無料ブログはココログ

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年4月30日 (日)

課題句「即」

 俳句誌「樹」5月号より 課題句「即」 

          選者:太田 一明

特選

 宇宙風即興の風花の種        姫野恭子

 春風や思わぬ即答しておりぬ    古永房代

 即ちをうやむやにする鯰かな     小森清次

佳作

 椿まで髪なびかせて即身佛     堀井芙佐子

 末の子の即断即決風光る     依田しず子

 漂うて不即不離なる春の雲     林 照代

 桜咲きうしろ淋しい即老い      佐藤 綾子

 即発の沈丁花なり痒き耳      鍬塚聰子

 帽子飛ぶ春一番の即行句     木村賢慈

 即効薬まったく効き目のない朝寝   神無月代

 混沌の即日開票冬のばら      宮川三保子

入選 

 即席の書棚の出来ばえ春うらら  猪ノ立山貞孝

 陽炎の中で縄飛びの即戦力    竹原とき江

 卒業式今も即ち思い出や      澄 たから

 早春賦即ち今日の景色かな    阿部禮子

 即席の句会設ける冬の旅     太田つる子

 春の宴即と出て来ぬ新郎新婦   島  貞女

 ちらし寿司即座にはこぶ梅の里  田中 恵 

選者吟

 今生のことは即興春の闇     太田一明

主宰吟

 即座には芽吹かぬ山の動悸かな    瀧 春樹

※参照:3・22付かささぎの旗「即」所収辞世句

 昭和二十年四月六日朝、宮崎の新田原飛行場より出撃、享年24歳。

 即菩薩即煩悩のこの日かな    岡部特攻兵 

参照: 「新田原飛行場」をウィキペディアで検索し索引としてつけようとし、失敗しました。よみは、「にゅうたばる」です。新をにゅうとよむのはなまりか英語か不分明。

参照:宇宙風http://cache.yahoofs.jp/search/cache?ei=UTF-8&p=%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%A2%A8&fr=top_v2&tid=top_v2&search_x=1&x=26&y=16&u=the-cosmos.org/2003/2003-11/2003-11-15.html&w=%22%E5%AE%87%E5%AE%99+%E9%A2%A8%22&d=NdHHSUaqMjXT&icp=1&.intl=jp

6月号課題「異」  7月号「横」5・20締切  8月号「魚」6・20締切

どなたでも参加できます。投句をどうぞ。有季定型の未発表句で課題の文字を詠み込むことが条件です。

2006年4月29日 (土)

父、帰る

西日本新聞連載ロックミュージシャン甲斐よしひろの随想「九州少年」がおわりました。毎朝ものすごく楽しみにしてたので、さびしくなります。ここ一年「新聞なんてしょうもな」ってかんじで新聞から離れていたのですが、おかげで又新聞読み出しましたから、その影響力たるやすごいです。

さいごははじまりと同じく、母上の死で締めくくってあり、深い感動を覚えました。記憶に間違いがなければ、母上は二年前に亡くなり、父上は六年前に亡くなったそうです。50回目で書かれていましたが、あれほどすさまじい苦労をさせられたにもかかわらず、母は父が心の奥底では支えだったのだ。その証拠に父が亡くなったとたんに母は弱っていった・・と、つづられています。そういうものなのでしょうか。夫婦ははたから窺い知れないこころの絆があったのでしょうね。

さて、ちょうどロシア映画「父、帰る」という暗い映画をDVDで見ました。二年前、八女市政50周年記念講演として詩人の高橋睦郎先生がおはなしをなさったのですが、そのとき、この映画をとてもよかったといって勧められたのです。(それと、「誰も知らない」との二本)。

音楽もない、何の説明もないし何の救いもない、俳句みたいにそっけない映画でしたが、見終えた後、きっとこの幼い兄弟は、大人になってから、自分達の父親が伝えたかったこと、教えたかった事を知るにちがいないと判りました。父親は男の役割は、身を削り命を張って生きるってことをむすこに教えることなのだと私も最近、夫と息子たちの関係を見ていて判ってきました。母親が伝えられることは限られています。絶対に父親じゃなくては、できないことがあります。もちろん、その逆だってあるでしょう。

ということで。父、帰る・・わがやのチチは帰りません。連休だというのに・・もう一月以上、あってません。こどもが大きくなるということは、こういうことなのですねえ。

2006年4月28日 (金)

茶摘み間近2

茶摘み間近2

茶摘み間近2

茶摘み間近2

先日と同じ八女市岡山あたりの4月24日の写真。

一番茶の売出しが、29日からです。ことしは寒いからか芽がのびるのが遅れているとのことです。自然相手の仕事はなかなか思うようにはいきませんよね。

2006年4月27日 (木)

永井菊枝氏の話 2

  「思い出あれこれ」(後編) 永井菊枝  

 ビーフン

 五郎家で暫く遊んでから、一同打ち揃って静かな屋敷町を歩いて常盤町の古山家を訪れる。いつも御機嫌な栄三郎叔父さん、そして、幸、佑、富の花の三姉妹のいる古山家は、大塚の上の家、下の家、のあらくれ男の子にかこまれて育った私達から見れば、大そう優雅な雰囲気だった。同い年の富ちゃんと少しはにかみながら二言、三言、交すのも嬉しかったし、二階に上ると、バルコニー(4・15付の土方幸氏の一文参照)へ出る出窓の所に腰かけて、佑ちゃんがアコーディオンを弾いて見せたり。やがて、お昼どきになると、花嫁修業中の幸ちゃんが采配を振るって御馳走して下さるのが、きまって台湾名物のビーフンだったが、その美味しかった事。後年家庭の主婦となり、店にビーフンを見かける様になってから、私はあの美味しさが忘れられず、誰に教わるでもなく、昔の古山家の味を思い出しながら、工夫してビーフンを作って見た。綾夫兄が晩年、といってもまだ、ゆっくりゆっくりと歩いて、月に一度わが小医院に来られた頃、一度そのビーフンを供したところ、「うん、うまい。ビーフンになってる。」と大いにほめられたので、一層自信を得て、今でも古山風ビーフンは我が家の麺料理のレパートリーの一つになっている。

 苦味チンキ

 とんぼ捕りは特別として、父半二と直接話した思出は余りない。巴姉は仏英和女学校でフランス語をやったから、おなじ仏法科の父はよく、「姉ちゃんあれを知ってるか」などとフランスの小説の話か何かして、姉の方でも対等にそれに受け答えしているのを、流石長女の貫禄だなと感心したり羨ましく思ったりした。長じてから、英語の予習で判らない所があると、そこだけ父に聞いたりした事は時々あった。すると先ず「字引き持って来い」に始まって、たまたま辞書の頁のかどが折れたまま裁断されて三角の耳になっているのを見つけると、「こういうのをDog's earと言って、縁起がいいとされているんだ」などという講釈が始まるので、時間ぎりぎり、安直に判らないところの訳だけ聞こうと思っている私は気が気でなかった。昭和二十三年二月、父が最後の病に倒れた時、私は生後七ヶ月の長男をかかえて、見舞いも思うに任せなかったが、やっと時間を作って、丁度夫が海軍引揚げの時(3・4付「ミッドウエー海戦」参照)貰って来た苦味チンキの瓶一つをお見舞いにと下落合に駆けつけた。昔、大塚時代、朝目が覚めると、酔いざめのコップの水に苦味チンキを落して枕元に持ってこさせるのが、おきまりだったのを思い出し、そうやって苦味チンキ入りの水をすすめると、もう殆ど食べ物ものどを通らなかった父が、とてもおいしそうに呑んで「うまい、やっぱり海軍の苦味チンキはいい」と喜んでくれた。別になんでもない普通の薬局方の苦味チンキだったのだけれど、思えばあれが最初で最後の親孝行だった。

 父より二年足らず前昭和二十一年の五月に、疎開先の信州富士見で亡くなった母の死に目には逢えなかった。(2・28付「乙骨家の人々8」参照)「危篤」の電話を受け、取るものも取りあえず三鷹から中央線で富士見へと急いだが、当時の交通事情とて、やっと辿り着いたのは出棺の直前だった。お棺はもう釘を打ってしまったので、対面も叶わなかった。初めて見る坐棺という異様に小さな棺に、かがまって納められている母を思い、涙が溢れて止まらなかった。

 疎開地の不如意に逝きし母を納(い)れ悲しかりしよ  小さき坐棺

※苦味チンキ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A6%E5%91%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AD

思い込み

きょうは中学校の運動会です。きのうは雨でしたが、今朝はいいお天気になりました。息子は朝早くお弁当をもって、はりきってでかけました。「こないでいいからね!」ということばを残して。

学校によって違うのでしょうし土地土地でも違うのが運動会です。私達の子供時代は中学校でも必ず秋の日曜日開催でした。家族が見に来てくれ、それが当然だと思っていたのですが、よく考えると、中学二年生からオヤとは離れたところでお弁当を食べていました。

当ブログに時々コメントを下さる小説家・斧田千晴の「祖父の夏」「父の居た場所」という題の短編二編を読んでいたら、筋とは関係ないところでいくつか印象的なことが語られていて、思わずうなりました。そのひとつが「中学校は平日の運動会で、さすがに誰も来なくなったが、運動会というと、僕はサハラ魔法瓶を思い出すくらいだ」という文章です。なんだそうだったのか!というかんじです。もうひとつは、ごはんをおちゃわんに装うことを登場人物に「おちゃわんにごはんをつける」と語らせていたことです。筑後では「ごはんをつぐ」とは言っても「つける」とはいいません。あれ、標準語ではなんというのでしょうね。こういう無意識の提示があるから、梅原猛がいってた「小説の醍醐味は筋にあるんじゃなくて、どうでもいいようなことの中にある」とのことばが実感としてわかります。川柳家・倉本朝世が指摘した小説家(とてもうれている)小川洋子の「博士の愛した数式」にあるヒロインの話す敬語がおかしいっていうのも、おんなじ無意識の提示だと思います。だからおもしろいのでしょうね。(斧田千晴、あたしゃあんたの「祖父の夏」に感動したよ!売れなくても関係ない、がんばってくれ。)

おまたせしました、「九州少年」49回目です。甲斐よしひろ青年はいよいよプロをめざして上京します。んで、やっとわかった。なんかへんだなへんだなと思ってたのは、そういうことだったのか!例によって、思い込んでたんですね。何がって、「甲斐バンド」はまだ49回目になっても存在していないのであります!つまり、デビューするときに、甲斐さんの作戦としてインスタントにバンドを結成したようなのです。こちとら外野席にとっては、なんとなくイメージとして最初から甲斐バンドで苦節五十年ってかんじじゃん。(てっきりそうおもいこんでた)。なんだ。そうだったの。デビュー曲のデモテープを目利きの人(耳ききのひと)に聞いてもらったら、「バス通り」のみ通しで聞いてくれ、「これだけだ」といわれた・・というの、臨場感があります。甲斐青年にとっては不本意でも、そのときはまだ自分のロックが醸成されていなかったのでしょう。それを鋭く見抜くのがプロであります。すごいな。

さて、のこるはいよいよ最終回。たのしみであります。甲斐よしひろ、なんか文章でも好きになったな。見直した。ってか、尊敬。これまでで一番のこった甲斐さんのことばー(照和に初めて出るようになったころ、コピーバンドの演奏を聴いて)あんまりうますぎて、何も感じなかった。ーすんげえ。

2006年4月26日 (水)

四月烈風

 四月烈風失くしてもいいものばかり  矢島玖美子

毎日、春寒といっていい日がつづきます。春は光の量が圧倒的にふえ、うすよごれもごたごたもむきだしにします。そこで窓を開け放ち、かたづけを始めますが、あれ。いつのまにかよみふけっている自分がいます。写真や手紙や本がいろんなところからおでましになって、もうまったく収拾がつきません。いや、降参こうさん。と投げ出しても私しかいないのだし、あきらめてやるしかありません。

