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2006年4月17日 (月)

思いつくままに

次は昨日の土方幸氏の妹・藤田佑子氏の随想です。

 「思いつくままに」

              藤田 佑子

 私が太郎乙お祖父さんにお目にかかったのは、六才の夏、台湾から母に連れられて妹と三人の上京の時。大塚の家の離れで、おそるおそる伺候してお菓子を手の平に頂いた。お髭のニコニコ顔、はっきり覚えています。最初で最後。

 母さだは、姉幸の印象と同じで、慈母という感じのない人でした。只、小学校の入学試験(メンタルテスト)に新調の洋服を着て、手を引かれて行った時の嬉しさは格別。きっと何時間かを独占出来た喜びだったのでしょう。

 結核性脳膜炎による猛烈な頭痛の中で、鉢巻をして苦しみながら周囲の人に感謝し続けた母の姿、幸姉同様、私の心に強く残っています。六人兄妹の上三人は早くから東京に遊学しましたので、下三人姉妹で育った感じです。

 昭和二年三月、台湾を引き揚げて、綾夫兄に出迎えられた神戸は生まれて初めての雪でした。大阪駅頭に江崎の伯父上と信ちゃんが出て来て下さり、大きなお菓子の折を差し入れて頂いた。日本一美味しかった鯛飯弁当。東京も雪。何も彼も素敵に思えました。

 お世話になった半二伯父、三郎叔父さん達の家、みんな珍しくて何だか夢中でした。素敵なきぬちゃんの真似をして、早速、髪をおかっぱに切りました。毎晩みんなを集めてお酒を召し上がる半二伯父さん、印象的でした。おじゅん伯母さんのこと、大変だろうなあ、偉いなあ、と思った事と、何故か京菜のお漬物が毎回出て、美味しかったのを覚えています。

 初期の円交会は、何やらそのかもし出すインチキ性とスピード感に台湾育ちの私はついて行けず、呆然としていた気がします。(何時も三人姉妹でお人形ごっこをしていたせいか)

 みちちゃんがお嫁入り前にお千代叔母さんと浦和の家に御挨拶に来て下さいました。薄みどり色の訪問着か何かで、奇麗だなあと見とれました。大塚のお家に招いて頂いた時の、箪笥など並んで花やいだ空気の、お嫁入り前のみちちゃん、思い出します。

 家政学院の頃、私もよく牛込のお家へ伺いました。何か懐かしくて伺った様ですが、どんなお話をしたやら、全く記憶にありません。

 身近に悲喜こもごも、吉凶相次いで、父栄三郎が亡くなりました。火葬場で、只ただ泣いていた私の肩を抱く様にして、「何かあったらいらっしゃい」と耳元で仰言ったのが五郎叔父さんでした。それは本当に心にしみる一言でした。益々泣いてしまいました。

 世の中が戦争に向かって走り始め、何も彼も配給制になり始めた昭和十六年、藤田に嫁ぎ横浜の住人になりました。

 それからは無茶苦茶。昭和十九年十一月、空襲が烈しさを増し、戦況が不利になるばかりの頃、三才の長男(信雄)と誕生過ぎの次男(敏郎)を抱えて、妊娠七ヶ月の私は身動きできず困り果てました。当時、逗子に在住の綾夫兄から手紙が来ました。兄一家が乙骨家と合流して、信州富士見村へ疎開して逗子は花ちゃんが残るから、逗子でお産をしてはどうか、横浜よりはましではないか。ということです。即、逗子に疎開です。私と子供二人がお世話になりました。花ちゃん一人、正一さんは土、日だけ帰宅(鎌倉中学生の彼は動員されて会社だか、工場だかの寮に入っていました。)綾夫兄は行ったり来たり、私の主人も行ったり来たり。何とも不思議なメンバーのおかしな暮らしが四月まで続きました。正一さんは帰宅の度に灯火管制の暗い茶の間で、煉炭火鉢の上でフライパンにヘットをとかして、薩摩芋の薄切りを焼くのです。寮へ持って帰る為に。ゲートルを巻いて渋しぶ帰って行く頼りないヒョロヒョロの後姿から、誰が今日のお立派な彼を想像したでしょう。

 日増しに空襲も烈しく、艦載機も来るようになった昭和二十年一月か二月の或る晩、(花ちゃんは富士見へお里帰りで私が留守番)子供達を寝かせた後、表を叩く音です。怖ごわ開けると、寒風と一緒に飛び込んで来たのは防空頭巾に黒外套の大男です。何と、三郎叔父さんちの英ちゃんでした。両方で息を飲みました。そして嬉しかった。英ちゃんは綾夫一家が居ると思って、少なくとも家族の誰かが居るとばかり思って来られた由です。(神戸か大阪からでした)兎も角もレンタン火鉢一つの茶の間で、一体どんな話をしたのか定かでありません。チャーハンか何か作って上げて、夜遅く東京へ向かわれました。奇しき出逢いでした。三月も終り頃、予定日も迫り、藤田の母と子供二人が、先づ福井県の知人の所へ疎開することになり、荷造りも完了した所へ、富士見から電報が来ました。「農家の一室が借りられるから疎開して来ぬか」というものです。荷札だけ付け替えればまだ間に合うから変更してもよいと主人にいわれた時は本当に嬉しかった。

 でも姑は富士見なら行かぬ、横浜に残るとのこと。矢張り自分は藤田の嫁として、姑と一緒に福井へ行くべきだと思って涙を呑みました。若しあの時富士見へ行って居たら、ドップリと乙骨村に浸り切ったことでしょう。そして何も彼もが、まるで次々違っていたと思います。

 丁度主人が福井の疎開先に来た四月末の夜、横浜の大空襲があり、会社も自宅もすべて失いました。若し富士見に行って居たら、その日多分主人は横浜にいて、責任者として会社と運命を共にしていたかも知れないし、手や足の一本位失っていたかも知れない、と思うとどちらがよかったか判りません。でも今にして乙骨村に浸かってみたかったと残念に思います。その頃おじゅん伯母さんから頂いた長いお手紙を焼いてしまい、これ又ほんとに残念です。産院で長女(淑子)を産んで三週間、福井へ発つまで、花ちゃんにはお世話になりました。あの非常事態の中での共同生活、忘れません。

 福井で終戦を迎えてから、山梨、二俣川、一年足らずの間に転々とした苦難の疎開生活も今や昔話、借り住居のつもりの妙蓮寺に住みついて三十六年、昨年主人に逝かれて以来、寂しいけれど、気儘で時にチョッピリ自由も味わっています。そんな時に皆様の手記を拝見して懐旧の念で何だか切なくなりました。-そして、只、思いつくままに・・・。

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