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2006年4月 8日 (土)

太郎乙の大塚の家

 「大塚・上の家下の家」 

               正木 みち

 私達の曽祖父乙骨彦四郎(耐軒と号す)は十九世紀前半の人物であるから、私達は全然知らないのであるが、乙骨家の寺、文京区原町寂円寺の墓地にその墓があり、私達は子供の頃から法事で寂円寺に行く度にいつも伯母や母等から「ひいおじいさんの耐軒先生は偉い学者」と聞かされ、そうかと思ってお墓の前で手を合わせたりしていたから、名前だけは早くから馴染みがあった。併し幕末のすぐれた漢学者としてその道の研究家の方には今も尊敬されている人物だという事などは全く知らなかった。その次の代、祖父太郎乙になると私にはずっと身近な存在になる。私の小学校六年の時に亡くなった祖父は、同じ地続きの邸内におられいつも庭の草むしりをしていた姿が今も胸に焼き着いている。大勢の孫に囲まれたあごひげの祖父の写真も残っており、我々には平凡なただのお祖父さんであったが、この祖父が幕末から明治初年にかけ蘭学や英学を修め、新しい日本にとって必要な新知識を翻訳紹介した偉い人であったという事などは、生きる事に精一杯だった若い頃には少しも知らなかった。漸く生活にゆとりが出来て来たこの頃になって初めて曽祖父や祖父の事跡に関心を向け、その偉さを知るに至ったというわけである。

 祖母継は杉田玄白の曾孫、明治四十三年に亡くなったというから、私の生まれる前年の事で、私はただ写真でその面影を偲ぶだけであるが、祖父にして見れば十余年男やもめの生活であったわけである。太郎乙には五人の息子、五人の娘、そのほか、一番年長に養女たき(甲野)がいたが、そのうち、長男敦(とむ)と四男四郎は幼い時に亡くなったという。私が幼い頃には半二伯父、父三郎、五郎叔父の三人の男、大阪の江崎政忠氏に嫁した長女まき伯母、古山栄三郎に嫁した次女さだ伯母、小室龍之助に嫁した三女ひさ叔母、まだ嫁入らぬ四女とく叔母、五女ろく叔母などがおられた。

 現在の様な核家族の時代ではないから、大塚辻町一番地の、門口は狭く奥へはずっと広くなっている崖地に建った家に半二伯父一家が住み、一寸した廊下を隔てて居間があり祖父太郎乙、そしてまだ一家をなしていない五郎・とく・ろく、が住んでいた。そして一族はなるべく近くにかためておくという昔風の考え方からか、私の父三郎宅は崖地をだらだらと段を下りて下の甲野家の貸家(大塚上町二十九番地)にあった。大正十二年夏、この家の隣になる伯父の所有の家の方に引っ越した。こちらの方も同じく崖下であるから、私達は、半二宅を上の家、三郎宅を下の家と呼んでいた。この上、下、の家の間の崖はかなり広い竹薮であった。地震の時はこの竹薮に逃げ込めば安全と小さい時から教えられていた。この年の九月一日正午近くに起きた例の関東大震災の際には皆この庭にとび出して一両日を野宿したものである。

 この、現在の東京では考えられない様な広々とした場所で私達が過ごした子供時代は全く幸せであった。半二宅には巴、元造、きぬ子、亨二、菊枝、花の六人、三郎宅にはみち、英一、俊二、昭三、達夫の五人の子供がいたわけで、学校から帰れば主として上の家の庭、段々などを舞台に、鬼ごっこ、かくれんぼ、国取り、石けり等、いとこ達だけで人数は充分なので他に友達を呼ぶ必要もなく、学校がすめば塾などという今の子供達には想像もつかぬ古き良き時代を只々遊びほうけた。