私が苦手なのは大事なものとそうではないものの区別をどこでひくかってことです。どうも手に入れたときの値段で執着しているかんじがします。古本が多いのですが、結構値段がしたので読まなくても捨てられないんです。それとおなじで、服も高かったからというだけの理由で捨てられないのは、ちょっといじましいです。ぜんぜん着ない古い服なのに。

冒頭の矢島玖美子さんの川柳(むしろ俳句だと感じますが)は、一読こころに残る句です。これを読んですぐ、小倉のとある教会の牧師さんがおっしゃった説教の一節を思い出しました。「ほんとうに大切なものは多くない。いや、たった一つである。」

※今朝、矢島さんのブログ「水曜は癖になる」で上記と絡めて採り上げた連句誌れぎおん同人・函館の杉浦清志教授のサイトを今発見しました。とても共感をおぼえました。連句はこれからの詩形だとわたしもおもいます。みなさま、ごらんになってください。

矢島玖美子:http://blog.livedoor.jp/yajimaya_01/

杉浦清志:http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/history.html

永井菊枝氏の話

  「思い出あれこれ」

          永井 菊枝

 地震ごっこ

 遠い幼い頃のおぼろな霧の中に浮かぶ最初の記憶はあの大正十二年九月一日の関東大震災である。父が台所で、好物の天プラを揚げ、家中に食べさせ昼食の真最中、全く突然にドスンと突き上げ、ガラガラと揺れ、壁が崩れ始め、皆ハダシで庭に飛び出した。私は高い縁側から飛下りる事が出来ず、一人つっ立っていたのを、奥から走り出て来た古山のお倭文ちゃんが、さっと後ろざまに抱きかかえて飛下りてくださった。夜は庭の葡萄棚の下に蚊帳を吊って家中が身を寄せ合って寝たのが、幼心には楽しかったが、きぬ子姉だけは、遠くから聞こえる笛の音か何かを大層怖がって「ピーッて言うのなあに?」と繰り返し繰り返し言っていたのをはっきりと思い出す。地震のあとは当分の間、下の家(三郎家)の俊ちゃん、昭ちゃん達と地震ごっこだった。「地震だっ」と言うと、俊ちゃんが「小父さんいるかいっ」と緊迫した声で叫び、昭ちゃんか私かが「チンワン瓦にぶつかった」と叫ぶ。(チンワンと言うのは、小さい達夫くんの持ち物だった玩具の子犬の名前)すぐに俊ちゃんが懸け付けてチンワンを助け出しおぶって逃げる。きまって繰り返すこの筋書は俊ちゃんが考え出したものに違いない。今どきの防災訓練よりどんなにか迫真力のある地震ごっこだった。それだけ子供心にも大地震のショックは大きかったのだろう。

 とんぼ捕り

 大正十四年の春、同い年の昭ちゃんと私は竹早町の女子師範附属小学校の試験を受け、二人とも合格だった。きぬ子姉と下の家の英ちゃんとが、矢張り同じ竹早町の同級生で毎朝仲よく一緒に出掛けるのを羨ましいと思って見ていたから私達は大喜びしたが、やがて昭ちゃんは高師の附属にも受かって、そちらへ行く事になってしまった。昭ちゃんは駆けっこも早いし勉強もよく出来て、胸に級長のしるしの赤い組紐の花などつけていたから、私は彼を大いに尊敬した。その上、虫捕りが大好きだったから、子供の頃腕白でとんぼ捕りの名人だったと言う父のお気に入りでもあった。夏の夕方、珍しく早く帰って来た時など、父は「お、昭公やってるな。よし、伯父さんが捕ってやる」などと、猿股一つで庭に出て来て、馴れた手つきでもち竿にもちをねじりつけ、すぐにいっぱい捕ってくれる。すごく大きい「鬼ヤンマ」、少しスマートな「銀」(銀ヤンマ)銀のメスで胸が茶色の「茶ン目」など上等なのばかり。茶ン目はメスだから、これをおとりにして、銀を呼び寄せる事が出来る。銀しか取れていないと、父はその辺のヤブカラシの緑茶色の葉っぱをちぎって銀の胸にはりつけ、茶ン目の様に見せかける。これを別の長い竿の先に糸でくくり付け、私達が振り廻し「ぎーん茶茶ン目の子、あっちへ行くとエンマが睨む、こっちへ来ると許してやーるぞ」(その頃そんな童べ唄があったのか、それとも我々の創作だったのか、それは知らない)と空へ向けて合唱する。すると、不思議にも、にせの茶ン目に引き寄せられて銀がやって来るのを、すぐに父がつかまえるのだった。昭和初期までの大塚には、まだそんな牧歌的な風景があった。父と遊んだ僅かの貴重な思い出だが、それを語り合える昭ちゃんも今はもう亡い。

 一高の三チ

 古山の綾夫さん、丈夫さんの二人は、東京へ遊学中、しょっ中大塚へ現れた。後年わが義兄という深い御縁になった綾夫さんの慶応時代の事は、まだ小さかった私には全く憶えがない。丈夫さんは一高の入学前から家へしばしば見えて父のお相手をしていた。試験前、父が「どうだね、一高は」と聞くと、丈夫さんは「入ります」と只一言。父はあとで、「丈夫はえらい。入れますじゃない、入りますなんだから。きっと受かるよ」と言ったが果たして見事にパス。そして、例の本郷の汚い寮(二月の記念祭の時見せて貰った)に入ってからも度々遊びに見え、私達はそのまわりにまつわって、一高の寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」や「春爛漫の花の色」などを教わったり、「オンチ、モチ、ダンチは一高の三チ」などと新知識を授かったりした。(オンチは音痴から来て一般にアホの事、モチは勿論の略、ダンチは段違いに、の上の三文字、という風に理解していますが、正解、或は語源はどうだったのでしょうか、丈夫さんに伺いたいと思います。)一高から東大を卒業して、水戸の県庁へ行かれるまでの六年間、文字通り丈夫さんは円交連中のリーダー格だった。

 ペッチョ

 昭和二年、台湾から古山一家が引揚げて浦和に定住された。浦和にはその前から五郎叔父一家が住んでいたが、古山と両家揃う様になってから、年に一度は浦和を訪れるのが習いの様になった。旅行はおろか、日帰りでもあちこちへ連れて行って貰う事など殆どなかった私達にとって、荒川を越えて浦和まで行くのは楽しみな年中行事だった。円交会の最盛期に、お正月を古山家でも、という年もあったが、大抵は春休頃、浮間ヶ原だか田島っ原だかの桜草の時季だった。浦和に着くと先ず五郎家を訪れる。五郎叔父の家はバラのアーチがあって、芝生の庭があって、旧式な大塚や牛込の家とは全くさま変わり、今でいうマイホームの匂いを子供心にも感じた。円交仲間では年少の下っ端だった私と妹とは、五郎家の由紀ちゃん、清ちゃんと遊ぶと少し偉くなった様な気がした。芝生でみんなで足を投げ出して、清ちゃんの玩具のペッチョという子犬も一緒に、五郎叔父さんのカメラで写真を撮って頂いたりした。「ペッチョ」とは、多分「お気に入り」という意味で叔父さんがPETと名付けられたのを、清ちゃんが廻らぬ舌で「ペッチョ」と言いならわしたのだろうとは、女学校で英語を習う様になってから、漸く合点した事だった。大塚時代の我々の「チンワン」より大分ハイカラな話である。(後編へつづく)

2006年4月25日 (火)

円交会の出発点 2

乙骨太郎乙次女ひさの長男にあたる人で、4・18付、小室正夫氏の兄上です。

  「円交会の思い出」 

            小室 恒夫

 円交会というと思い出す写真がある。大塚辻町の半二伯父さんの家の庭先で、当時まだ存命中だった祖父、乙骨太郎乙(亡母久子の父)を中心に、その息子の乙骨三家の人々と、それ以外の円交会のメンバーを、職業的な写真師が撮った、かなり大型の一枚である。

 半二伯父さんが幼い菊枝さんを抱いて後列に立っている。私自身は写真の前列左端にチョコンと坐っている。おぼろ気な記憶だが、これは円交会の始まったころ、私自身が小学校にはいったか、はいらぬかという頃、恐らくは大正八ー九年ではなかったか。

 当時集まった顔触れの中で、多くのメンバーがすでにこの世を去っている。若くして去った人、壮年、老年で死んだ人、と色々だが、今それぞれの思い出を手繰ってみると、、感慨を覚えずにはいられない。

 そのころ、牛込払方の私の家から大塚辻町の家に行くのには、市電を利用して、水道橋、春日町と二回乗り換えていくか、単刀直入に歩いていくか、の二つの方法があった。

 当時の市電は片道八銭、往復十五銭位だったと思うが、乗り換え券というのをくれて、何度乗り換えても同じ料金だった。

 一方、一時間位かけて歩いていくこともしばしばあった様に記憶する。今の様に車が通っているわけでもないし、誰でも三十分や四十分位歩くことは何ともおもっていなかった時代だが、小学校一年の遠足でも片道一時間位は歩いたものだ。

 払方町から北町、矢来と抜けて、音羽九丁を通り、護国寺に突き当たって右折、大塚仲町の交差点に出て左折すると間もなく、大塚辻町の乙骨の家に着いた。

 円交会などの機会に辻町の家の庭になった柿を沢山貰い受けて歩いて帰る時などは、音羽九丁が、ひどく長帳場に思えたものだった。いつだったか、新年会の折に、福引で引き当てた、おもちゃの腕時計を帰る途中、どこかで落として、音羽九丁を泣きながら探しまわったこともある。当時十銭ぐらいの動かぬ腕時計が宝物の様に思えた年頃のことである。

 その当時、大塚で子供同志遊ぶときには、電車ごっこをよくした記憶がある。当時、子供心に、まだ電車は十分に魅力のある乗り物だったのである。「円太郎」とも呼ばれた市バスは、まだ走り始めの頃だった。多色刷りのボール紙で作った車掌鞄の中には、ペラペラ紙の切符や、ちゃちな紙幣やはさみなどが入っていて、これが電車ごっこの必携品だったが、あとは一列になって進む子供達がみんなで持つ、輪になった縄か紐があれば、それで十分だった。

 室内遊戯では、銭まわし、トランプのババ抜きとか7並べ、記憶の強弱を試す神経衰弱などが主なものだった。又、ときには、二組に分かれてゼスチャーをやったりした。

 ジェスチャーといえば、「キリン」という題が出された時、綾夫さんが、まず座敷中を馬のように飛んだり跳ねたりして見せ、それが一段落すると、マッチをすって、からだ中に火をつける仕ぐさをする。組んだ相手は勿論何のことかさっぱり判るはずがない。あとで聞けば、綾夫さんは動物園のキリンのことは全く念頭になく、キリンビールのラベルにある中国の神獣とばかり思い込んでいたという。キリンと言えばビールしか考えられなかった独身青年時代の綾夫さんの、神戸での流連荒亡ぶりを思わせる大笑いの一幕だった。

 やや高級な遊びとしては、歌留多とりがあった。小学校低学年で歌の意味などはさっぱり判らぬままに、丸暗記で、結構歌留多とりに励んだものである。

 いずれにしても、牛込の私の家は、母親を欠いた男所帯で、殺風景だったから、大塚で多くの女の子も混じって、色々な遊びをすることは、私にとって多少の気後れを伴った楽しみであった。

