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2006年4月26日 (水)

永井菊枝氏の話

  「思い出あれこれ」

          永井 菊枝

 地震ごっこ

 遠い幼い頃のおぼろな霧の中に浮かぶ最初の記憶はあの大正十二年九月一日の関東大震災である。父が台所で、好物の天プラを揚げ、家中に食べさせ昼食の真最中、全く突然にドスンと突き上げ、ガラガラと揺れ、壁が崩れ始め、皆ハダシで庭に飛び出した。私は高い縁側から飛下りる事が出来ず、一人つっ立っていたのを、奥から走り出て来た古山のお倭文ちゃんが、さっと後ろざまに抱きかかえて飛下りてくださった。夜は庭の葡萄棚の下に蚊帳を吊って家中が身を寄せ合って寝たのが、幼心には楽しかったが、きぬ子姉だけは、遠くから聞こえる笛の音か何かを大層怖がって「ピーッて言うのなあに?」と繰り返し繰り返し言っていたのをはっきりと思い出す。地震のあとは当分の間、下の家(三郎家)の俊ちゃん、昭ちゃん達と地震ごっこだった。「地震だっ」と言うと、俊ちゃんが「小父さんいるかいっ」と緊迫した声で叫び、昭ちゃんか私かが「チンワン瓦にぶつかった」と叫ぶ。(チンワンと言うのは、小さい達夫くんの持ち物だった玩具の子犬の名前)すぐに俊ちゃんが懸け付けてチンワンを助け出しおぶって逃げる。きまって繰り返すこの筋書は俊ちゃんが考え出したものに違いない。今どきの防災訓練よりどんなにか迫真力のある地震ごっこだった。それだけ子供心にも大地震のショックは大きかったのだろう。

 とんぼ捕り

 大正十四年の春、同い年の昭ちゃんと私は竹早町の女子師範附属小学校の試験を受け、二人とも合格だった。きぬ子姉と下の家の英ちゃんとが、矢張り同じ竹早町の同級生で毎朝仲よく一緒に出掛けるのを羨ましいと思って見ていたから私達は大喜びしたが、やがて昭ちゃんは高師の附属にも受かって、そちらへ行く事になってしまった。昭ちゃんは駆けっこも早いし勉強もよく出来て、胸に級長のしるしの赤い組紐の花などつけていたから、私は彼を大いに尊敬した。その上、虫捕りが大好きだったから、子供の頃腕白でとんぼ捕りの名人だったと言う父のお気に入りでもあった。夏の夕方、珍しく早く帰って来た時など、父は「お、昭公やってるな。よし、伯父さんが捕ってやる」などと、猿股一つで庭に出て来て、馴れた手つきでもち竿にもちをねじりつけ、すぐにいっぱい捕ってくれる。すごく大きい「鬼ヤンマ」、少しスマートな「銀」(銀ヤンマ)銀のメスで胸が茶色の「茶ン目」など上等なのばかり。茶ン目はメスだから、これをおとりにして、銀を呼び寄せる事が出来る。銀しか取れていないと、父はその辺のヤブカラシの緑茶色の葉っぱをちぎって銀の胸にはりつけ、茶ン目の様に見せかける。これを別の長い竿の先に糸でくくり付け、私達が振り廻し「ぎーん茶茶ン目の子、あっちへ行くとエンマが睨む、こっちへ来ると許してやーるぞ」(その頃そんな童べ唄があったのか、それとも我々の創作だったのか、それは知らない)と空へ向けて合唱する。すると、不思議にも、にせの茶ン目に引き寄せられて銀がやって来るのを、すぐに父がつかまえるのだった。昭和初期までの大塚には、まだそんな牧歌的な風景があった。父と遊んだ僅かの貴重な思い出だが、それを語り合える昭ちゃんも今はもう亡い。

 一高の三チ

 古山の綾夫さん、丈夫さんの二人は、東京へ遊学中、しょっ中大塚へ現れた。後年わが義兄という深い御縁になった綾夫さんの慶応時代の事は、まだ小さかった私には全く憶えがない。丈夫さんは一高の入学前から家へしばしば見えて父のお相手をしていた。試験前、父が「どうだね、一高は」と聞くと、丈夫さんは「入ります」と只一言。父はあとで、「丈夫はえらい。入れますじゃない、入りますなんだから。きっと受かるよ」と言ったが果たして見事にパス。そして、例の本郷の汚い寮(二月の記念祭の時見せて貰った)に入ってからも度々遊びに見え、私達はそのまわりにまつわって、一高の寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」や「春爛漫の花の色」などを教わったり、「オンチ、モチ、ダンチは一高の三チ」などと新知識を授かったりした。(オンチは音痴から来て一般にアホの事、モチは勿論の略、ダンチは段違いに、の上の三文字、という風に理解していますが、正解、或は語源はどうだったのでしょうか、丈夫さんに伺いたいと思います。)一高から東大を卒業して、水戸の県庁へ行かれるまでの六年間、文字通り丈夫さんは円交連中のリーダー格だった。

 ペッチョ

 昭和二年、台湾から古山一家が引揚げて浦和に定住された。浦和にはその前から五郎叔父一家が住んでいたが、古山と両家揃う様になってから、年に一度は浦和を訪れるのが習いの様になった。旅行はおろか、日帰りでもあちこちへ連れて行って貰う事など殆どなかった私達にとって、荒川を越えて浦和まで行くのは楽しみな年中行事だった。円交会の最盛期に、お正月を古山家でも、という年もあったが、大抵は春休頃、浮間ヶ原だか田島っ原だかの桜草の時季だった。浦和に着くと先ず五郎家を訪れる。五郎叔父の家はバラのアーチがあって、芝生の庭があって、旧式な大塚や牛込の家とは全くさま変わり、今でいうマイホームの匂いを子供心にも感じた。円交仲間では年少の下っ端だった私と妹とは、五郎家の由紀ちゃん、清ちゃんと遊ぶと少し偉くなった様な気がした。芝生でみんなで足を投げ出して、清ちゃんの玩具のペッチョという子犬も一緒に、五郎叔父さんのカメラで写真を撮って頂いたりした。「ペッチョ」とは、多分「お気に入り」という意味で叔父さんがPETと名付けられたのを、清ちゃんが廻らぬ舌で「ペッチョ」と言いならわしたのだろうとは、女学校で英語を習う様になってから、漸く合点した事だった。大塚時代の我々の「チンワン」より大分ハイカラな話である。(後編へつづく)

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