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2006年4月13日 (木)

西片町界隈「のて」と「まち」

昨日、引用を続けている正木みち氏「円交会の歴史」を入力して、予約投稿として保存しました。そうしたら今朝、その原稿が消滅していました。・・あの時間とエネルギーはどうなったんだろうとしばし呆然。しかし、私は立ち直りが早いです。これは入力の順番を変えろという指示だと受け止めました。というわけで、今朝は土方辰三氏(太郎乙の次女の娘婿)の文章を取り上げます。先日は大塚という地名とその界隈について何となくイメージが湧くようになりましたが、今回は西片町という地です。大塚は「儒者棄て場」という墓所があったりしましたが、西片町はどういうところでしょう。

  西片町界隈「のて」と「まち」

            土方 辰三

 私は1904年(明治37)東京市本郷区西片町十番地ほノ三号で生まれた。西片町にあるのは十番地ばかりで、一番地や二番地が何処にあるのか、又始めからないのかよく知らない。この辺はもと備後の福山藩阿部家の屋敷のあったところで、維新後藩の人たちが阿部家から土地を借りて家を建てた。篠田という白壁の土蔵のある差配人の家があって、地代を集め、便掃の世話までしていた。私の家の西百メートルばかりに誠之小学校があり裏手に幼稚園があった。筋向いの交番のところを南に行けば阿部邸で、その近所にあとから、佐々木信綱博士や今日出海氏のうちが引越して来た。心理学者高島平三郎博士の家もあった。一高や帝大(東大)が近いため、福山藩士以外の学者が段々増えて来た。酒井という一高の数学の先生の庭の池のところで遊んだことを思い出す。浅井忠画伯や後の小穴隆一画伯の家は姉や兄がよく遊びに行っていた。上田敏博士の家も近所にあったらしい。二、三才のお嬢さんがちょこちょことよく遊びに来られ、母が「あなたのお父さんのお名前は」と聞くと「上田敏」と答えたと笑って話した。これが今の東大教養学部長嘉治元郎さんの母堂であろう。裏に岡俊太郎という碁の名人がいて、よく来て祖父や父と碁を打った。この人は、鷗外が研究に没頭した井沢蘭軒の親戚の学者、岡寛斎の子で、陸軍省につとめていた。その子孫は理論物理学者の岡小天氏である。藩士の家の床の間には大抵、茶山、松林、介石等の軸物が懸けてあり、刀だんすには五、六本の刀を蔵していた。大震災の際自警団を組織した時、みな腰に大小をたばさんで現れたのでそれが判った。東片町の方向にでると、大通りに面して鈴もとという寄席があり、その右手に御岳神社があってお神楽をよく見に行ったが、八岐のおろち退治等を演じていた。その通りをずっと西に行くと銭湯があり、苦沙弥先生の通った湯だと言う人があったが、真偽のほどは知らない。「水風呂へへえりやがれ」というような熱湯好きのタンカも聞かれなかったが、「小桶の御挨拶」のエチケットは、昭和初年頃まではよく守られていた。町全体が白山神社の氏子であって、祭の時は御輿が静静と練り歩き、境内で花相撲が行われた。横綱の常陸山なぞは姿を見せず、小兵の玉椿という力士が一番偉く、片おかめ、電気燈などというコメディアンが子供達を喜ばせた。本郷通り(東大前)に相馬愛蔵、黒光夫妻が中村屋のパン屋を開店し、御用聞きが来て、三時のお八つは中村屋のうずまきパンときまってしまった。団子坂の菊人形、花屋敷、パノラマ、阿部家の園遊会(松井げんすいというコマ廻しの名人がよく芸を見せた)、これらが印象に残っている。本田神社の方に喜田床という床屋があって、そこの職人のことが漱石の小説に出て来るが、これは江戸時代からの髪結床で、そこの先代と私の祖父は親しくして、俳諧や川柳をやったり、時に隅田川で猪牙(チョキ)舟を北に漕がせたりしたらしい。阿部家の鷹の羽の紋所の提灯で市中を歩くと皆道をよけたもんだと、伊勢守時代のよき昔をなつかしんでいた。

 私の父は大蔵省に通勤する腰弁であったが、地方の専売局に転任したので、私も一緒に数年間地方を廻り、帰って来たのは1922年(大正11)の春であった。第一次世界大戦の好景気でもうけた実業家が旧藩士の古家を買い取って、新しい文化住宅(当時そう呼んだ)を建てて、西片町の様子も一変していた。もう我々の住む場所ではありませんと言って郊外に引越して行った学者があったが、それでも所々に知名の学者の家が残っていた。裏の路地には得能文先生が静かに住まっておられ帝大(東大)で哲学を講じた。家の前を本郷通りの方向にすこし歩くと言語学の藤岡勝二博士や俳諧の沼波瓊音先生、笹川臨風先生の家があった。藤岡先生の帝大での言語学概論は、そのグロテスクな諧謔だけでも聞くに値いすると芥川龍之介が折紙をつけた名講義で哲学者の如く言語学を語られた。ゆっくりゆっくり思案しつつ散歩しておられる姿をよく見かけた。

 当時私は浦和高等学校から帝大(東大)文学部に進学した。浦和高等学校で乙骨五郎教授に英語を教わり、級主任としてお世話になり、それがきっかけとなって上田敏を生んだ乙骨一族と付き合う縁が生じた。(後編につづく。)

※入力しながら、私は俳人石川桂郎の「剃刀日記」にある話を連想しました。時代が重なるのと、土地の持つ気配と文体が似ているのです。あまり自分には関心がなく、意識のほとんどが外に向って開かれているような文章といいますか。もちろん、石川桂郎は文人だから、文章はもっとずっと意識的で凝ったものですが、基本のところは何か通じるものがあるようにおもいました。(やはり江戸っ子という事でしょうか。)

参考:西片町:http://www.tcn-catv.ne.jp/~nishi-kata/history.htm

       : http://www.toshima.ne.jp/~tatemono/page012.html

(この参考写真のなかに、なんと「無冠の男」でとりあげた経済学者・田口卯吉の家と明治女学園創始者・木村熊二の家がありますので開いてみてください。)

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コメント

検索サイト Yahoo  検索ワード 高島平三郎

10番目ですが、訪問ありがとうございました。

今、ひょいとアクセスみたら、これが10位。
正月に入手した古書に、太郎乙一族のなかでも、上田敏に関する文章をさらさらとつづってある、吹田順助の「上田敏と樋口一葉」をみつけた。
いつか折をみて、入力したいと思う。
なんなんでしょうね。ふしぎな縁。

岡寛斎 福山

検索で開かれていました。

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