 お菓子なども、牛込では婆やが買って来る決まりきった餅菓子とかお煎餅などで、気の利いたものはなく、大塚で切山椒を出されたりすると、一寸まごついたものだ。

 半二伯父さんについては、座敷で長火鉢を前にして静かにコップ酒を飲みながら、機嫌のいい時には二言、三言軽口をきく、という姿が何となく印象に残っている。

 その頃の伯父さんは幾つぐらいだったのだろうか。まだ控訴院検事ぐらいだったのだろうか。四十代後半だったかと思うが、短く刈った頭はかなり白かったようにも記憶する。

 父と一緒に大塚に行くと半二伯父さんが待ち構えていて、長い酒盛りとなり、挙句の果てに父が酔い潰れたりするので、私自身も余り好きでなかったが、世話方にまわったお順伯母さんにすれば、鼻つまみに近い来客だったろう。

 いずれにしても、円交会と言えば辻町の家を思い出す。

この円交会が、私達母無し子を慰める目的もあって始まったということは、ずいぶん後になってから知ったことである。

 ※切山椒:http://www.40tokyo.com/life/2002haru/sansho.html

    同:http://www.madam-ganko.com/ittetsu/torinoichi.html

 キリンビール商標:http://www.kirin.co.jp/company/history/label/

コンポスト

「 カンボジアの内戦時代、戦禍の酷(むご)たらしさを見つくした報道記者が、日本から届いた清純派女優・吉沢京子のヌード写真を見て、「まだこんなきれいな世界が残されていたのか」と号泣したという。彼はその裸身に浮かぶ、はかなげな、ひとひらの桜の花びらを見ていたのだろうか。」(4・25付、西日本新聞「風車」ネコマンマ氏の随想引用)

なんとはなしに近藤紘一を想う。五十くらいで死んだと記憶する。

むかしのこよみはすばらしい。ちゃんと自然はうごいている。啓蟄をすぎるころからにわかに虫達が蠢きはじめ、畑の隅に据え付けている二台のコンポストの中がすばらしく勢いづいてくる。だんだん生ごみを市のゴミ袋に入れて出さなくてもよくなってくる。

 ふたぐ日は蓋あけのぞくコンポスト  恭子

今朝は蓋を取ったとたんに無数の小さな白い羽虫が飛び出てきたし、ある昼は生成色のぴちぴちしたうじむしたちがもりもりとした食欲を見せ音たててひしめいていた。圧倒的な生命の現場主義。

しばらく顔つっこんでじっとみる。派がふたつ、たたかってた。

はぢらひのない裸身は、色気のかけらもないただのモノだ。死体とおんなじだ。今はそのようなニクタイばかりがあちこちにごろごろしていて「たすけて、たすけて」と声を喚げているじゃないか。きみたちにはそれがみえないのか。・・まるでお蚕くんみたいな正論をはくね。(おカイコくん。さっきから小さな旗をふってます。)

しかしまたいっぽうでは、こうも聞こえて、たじたじとなる。

「どおよ。あんたのめえあけてよおくみてみな」

※近藤紘一http://cache.yahoofs.jp/search/cache?ei=UTF-8&p=%E8%BF%91%E8%97%A4%E7%B4%98%E4%B8%80&fr=top_v2&tid=top_v2&search_x=1&x=19&y=16&u=k-ryosha.jp/essay/02/030611.html&w=%22%E8%BF%91%E8%97%A4+%E7%B4%98%E4%B8%80%22&d=LlTpF0aqMj9s&icp=1&.intl=jp

同上:http://www.jttk.zaq.ne.jp/sowhat/book/kondoukouiti.htm

2006年4月23日 (日)

韻を踏むこと

1月13日付「乙骨太郎乙の精神世界1」で採り上げた、太郎乙翁八十のお祝い漢連句のよみくだしをさいたま市在住の俳人で漢詩人の松本杏花氏にやって戴きましたので、ご案内いたします。(→1・13付へは右のカテゴリーの君が代研究で探すと時間がかかります。1月の記事を遡って下さると少しは早いかと存じます。)

漢詩も英詩も、脚韻(詩行末の音が同じ母音)をふむのが一般的みたいです。でも日本語の詩での脚韻は九鬼周造「日本詩の押韻」にもかかれてるように、それほどしゃにむに熱心ではないですよね。それは過去形の文章であれば「~だった」という語で終ることに現れているように、もうすでに日常の次元で韻を踏んでいるからだ・・というようなことを九鬼さんは書いてたと思うのですが、ほんとに不思議です。百姓の私が個人的に思うのは、日本語は田を踏みしめて飛翔するように出来ているんじゃないでしょうか。笑

先日「からたち」を調べるのに、北原白秋や島倉千代子の歌を引きました。その白秋の歌詞を見て、おどろきました!どの詞行も「よ」でおわってます。韻をきっちり踏んでいる。しかもいちばん底辺のむなぞこまで染み透ります。あらためて北原白秋ってすごかやん!めちゃくちゃすごかと感動しました。同じ筑後に生まれたことが恩寵におもえてきます。ことばの一つ一つが幻惑的でありつつきっちり地と血に根ざしているのを感じます。

それと。きのう書いたニールヤングですが。いまさらプロテストソングでもないのでしょうが、それをあえてできるところに彼の位置があるんだと思います。

日本では昔、吉田拓郎が広義の反戦歌を歌って絶大な人気を博していました。年老いて彼も同じように病気に倒れました。こうして考えると、日本にはだれもいませんものね。そういう思想性の濃いメッセージソングを歌える歌手は。9・11以降テロへの戦いといって持ち上げてきた政権を、ここへ来てうそつきだとして弾劾し平和を求める祈祷歌を還暦のロック歌手が歌う。そこには一体なにがあるんだとシラーっとおもうのが大方の日本人だと言う気がします。でも、としよりになって年甲斐もない恋歌うたうよりは、かっこいいんじゃないかなと思えてきました。そろそろ「イマジン」あるいは「イムジン川」みたいな歌を聞いてみたいものです。

2006年4月22日 (土)

ヘルプレス

今朝の「九州少年」47回目の冒頭、

 「ニールヤングの「ヘルプレス」を演(や)って照和のステージを下がる時だった。チューリップでデビューする前の姫野達也から「いい声だね。君いくつ」と声をかけられた。高三になったばかりで、十八歳になろうとしていた。」

をよみ、ロックスターに流し目をされたようなきぶんというか、声をかけられたみたいで、嬉しかった。これが少女のころなら失神ものかな。(ま、たまたま自分が姫野で、数日まえにニールヤングが新アルバムを出すというニュースをオンラインのインデペンダント紙でみつけたばっかりだったからなんだけどね)

ニールヤングのヘルプレス、やるせない音だった。時代の気分だった。小倉の女学園に下宿して通学していたころ、北九大で知り合った少年に「これすごいけん聞いてん」と渡されたテープがそれだった。聞いてはみたけど、私にはどこがどうすごいのか全然分からなかった。でも繰り返しhelpless helpless と流れてくるサビは頭から離れなくなる。その少年は一つ年をごまかしていたし、大学の名前もウソをついてた。ほんとは同い年だったし、北九州の大学じゃなくて福岡だった。そういうことがわかったのは、社会人になって数年後にばったり南区の路上で出くわして又つきあうようになってからだ。そういえば私が最初に就いた空港警備の仕事で、バイト中の彼がなぜか旗を持って旅行団体を率いてくるところにもばったり出くわしたし、天神を友達と歩いていたら向こうも友達と歩いてすれ違ったりした。こういうのを腐れ縁っていうのです。逃げるに逃げられないかんじで。笑

でも、甲斐さんの文を読んで、あの曲は甲斐さんが18のころコピーしてた曲と知る。夫がやってたのはそれより三年後だったから、やっぱプロにはなれなかったはずです。笑

声はなにより大事だし。甲斐よしひろの声は耳に残り心に響くものね。

そこで本題にはいります。

ニールヤングは60の還暦ですって。それでブッシュ政権に抗議する反戦歌を歌うという。すごいのは100人のアカペラ隊をつけてうたうらしいこと。どんな教会で歌った時よりずっと宗教的な高揚感を味わった・・みたいなことを聖歌隊?が言ってた。「Livinng With War」は「戦(いくさ)と生きて」とやくすな、自分なら。「軍」の字のいくさでもいいか。早く聞いてみたい。

2006年4月21日 (金)

茶摘み間近

茶摘み間近

茶摘み間近

茶摘み間近

上から、福島高校から望む八女市街と2/21に撮った六五郎橋から。枯芦が青芦にかわっています。茶園は八女岡山のです。

佐賀

佐賀

佐賀

佐賀

どん3の森がみえます。地の人はどんどんどんの森をドンスリーの森といいます。落ち着いた古風な街です。

2006年4月20日 (木)

からたちのや・乙骨三郎

NHKの朝ドラを毎日見てる。宮崎あおい主演の音楽家を志す女の子のドラマである。それに上野の音楽学校(東京音楽学校)が出てくる。「あ、ちょうどだ。」と乙骨三郎のことをおもう。(「かささぎの旗」4・6付、4・7付、4・14付参照)

数日前に書いたように、君が代発見者・乙骨太郎乙の次男(実質長男)半二(検事正だった)の三女である永井菊枝氏から、尋ねていた質問の答えが届いた。童謡の歌詞の作者の件である。コピーをとってくださったのが断片的なものであるため、それがかえって俳句的で「もっと知りたい」という気にさせる。その部分は少し調べてから又書くとして、きのう芭蕉の枳殻垣を書いたのも何かの縁だろう。「からたちのや」という筆名に目がいった。

乙骨三郎は53歳で逝去したが「からたちのや」という筆名で遺した訳詩がある。明治35年10月「万年艸」という誌に公表したものだ。それが、あの乙骨五郎が(当ブログ4・14付)詩人としてはシェイクスピアよりも上だと絶賛するミルトンの「リシダス」なのだ。途中からのコピーで全体は見えないが写す。

  去りね疾く 疾く

  黄泉の神よ

  少女のわれを

  免したまえ 免したまへ

  疾く来よ 清き少女

  われは汝が 良き友

  心しづめて

  わが胸に睡れや

(ミルトンは「失楽園」の作者ということは知っていたが、これまで読もうかという気にはならなかった。それが、読みたいと思うようになる。)

お隣のぼたん

お隣のぼたん

あるじ亡き隣の庭に牡丹さく

2006年4月19日 (水)

恋の語彙 2

うき人を枳殻垣よりくヾらせん  芭蕉

  いまや別の刀さし出す    去来

せはしげに櫛でかしらをかきちらし 凡兆

    (「猿蓑集」 はつしぐれの巻)

いまごろの季節になると、芭蕉のこの恋の句を必ずといっていいほど思い出す。枳殻垣キコクカキというコチンコチンのことばが恋の甘さと苦さを醸して情景が見えるようだ。恋人をからたちの棘で刺されるに任せる女は残酷な表情を浮かべているに違いない。

 からたち:http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/karatachi.html

      :http://www.hana300.com/karata.html

      :http://www.jttk.zaq.ne.jp/babpa300/aa2sengo/karatatinikki.html

連句的にさらに現代俳句をくっつけます。この方は熊本のお医者様らしいです。(九州俳句誌より引用)

 まだ熱い単車を夕顔に寄せる    寺尾敏子

最後は上掲句から導かれる飯島晴子句でキマリです。恋句ではないけれど、荒々しい青春の香りを放つ名句です。お茶の木の持つ烈しい生命力を、そうとは感じさせずに沈潜した詠み振りで間接的によんでいる。ジェームス・ディーンのようなあんちゃんがそこらのお茶垣にバイクをチッゴ弁でいうところの「ようら」ぶちこんでいる情景。茶の木はひるまないでグッと受け止める。その若さを、荒々しさを。すんげえ句だな、と感動します。

 茶の花に押し付けてあるオートバイ  飯島晴子

季語的には「夕顔」は晩夏、「茶の花」は初冬です。

2006年4月18日 (火)

