無料ブログはココログ

« 安西均の詩を二編 | トップページ | 水上源蔵という名の言霊 »

2006年5月 2日 (火)

点鐘116号

 堺市南旅籠町の墨作二郎さんより「点鐘」116号を頂きました。

 スミサクさんといえば、私にとっては「連句誌れぎおん」の表紙絵やカットでおなじみのモダンな画家であります。川柳について何もしらないくせに好き勝手をほざく横着者のわたくしめにも、毎号新鮮な川柳をお届けくださるスミサクさんのこころの広さを奇貨として、なにか書かねば罰かぶるようなきぶんになりました。

 「点鐘」はこれ以上はないというほど簡略な造作の冊子です。A4の紙3枚に両面印刷し、それを半分に折って一丁上りの本で、徹底的にコストダウンが図られています。それが川柳という文芸にはもっともマッチしているような気に段々となってくるから妙なものですね。スミサクさんのカット、モノクロでもいけてます。

 さて。スミサクさんの連句的選評をよみ、句を読み、作者の名前、土地を知ります。巻頭(というのでありましょう?冒頭におかれたやつです)は、病中吟とおぼしき作品です。

 味覚障害 点滴ポトリポトリかな  西宮市 佐藤純一

 病床で聞くジュピターに癒される     同

 パレットにはやりすたりを溶いてみる   同 

 今にして思えばあれもこれも疑似餌    同

 わたくしの所属する超結社俳句誌「九州俳句」の中村重義編集長が最近、病中吟を『虹の橋』としてまとめ出版されましたが、その句や歌に重なります。短詩型の文芸は、病のときにこそ威力を発揮するもののようです。どうぞご自愛のほど。疑似餌の句は、連句の恋で使いたい。

 限りなく雪舞う火舞う おしらさま   松原市 本多 洋子

 色彩ゆたか情感ゆたか。畳み掛けるリズムが絶品。

 紺碧の空に頭突きと突き指と    湖南市 平賀 胤寿

 どんどんと近づく口笛の女       同

 午前四時午後四時糺すもの糺す   同 

 謎がある。一句目はサッカーの景か。どんどん近づく女はこわくていやだ。そして四時の点検はいったいなんであろうか。知りたい。

 奈良を歩くと枕詞がついてくる  神奈川 渡辺 隆夫

 安保とは上げ膳据え膳引越しソバ   同

 芽柳や粗母が贔屓の歌右衛門    同

誤植かな粗品のようなそぼのもじ。全共闘世代、よかです。

 パステルカラーは中性洗剤を使用  草津 畑山美幸

能書ではありませんか。ではあの空のいろも。

 夕暮れの薄ぼんやりと薄むらさき   札幌 松田悦子

 たそがれを横にながむる月ほそし   杜國

 いかなごの釘煮そこここ春気配    尼崎  春城武庫坊

( 二重季語、川柳はいい。俳句ならチョークがとんでくる。)

 よく転ぶ足いとおしく撫でてやる   尼崎 春城年代

 春の雨は市松人形の耳打ちです   同

 少年の箱少年の部屋にある   千葉 西秋忠兵衛

 嘘のない痛みをしまい込んでいる  堺  里上京子

 蔀(しとみ)戸に貼りつくねばっこい願文  高槻 笠嶋恵美子

 セザンヌの山は故郷を向いている 大阪 井上恵津子

 映画館 罪の原版洗ってる  札幌 中村迷々亭

 おお。このひと、前回引用した「黒い土から乾杯が盛り上がる」の作者(3・7付「乾杯」参照)ですね。この句もさすがにいいです。写真師が現像する部屋(暗室)にこもってる姿を重ねる。そしてまた、時の重層(こども時代からの体験が透視されるような)宇宙にあるというアカシックレコードを集めた映画館みたいなイメージです。 

 頬杖も疲れた根雪重すぎて  弘前 北里深雪

 じゃが芋を放置している雪の果  同

 借りものの男長靴 春の泥   同

 会話したくなる句。名前負けしない句。借り物なのは男用の長靴。百姓として聞きたいのが放置じゃがいも。凍薯(いていも)になるのですか。味はどうですか。倉本朝世さんがおっしゃったとおり川柳ではじゃがいもは芋でいいんですね。(俳句では芋と薯を区別するので。芋→里芋、サツマイモ。薯→じゃがいも)

 ごしょ芋も食べきる新芽とりながら 札幌 桑野晶子

 「ごしょ芋」どんな芋でしょうね。映画「県庁の星」みました。安売り惣菜のコロッケは低賃金パートが賞味期限切れの芋の芽をとって作っていましたが、あんなのは百姓や田舎人にはあったりまえの常識であり、霞ヶ関のお代官様が目くじらたてることの方にびっくりしました。いつのまにこんなに日本人はぜいたくになっちまったんだろう。

 神々の山 菜の花の相聞歌  橘寺にて  墨作二郎

 風の飛鳥は鬼のざわめき 笑い声  同

とても雰囲気あります。でも、上品ですね。上品すぎるか。

あれ。もうおわり?あらら、一枚ぬけてる!ほんとうにごめんなさい。

追記:(5・6記)

この文章を書いてから、ずっと中村迷々亭の句が気になって頭からはなれない。

 映画館 罪の原版洗ってる  中村迷々亭

アカシックレコードがどうのとあほなことを書いてしまったが、これはやはり、作者個人の、記憶の洗い出しに他ならず、こころのスクリーンに映し出される映画館に、自らの記憶を大写ししては反省を迫られている・・慙愧の念、悔悟の念、痛憤の念、いやそんなこわもての漢字をならべずとも。えいがかん。つみのげんばん。わすれられないことばだ。

この作者を全く知りませんが、乾杯の句とともにこの句も心に響き心に残りました。 

参考:http://homepage1.nifty.com/akashic/index1.html

 

 

  

  

 

« 安西均の詩を二編 | トップページ | 水上源蔵という名の言霊 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 点鐘116号:

« 安西均の詩を二編 | トップページ | 水上源蔵という名の言霊 »

最近のトラックバック

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31