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2006年4月 7日 (金)

音楽家・乙骨三郎 2

(きのうの正木みち氏の文章引用のつづきです。なお、乙骨三郎を「音楽家」としておりますが、教育者の肩書きのほうが合っているかもしれません。)

 私が女学校を出て専門学校に行く時、絶対にとはいわなかったが希望は津田塾のようであった。私は女高師の理科へ行きたい気持があったが、高師は卒業後義務年限があって、地方のどこへやられるか判らないから離したくないという事で反対だった。ピアノを習いたいと言った時も、ピアノをやって音楽学校へ行って一流になるには健康が許さないし、お嬢さん芸でやるなら反対という事であった。津田か聖心女子大が一番よい学校というので、そのどちらがよいだろうという事で結局津田を受けた。入学試験のあと、問題とその出来栄えを私に言わせて「それならまあ入れるだろう」と言った。自分としてはとても駄目だと思っており、発表も母に見に行って貰った位だったが、合格を知った時、お父さんはやっぱり専門学校の先生だから、試験の合否の見当はつくんだなとひとり感心した。

 退官については、それに関する色々な事は余り聞かされてはいなかったが、父としては五十才にもならない年齢で、まだまだ勤めていたかったであろうと今にして推察する、しかし欠勤もながくなって辞めざるを得なくなったのであろうと思う。退官後は健康に留意しつつ奥の八畳間を書斎として音楽史の完成に取り組んでいた。もっとも、音楽史については、下の家に居る頃から取り組んでおりその頃からしばしば、太田太郎氏や高橋均氏が手伝いに来ておられた。昭和八年ころには当時音楽学校の学生だった福地静枝叔母(母千代の妹)も時々手伝いに見えていたし、中学を出て浪人中の弟俊二などもよく手伝っていた。

 私は昭和七年三月父の病気療養中津田を卒業したが、当時最高の就職難の時代で、暫くは今で言うアルバイトなどした後、昭和八年一月から川崎第百銀行外国部に勤めることになった。たまたまその頃の外国部の部長八杉直氏が、姉上がもとの音楽学校長湯原元一氏の奥様であったと言うことで、乙骨三郎の名も知っていて下さったりして、父も喜んでくれて、八杉部長にお礼の手紙を出してくれたりした。

 戦後医療も発達し、よい薬も沢山出来てきて、今や肺結核という病気も過去のものとして一般に殆ど関心も持たれなくなって来ているが、戦前は何より恐れられていた病気である。父は当時としては随分高価な薬なども手に入れて養生していた様だが、いつも隣に住む富田医師を信用して彼に任せ、別に入院することもなく、家で母の看護のもとに療養していた。今だったら決して死ぬことはないであろうような年齢で満五十三歳で他界した。日頃父に甘えて色々話をしたなどという事は一度もなかったが、一人娘の私をかわいがってくれた父、お父さん程偉く、愛すべき人はこの世にないと思っていたその父を失った悲しみは今なお忘れられない。仏壇の前でひとり長い時間じっとしていたものである。大塚辻町の八畳間で行ったお通夜や葬儀には、音楽学校関係の方達は勿論のこと、親類、近所の方そして私の勤務先の銀行外国部の部長以下同僚殆ど全員、昔の先生や友人が来て下さった。父が何より好きだったシューベルトの未完成交響曲のレコードをかけてあげた。

 父はそれ程色々な事を話してくれたわけではないけれども、日頃のいろんな言葉の中で人生に対する考え方も教えられたようだ。女学校を卒業したら、先ず嫁入り修業というような考え方がまだまだ多かった時代に父は女でも勉強しなければ駄目だという考え方で私を専門学校に入れてくれた。何と有り難い事であったろう。父の生前教職につけなかった事は心残りだったが。

 父は「やがて肉体的に死ぬことになっても、本でも書けば二十年位は生きのびることが出来る」といっていた事がある。父の死後五十年以上たつ。今なお私の心の中には「四つ葉のクローバ」「氷滑り」などの歌が生きており、昔の文部省唱歌中の「鳩ぽっぽ」「池の鯉」「汽車」などは世の一般の人達の心の中にもなつかしまれ、生きつづけている。

   「半二伯父・五郎叔父の思い出」

       正木 みち(太郎乙三男三郎の長女)

 親の思い出は色々あっても一般に伯父達の思い出というものはそれ程はっきりしてないのが普通だろう。私の場合かなり色々の思い出があるというのは、すぐそばに一緒に住んでいたという理由からであろうか。

 半二伯父は父より五才上というから、明治九年(1876)生まれ。「半二伯父さんは九つの時中学に上った」と昔母から聞かされた憶えがある。明治の始めで、日本の近代学校制度がやっと始まったばかりの頃の筈だから、そういうこともあったのかと思いながら聞いたものだ。

 伯父は検事という職業であったから、世間一般には何か怖い仕事に思われた。大塚時代の伯父について言えば、しじゅう会うわけではないが、夕方など伯父が役所から帰られる時など見かけた場合、矢張り子供にはこわい伯父さんに見えた。ところが、このこわい伯父が夕方お酒を飲むとすっかり変わってしまう。伯父はお酒が好きで毎晩一升近いお酒を飲んだ。飲むとすっかり機嫌がよくなり、陽気になられた。そんな伯父の姿が半世紀以上たった今でも思い出される。そのお相手のおしゅん伯母は大変だったろうなと子供の頃でも思ったものだ。仕事の方では鬼検事と言われる程腕をふるった伯父もお酒を飲んだ私生活ではすっかり人が変わって色々な逸話もあった様だ。大塚の近所の豆屋の豆を全部買ってまいたとか、神楽坂を裸で走ったとか、断片的な事を聞いた様な憶えがある。

 下落合の家に引っ越されたあとや、戦時中富士見に疎開されていた頃の晩年の伯父はもの静かな老人であった。

 五郎叔父のことについても、割合に早い頃から記憶がある。私が物心がついて小学校にはいった頃は、大塚上町の家に住んでいたが、その頃五郎叔父は上の家の離れの方に、とく叔母ろく叔母(※どちらも太郎乙の娘。引用者註)と一緒に生活しておられたのを憶えている。その後叔父は旧制岡山高校に勤務され、若いきれいな叔母(お美津叔母)と結婚された。その後新潟、次いで浦和高校に来られた。

 昭和五年に三郎宅が大塚の上の家に移った時、敷地を二分して片方に五郎叔父が住む様になってからは接することが多くなった。乙骨の兄弟が皆そうであったが、五郎叔父もあまり社交的ではなかった様な気がする。日曜日にはよく一家で外出するようなことはあったようだ。五郎叔父は私の母千代の一才下であったが、父が亡くなってからは母は何かと五郎叔父をたよりにしていた。私の結婚後、昭和十三年、母達が東長崎に移り住む様になってからも、当時一高在学中の弟昭三があまり勉強をしなかったということで五郎叔父には随分心配をしていただいた様である。その後私は神戸に行き、戦争は激しくなったりしたことで疎遠になり、五郎叔父の晩年については余り詳しい事は知らない。

※引用文中の「大塚の上の家」という言い方ですが、これは上の家=乙骨半二宅、下の家=乙骨三郎宅、です。当時は一族がなるべく近くに住む慣習があったようです。あした引用予定の正木みち氏「大塚・上の家下の家」と題する文には晩年の太郎乙おじいさんの懐かしい記憶から始まり、江戸時代をひきずる昔の東京風俗の秀逸なスケッチが生き生きと描かれています。

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