円交会の出発点

次に太郎乙三女ひさの次男である人がその父を語られます。

  「父の思い出その他」

        小室 正夫

 円交会の発祥の地、大塚辻町の家のことを考えると、一番古い記憶は長い距離を歩いて行った事で、横寺町の乙骨の長屋から、或は払方町の家から、矢来を通り音羽通りを抜けて辻町まで、今考えると相当の距離を歩いて行ったものと思う。当初は秀夫兄と二人で、パンのお弁当など持たされて度々遊びに行った様に思う。

 考えて見ると、当時は大正三年の終頃か四年の初め頃かと思われるので、今風に考えると、秀夫七才、正夫四才、恒夫一才で、大正四年の四月には秀夫は学齢に達して愛日小学校に入学した筈である。

 父龍之助は母久子を東大の青山内科に入院させ、一時朝鮮に戻って残務整理を終えて帰国したのではないかと思われる。当時、兄弟三人は父の姉で服部家に嫁した伯母が上京して世話をして貰って居た。ここで一寸父の事に触れると、父は明治三年の生まれで、明治三十八年に東京帝国大学を卒業しているが、その以前に豊島師範、高等師範を卒業して、銀座の泰明小学校、神戸の御影師範、台湾の国語学校等の教師を勤めており、大学卒業は実に三十五才の時である。卒業後、一時芳谷炭礦(のち三菱礦業となる)に赴任するが、日韓併合を前にして、同地の植民会社東洋拓殖株式会社の創立の話に乗って京城路に向かうこととなり、その前に郷党の先輩であり高等師範の先輩でもある吉田弥平氏のお世話で母久子と結婚したと聞いている。兄秀夫が明治四十年、次兄康夫(夭逝)、明治四十一年に大阪で出生していることから推察すると、結婚は明治三十九年と考えられる。明治四十二年には龍之助は久子、秀夫を伴って朝鮮京城(現在のソウル)に移り、東洋拓殖株式会社の創立業務に参画、京城で正夫が出生、後、大邱出張所の新設に伴い所長として赴任、大正二年十月恒夫が同地で出生、つづいて母久子の発病を見ることになる。

 たまたまその頃、時の内閣の交替を見て、総裁以下幹部の総辞職に応じて、龍之助も辞職して内地へ引き揚げたと聞いているが、むしろ、妻の病気や子供の学齢期等を考慮して帰国を決心したものとも考えられる。

 龍之助はその後、第一次大戦の好況期を見て、霞ヶ浦の開拓事業を計画したりしたが、大戦の終わりと同時に米価は暴落し事業を始めていなかったのが幸いという結果で終を告げた。その後は専ら座食して酒に憂いを晴らす毎日であり、男やもめで三人の幼児を抱えて、父龍之助の苦労も容易ではなかったと推察される。

 円交会は小室三兄弟が出発点だという話も本人達はあとで知った話ではあるが、母を失ってこうした家庭の状況にあった兄弟を見て、見るに見兼ねた心遣いだったのだろうと思う。

※参考:http://tanizoko2.hp.infoseek.co.jp/futatunokanasimi.html

ニール・ヤング新アルバム「Living  With War」の紹介記事:

 http://enjoyment.independent.co.uk/music/features/article358210.ece

      

2006年4月17日 (月)

どうでもよくない話

乙骨太郎乙八十才のお祝い連句(漢詩)の読みを引き受けて下さった埼玉の松本杏花氏に、当ブログ4・14付『西片町界隈「のて」と「まち」2』をプリントアウトしてファックス送信したところ、きのう、さいたま広報誌「みどり」四月号を送信して下さった。それにはなんと「池の鯉」や「案山子」「雪」などの童謡を作詞したとされる郷土の偉人・武笠三(むかさ・さん)についての「文化人伝」が写真付きで報じてありました。ー彼は、明治四年に浦和県三室宮本(現さいたま市緑区宮本)の氷川女体(正式には女體)神社神官の家に生を享け、東京帝大を卒業後埼玉第一中学(現浦和高校)で教鞭をとり、明治四十一年から文部省国定教科書の編纂を担当して唱歌を作詞した。有名な尋常小学校唱歌の「案山子」は幼少の頃見たと思われる黄金に輝く見沼田んぼの稲穂と案山子の風景を歌詞に託したものと思われる。その他、「雪」「池の鯉」なども彼の作詞だーと、こんな風に紹介が始まり、郷土史家とおぼしき人の写真とコメントが載ってます。武笠三を発掘した人のはなしではー『鹿児島における聖書翻訳ーラゲ神父と第七高等学校造士館教授たち』という本を読んでそれを知ったーとありました。見沼氷川公園には平成五年「案山子の像」まで造られ、武笠三の功績を讃えているそうです。

松本杏花氏は私が偶然送った文章に「案山子」や「池の鯉」などが乙骨三郎の作詞であると書かれてるのをよみ、あれ?という素朴な疑問でこれを送信して下さったものです。私もこれを読むまでは、乙骨三郎の名利を求めずという生き方に「かっこええなあ!」と感嘆を禁じえなかったのですが、まさに同じ昨日、東京の太郎乙の孫・永井菊枝氏からの返信も届き、コピーしてくださった研究書には三郎の作詞だと書いてあります。これは昭和女子大近代文学研究室から出ている『近代文学研究叢書』の37巻です。(参照:http://www.swu.ac.jp/graduate/research/kindai/content/new%20sousyo.html

「日の丸の旗」「鳩」「兎」「池の鯉」「浦島太郎」「汽車」などが三郎の作詞、と書かれています。文部省が出版を民間に任せていた小学唱歌を改善し、唱歌教育の基準をたてようとして十人の小学唱歌教科書編纂委員を依頼した、とあり、その十人の編纂委員の中に三郎がいます。(でも武笠三の名は書かれていません。もっとも七人の名しか挙げられておりませんが。あと三人を確認せねばなりません。)

「案山子」参考:http://www.maboroshi-ch.com/edu/ext_36.htm

乙骨一族の文章を打ち込んできて感じることですが、本当のことしか書かれていません。聞くところによれば、かかしの像の除幕式には金田一さんなどの有名人も駆けつけたそうです。なんだか、きもちがわるくありませんか。私は「君が代」を国歌に発見した太郎乙を「これってとってもすごくない?」と思いながら調べてきて、たまたまここに至った者に過ぎませんが、いくら名利を求めないと言っても、自分の書いた詞に別人の名が冠されていて、それを何も知らない後世の人たちが顕彰することは、「ちょっとちょっと。それはちがうよ!」と言いたいのじゃないでしょうか。

思いつくままに

次は昨日の土方幸氏の妹・藤田佑子氏の随想です。

 「思いつくままに」

              藤田 佑子

 私が太郎乙お祖父さんにお目にかかったのは、六才の夏、台湾から母に連れられて妹と三人の上京の時。大塚の家の離れで、おそるおそる伺候してお菓子を手の平に頂いた。お髭のニコニコ顔、はっきり覚えています。最初で最後。

 母さだは、姉幸の印象と同じで、慈母という感じのない人でした。只、小学校の入学試験(メンタルテスト)に新調の洋服を着て、手を引かれて行った時の嬉しさは格別。きっと何時間かを独占出来た喜びだったのでしょう。

 結核性脳膜炎による猛烈な頭痛の中で、鉢巻をして苦しみながら周囲の人に感謝し続けた母の姿、幸姉同様、私の心に強く残っています。六人兄妹の上三人は早くから東京に遊学しましたので、下三人姉妹で育った感じです。

 昭和二年三月、台湾を引き揚げて、綾夫兄に出迎えられた神戸は生まれて初めての雪でした。大阪駅頭に江崎の伯父上と信ちゃんが出て来て下さり、大きなお菓子の折を差し入れて頂いた。日本一美味しかった鯛飯弁当。東京も雪。何も彼も素敵に思えました。

 お世話になった半二伯父、三郎叔父さん達の家、みんな珍しくて何だか夢中でした。素敵なきぬちゃんの真似をして、早速、髪をおかっぱに切りました。毎晩みんなを集めてお酒を召し上がる半二伯父さん、印象的でした。おじゅん伯母さんのこと、大変だろうなあ、偉いなあ、と思った事と、何故か京菜のお漬物が毎回出て、美味しかったのを覚えています。

 初期の円交会は、何やらそのかもし出すインチキ性とスピード感に台湾育ちの私はついて行けず、呆然としていた気がします。(何時も三人姉妹でお人形ごっこをしていたせいか)

 みちちゃんがお嫁入り前にお千代叔母さんと浦和の家に御挨拶に来て下さいました。薄みどり色の訪問着か何かで、奇麗だなあと見とれました。大塚のお家に招いて頂いた時の、箪笥など並んで花やいだ空気の、お嫁入り前のみちちゃん、思い出します。

 家政学院の頃、私もよく牛込のお家へ伺いました。何か懐かしくて伺った様ですが、どんなお話をしたやら、全く記憶にありません。

 身近に悲喜こもごも、吉凶相次いで、父栄三郎が亡くなりました。火葬場で、只ただ泣いていた私の肩を抱く様にして、「何かあったらいらっしゃい」と耳元で仰言ったのが五郎叔父さんでした。それは本当に心にしみる一言でした。益々泣いてしまいました。

 世の中が戦争に向かって走り始め、何も彼も配給制になり始めた昭和十六年、藤田に嫁ぎ横浜の住人になりました。

 それからは無茶苦茶。昭和十九年十一月、空襲が烈しさを増し、戦況が不利になるばかりの頃、三才の長男(信雄)と誕生過ぎの次男(敏郎)を抱えて、妊娠七ヶ月の私は身動きできず困り果てました。当時、逗子に在住の綾夫兄から手紙が来ました。兄一家が乙骨家と合流して、信州富士見村へ疎開して逗子は花ちゃんが残るから、逗子でお産をしてはどうか、横浜よりはましではないか。ということです。即、逗子に疎開です。私と子供二人がお世話になりました。花ちゃん一人、正一さんは土、日だけ帰宅(鎌倉中学生の彼は動員されて会社だか、工場だかの寮に入っていました。)綾夫兄は行ったり来たり、私の主人も行ったり来たり。何とも不思議なメンバーのおかしな暮らしが四月まで続きました。正一さんは帰宅の度に灯火管制の暗い茶の間で、煉炭火鉢の上でフライパンにヘットをとかして、薩摩芋の薄切りを焼くのです。寮へ持って帰る為に。ゲートルを巻いて渋しぶ帰って行く頼りないヒョロヒョロの後姿から、誰が今日のお立派な彼を想像したでしょう。

 日増しに空襲も烈しく、艦載機も来るようになった昭和二十年一月か二月の或る晩、(花ちゃんは富士見へお里帰りで私が留守番)子供達を寝かせた後、表を叩く音です。怖ごわ開けると、寒風と一緒に飛び込んで来たのは防空頭巾に黒外套の大男です。何と、三郎叔父さんちの英ちゃんでした。両方で息を飲みました。そして嬉しかった。英ちゃんは綾夫一家が居ると思って、少なくとも家族の誰かが居るとばかり思って来られた由です。(神戸か大阪からでした)兎も角もレンタン火鉢一つの茶の間で、一体どんな話をしたのか定かでありません。チャーハンか何か作って上げて、夜遅く東京へ向かわれました。奇しき出逢いでした。三月も終り頃、予定日も迫り、藤田の母と子供二人が、先づ福井県の知人の所へ疎開することになり、荷造りも完了した所へ、富士見から電報が来ました。「農家の一室が借りられるから疎開して来ぬか」というものです。荷札だけ付け替えればまだ間に合うから変更してもよいと主人にいわれた時は本当に嬉しかった。

