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2006年4月15日 (土)

円交の思い出

  「円交の思い出」

        土方 幸(太郎乙の孫。辰三の妻)

 最初の御縁は、小学二年の夏、父の東京出張の折、丈夫兄と二人、一足遅れて上京、数日辻町の家にお世話になった。太郎乙祖父さんとオンチャン(五郎叔父)二人が離れに居られたと思う。亨ちゃんがまわらぬ舌で「オユッカン、オユッカン」と呼んだ事、朝早く市電で不忍池の蓮の花の開くのを見に連れて行って頂いた事、位で、帰途大阪・神戸で米騒動にぶつかり、泊まった父の親戚や友人の宅で夜警に立ったり、焼き打ちのデマに脅かされたりした大変な年であった。

 江崎の悌ちゃんが東大生の時、台湾の昆虫採集に渡台、我が家を基地に全島を廻った夏の事。「何でも珍しい虫がいたら捕ってくれ」と頼まれて大張り切り、「ホラ、捕れたわ」「ホラ、悌ちゃん」と手柄顔に持って行くと、「何だ、どれもこれもみんな、へっぴり虫じゃあないか」と一笑に附されてガッカリ。大学からは梅酒造りのような大きな瓶が沢山送られて来て、収集した蛇等を入れて大学へ送った様で、「学生だのに偉いんだなあ」とひそかに感心したものだが、その後も台湾坊主(一種の風土病で禿になる病気)が怖くて遂に一夏中、床屋には行かずじまいで帰京してしまった。

 大正十三年二月二十九日、私の数え十五の春、母が亡くなった。そしてチンチロリンの叔母さん(本当は母の叔母で私には大叔母さん。当ブログ2・26付「乙骨家の人々6」参照)が助っ人兼監督に来て下すった。切り下げ髪で男物のようにツイ丈の着物を召して、さっぱりした中性的な感じの方だった。それでいてとても手先が器用で、残り布で私の人形遊びの着物、袷から振袖、綿入れのかいまき、布団等、十五センチ位の人形のだから、小さくてとても難しいのを本式に丁寧に仕立てて下さった。(多分その幾つかは、私の子供そして孫に迄役立ってくれた程)次の母とも二、三ヶ月は一緒に暮らして、バトンタッチを了え翌年帰京された。

 父が長年の勤めを引いて台湾を引き揚げる昭和二年春、私が台北の女学校卒業するのと一致する。その準備として多分、伯父さんにでも住居のことをお願いしてあったのだろうか、突然電報で「家が見つかった、返待つ」と言うわけ。前以ては何等具体的な事は判らぬまま、急を要するらしく、「万事宜しく頼む」と返事を打つ。間取り図や浦和の裁判官の住んで居た町営住宅で、オンチャンのお世話だと言う様な事が判ったのはそれから後の話である。今から考えると、何という呑気な話だと呆れるばかりだが・・・。而もその家が実際に空くのは一ヶ月も先の話なので、ともかく上京直後、辻町の家に挙家五人、しかも後妻同伴で押し込んだわけだから、何と言う大らかな神経の太さであったものか(勿論押す方も受け入れ側も共々)私等には想像もつかない。三月も末というのに、上京途次の東海道は春雪で真っ白。台湾っ子はびっくり初めであった。流石に数日のご厄介で浦和の仮住居に移り、改めて常盤町の家へ落ち着いたわけだが、間取り図で「バルコニー」と書いてあったので、白ペンキの手すりから夜空の星を眺めたりパンジーの鉢を並べたり等乙女の夢をふくらませて来た現実は、二階の屋根と窓の隙間から上る物干台然とした殺風景な代物でした。

 その浦和の家から市ヶ谷の家政学院に通い、五年の秋に結婚、長野に移る迄の間が所謂花の円交会時代で、肝心のリーダー綾夫兄は神戸に就職してた為にめったには来ず、丈夫兄、巴姉に続く青春組が張り切ってたわけ・・・何も彼も新入りで百人一首も「むすめふさほせ」の初歩からの特訓、必死で覚えたものでした。いざ本番、紅白対戦で向かい側を見ると並べ順が目茶苦茶で一向に分からずお手上げ。説明によると、読み人を男湯、女湯、薬湯(?多分坊主)で並べ分けた由、参った、参ったー。スピッツとやら言う怪しげなゲームも苦手だった。前以て花の名で、或は魚の名で、と自分の名前を決めておき、トランプをめくって行って同じものにぶつかると、先に相手の名を言った方が勝ちと言うもの。所が白熱し且つ崩れて来るとその名も「わけやくざ日暮湯」とか、「電気綿菓子何とやら」とか余りにもナンセンスで覚えられずボロ負け、その上芸をさせられると来て、全くギョッの遊びだった。小学生は、伯母さん達が相手をして「イロハかるた」と決まっていたのが不満で、菊枝さんだけは一人で覚えて、百人一首に入って来た。

 すい星のように現れて、忽ち中心的活躍をした信兵衛こと江崎信五君は、同じ飛入り関係もあり、非常に近しく付き合った。丈夫兄はもう卒業して、水戸の県庁に勤めていたので、お相手は専ら私。重いポータブル蓄音機(当時としてはかなりな新兵器)とレコード持参で週末ともなれば浦和まで遊びに見えた。当時の流行歌、唐人お吉・波浮の港・出船・祇園小唄etc三高の寮歌・琵琶湖周遊の歌等。今でも何かの折に聞くと彼を思い出す位。そして彼の恋人「吉ばあ姫」(あだ名)で呼ばれていた彼女とののろけもどの位聞かされた事やら・・・でもその初恋も実ることなく、やがて見合い結婚し、何年か後には病の為に若くして逝ってしまった。当時の同年輩の珍助(元造)、英公君達も既に皆居ない。果敢なくよぎった青春の一こまでしかないのは寂しい限りである。(つづく。)

※ むすめふさほせ:http://stylog.jp/seba/2005-06-21

  ツイ丈の着物:http://notoya.web.infoseek.co.jp/newpage2.html

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