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2006年4月 3日 (月)

究極の粉飾決算

(4・1よりのつづきです。「日本の暦」岡田芳朗著から引用しております。)

 ところが明治五年の改暦断行では事前にそのことがなかった。改暦が発表になった時はすでに次年度の暦が発売になってから一ヶ月余もたってからであり、本来最初に文部省天文局から新暦原稿を渡されるべき弘暦商社が一般より遅れてそれを渡されるありさまだった。そのうえ政府は新暦普及のため弘暦商社以外の者でも地方官庁の許可を得て自由に暦の出版をすることを認めたため、弘暦商社は新暦の出版に立遅れてしまった。弘暦商社は同年春に当局から保証された暦の独占販売権を何の予告もなく破棄されたうえ、明治六年太陰太陽暦の販売を一切禁止された。この命令は大阪では十二月朔日に実施されたので、東京方面ではあるいは十一月下旬であったかもしれない。このため弘暦商社は旧暦本を購入した人々からは返金を要求されるという予想もしない災厄に見舞われたのである。かくして弘暦商社は厖大な売残りの旧明治六年暦の山と損害を背負い込んだのである。これについては大阪弘暦商社の残暦の記録がある。

 各種残暦の累計は二百六十二万部余にのぼっている。また明治六年十一月に弘暦商社総代降谷明晴代理林立守から暦専売五ヵ年延長を申請した願書には、明治六年太陰暦の長暦上中下等並びに大小本暦製造部数二百七十万部余に対し残部は百七十五万千部、 一枚摺り略暦六通りの製造枚数百七十万枚余に対し残部百二万八千枚で、これらの損害額は三万八千九百五十九円に達している。この数字は東京弘暦商社と大阪弘暦商社の合計であるから、大阪弘暦商社の二百六十二万部がその大半を占めていることがわかる。

 致命的な打撃を蒙った弘暦商社の救済策としては、再び向う三ヵ年間の暦の専売権の承認ということであったが、これは延長を重ねて明治十五年まで都合十ヵ年認められ、明治十六年に至ってようやく打切られ、以後政府編纂の暦は伊勢宮司庁から発売されることになった。

 このような結末になることはほぼ最初から分かっていたことであったから、何故にその年の春に文部省の指導のもとに結成させ暦の専売権を保証した弘暦商社を裏切ってまでも、年末に至って急遽改暦を断行しなければならなかったのだろうか。改暦の詔書などに記載できない真の理由は何であっただろうか。

 そこで大隈伯の言葉を思い返してみよう。(※下線部、後日補足引用します。)当時の予算規模は収入四千八百万円台で、そのうち田租が約四千万円、その他郵便などによる収入は八百五十万円前後、したがって暦の冥加金一万円は軽視できない収入だった。それを見捨ててもなおかつ改暦を断行するからには、それだけの原因があるはずである。当時支出のなかで人件費の占める比率はきわめて高かったが、中央地方の官公吏の数は急速に増加しつつあった。明治四年九月に採用された官公吏の月給制は、人件費の分割支出という点で、国家財政の窮乏を緩和する意図から出たものだが、太陰太陽暦のもとでは閏月の存在という致命的欠陥があった。

 閏月のある年には平年と同じ収入で、平年より一ヶ月分だけ余計に支出しなければならない。財政の健全化に腐心していた政府の要人、特に留守政府の中心人物であった大隈重信は明治六年六月に閏月が置かれていることを知って愕然としたはずである。明治六年の財政を健全にするためにはこの十二分の一の余分な支出を、何らかの手段で防禦する必要があった。その手段としては太陽暦の採用を決断するしか他になかったわけである。

 太陽暦を明治五年秋に至って突然決定をしたのは、そのような事情によるものでしかも年末に改暦を実施した結果、さらに一ヶ月の支出を削減する事ができた。それは五年十二月を二日で打切ったため略一ヶ月の短縮が行われ、それにともなって人件費その他の支出が節約できたことである。つまり太陽暦をこの時期さいようすれば五年十二月分と翌六年閏六月分の二ヶ月の支出を節約できたわけである。

 政府は改暦にともなう応急措置として「当十二月の分は朔日二日別段月給は賜はず」(十一月二十七日の太政官布達)と決めている。この身勝手な命令は実際に行われた。これを受けて、例えば駅逓寮は駅逓頭の名をもって管下役所に対し「壱ヶ月何程と定め御手当被下候向者当十二月分御渡無之候事」と布達を発している。

 グレゴリオ十三世がユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦を採用するに当っても、またイギリス及びその植民地でグレゴリオ暦に改暦するに際しても、数ヶ月の予告期間をおき、しかも年間でももっとも庶民生活への影響の少ない時期(前者は1582年十月十五日、後者は1752年九月十四日)を新暦実施第一日と定めたのである。ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦はわずかに十日日付を跳ばすだけの、きわめて簡単な作業ですむことだが、その改暦でさえ庶民の生活を守るためこれほどの慎重さが要求されたのである。これによって、いかに明治の改暦が政府本位で庶民の立場を無視したものであったかが理解できると思う。

当ブログ3・31付「無冠の男8」(カテゴリーの「君が代研究ノート」所収)で明治六年度歳入と歳出(井上馨がバラした実際の赤字額と大隈による粉飾後の数字)を御確認ください。その上で上記の数字をもう一度見ます。大隈重信の一発逆転大ホームランがあざやかに浮かび上がり、政治家ってすげえなあと感心させられます。有無を言わせぬ大博打みたいなもんです。しかもそれしかなかった。国家の火急のとき「庶民の立場」に何の意味があるのでしょう。歴史のイキオイの前に敬虔なきもちでこうべをたれます。暦学者岡田氏の最後の文章にも、「そげんかこつば言うたっちゃアンタ、しゃあなかろうもん」と反論したくなってくる自分がこわいです。かくいうわたしも「無冠の男」を読むまでは、岡田氏とおなじように思ってました。

『無冠の男』『日本の暦』、二つの本の引用から明治六年度の逆転黒字決算の内幕がほぼわかります。おもしろいのは、どちらの本が欠けても完全じゃないことです。これはとても示唆的です。こういうのをマリオットの盲点というんじゃないでしょうか。

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