 でも姑は富士見なら行かぬ、横浜に残るとのこと。矢張り自分は藤田の嫁として、姑と一緒に福井へ行くべきだと思って涙を呑みました。若しあの時富士見へ行って居たら、ドップリと乙骨村に浸り切ったことでしょう。そして何も彼もが、まるで次々違っていたと思います。

 丁度主人が福井の疎開先に来た四月末の夜、横浜の大空襲があり、会社も自宅もすべて失いました。若し富士見に行って居たら、その日多分主人は横浜にいて、責任者として会社と運命を共にしていたかも知れないし、手や足の一本位失っていたかも知れない、と思うとどちらがよかったか判りません。でも今にして乙骨村に浸かってみたかったと残念に思います。その頃おじゅん伯母さんから頂いた長いお手紙を焼いてしまい、これ又ほんとに残念です。産院で長女(淑子)を産んで三週間、福井へ発つまで、花ちゃんにはお世話になりました。あの非常事態の中での共同生活、忘れません。

 福井で終戦を迎えてから、山梨、二俣川、一年足らずの間に転々とした苦難の疎開生活も今や昔話、借り住居のつもりの妙蓮寺に住みついて三十六年、昨年主人に逝かれて以来、寂しいけれど、気儘で時にチョッピリ自由も味わっています。そんな時に皆様の手記を拝見して懐旧の念で何だか切なくなりました。-そして、只、思いつくままに・・・。

2006年4月16日 (日)

円交の思い出 2

(土方幸「円交の思い出」後半です。)

お順伯母さん(しゅんと表記。検事だった半二の妻昭和四年大塚から牛込へ移られて間もなくの頃かと思う、市ヶ谷の家政学院の選科に通っていた頃、午前中で授業が終わると、よくお堀端に添って北町まで歩いてお邪魔した。お昼どきに飛び込んで、塩鮭だの、あぶたま(之れは乙骨料理だと言う事だった。薄揚げを甘辛く煮てとき卵をかけてとじたもの)だの御馳走になって暫くおしゃべりをして(話題は覚えていない)浦和に帰った時はそ知らぬ顔をして居た。(特に用事もなく乙骨に行く事を母が喜ばぬ故)我が家で満たされぬ心の渇きを潤して下さる何かを伯母さんに求めていたのでしょう。子供達も誰も居ない昼間、伯母さんにお逢いしたくて、いつか私の足は牛込へ向ってしまうのでした。私の結婚が決まった時「特別よ」と張り込んでお祝いを下さり「でも寂しくなるねえ」と言って下さった伯母さんでした。親代わりで倭文姉の結婚支度をして下さった伯母さんが詳細に書き残して下さったと言う結婚準備覚書の手帳が残って居た。私はそれをもとにして予算から購入計画すべてを自分で整理、父に提出して済ませたので、言うなれば私も、そして妹達も伯母さんに母代わりをして頂いたことになるのも何かの御因縁である。

 五郎叔父さんーどういうわけか大きな問題でお世話になっている。浦和の家を探して下すった事。又、私と土方との結婚は実はオンチャンのお仲人である。(浦高時代の教え子)

 彼の方には「小娘のくせに一寸生意気な所もあるが」・・・とか、「親父さんは宴会があると言う日は朝から御機嫌と言う様な人物だ」とかいった紹介。こっちには余りさしたる説明もなく、少し立ち入った尋ね方をすると、「僕に年頃の娘があれば一も二もなくやってしまうんだがー嫌なら止めなさい」テナ塩梅のニベもない返事。両方とも要するにアンチ仲人口にまんまと作戦負けした様なもの。ともあれ一昨年金婚式にまで辿りついてしまい、思いもかけず皆様からの御祝の記念品をお美津叔母さん御手から渡して頂きまことに嬉しく感無量でした。叔父さんが浦高から成蹊へ移られる時に、その後任として当時熊本の五高に居たのを推薦して下さった。そして又、土方が東大定年後に再就職に迎えられたのが成蹊で、とうとう十五年最後迄御奉公したと言うのも、何か目に見えぬ師弟の絆に守られてきたのかも知れない。

 母の事ー十五にもなって居たにしては母への追憶は余りにも淡く頼りないのはどうしたわけかしら。賢い母だった、偉い母だった、という誇りはあるけれど、甘えた懐かしさ、楽しかった思い出は哀しくも殆どない。亡くなる前のお正月の数日を、騒動を逃避して、台北近郊の温泉に家中で滞在した、それが唯一の思い出となった。いつも、一眠りしてフト目覚めると隣の座敷で遅く迄縫い物をしていた母。流行の着物、美しい装い等とは無縁の反対側の世界に居た母。官舎や近所の奥さん達の泣き言や相談の相手になっていた母。それでも病気になって咳がひどく、毎夕食後には、きまって寝たままの姿勢で父が器用な手付きで吸入をして上げてたのは印象的でした。「亡くなる間際まで、どうも有難う、と奥様は必ず仰言ってました」と付き添いの小母さんが言ったのは強く頭に残って居り、これだけは私も真似たいと思っています。台北の小学校の同窓会で母をご存じの先生にお会いすると、「御母さんにそっくりですなあ」と言われて閉口したものですが、その先生も流石に亡くなられホッとしてましたら、去年、和服を着て一寸改まって撮った写真を綾夫兄さんに見せたとたんに「お貞母さんによく似て来たなあ」と感嘆されショックでした。性格ならまだしも、容姿で母似と言われるのは、幾つになっても嬉しい事ではない。(ごめんなさい)

 戦後の円交会ー戦後に復活した円交会は大分色合いの変った親睦会的なもので、それぞれに家庭を持ち、二世を加えたもので、専ら綾夫夫妻によって再スタートしたものの、年毎に会員増加して会場難で行き詰まり、小林正紹兄の御厚意で、数年は自称武蔵野庭園を開放して頂いて催された。綾夫円交会長も流石に熱意だけでは力及ばず、草臥れたのを機に総裁を引退して、小室御兄弟に引き継いで頂き今日に至って居る。二世がそれぞれ又核分裂して三世を抱え、一時期の大円交会は七十人近く、前以て準備委員会を開いて準備や趣向に大変なお骨折りだった様で、当日も幹事夫人達は託児所兼雑役係で懇親どころではなかった。結局は又一世だけのちんまりした形に戻り、漸く円交も黄昏近く老境に入った様です。お順伯母さんの蒔かれた愛の芽が、アオさんを先頭に同人の協力に支えられ、数十年を経て育ち花開いた今の円交会を一度見て頂きたかったと残念です。

 お互いに共有した青春の一ときに限りない愛惜と感謝を捧げつつペンをおきます。

(昭和五十七年早春  沈丁花匂う日   土方 幸)

2006年4月15日 (土)

筑後うどん 3

ブログ「かささぎの旗」を旗揚げして四ヶ月目、中心にすえてる「君が代研究ノート」で乙骨太郎乙一族の交友誌を毎日少しずづ打ち込んでいます。日々教わる事がたくさんあって、「円交」五号を快く提供してくださった永井菊枝氏にはとても感謝しております。本来なら、というより従来ならばのほうが正確ですが、こういう研究はそういうものばかりを扱う同人誌で手堅くこつこつと研究を積んでいくのが王道かもしれません。でも、私は普段の生活の中で、時には別の世界に飛びながら、展開していくほうが、合っているように思いました。なにしろ、生身ですから。

西日本新聞朝刊「九州少年」音楽家・甲斐よしひろの連載も42回目、のこすところ8回です。同世代の人だし、自分の夫と体型が似てるし(笑)、感じ方表現のしかたにとても親近感を持って毎朝よんでいます。とくに今日の、ずっと気になってた、借金作って、母親と四人の息子を棄てて夜逃げした父親のことが淡々と書かれています。十年後、フラリと店に舞い戻ってきて、十六歳のよしひろ少年にぶんなぐられる場面の描写は、自分もそこに居合わせたかのようにリアルです。その心情もよくわかる。兄達から、なぜオレに先に殴らせてくれなかったのか、こっちはずっと我慢してたんだぞ・・と言っておこられたというくだりでは・・・このきもちはやはり、家族のものにしかわからないものなのでしょう。六年前に亡くなったそうですが、これまで読んできて、お父上は確かに自分勝手に生きられたかもしれないけど、音楽家甲斐よしひろをつくる土になったひとです。一人の音楽家のなかには随分と雑多で豊かな感情や体験や自然が恵まれているものですね。愛も憎も豊かでただただ美しい。父上のご冥福をお祈りいたします。(2・18付当ブログ「九州少年・九州少女」参照)

わたしは昨日、母をハインツカ(羽犬塚)につれていく用があった。帰路、209号線沿いの「てうち庵」に寄る。これで四回目である。最初食べたとき「まづい」と思ったことは書いた。だしの味が薄いのでしょっぱいのだ。麺はいい。次に食べたらおいしかった。なぜだと妙に気になってたべた三度目は△、四度目の正直で、母の意見を聞く。だしがあまりねえ・・ときたもんだ。麺はとてもおいしいのです。母も八女の三号線沿い「桐乃家」のうどんがおいしいと言った。なお、てうち庵の麺はどこの小麦とは表示されておりません。ただ、水が弱酸性の軟水だからおいしいのだと書かれておりました。みなさまもどうぞ一度食べ比べてみてはどうでしょうか。(3・17,3・30付当ブログ参照)

ここまで書いてなんですが、「筑後うどんとは何か」と聞かれたら、きっちり答えられる自信がありません。というのも、自分で書いておいて無責任ながら、「筑後うどんを下さい」といって出てくるようなものではないからです。メニューにある商品名ではありません。ですから、それは筑後一円で食べるうどん、というのでよろしいのじゃないでしょうか。もし、ちがうよそれは・・というのであれば、すぐに訂正いたしますので、どうぞ仰ってくださいまし。とはいえ、イメージとしては、ごぼう天がのっかったうどんですね。これは博多うどんの定番でもありますが。(いま、わたしの好みで決めさせていただきました。あしからず。)

円交の思い出

  「円交の思い出」

        土方 幸(太郎乙の孫。辰三の妻)

 最初の御縁は、小学二年の夏、父の東京出張の折、丈夫兄と二人、一足遅れて上京、数日辻町の家にお世話になった。太郎乙祖父さんとオンチャン(五郎叔父)二人が離れに居られたと思う。亨ちゃんがまわらぬ舌で「オユッカン、オユッカン」と呼んだ事、朝早く市電で不忍池の蓮の花の開くのを見に連れて行って頂いた事、位で、帰途大阪・神戸で米騒動にぶつかり、泊まった父の親戚や友人の宅で夜警に立ったり、焼き打ちのデマに脅かされたりした大変な年であった。

 江崎の悌ちゃんが東大生の時、台湾の昆虫採集に渡台、我が家を基地に全島を廻った夏の事。「何でも珍しい虫がいたら捕ってくれ」と頼まれて大張り切り、「ホラ、捕れたわ」「ホラ、悌ちゃん」と手柄顔に持って行くと、「何だ、どれもこれもみんな、へっぴり虫じゃあないか」と一笑に附されてガッカリ。大学からは梅酒造りのような大きな瓶が沢山送られて来て、収集した蛇等を入れて大学へ送った様で、「学生だのに偉いんだなあ」とひそかに感心したものだが、その後も台湾坊主(一種の風土病で禿になる病気)が怖くて遂に一夏中、床屋には行かずじまいで帰京してしまった。

 大正十三年二月二十九日、私の数え十五の春、母が亡くなった。そしてチンチロリンの叔母さん(本当は母の叔母で私には大叔母さん。当ブログ2・26付「乙骨家の人々6」参照)が助っ人兼監督に来て下すった。切り下げ髪で男物のようにツイ丈の着物を召して、さっぱりした中性的な感じの方だった。それでいてとても手先が器用で、残り布で私の人形遊びの着物、袷から振袖、綿入れのかいまき、布団等、十五センチ位の人形のだから、小さくてとても難しいのを本式に丁寧に仕立てて下さった。(多分その幾つかは、私の子供そして孫に迄役立ってくれた程)次の母とも二、三ヶ月は一緒に暮らして、バトンタッチを了え翌年帰京された。

