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2006年4月11日 (火)

附・江崎三兄弟の思い出

 「附・江崎三兄弟の思い出」

             正木 みち

 江崎孝夫氏=孝ちゃん(私達はこう呼んでいました)は東京の学校で勉強中、私の家に暫く書生のような形でおられたので割合によく覚えております。長姉まきは弟三郎(私の父)と、うまが合うと言うのか、可愛がっていたらしく、「孝夫は三ちゃんの家に預かってもらう」と言われたとかで、大塚上町の家の玄関三畳の間に机を置いて、暫くそこから学校に通われました。前記の言葉は私が母から聞いたのですが、幼い頃のことですが、私もよく覚えています。その家は乙骨家に隣接する甲野家の貸家で、八畳、六畳、四畳半、それに玄関の三畳と女中部屋の三畳の狭い家でしたが、風呂場は台所から離れた戸外に一坪位のもので、入る時は風呂場には石油ランプを持って行く、台所との間には、取りはずしの出来る幅五十センチ、長さ三メートル半程のさん橋がかけられると言う具合です。孝ちゃんはお風呂場に行く時はいつも、下ばき一枚の姿で、貴女の文にも書かれているように、このさん橋を六方を踏んで渡り歩きました。(※この文章は鈴木はる氏の「江崎牧子とその子供たち」ー3月14,15日付当ブログ所収ーに応えたものです。引用者註)これを見ると母はいつも「孝ちゃんが又はじまった」と言っていましたが、そんな姿が幼い私の目にもしみついていたようです。亡くなられたのは大正十三年といわれますと、私はもう女学校に入っていたころですが、何か亡くなられる前のかすりの着物・羽織を着た孝ちゃんのやつれた姿が印象に残っています。

 江崎悌三氏=貴女のお父上、私達にとっては従兄の悌ちゃんのことも、印象に深いのです。ただ貴女が書いておられる小学校や中学校の事は知りません。専ら大学時代の事です。七高から東京帝大理学部に進まれた頃護国寺の雑司が谷に下宿しておられました。近いのでよく遊びに来られ、子供好きだったのでじきにおなじみになりました。「みっちゃんは僕と一回りちがうんだ」と言ったりしてかわいがって頂きました。つまり一回りちがういのしし年でした。悌ちゃんはじょうだんが好きで、よく私達子供を相手に冗談をいったりからかったりしました。又、貴女も書いておられるように、上手下手は別としても歌はお好きでした。悌ちゃんと一緒にうたった歌として今も心に残るのは、「紫の横雲は空にたなびきたり」という句で始まる「浦のあけくれ」です。夏休の夕方、大塚の下の家の縁側で弟達も一緒に合唱した場面は夢の様です。その場に居た悌ちゃん、私の父、弟英一等、もうみな亡き人です。雑司が谷の下宿に「遊びにおいで」と言われて、弟英一と幾度か遊びに行きました。六畳だか八畳だかの部屋一杯に蝶だの何だののコレクションがあったのを覚えています。雑司が谷のどの辺りであったか記憶にさだかではありませんが、悌ちゃんに撮って頂いた私と英一の写真、アルバムに貼ってあります。上の家の元ちゃんと私が大正十二年三月に小学校を卒業しました。同じ時に綾夫さんと悌ちゃんが大学を卒業ということで、外でご馳走をして頂いた記憶があるのですが、これは綾夫さんに確かめてみなければなりません。(綾夫註・その時は乙骨半二氏のおごりで、悌ちゃんと私とを主賓として、日比谷公園の松本楼に行きました。上の家からは巴と元造、下の家からはみっちゃんと英一が、相伴として加わりました。)

 その後悌ちゃんは九州に行かれ、ドイツに行かれるというような事で余りお会いすることもなく、その後ドイツからお帰りになって、貴女のお母様と結婚なさる時にお目にかかった事で、大体私の思い出は終わります。戦後は私も昭和二十五年に小樽に来てしまいましたので、円交会でお会いする事もなくお別れする事になりました。

 江崎信五氏=円交会の中心人物信兵衛こと信五氏については、これまでにも皆さんの文章でも触れられておりますので、その事は省きます。円交会で活躍されたのは三高から東大に入られた頃の事ですが、今私が述べたいのは、貴女が確かめたいとお書きになっている中学のことなのです。貴女の書かれた静岡中学一年生ということについては私は知りませんが、信ちゃんは東京の開成中学に通っておられました。それも途中から転校されて来た様に思います。何故そうした思い出があるかというと、これ又、お兄さんの孝ちゃん同様、私の父三郎が保証人に頼まれていたのです。私の所は弟ばかり五人というわけで、母は男の子を大声でどなる様な生活でしたから、自然がらがらしていて何でもずばずば言う風でしたから、甥達もよく、「お千代叔母さん」といってはあそびに来て、信ちゃんもよく来ていました。そして、学期末に学校から成績通知表を渡されると保証人に判こを貰いに来なければなりません。昔も今もこういうことは余りかわりがないようですが、要するに、成績は見せないで判を貰うということです。「叔母さん、又たのみます」「ああ、見たことにしとくよ」といった具合で判をおすのです。そのあと、ひとしきりおしゃべりしたり、お菓子を食べたりして帰るという風でした。こんなことで円交会とはまた別の思い出があります。遠い昔のことになりましたが、あの様に才気に恵まれた信ちゃんが若死にされたことは誠に残念なことです。

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