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2006年4月 6日 (木)

音楽家・乙骨三郎

今週は再び「円交」からの引用をつづけます。

乙骨三郎については一つの疑問があります。それはこれまで円交から引用をしたなかに、資料提供者永井菊枝氏が山梨文学館の会誌用に書き下ろされた御文章がございました。その中には太郎乙の子孫それぞれの簡略な紹介があったのですが、三郎のなした仕事のひとつに童謡の作詞があり、「はと」「汽車」「池の鯉」「日の丸の旗」・・と書かれていたのです。ええっと驚きました。すばらしいです。しかし、パソコンで検索しても「日の丸の旗」は別人の作詞です。それがずっと気になっていて、なぜなんだろう・・と思っていました。『円交』をていねいに読みますと、その謎も解けます。どうぞ最後までお付き合いください。なお、私は童謡の中で昔から「うみ」が一番すきでした。これは乙骨三郎ではなかったですが、今回童謡をしらべるうち、作詞者も作曲者も知ることができ、ふしぎな気分をあじわいました。あのうたを聴き、くちずさめば、涙がでるのですが、それは私だけじゃなかったようです。次のサイトを開いてください。ここに登場する正木みちさんも出ておられます。「汽車」のうたです。(「うみ」はなぜか表記が「ウミ」です。カタカナ表記の歌詞っていうのは哀しいですね。http://www.mmjp.or.jp/MIYAJI/mts/nihonnouta.html

 「父乙骨三郎の思い出」

       正木 みち(太郎乙三男・三郎の第一子で長女)

 父乙骨三郎については、昭和四十八年一月に昭和女子大近代文学研究室から発行された近代文学叢書第三七巻に詳しく書かれているから、一般的な業績などについて書く必要はない。娘としてありし日の父を懐かしみつつ思い出すままに書いてみたい。

 父は一八八一年つまり明治十四年生まれだから、今年昭和五十六年(一九八一年)はちょうど生誕百年にあたる。私が長女で女の子は一人、あとは弟五人だから私は一人娘として父にとってはこの上なくかわいい存在であったようだ。外でどのようであろうとも家庭に於いては只々子ぼんのうの父であった。

 私が小学校に入る前、学校に行くようになるのだから、手頃な机と本箱を買って上げようといい、「手頃な」の意味を教えてくれたのが物心ついてからの最初の思い出のようだ。

 小学校一年の十月三十一日(当時の天長節祝日)に音楽学校の学生さん達の菊見の遠足だかがあり、父が私を連れて行ってくれて学生さん達にかわいがって頂いた思い出がある。

 教師だから毎日の帰宅は五時頃までであって、夕食はいつも父と一緒であった。毎夕食の時一合の晩酌をとる習慣であったが、何かしら本を読んでいて、子供達と話をするということは殆どなかった。併し子供をかわいがることは人一倍で、夏などは夕食後両手に子供をぞろぞろ引き連れ散歩に出て、何かしら玩具を買ってくれるというふうであった。弟が沢山居たから母は殆ど外出することなく、私の年一回の父兄会にはいつも父が来てくれた。

 たまたま家にお客様が見えたりして、その場に私が居たりすると、「この子は津田梅子さんの塾に入れる」など、幼い私をさしてそのようによく言っていたので、子供の頃から津田塾に行くものだというように考えていた。

 当時音楽学校の奏楽堂で学校の定期演奏会があったり三月の卒業演奏会には父は娘の私だけを連れて行ってくれた。父は図書館の主任をしていたので、学校へ行くと、いつもその図書館に連れて行かれ、音楽会が始まるまでそこに待たされていた。今芸大の奏楽堂の処置について新聞などに色々書かれたりしているが、何回も連れて行って貰ったあの奏楽堂、私でさえこの上なく愛惜の気持を抱くのだから、父が生きていたらどんなに懐かしく思うことだろう。