 父が長年の勤めを引いて台湾を引き揚げる昭和二年春、私が台北の女学校卒業するのと一致する。その準備として多分、伯父さんにでも住居のことをお願いしてあったのだろうか、突然電報で「家が見つかった、返待つ」と言うわけ。前以ては何等具体的な事は判らぬまま、急を要するらしく、「万事宜しく頼む」と返事を打つ。間取り図や浦和の裁判官の住んで居た町営住宅で、オンチャンのお世話だと言う様な事が判ったのはそれから後の話である。今から考えると、何という呑気な話だと呆れるばかりだが・・・。而もその家が実際に空くのは一ヶ月も先の話なので、ともかく上京直後、辻町の家に挙家五人、しかも後妻同伴で押し込んだわけだから、何と言う大らかな神経の太さであったものか(勿論押す方も受け入れ側も共々)私等には想像もつかない。三月も末というのに、上京途次の東海道は春雪で真っ白。台湾っ子はびっくり初めであった。流石に数日のご厄介で浦和の仮住居に移り、改めて常盤町の家へ落ち着いたわけだが、間取り図で「バルコニー」と書いてあったので、白ペンキの手すりから夜空の星を眺めたりパンジーの鉢を並べたり等乙女の夢をふくらませて来た現実は、二階の屋根と窓の隙間から上る物干台然とした殺風景な代物でした。

 その浦和の家から市ヶ谷の家政学院に通い、五年の秋に結婚、長野に移る迄の間が所謂花の円交会時代で、肝心のリーダー綾夫兄は神戸に就職してた為にめったには来ず、丈夫兄、巴姉に続く青春組が張り切ってたわけ・・・何も彼も新入りで百人一首も「むすめふさほせ」の初歩からの特訓、必死で覚えたものでした。いざ本番、紅白対戦で向かい側を見ると並べ順が目茶苦茶で一向に分からずお手上げ。説明によると、読み人を男湯、女湯、薬湯(?多分坊主)で並べ分けた由、参った、参ったー。スピッツとやら言う怪しげなゲームも苦手だった。前以て花の名で、或は魚の名で、と自分の名前を決めておき、トランプをめくって行って同じものにぶつかると、先に相手の名を言った方が勝ちと言うもの。所が白熱し且つ崩れて来るとその名も「わけやくざ日暮湯」とか、「電気綿菓子何とやら」とか余りにもナンセンスで覚えられずボロ負け、その上芸をさせられると来て、全くギョッの遊びだった。小学生は、伯母さん達が相手をして「イロハかるた」と決まっていたのが不満で、菊枝さんだけは一人で覚えて、百人一首に入って来た。

 すい星のように現れて、忽ち中心的活躍をした信兵衛こと江崎信五君は、同じ飛入り関係もあり、非常に近しく付き合った。丈夫兄はもう卒業して、水戸の県庁に勤めていたので、お相手は専ら私。重いポータブル蓄音機(当時としてはかなりな新兵器)とレコード持参で週末ともなれば浦和まで遊びに見えた。当時の流行歌、唐人お吉・波浮の港・出船・祇園小唄etc三高の寮歌・琵琶湖周遊の歌等。今でも何かの折に聞くと彼を思い出す位。そして彼の恋人「吉ばあ姫」(あだ名)で呼ばれていた彼女とののろけもどの位聞かされた事やら・・・でもその初恋も実ることなく、やがて見合い結婚し、何年か後には病の為に若くして逝ってしまった。当時の同年輩の珍助(元造)、英公君達も既に皆居ない。果敢なくよぎった青春の一こまでしかないのは寂しい限りである。(つづく。)

※ むすめふさほせ:http://stylog.jp/seba/2005-06-21

  ツイ丈の着物:http://notoya.web.infoseek.co.jp/newpage2.html

2006年4月14日 (金)

りんね

ひさびさにむすめのことを。

いつ引越すのだろう。こんどもまた、おかあさん軽トラで荷物運んでっていうんだろうか。(過去三回も引越しに馳せ参じました。)いつまでたっても何も言ってこない。どうしたんだろう・・・と心配になってきた矢先、メールがとどく。「かれの転勤がとりやめになった。私も仕事やめないですんだ。」のーんびりした顔文字つきだ。まったくもう。でも、なんだかうれしい。とても嬉しい。

なにしろ初めてきちんと就職したのだから。社保も年金も心配しなくていいってことは、なんて素敵なことだろう。これで初めて世間様に対してまともに顔があげられるってもんです。やはり、相良観音さまにお願いに行ってよかった。・・いくつもどんでんがえしがあったけど。落ち着いてよかった。

娘はじいちゃんばあちゃんと同じ国保に入っていたので、その籍を抜く手続きをしました。就職先の保険証のコピーが必要です。それを今日娘が送ってきたのですが、宛名書きを見て、ほーうと感心しました。これまでなぐり書きの芸術的な字を書いていたのに、きちんと正座した字に変わっています。生活に緊張感があるのが分かる劇的と言っていい変化です。24歳ですものね。いつまでもフリーターじゃいられません。

「おかあさんが結婚したのは何歳だったの」

えーとね。26歳。おとうさんもね。一年後にはあなたが生まれたから。

・・・計算すると、自分達が結婚したときの両親の年齢より、今の自分達のほうが一つ追い越しています。あの懐かしいアルバムの中の戸畑の父。十七年しか一緒に生きられなかった義父のことを最近、限りなく懐かしく思う日があります。そしてその父の姿がいつのまにかなつかしい夫の姿にかさなります。・・こういう時と影の重層をふしぎと感じる瞬間、カルマは絆にかわります。

西片町界隈「のて」と「まち」 2

(『西片町界隈「のて」と「まち」』 土方 辰三 後編)

 乙骨一家は牛込横寺町に住み後に大塚辻町の大通りから段々で降りて行く谷間に二軒の家を建てて住んだ。もと甲州から出たが、中興の祖は昌平黌教官をしていた乙骨耐軒(1806)で、学殖深く、大いに酒をたしなんだ。本所・深川の堀の深さを全部そらんじていたと伝えられるが、是は酔っては川に落ちこんだからである。その子太郎乙、号は華陽、妻つぎは杉田玄白の曾孫にあたる。その弟は上田姓を冒し、その子が敏で、父絅二の死後しばらく乙骨家にあずけられた。次女こうの子が独乙文学の吹田順助である。華陽は漢学、蘭学、英学に通じる八宗兼学の碩学で父に劣らず酒を愛し、晩年は漢詩をつくり、興に乗じて書き残した七言絶句は清冽明澄である。長男半二は検事正として腕をふるい、酒をたしなみ、司法部内に逸話を残している。三男三郎は美学を修めて東京音楽学校教授となり、五男五郎は英語英文学を修め浦和高等学校教授となった。文学者のみか、自然科学者も多く、長女まきの子江崎悌三は昆虫学者として世界に知られているが、この人も江戸っ子気質は失わず、俳諧、川柳にくわしく、「玉虫を浅草餅の子が見つけ」などの難句の意味はこの人に聞くと氷解した。その後上田敏は西片町に移り、太郎乙は亡くなり、半二は牛込横寺町に家を建て、辻町は三郎、五郎がそれぞれの家に住んでいた。二人が同じような職業でよく間違えられた。五郎教授が浦高に赴任した時も当時の吉岡郷甫校長は乙骨三郎君と紹介した。五郎教授はいつも飄々として教室に現れ、新刊の教科書の頁を切って、ゆっくりと考えながら解釈した。その読みは極めて精確で、ラスキンの「胡麻と百合」のなかでミルトンのリシダスが出て来たとき、全詩を暗記しているように、すらすらと解明した為、これは底力のある学者だと思った。小説はコンラッドの作品を続いて教えていた。「英文学の中で面白い小説を教えてください」と言ったところ「トム・ジョーンズだね」といわれた。「詩人としてはシェイクスピアよりミルトンが上だ」と誰も言わないことを時にずばりと言った。三郎教授は専攻の美学のほかに、小学校の唱歌「池の鯉」「一本足の案山子」「今は山中」等の歌詞を沢山つくった。「ぶなの森の葉がくれに」の名訳も彼の作だそうだが、他の人の名になっている。英詩その他訳詩もあるが自分の名を出していない。他人の名になっていても一向に平気で、書物を矢鱈に出版することは学問の外道だと思っていた。私は戦前A・E・ハウスマンの詩を訳し五郎先生に一本を献じたところ、「こんな詩を訳すとはもっての外の不心得」と叱られた。西片町の住人は「ノテ」の東京人という色彩が強かったが、牛込・大塚の住人には「マチ」の江戸っ子気質が多分に残り、乙骨一族にも、旗本御家人的反骨精神ともいうべきものがあって、名利を求めず、半二、順助は浅酌低唱酒仙の風を伝え、五郎教授は時に三味線の爪弾きをして心の疲れを払っていた。今これらの方々は故人となり、戦後子孫は分散陵夷したが、それでも世界的な業績を持つ学者も二、三は出ている。

参照「詩人・ミルトン」http://homepage2.nifty.com/tanizoko/Milton.html

   「玉虫」http://kohiyama.wem.sfc.keio.ac.jp/insect/k_tamamushi.html

   「同上」http://www.ntv.co.jp/megaten/library/date/03/07/0727.html

   「同上」http://cache.yahoofs.jp/search/cache?ei=UTF-8&p=%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%82%B7&fr=top_v2&tid=top_v2&search_x=1&x=24&y=13&u=kan.turi.daa.jp/%3Feid%3D198082&w=%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%82%B7&d=GsPluEaqMnlw&icp=1&.intl=jp

   「同上」http://www.monster.ne.jp/~beetles/sugi/01.html

「のて」というのは、「やまのて」の略でしょうか。「まち」は「下町」?(まるで、スカジャンとスタジャンの違いみたい。)うーむ。どうも今ひとつ地方人にはぴんとこないです。それと文中の難解な川柳、わたしもまったくお手上げです。どなたか御解説をお願いします。

ここにきて、こないだの謎が解けましたね。乙骨三郎作詞の童謡に別人の名が冠されていることです。作った本人がまるで著作権に拘泥していなかったのです!そもそも著作権という概念自体、なかった時代ではあります。いま、永井菊枝氏に「日の丸の旗」についても確認中です。上記の曲名中「今は山中」は「汽車」です。もう一つの「汽車」(きしゃきしゃぽっぽぽっぽ・・の歌詞の)と区別するための表記でしょう。あの歌で小さい頃はよく遊びました。向かい合ってすわり、手をパチンとたたいて、相手のてのひらと交差させて打ちあう・・歌にあわせて。たのしかったなあ。確か最後の「やみをとおってひろのはら」のところでジャンケンポンをしてました。

2006年4月13日 (木)

西片町界隈「のて」と「まち」

昨日、引用を続けている正木みち氏「円交会の歴史」を入力して、予約投稿として保存しました。そうしたら今朝、その原稿が消滅していました。・・あの時間とエネルギーはどうなったんだろうとしばし呆然。しかし、私は立ち直りが早いです。これは入力の順番を変えろという指示だと受け止めました。というわけで、今朝は土方辰三氏(太郎乙の次女の娘婿)の文章を取り上げます。先日は大塚という地名とその界隈について何となくイメージが湧くようになりましたが、今回は西片町という地です。大塚は「儒者棄て場」という墓所があったりしましたが、西片町はどういうところでしょう。

