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2006年5月16日 (火)

玄奘と九条2-未来義務分詞

きのうのつづきです。

稲津紀三『世親唯識説の根本的研究』より

 それでは、アヨージャ国は、その理念を、どこから得たのだろうか、仏陀の教えからか、根本的にはそうなるだろうが、直接には、阿育王の法勅(ダルマ・リピ)にあらわれた正法国家の理想が、マウリヤ王朝の崩壊後、一小王国に、凝集された形で受け継がれた、と考えてはいけないだろうか。アヨージャは、文法上、未来義務分詞とよばれる構成でー「戦わるべきでない」-という意味で、哲学上の当為(ゾルレン)をあらわす言葉になる。国名が当為(法)をあらわしている。しかし、よく考えてみると、ただの当為ー「まさに何々すべし、或はすべからず」-と少しちがう。それは、漢訳語の「不可戦」を出してみると、はっきりする。不可戦ならば「戦うべからず」と読むのがふつうで「戦わるべからず」とは読みにくい。同種の語法に「不可思議」がある。

 ”不可思議(アチンティヤ)”は、仏教の奥義を言いあらわす言葉の一つである。釈尊がはじめてこれを出し、その後その趣旨が受けつがれ、日本の親鸞に、その用語が、特によく生かされている。

 「無義をもて義とす、不可称・不可説・不可思議の故にと、仰せさふらひき」等。

 アチンティアは、釈尊自身の正覚された「未聞法(みもんのほう)」を説かれるとき、それは、無明(むみょう)におおわれた常人の心識を以てしては、「思議せらるべからざる」ところ、或は「思議せらるべきでない」こと、という意味で用いられている。ところが、漢訳の「不可思議」になると趣がちがってくる。それは「思議すべからず」と読むのがふつうで「思議せらるべからず」とは読みにくい。人々はながい間、何となく「思議すべからず」という読み方をしてきたのも、仏陀正覚の「法」を見失う一因になったように思われる。

 もう一つ、恰好の例をあげておきたい。『阿弥陀経』で、仏陀が登場して、衆生に、彼(か)の国への願生を勧めるところで、漢訳では「応答発願生彼国土」と出ている。それは昔から「まさに彼の国に生まれんと発願すべし」と読んで、誰もあまり不審をもたないできた。そういう表現が三ヶ所ある。それは梵文では「彼国こそ衆生によって願われるべきである」となっている。前者だと、発願すべき主体者が衆生になる。後者だと、「阿弥陀仏の本願の報土」という、とてつもない広大無辺の法界が、衆を否応(いやおう)なしに引接(いんじょう)する趣きを表現する。親鸞の”自然(じねん)”の説が、よくそこをとらえている。

 「自然とは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、如来のおん誓ひにておのづからしからしむるを自然とは申す」

 親鸞だから、そこまで行けたのであるが、それでも、用語としての不可思議の問題は、なお解決されない。

 思うに、サンスクリットの、未来義務分詞とよばれる「・・・せらるべき」「・・・せらるべきでない」という語法は、他の国語に類例を見ない特異な語法と言えるのではないか。「・・・すべき」「・・・すべきでない」という語法が、人間の当為を表現するのなら、前者はそれよりも次元の高い、いうならば天則の当為を表現する語法であろう。言語そのものがそれだけの精神内容を内包していて、その精神内容が、仏陀によって実現され、したがって、用語としても、仏陀によって完成されたと、言えるのではないだろうか。

 私は”アヨージャ”の国名に心をひかれてここまできたが、それがはからずも「日本国憲法」の戦争放棄の理念を擁護する結果になったようである。天則の当為として。 

 六 かさねて戦争否定の国名について

 アヨージャ(ayodhya=a-yudh-ya)は、言語上「武器を以て戦わるべきでない」という意味だとして、それを国名にしていることについて、もう少し考えておきたい。「戦うべきでない」でなく「戦わるべきでない」という微妙な表現になっていることは、前節に注意したとおりである。

 その国名を、その国自身において、本来どういう意味に用いたのか、そこに、どのような主張が含まれていたのか、等々の事を知りたいと思っても、はっきりしない。それだけの資料がない。その国つくり当初の指導者ー国王か国師のごとき人ーの言説でも残っていないかぎり、判然としないのが当然である。このような場合、時代的にも近い所に、何か確かな例証があれば、それとのかかわりにおいて、ある程度を推測ー推定とまではいかないーすることができる。その大きい先蹤(せんしょう)を、マウリヤ王朝の阿育王(アソカ王)に見ることができる。アヨージャ国は阿育王の落とし子と言えるかもしれないのである。

 阿育王のことは、王自身に語ってもらうのが最善である。というのは、王が、石柱や巌壁を磨して、それに自己の願意を刻文して、広く国中の辺境にまでも布告した”ダンマ・リピdhamma-lipi”(「法誥のりのつげ」)が、前世紀中葉から今世紀初頭にかけて発見解読され、ヴィンセント・スミス(1901)とフルチェ(1925)の英訳によって世界に紹介され、阿育の生涯とその時代が明らかになった。それを王自身の言葉で語ってくれるのである。

 およそのりんかくを見ると、阿育(無憂)は、マガダ国のマウリヤ王朝第Ⅲ世として即位した時は、全インド統一の雄図を抱いていたと思われる。それは武力による征服で、そして八年後、南方カリンガ征服の後、烈しい殺戮戦争を行ったことの罪悪を懺悔し、廻心して仏陀に帰信し、僧伽に親近(しんごん)して自ら優婆塞(うばそく)となり、その後、人間として仏陀の「等正菩提にはげみ」、国王としては「武力による勝利は罪悪で、法による勝利が真実の勝利である」ことを宣言し、「一切の人類はわが子」という王者の心から、人々の永遠の福祉のために仏陀の正法を信行すべきことを訓告する。・・・詳しくは”法誥”を直接およみいただくよりほかにない。

 フルチェの”法の誥”全文の邦訳が、島地大等師監修の『真宗聖典』(明治書院版)に収録されている。邦訳そのものは、故白井成允先生若き日のご労作である。ところが、どういうわけか、そこでは”法誥”が”道誥”になり、文中の「法」もみな「道」になっていて、読者を戸惑わせる。思うに、その頃日本の学界では、仏陀の法の意味がよく理解されていなかったらしく、一般にもわかりにくいので、より解りやすいようにとの配慮から、法を道に替えたのだろうが、かえって混乱させた。これは、どうしても法でなければならない。この一事を別にすれば、白井先生の訳は、立派な貢献であった。

 タゴールは、中年以後、仏陀に近づいていくが、自国古代の阿育の”法誥(のりのつげ)”は彼を感動させ、それは、彼の仏陀観をいっそう深いものにさせた。(つづく)

参照) 島地大等師 http://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000210612230001

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