても感動した。それは詩人丸山豊の代表作であり、かたちは随想ながら、詩魂そのものとして取り扱われなければならぬものなのだ。だから詩人丸山豊を採り上げるときは迷わずこの一冊を私も択ぶ。ということで、その選択でまず、信用する。だが更に「そうだったのか!」とハッと気づかされたことがあった。この際だから、まるごと引用する。

 「魂の司令官」「戦場の闇での何ものにもまさる光」。丸山は、彼らを率いた少将・水上源蔵についてたびたび記した。だが、記者(池田郷。姫野註)はどうしても、丸山の尊敬の念ほどに、この人物に思い入れを抱くことができなかった。戦場でも理性を失うことなく、命を預かった兵の痛みと苦しみを思いやる水上少将は、撤退の途中で自ら命を絶った。だからこそ、丸山らが味わった後の生き地獄を知ることなく、最期を迎えられたとも思えるからだ。丸山自身も「どうも表現が難しい」と打ち明けているが、この人物の評価をめぐる戸惑いは、決してその筆力の問題ではあるまい。誤解を恐れずに言えば、水上少将とは、丸山の魂がつくり上げたヒューマニズムの偶像だった。過酷な戦場に生きる唯一の希望として、行き場のない精神の拠り所として、無意識にその存在を望んだのではなかろうか。

 「形だけの、体制に組み込まれた民主主義」「拝金社会」。丸山は戦後の日本社会に失望を隠さなかった。戦場でも、ヒューマニズムへの希望を捨てなかった丸山にとって、それを見失いゆく世間に身を置くのは堪え難かったに違いない。身近に戦場の名残さえ見当たらない、こんな時代だからこそ。ーーー以上、引用。

 水上源蔵。

 この名前のもつ限りないイメージは、ずっと永らく私を支配して、詩人丸山を想うときにいつも付随して影のように立ち顕れるようになっていた。それはじぶんが丸山豊と最初に出会ったのが、弟を急性薬物中毒でなくすという苦しみのなかであったからだ。鎮魂歌を書かずにいられなかった。そもそもそれがそういうたぐいのうたとはしらず、かかずにおれなかった。そして、それをとりあげてくださったのが、丸山先生だった。ーそれがわたしの詩のはじめにある。

 

 

2006年5月 2日 (火)

点鐘116号

 堺市南旅籠町の墨作二郎さんより「点鐘」116号を頂きました。

 スミサクさんといえば、私にとっては「連句誌れぎおん」の表紙絵やカットでおなじみのモダンな画家であります。川柳について何もしらないくせに好き勝手をほざく横着者のわたくしめにも、毎号新鮮な川柳をお届けくださるスミサクさんのこころの広さを奇貨として、なにか書かねば罰かぶるようなきぶんになりました。

 「点鐘」はこれ以上はないというほど簡略な造作の冊子です。A4の紙3枚に両面印刷し、それを半分に折って一丁上りの本で、徹底的にコストダウンが図られています。それが川柳という文芸にはもっともマッチしているような気に段々となってくるから妙なものですね。スミサクさんのカット、モノクロでもいけてます。

 さて。スミサクさんの連句的選評をよみ、句を読み、作者の名前、土地を知ります。巻頭(というのでありましょう?冒頭におかれたやつです)は、病中吟とおぼしき作品です。

 味覚障害 点滴ポトリポトリかな  西宮市 佐藤純一

 病床で聞くジュピターに癒される     同

 パレットにはやりすたりを溶いてみる   同 

 今にして思えばあれもこれも疑似餌    同

 わたくしの所属する超結社俳句誌「九州俳句」の中村重義編集長が最近、病中吟を『虹の橋』としてまとめ出版されましたが、その句や歌に重なります。短詩型の文芸は、病のときにこそ威力を発揮するもののようです。どうぞご自愛のほど。疑似餌の句は、連句の恋で使いたい。

 限りなく雪舞う火舞う おしらさま   松原市 本多 洋子

 色彩ゆたか情感ゆたか。畳み掛けるリズムが絶品。

 紺碧の空に頭突きと突き指と    湖南市 平賀 胤寿

 どんどんと近づく口笛の女       同

 午前四時午後四時糺すもの糺す   同 

 謎がある。一句目はサッカーの景か。どんどん近づく女はこわくていやだ。そして四時の点検はいったいなんであろうか。知りたい。

 奈良を歩くと枕詞がついてくる  神奈川 渡辺 隆夫

 安保とは上げ膳据え膳引越しソバ   同

 芽柳や粗母が贔屓の歌右衛門    同

誤植かな粗品のようなそぼのもじ。全共闘世代、よかです。

 パステルカラーは中性洗剤を使用  草津 畑山美幸

能書ではありませんか。ではあの空のいろも。

 夕暮れの薄ぼんやりと薄むらさき   札幌 松田悦子

 たそがれを横にながむる月ほそし   杜國

 いかなごの釘煮そこここ春気配    尼崎  春城武庫坊

( 二重季語、川柳はいい。俳句ならチョークがとんでくる。)