  西片町界隈「のて」と「まち」

            土方 辰三

 私は1904年(明治37)東京市本郷区西片町十番地ほノ三号で生まれた。西片町にあるのは十番地ばかりで、一番地や二番地が何処にあるのか、又始めからないのかよく知らない。この辺はもと備後の福山藩阿部家の屋敷のあったところで、維新後藩の人たちが阿部家から土地を借りて家を建てた。篠田という白壁の土蔵のある差配人の家があって、地代を集め、便掃の世話までしていた。私の家の西百メートルばかりに誠之小学校があり裏手に幼稚園があった。筋向いの交番のところを南に行けば阿部邸で、その近所にあとから、佐々木信綱博士や今日出海氏のうちが引越して来た。心理学者高島平三郎博士の家もあった。一高や帝大(東大)が近いため、福山藩士以外の学者が段々増えて来た。酒井という一高の数学の先生の庭の池のところで遊んだことを思い出す。浅井忠画伯や後の小穴隆一画伯の家は姉や兄がよく遊びに行っていた。上田敏博士の家も近所にあったらしい。二、三才のお嬢さんがちょこちょことよく遊びに来られ、母が「あなたのお父さんのお名前は」と聞くと「上田敏」と答えたと笑って話した。これが今の東大教養学部長嘉治元郎さんの母堂であろう。裏に岡俊太郎という碁の名人がいて、よく来て祖父や父と碁を打った。この人は、鷗外が研究に没頭した井沢蘭軒の親戚の学者、岡寛斎の子で、陸軍省につとめていた。その子孫は理論物理学者の岡小天氏である。藩士の家の床の間には大抵、茶山、松林、介石等の軸物が懸けてあり、刀だんすには五、六本の刀を蔵していた。大震災の際自警団を組織した時、みな腰に大小をたばさんで現れたのでそれが判った。東片町の方向にでると、大通りに面して鈴もとという寄席があり、その右手に御岳神社があってお神楽をよく見に行ったが、八岐のおろち退治等を演じていた。その通りをずっと西に行くと銭湯があり、苦沙弥先生の通った湯だと言う人があったが、真偽のほどは知らない。「水風呂へへえりやがれ」というような熱湯好きのタンカも聞かれなかったが、「小桶の御挨拶」のエチケットは、昭和初年頃まではよく守られていた。町全体が白山神社の氏子であって、祭の時は御輿が静静と練り歩き、境内で花相撲が行われた。横綱の常陸山なぞは姿を見せず、小兵の玉椿という力士が一番偉く、片おかめ、電気燈などというコメディアンが子供達を喜ばせた。本郷通り(東大前)に相馬愛蔵、黒光夫妻が中村屋のパン屋を開店し、御用聞きが来て、三時のお八つは中村屋のうずまきパンときまってしまった。団子坂の菊人形、花屋敷、パノラマ、阿部家の園遊会(松井げんすいというコマ廻しの名人がよく芸を見せた)、これらが印象に残っている。本田神社の方に喜田床という床屋があって、そこの職人のことが漱石の小説に出て来るが、これは江戸時代からの髪結床で、そこの先代と私の祖父は親しくして、俳諧や川柳をやったり、時に隅田川で猪牙(チョキ)舟を北に漕がせたりしたらしい。阿部家の鷹の羽の紋所の提灯で市中を歩くと皆道をよけたもんだと、伊勢守時代のよき昔をなつかしんでいた。

 私の父は大蔵省に通勤する腰弁であったが、地方の専売局に転任したので、私も一緒に数年間地方を廻り、帰って来たのは1922年(大正11)の春であった。第一次世界大戦の好景気でもうけた実業家が旧藩士の古家を買い取って、新しい文化住宅(当時そう呼んだ)を建てて、西片町の様子も一変していた。もう我々の住む場所ではありませんと言って郊外に引越して行った学者があったが、それでも所々に知名の学者の家が残っていた。裏の路地には得能文先生が静かに住まっておられ帝大(東大)で哲学を講じた。家の前を本郷通りの方向にすこし歩くと言語学の藤岡勝二博士や俳諧の沼波瓊音先生、笹川臨風先生の家があった。藤岡先生の帝大での言語学概論は、そのグロテスクな諧謔だけでも聞くに値いすると芥川龍之介が折紙をつけた名講義で哲学者の如く言語学を語られた。ゆっくりゆっくり思案しつつ散歩しておられる姿をよく見かけた。

 当時私は浦和高等学校から帝大(東大)文学部に進学した。浦和高等学校で乙骨五郎教授に英語を教わり、級主任としてお世話になり、それがきっかけとなって上田敏を生んだ乙骨一族と付き合う縁が生じた。(後編につづく。)

※入力しながら、私は俳人石川桂郎の「剃刀日記」にある話を連想しました。時代が重なるのと、土地の持つ気配と文体が似ているのです。あまり自分には関心がなく、意識のほとんどが外に向って開かれているような文章といいますか。もちろん、石川桂郎は文人だから、文章はもっとずっと意識的で凝ったものですが、基本のところは何か通じるものがあるようにおもいました。(やはり江戸っ子という事でしょうか。)

参考:西片町:http://www.tcn-catv.ne.jp/~nishi-kata/history.htm

       : http://www.toshima.ne.jp/~tatemono/page012.html

(この参考写真のなかに、なんと「無冠の男」でとりあげた経済学者・田口卯吉の家と明治女学園創始者・木村熊二の家がありますので開いてみてください。)

2006年4月12日 (水)

乙骨三郎の妻、お千代さん

次は太郎乙三男三郎の孫にあたるひとの祖母回想です。

 「お千代おばあちゃまのこと」  

         大石 美知子

 亡夫昭三の少年の頃の貴重な思い出をご丁寧にお書き下さってご愛情の程、ほんとに嬉しく、おん礼申し上げます。

 あの乙骨のお宅の前は私は跡見に通っておりましたので、大塚駅から、都電に乗ったりバスに乗ったり歩いたり、休日以外は毎日のように通っておりました。俄雨で、あのご門の屋根の下で雨やどりをさせていただいた事もございます。結婚してから昭三から聞きまして「そうだったの?ちっとも知りませんでした」とびっくりいたしました。

 「円交会の長老」とよくご自分でも言っていらっしゃったお千代おばあちゃまが、昭和四十年から長崎のお宅でひとり住まいをなさるようになりました。私達は西武池袋線で二つ先の桜台という所におり割合と近かったので、週に二、三回は私が伺って、買い物や食事、掃除等をまとめてして差し上げる様になり、それが、その後に入院なさるまで、三年程も続きました。

 おばあちゃまは、もう随分足、腰が弱っていらして殆ど家の外にはお出にならないような状態でしたので、私が伺うともう堰を切ったように色々のことをお話になり、おひとりの生活の寂しさを振り払うみたいにおしゃべりを楽しまれました。おしゃべりはお千代おばあちゃまの唯一のストレス解消であり運動でもあったのではないかと思います。私はそのおしゃべりのお相手をしながら片付けをしたり針を持ったり、お好きな煮込みうどんを作ってあげたりしてからご希望の品々をメモに書いて買い物をして来て、それをおばあちゃまの使いよい様に配置して、夕方いそいで自分の買い物をしながら家に戻る、ということを繰り返していました。おばあちゃまのご希望の品は殆どお菓子やパン、ビスケット、くだもの、それにトクホンの様な貼り薬や胃腸の薬でした。そのおばあちゃまが、色々思い出話をして下さる中で私が思わず笑ってしまったことがあります。

 お千代おばあちゃまは昔の人にしては大変インテリで、府立の第三高女のご出身で(私の母が十二才下で矢張り第三の卒業生です。)卒業直後、それ迄育てて下さった児島さんとおっしゃるお祖父様・お祖母様がとても喜んで(お千代おばあちゃまの生母の方は早く亡くなられていたので)京都へ旅行に出して下さったのだそうです。おばあちゃまは当時としては一ばんモダンなレースのショールをして春の京都へはりきって出掛けられ、方々見物をしている途中で、東京から電報が入り、「エンダンマトマル スグカエレ」ということで、何が何だか判らないまま急いで東京へ戻ると、「帝大出の秀才、乙骨三郎氏との縁談がまとまったから、そのつもりで」と宣告されてしまったそうで、まだ十七の少女だったお千代さんは「ああそうか」と別に抵抗もなくなっとくしてしまわれたということです。この縁談は、乙骨の太郎乙さんが三郎さんのお嫁さん探しで、知人の方の紹介で第三高女の卒業写真を見て、勿論成績のよい方ということと、もう一つ、とにかく丈夫そうな人を、ということで、お千代おばあちゃまをご覧になって(写真で)すぐ決定ということになった由です。おばあちゃまも寝耳に水といった具合でしたが、三郎さんもご自分では殆ど何も知らない間にきまっていたという状態だったらしゅうございます。

 でも縁談が正式に決まると三郎さんは大変嬉しかったらしく、その頃上野の音楽学校で先生をして居られましたが、土曜日には毎週上野の山下にある名物のお団子を一箱ぶらさげて、児島さんのお宅に現れ、お祖父様と将棋を指したり談笑したり、その間には次から次へとお酒を飲んで行かれるので、児島さんではびっくりなさったそうです。未来のお婿さんですから、お祖父様、お祖母様は、孫可愛さで大サービスをするのですが、三郎さんは底なしに飲まれるので、仕方なく大きな樽でお酒を用意してもてなされたそうです。お嫁さんになる前のお千代さんは、毎週お婿さんはいらっしゃるけれど、お祖父さんとお酒ばかり飲んでいるのでよくよくお顔を見たこともなく、結婚してから初めてツクヅクと見て「何て顔の長い人なんだろう」と驚かれたそうです。

 そして結婚なさる前に「乙骨家に嫁ぐ者としての心得」といったものを、半二さんの奥様に教えていただいた中に「乙骨家の男達は、とても口に毒があるからその覚悟でいること。三郎さんは、勉強はよく出来るけれど、生活の面では、食事の用意をして、さあ召し上がれ、と言ってもボーッとしていて、箸とお茶碗を手に持たせてあげなければ、御飯も食べられない人ですからそのつもりでね。」

 と仰られて、信じられなかったそうですが、矢張りそれは本当だったそうです。

 そして三郎さんは結婚なさった時もご自分の持ち物としてはご飯茶碗と箸だけで、茶箪笥でも茶ぶ台でもみんな半二さんからの拝借もので、お千代さんは児島さんにいそいで嫁入り道具の追加をお願いして所帯道具を揃えて、半二さんに拝借物をお返ししたそうです。

 「本当にたよりない旦那さんだったよ」とおばあちゃまは笑い乍らおっしゃいましたが、三郎さんが亡くなった時は、その後毎日の様に大塚から歩いて寂円寺まで行って、お墓の前で泣いていらしたそうですから、何だかわけの判らない内に結婚してしまわれたお二人ではあったかも知れませんが、又、お千代おばあちゃまは気性の勝った男性みたいな面の多かった方のようでしたが、本当は可愛い甘ったれの女らしい奥さんで、旦那さまを本当に愛していらしたのだなあと、微笑ましく、懐かしく思い出されます。ただ、おばあちゃまは、私によく「この箪笥の中に円交会関係の人達の色々のことが書いてあるノートがしまってあるから、私がいなくなってからみんなに公開して貰うときっとおもしろいよ」と仰いましたが、亡くなられてからその箪笥を整理しましたが、字を書いたものはメモ一枚も出て来ませんでした。おばあちゃまはきっと、もう書いてあるつもりで「幻のノート」を心の中に持っていらしたのだろう、と、考えています。

2006年4月11日 (火)

ははのてのひらは

 ははのてのひらは小さな野原です   倉本朝世

            (あざみ通信特別号)

