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2006年4月12日 (水)

乙骨三郎の妻、お千代さん

次は太郎乙三男三郎の孫にあたるひとの祖母回想です。

 「お千代おばあちゃまのこと」  

         大石 美知子

 亡夫昭三の少年の頃の貴重な思い出をご丁寧にお書き下さってご愛情の程、ほんとに嬉しく、おん礼申し上げます。

 あの乙骨のお宅の前は私は跡見に通っておりましたので、大塚駅から、都電に乗ったりバスに乗ったり歩いたり、休日以外は毎日のように通っておりました。俄雨で、あのご門の屋根の下で雨やどりをさせていただいた事もございます。結婚してから昭三から聞きまして「そうだったの?ちっとも知りませんでした」とびっくりいたしました。

 「円交会の長老」とよくご自分でも言っていらっしゃったお千代おばあちゃまが、昭和四十年から長崎のお宅でひとり住まいをなさるようになりました。私達は西武池袋線で二つ先の桜台という所におり割合と近かったので、週に二、三回は私が伺って、買い物や食事、掃除等をまとめてして差し上げる様になり、それが、その後に入院なさるまで、三年程も続きました。

 おばあちゃまは、もう随分足、腰が弱っていらして殆ど家の外にはお出にならないような状態でしたので、私が伺うともう堰を切ったように色々のことをお話になり、おひとりの生活の寂しさを振り払うみたいにおしゃべりを楽しまれました。おしゃべりはお千代おばあちゃまの唯一のストレス解消であり運動でもあったのではないかと思います。私はそのおしゃべりのお相手をしながら片付けをしたり針を持ったり、お好きな煮込みうどんを作ってあげたりしてからご希望の品々をメモに書いて買い物をして来て、それをおばあちゃまの使いよい様に配置して、夕方いそいで自分の買い物をしながら家に戻る、ということを繰り返していました。おばあちゃまのご希望の品は殆どお菓子やパン、ビスケット、くだもの、それにトクホンの様な貼り薬や胃腸の薬でした。そのおばあちゃまが、色々思い出話をして下さる中で私が思わず笑ってしまったことがあります。

 お千代おばあちゃまは昔の人にしては大変インテリで、府立の第三高女のご出身で(私の母が十二才下で矢張り第三の卒業生です。)卒業直後、それ迄育てて下さった児島さんとおっしゃるお祖父様・お祖母様がとても喜んで(お千代おばあちゃまの生母の方は早く亡くなられていたので)京都へ旅行に出して下さったのだそうです。おばあちゃまは当時としては一ばんモダンなレースのショールをして春の京都へはりきって出掛けられ、方々見物をしている途中で、東京から電報が入り、「エンダンマトマル スグカエレ」ということで、何が何だか判らないまま急いで東京へ戻ると、「帝大出の秀才、乙骨三郎氏との縁談がまとまったから、そのつもりで」と宣告されてしまったそうで、まだ十七の少女だったお千代さんは「ああそうか」と別に抵抗もなくなっとくしてしまわれたということです。この縁談は、乙骨の太郎乙さんが三郎さんのお嫁さん探しで、知人の方の紹介で第三高女の卒業写真を見て、勿論成績のよい方ということと、もう一つ、とにかく丈夫そうな人を、ということで、お千代おばあちゃまをご覧になって(写真で)すぐ決定ということになった由です。おばあちゃまも寝耳に水といった具合でしたが、三郎さんもご自分では殆ど何も知らない間にきまっていたという状態だったらしゅうございます。

 でも縁談が正式に決まると三郎さんは大変嬉しかったらしく、その頃上野の音楽学校で先生をして居られましたが、土曜日には毎週上野の山下にある名物のお団子を一箱ぶらさげて、児島さんのお宅に現れ、お祖父様と将棋を指したり談笑したり、その間には次から次へとお酒を飲んで行かれるので、児島さんではびっくりなさったそうです。未来のお婿さんですから、お祖父様、お祖母様は、孫可愛さで大サービスをするのですが、三郎さんは底なしに飲まれるので、仕方なく大きな樽でお酒を用意してもてなされたそうです。お嫁さんになる前のお千代さんは、毎週お婿さんはいらっしゃるけれど、お祖父さんとお酒ばかり飲んでいるのでよくよくお顔を見たこともなく、結婚してから初めてツクヅクと見て「何て顔の長い人なんだろう」と驚かれたそうです。

 そして結婚なさる前に「乙骨家に嫁ぐ者としての心得」といったものを、半二さんの奥様に教えていただいた中に「乙骨家の男達は、とても口に毒があるからその覚悟でいること。三郎さんは、勉強はよく出来るけれど、生活の面では、食事の用意をして、さあ召し上がれ、と言ってもボーッとしていて、箸とお茶碗を手に持たせてあげなければ、御飯も食べられない人ですからそのつもりでね。」

 と仰られて、信じられなかったそうですが、矢張りそれは本当だったそうです。

 そして三郎さんは結婚なさった時もご自分の持ち物としてはご飯茶碗と箸だけで、茶箪笥でも茶ぶ台でもみんな半二さんからの拝借もので、お千代さんは児島さんにいそいで嫁入り道具の追加をお願いして所帯道具を揃えて、半二さんに拝借物をお返ししたそうです。

 「本当にたよりない旦那さんだったよ」とおばあちゃまは笑い乍らおっしゃいましたが、三郎さんが亡くなった時は、その後毎日の様に大塚から歩いて寂円寺まで行って、お墓の前で泣いていらしたそうですから、何だかわけの判らない内に結婚してしまわれたお二人ではあったかも知れませんが、又、お千代おばあちゃまは気性の勝った男性みたいな面の多かった方のようでしたが、本当は可愛い甘ったれの女らしい奥さんで、旦那さまを本当に愛していらしたのだなあと、微笑ましく、懐かしく思い出されます。ただ、おばあちゃまは、私によく「この箪笥の中に円交会関係の人達の色々のことが書いてあるノートがしまってあるから、私がいなくなってからみんなに公開して貰うときっとおもしろいよ」と仰いましたが、亡くなられてからその箪笥を整理しましたが、字を書いたものはメモ一枚も出て来ませんでした。おばあちゃまはきっと、もう書いてあるつもりで「幻のノート」を心の中に持っていらしたのだろう、と、考えています。

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