 よく転ぶ足いとおしく撫でてやる   尼崎 春城年代

 春の雨は市松人形の耳打ちです   同

 少年の箱少年の部屋にある   千葉 西秋忠兵衛

 嘘のない痛みをしまい込んでいる  堺  里上京子

 蔀(しとみ)戸に貼りつくねばっこい願文  高槻 笠嶋恵美子

 セザンヌの山は故郷を向いている 大阪 井上恵津子

 映画館 罪の原版洗ってる  札幌 中村迷々亭

 おお。このひと、前回引用した「黒い土から乾杯が盛り上がる」の作者(3・7付「乾杯」参照)ですね。この句もさすがにいいです。写真師が現像する部屋(暗室)にこもってる姿を重ねる。そしてまた、時の重層(こども時代からの体験が透視されるような)宇宙にあるというアカシックレコードを集めた映画館みたいなイメージです。 

 頬杖も疲れた根雪重すぎて  弘前 北里深雪

 じゃが芋を放置している雪の果  同

 借りものの男長靴 春の泥   同

 会話したくなる句。名前負けしない句。借り物なのは男用の長靴。百姓として聞きたいのが放置じゃがいも。凍薯(いていも)になるのですか。味はどうですか。倉本朝世さんがおっしゃったとおり川柳ではじゃがいもは芋でいいんですね。(俳句では芋と薯を区別するので。芋→里芋、サツマイモ。薯→じゃがいも)

 ごしょ芋も食べきる新芽とりながら 札幌 桑野晶子

 「ごしょ芋」どんな芋でしょうね。映画「県庁の星」みました。安売り惣菜のコロッケは低賃金パートが賞味期限切れの芋の芽をとって作っていましたが、あんなのは百姓や田舎人にはあったりまえの常識であり、霞ヶ関のお代官様が目くじらたてることの方にびっくりしました。いつのまにこんなに日本人はぜいたくになっちまったんだろう。

 神々の山 菜の花の相聞歌  橘寺にて  墨作二郎

 風の飛鳥は鬼のざわめき 笑い声  同

とても雰囲気あります。でも、上品ですね。上品すぎるか。

あれ。もうおわり?あらら、一枚ぬけてる!ほんとうにごめんなさい。

追記:(5・6記)

この文章を書いてから、ずっと中村迷々亭の句が気になって頭からはなれない。

 映画館 罪の原版洗ってる  中村迷々亭

アカシックレコードがどうのとあほなことを書いてしまったが、これはやはり、作者個人の、記憶の洗い出しに他ならず、こころのスクリーンに映し出される映画館に、自らの記憶を大写ししては反省を迫られている・・慙愧の念、悔悟の念、痛憤の念、いやそんなこわもての漢字をならべずとも。えいがかん。つみのげんばん。わすれられないことばだ。

この作者を全く知りませんが、乾杯の句とともにこの句も心に響き心に残りました。 

参考:http://homepage1.nifty.com/akashic/index1.html

 

 

  

  

 

2006年5月 1日 (月)

安西均の詩を二編

 3・25付「恋の語彙」でとりあげた詩人・安西均(1919-1994)の「朝、電話が鳴る」を、きのうたまたま大岡信編「現代詩の鑑賞101」(新書館1996年刊)のなかにみつけました。おそれながら全編引用いたします。安西均の数ある詩のなかで本作品を正当に高く評価された大岡信氏に深い敬意を表しつつ。

     朝、電話が鳴る

               安西 均

 洗濯機にスイッチを入れるころ電話が鳴る

 あのひとはまだ上半身しか夜を抜け出ていない

 遠くでうなる製材所みたいな音をたて

 電気剃刀で顔を撫でながら同じことをいう

 「アパートでひとりぐっすり寝たさ」

 「きみのこさえたハム・エグスが食べたい」

 そんならあれを誰だというつもりだろう

 背中あわせに壁のほうを向いて

 いまブラジャーを着けているのは・・・

 電話さえしなければ嘘はばれないのに

 だけど電話の鳴らない朝は私は毀れた洗濯機だ

 自慢していい 私は仂き者だから

 せっせと毎朝 きのうを新しくする

 庭いっぱいお天気をひろげるのが好きだ

 とっくに子供は風に吹きちぎられそうにして学校へ行った

 夫は固いカラーに顔をしかめてバスに乗っている時刻だ

 あのひとは十日か二週目にさびしい街へつれ出し

 耳とか口とかところかまわず指を突っこんで

 私を裏返しにしてくれる。

            (第二詩集『美男』1958年所収)

 

 もう一編。これも最後の一行の魅力は絶品です。上と併せ安西詩の双璧だとおもいます。 おや。題が似てますね。色好みのダンディー詩人は涙もろい老人になっています。

      朝、床屋で

                 安西 均

 春めいてきた朝。

 理髪店の椅子に仰向けになり、

 顔を剃(あた)ってもらってゐる。

 ラジオは電話による身の上相談の時刻。

 どこにもありさうな家庭のいざこざ。

 だが、どこにも逃げ場がない、と

 思ひこんで迷ってゐる、涙声の女。

 

 つい貰ひ涙がこぼれさうになるのを、

 唾をのみこんでこらへてゐるが、駄目だ。

 こめかみを伝って、耳の孔に

 流れこまうとするのを、自分では拭へない。

 すると、剃刀を休めたあるじが、

 タオルの端でそっと拭いてくれた。

 何だか失禁の始末でもしてもらった気分だ。

 椅子ごと起されると、鏡の中から

 つるんとした陶器製の顔が、

 わたしを見つめてゐる。

  ーーーいいんだ、それでいいんだ。

 さう言ってゐるやうな澄まし顔だ。

 何がいいのか、よく分らない。

          (最晩年の詩集『指を洗ふ』1993年所収)                      

  

 

 

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