 父は男の子達は文学方面に進ませたくなかったようで、皆理科へ行けといっていた。自分のやった事はやらせたくないという気持らしい。子供はかわいがったが、直接話をするということは殆どなかった。だから父に話しかけるなどということは余りなく、一目おいていた感じだ。現代とちがって昔は一家の主人とは何となくそういう存在であったようだ。夏休みには二、三回どこかへ遊びに連れていってくれた。子供を休み中にどこかへ連れて行くというのは、家事と育児に追われている母には出来ないからという事で父の義務のようであった。

 夕食後父はよく二階で歌など小声で歌っていたものだ。学校の試験期には、夜ふとんの中で横ばいになりながら、独り言を言いつつ、ざら紙の学生の答案に○をつけたりしていた。後年自分が生徒の四百枚にもわたる答案の採点をする身になって、昔の父の採点姿を思い出し「お父さんなんか、何十枚の採点をすればよいのだから楽だったろうに」など思ったものだ。

 父は明治三十七年九月に東京帝大文科哲学科を出て、そのあと大学院で美学を専攻し、一時母校の開成中学に教えたこともあったようだが、明治四十年東京音楽学校のドイツ語教師の嘱託となり、翌四十一年から教授として勤め、ドイツ語、英語、後には音楽史や和声学なども教えたようで、そのほかに色々の音楽関係の掛も仰せつかり忙しかったようだ。図書館の主任もやり後に同校に臨時教員養成所が設けられると、そこの教務主任も兼ねたので、卒業生の就職の世話も随分していた。この卒業生の就職の面倒を見たりしたので学生との接触が増したのだろう、卒業生がよく挨拶に見えたりしていたものだ。

 後に私が女学校の頃、東北帝大に招かれて音楽史や美学の講義に二週間に一度、仙台まで一晩泊りか二晩泊りかで出掛けていた。今の様に汽車の時間も短縮されていない頃だから、かなり疲れたのではないだろうか。

 父は呼吸器が弱かったので子供達の健康には特別心配した。身体を丈夫にするために「雑巾掛け」が一番だといってよくさせられた。女学校に入ってからはテニスをすることをすすめてくれた。この女学校時代にテニスをしたことが後になって私の人生にどれ程うるおいを与えてくれたことか。大いに感謝している。女学校の水泳部にも参加するよう、すすめてくれた。私が自分の健康に気をつかい何とか過ごして来られ、この年まで丈夫でいられるのは、こういう親の心配があったればこそと思っている。

 父は大塚の家から上野の音楽学校まで、市電(後の都電)で上野広小路まで行って、上野の山をのぼって学校へ行っていた。それで帰りにはよく上野の山下でせんべいや人形焼のようなものをおみやげに買ってきたりした。併し、いつからか省線電車(今の国電)が都合がよいと判りその方に切りかえた。辻町から大塚終点まで歩き、省線で鶯谷まで行き、そこから学校へ行くようにした。併し退職するすこし前には、疲労も多かったらしく、時々車をよんで学校に行ったりしていた。

 学校の勤務のほかに、音楽関係の本に色々原稿を書いたりしていたから、本屋さんの訪問もよく受け、原稿の催促などもされていたようだ。(後編へつづく) 

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コメント

正木みちさんは本もだされていたお方だったのですね。明治時代の世界大博覧会へ日本も出展したのですね。その英文案内をふたたび和訳したものらしくて。どこであったのかといいますと、フィラデルフィア。
では、連句的。
今年の八女市老連広報、山内の木附大子おばあちゃんはいったい何を書いておられたでしょうか。
「大阪万博見物記」でした!これもうつさねば。

乙骨三郎

今この検索用語でひきますと、二万件以上あがります。これを打ち込んだころは皆無に近かったのですが。
一番目のウィキ記事です。☟
昭和女子大のあの記事、菊枝さんが送ってくださったものは貴重なものだったんだなあ。と思います。

昨日これが三番目に多く読まれていた

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