 両家一緒に遊ぶのは大体夕飯時までであったが、例外として夜も遊べる時があった。七月十三日のお盆に亡くなった祖先をお迎えする晩と、仝十五日同じくお送りする晩は下の家からは父も一緒に子供達全員上の家に集まり、大勢で門の所から玄関まで両側にならび提灯のあかりで仏様をお迎えし、仏壇に次々にお線香を上げる。そしてそのあと、いっとき他愛もないおしゃべりも出来るといったこの行事は子供達には一つの楽しみでもあった。夏には又、「四万六千日」と「お富士さん」の縁日があった。「四万六千日」は七月十日頃、「お富士さん」は八月十日頃、どちらも音羽の護国寺境内からその付近にかけて縁日の夜店が出る。これも子供達は一緒に行く事が出来た。いつも変わらぬ縁日風景だが、子供達には本当に楽しく、今思っても懐かしくてならない。冬はお正月。元日と二日は夕食後下の子供達は上の家に行く事を許された。百人一首のかるた取りを夜更けまで何回も興じた。読み手は大抵半二伯父であった。よその人達を呼んでこないでも、いとこ達だけで遊べたあの時代、半世紀たった今でも思い出すだけで涙が出る程懐かしい。そのあとが一月四日の円交会だ。これは一年一度昼夜とおして遊べる日だった。円交会については、その由来から発展、盛衰、更に戦後の復活に至るまで、別稿で詳しく述べる事にする。

 祖父太郎乙が亡くなった頃まだ幼かった子供達もその後五年も経ち年号が昭和と変わる頃には、中学校、女学校、更にその上の学校という具合に成長していた。三郎家にも大正十四年生まれの末弟明夫も加わって六人兄弟になっていたし、五郎叔父の所にも由紀ちゃんや清一郎君の様ないとこも増えていた。江崎家では悌三氏が東大を卒業して九州大学に勤務される様になり、その代わり大阪から信五氏が東京に来ていて三郎が保証人の関係もあって度々大塚には顔を出し、円交会の中心になった。

 昭和三年夏には江崎悌三氏が留学先のドイツから帰ってドイツ婦人のロッテさんと結婚されたり、古山綾夫氏と巴さんの結婚などの事もあった。次いで、半二伯父が検事をやめて弁護士を開業され、牛込横寺町に事務所を開き一家はそこに移る事になり、上の家、下の家の関係もここに終わることとなる。だから、大正の大震災のあとから巴さんの結婚される頃までが、大塚に於ける円交のあつまりの最盛期ではなかったろうか。永い間台湾住まいだった古山家も栄三郎伯父がお勤めをやめて浦和に移り住む様になり、古山家の丈夫さん、幸ちゃん、佑ちゃん、富ちゃん達も増えて賑やかになり、信五氏が中心になって円交会は更に楽しく面白いものであった。

 昭和四年五月、半二家が牛込に移られてから、今まで半二家のあった地所が二つに分けられ門から向かって右が三郎家、左が五郎家のものとなった。家は今まで半二家の住んでいたものを譲り受け、離れになっていた二室を切って二階に乗せた。五郎宅は別に新しく造られ、昭和五年十月に引っ越した。

 以上、私達が楽しい子供時代を過ごした土地、円交会発祥の地、東京市小石川区大塚辻町一番地、現在は東京都文京区大塚四丁目となっている界隈について、思い出すままをもう少し書いて見たい。(後半へつづく。)

※乙骨太郎乙一族の私的な交友誌「円交」をブログでご紹介することがはたしていいことかどうか、これっぽっちも考えずただやみくもに始めましたが、昨日いただいた永井菊枝氏からの返書を読み、これでいいのだと思いました。いつになるか分かりませんが、太郎乙には教育に関する建白書というものも残っており、そういう史料も全部、ここで御紹介できればなあと考えています。私にとってこれは銭金の問題じゃない、大事なしごとです。

太郎乙のもう一つの顔、漢詩人としての位置については、今のところ、作品は冒頭で紹介した(1月13日付ブログ)八十賀の祝宴連句の発句しか知りません。それすら私には読めませんでしたので、「連句誌れぎおん」にて、先だってどなたか読み解いてくださいと呼びかけたところ、近いうちにきちんとしたヨミが届けられそうです。「れぎおん」は本当にすごい人々が集っている本です。全的で有機的な連結力があるというかなあ。ほんま、めちゃくちゃすげえです。笑 

 

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コメント

ウィキペディアでの「乙骨三郎」に参照記事として上げていただきました。☟
ありがとうございます。
顧みれば、とても不思議な御縁です。

鈴木助次郎先生、なくなられてました。
お悔やみを申し上げます。

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