春休み、次男を連れて戸畑の姑のところに一晩とまった。ははは一人暮らしである。

二月に左手の親指を骨折してギプスにいれたまま、家事が思うようにいかない。それで、夫が週末に泊りがけで行ったり、私が行ったりして掃除をしている。数年前にも肩を骨折したが、そのときも誰にも頼らず、ほとんど一人で治した気丈な母である。

わたしは、夫に対してはともかく、戸畑の姑と亡くなった舅はほんとうに大好きだ。義父は平成九年に亡くなったが、今もパイナップルを見たりすると思い出し、涙が出てくる。大正末の台湾で生まれ育った義父は、行くとよくパイナップルを上手にさばいて出してくれた。寡黙でとても立派な男気のある人だった。それにものすごく達筆だった。

戸畑の母は、私の母と正反対の性格である。とても家庭的で包容力があり、やさしい。こどもたちが小さいとき、わたしは実家に帰るより戸畑に泊まるほうが、ずうっと里帰りのほっと和んだきぶんを味わった。

それは今にして思うと、実家は一年中、農家で苺栽培に追われていたからだと分かるのだが、無言の圧迫感は娘の私でさえうっとうしいものだった。農家の仕事など全然知らず、田舎の慣習にもなじめない夫と、常にだれかの婿とくらべてものをいう高飛車な親との間に立って、日曜の朝は一階と二階をそわそわと行ったりきたりしたことを昨日のことのように思い出す。親は起こせと言う、夫は起きない。そりゃそうです。サラリーマンなら誰だって休日は寝ていたい。でも、農家は違った。

あのころの息苦しさは、無言の抑圧となってのしかかっていた気がする。

そんなときに、ふっと戸畑へ行くと、にこにことやさしく、温厚な父と母が迎えてくれた。母は私には何一つ家事を手伝わせず、新聞でも読んでいなさいと言ってくれた。そして、晩御飯の材料を買いに近くの市場へ私を伴い、そこで必ず私達一家の分まで明日の食材も買ってくださるのだった。実家の母と違ってずっと専業主婦の姑は、とても堅実で節約家で料理がうまく、行く度に私に趣味で作ったかばんや手提げをプレゼントしてくれた。だから私は自分でバッグを買ったことがない。ぶかっこうでちょっとダサいバッグでも、大事に使っている。

初めて戸畑のおかあさんと出会ったときのことを、時に思い出す。婚約前の或る日、戸畑の家に連れていってくれた。似たような細い路地がいくつもある静かな住宅地に、古い小さな夫の家があった。戸を開けると、掃除機をかけていたおかあさんと目が合った。足もとをそのころ夫の家に飼っていた室内犬が賑々しく駆け回っていた。「いらっしゃい」と言ってくれた声もまだ覚えている。

戸畑の母は私の父と境遇が似ていた。おじの家に養子に来て、そこで結婚したのである。義理の父母のことを、いまもよく姑から聞かされるが、実の親以上に自分を大事に育ててくれたと言って先日は涙をぽろぽろこぼされた。いくら感謝してもし足りないほどだと言って。

先日、次男を中学受験のときにあまりにも勉強させ、倒れさせたという話をしたところ、姑は、その不自由な両手に次男のあたまを包み込み、抱きかかえるようにして、言った。「まあかわいそうに!あそびたかったよねえ。えらかったねえ。」

ほんとうに有り難いと思う。わたしには出来すぎた姑である。

附・江崎三兄弟の思い出

 「附・江崎三兄弟の思い出」

             正木 みち

 江崎孝夫氏=孝ちゃん(私達はこう呼んでいました)は東京の学校で勉強中、私の家に暫く書生のような形でおられたので割合によく覚えております。長姉まきは弟三郎(私の父)と、うまが合うと言うのか、可愛がっていたらしく、「孝夫は三ちゃんの家に預かってもらう」と言われたとかで、大塚上町の家の玄関三畳の間に机を置いて、暫くそこから学校に通われました。前記の言葉は私が母から聞いたのですが、幼い頃のことですが、私もよく覚えています。その家は乙骨家に隣接する甲野家の貸家で、八畳、六畳、四畳半、それに玄関の三畳と女中部屋の三畳の狭い家でしたが、風呂場は台所から離れた戸外に一坪位のもので、入る時は風呂場には石油ランプを持って行く、台所との間には、取りはずしの出来る幅五十センチ、長さ三メートル半程のさん橋がかけられると言う具合です。孝ちゃんはお風呂場に行く時はいつも、下ばき一枚の姿で、貴女の文にも書かれているように、このさん橋を六方を踏んで渡り歩きました。(※この文章は鈴木はる氏の「江崎牧子とその子供たち」ー3月14,15日付当ブログ所収ーに応えたものです。引用者註)これを見ると母はいつも「孝ちゃんが又はじまった」と言っていましたが、そんな姿が幼い私の目にもしみついていたようです。亡くなられたのは大正十三年といわれますと、私はもう女学校に入っていたころですが、何か亡くなられる前のかすりの着物・羽織を着た孝ちゃんのやつれた姿が印象に残っています。

 江崎悌三氏=貴女のお父上、私達にとっては従兄の悌ちゃんのことも、印象に深いのです。ただ貴女が書いておられる小学校や中学校の事は知りません。専ら大学時代の事です。七高から東京帝大理学部に進まれた頃護国寺の雑司が谷に下宿しておられました。近いのでよく遊びに来られ、子供好きだったのでじきにおなじみになりました。「みっちゃんは僕と一回りちがうんだ」と言ったりしてかわいがって頂きました。つまり一回りちがういのしし年でした。悌ちゃんはじょうだんが好きで、よく私達子供を相手に冗談をいったりからかったりしました。又、貴女も書いておられるように、上手下手は別としても歌はお好きでした。悌ちゃんと一緒にうたった歌として今も心に残るのは、「紫の横雲は空にたなびきたり」という句で始まる「浦のあけくれ」です。夏休の夕方、大塚の下の家の縁側で弟達も一緒に合唱した場面は夢の様です。その場に居た悌ちゃん、私の父、弟英一等、もうみな亡き人です。雑司が谷の下宿に「遊びにおいで」と言われて、弟英一と幾度か遊びに行きました。六畳だか八畳だかの部屋一杯に蝶だの何だののコレクションがあったのを覚えています。雑司が谷のどの辺りであったか記憶にさだかではありませんが、悌ちゃんに撮って頂いた私と英一の写真、アルバムに貼ってあります。上の家の元ちゃんと私が大正十二年三月に小学校を卒業しました。同じ時に綾夫さんと悌ちゃんが大学を卒業ということで、外でご馳走をして頂いた記憶があるのですが、これは綾夫さんに確かめてみなければなりません。(綾夫註・その時は乙骨半二氏のおごりで、悌ちゃんと私とを主賓として、日比谷公園の松本楼に行きました。上の家からは巴と元造、下の家からはみっちゃんと英一が、相伴として加わりました。)

 その後悌ちゃんは九州に行かれ、ドイツに行かれるというような事で余りお会いすることもなく、その後ドイツからお帰りになって、貴女のお母様と結婚なさる時にお目にかかった事で、大体私の思い出は終わります。戦後は私も昭和二十五年に小樽に来てしまいましたので、円交会でお会いする事もなくお別れする事になりました。

 江崎信五氏=円交会の中心人物信兵衛こと信五氏については、これまでにも皆さんの文章でも触れられておりますので、その事は省きます。円交会で活躍されたのは三高から東大に入られた頃の事ですが、今私が述べたいのは、貴女が確かめたいとお書きになっている中学のことなのです。貴女の書かれた静岡中学一年生ということについては私は知りませんが、信ちゃんは東京の開成中学に通っておられました。それも途中から転校されて来た様に思います。何故そうした思い出があるかというと、これ又、お兄さんの孝ちゃん同様、私の父三郎が保証人に頼まれていたのです。私の所は弟ばかり五人というわけで、母は男の子を大声でどなる様な生活でしたから、自然がらがらしていて何でもずばずば言う風でしたから、甥達もよく、「お千代叔母さん」といってはあそびに来て、信ちゃんもよく来ていました。そして、学期末に学校から成績通知表を渡されると保証人に判こを貰いに来なければなりません。昔も今もこういうことは余りかわりがないようですが、要するに、成績は見せないで判を貰うということです。「叔母さん、又たのみます」「ああ、見たことにしとくよ」といった具合で判をおすのです。そのあと、ひとしきりおしゃべりしたり、お菓子を食べたりして帰るという風でした。こんなことで円交会とはまた別の思い出があります。遠い昔のことになりましたが、あの様に才気に恵まれた信ちゃんが若死にされたことは誠に残念なことです。

2006年4月10日 (月)

太郎乙の大塚の家 2

(正木みち「大塚・上の家下の家」より後半の引用を続けます)

 当時、東京市には十五区しかなく、大塚はその一つ小石川区にあって最もはづれにあった。その頃東京市内に幾つかの市電路線があったが、その一つ大塚終点から電通院前、春日町、本郷三丁目、上野広小路を経て、厩橋にいたる線が乙骨家の前を通っていた。乙骨家はその路線の停留所、大塚辻町と大塚仲町の間にあり、距離的には一対二の割合で辻町の停留所の方に近かった。辻町の停留所から二三歩行けばもう豊多摩郡で郡部という事になる。即ち現在の豊島区である。辻町の次が大塚車庫前、その次が大塚終点であり、ここが国電(当時は省線)大塚駅。それから国電内廻りで次が池袋駅。大塚辻町から池袋に向かって広い道路があり、そのずっと池袋寄りに巣鴨刑務所(後の東京拘置所)があった。時々この道を通って池袋に連れて行って貰い、この刑務所の凄く高い塀を見上げて子供心に色々想像したりしたものである。男の子達は大塚駅へ行って、柵の外から省線電車を眺めて喜んだりした。

 乙骨家から電車通りを越した向かい側に東京市養老院というのがあり、身寄りのない老人達が入れられているという様な事を聞かされた。この養老院が後に板橋の方に移りその後に大塚公園が造られた。昭和三年の事である。この公園は当時としてはハイカラな、つまり、多分に洋風であり、ここが出来てからは我々もよく遊びにいったものだ。地形を利用して、一段低い所に広場があり、その頃からここでラジオ体操等が行われた。間もなくそのそばに大塚病院も建てられた。

 乙骨家の上の家、下の家の子供達は、小学校は大体、竹早町にあった女子師範附属小学校、窪町にあった高等師範学校の附属小学校、氷川下にあった大塚小学校の、どれかに通学した。私は高師附属小学校に入り前記の電車通りを歩いて通学したが、当時は勿論道路の舗装など全くない時代だったから、雨でも降れば田んぼ同様のぬかるみになり、足駄をはいても足が泥んこになった。もっとも、大正のこの頃には男子は小学校では半ズボン、中学生以上になると長ズボンの所謂学生服が、少なくとも東京の学校では大勢を占めていたが、女子の場合は洋服はまだまだ始まったばかりとて、元禄袖の着物に海老茶色の袴のスタイルが多かった。履き物は男子は靴、女子もたとえ和服でも足は靴というのが大体の学生のスタイルだった。

 私が小学校一年の頃はまだ大塚仲町から氷川下を経て駒込の方に行く、現在の不忍通りなど全然なく、細い道の向こうには田んぼが見えたりした。この道が広げられて、大塚仲町を中心にして片方護国寺まで、片方氷川下、丸山町を経て駕篭町(現在の千石)まで市電が通るようになったのは私の小学校高学年の頃だった。現在のお茶の水大学がある場所には陸軍兵器支廠とかがあって煉瓦の長い塀が続いていた。

 前にも記したが、護国寺は夏には色々なお祭りで出掛けた所だが、そのほかの時にも折々遊びに行った。護国寺まで行く間に大塚坂下町の通りがあり、その途中に吹上稲荷神社があり、そこの縁日も子供達には楽しみなものであった。その近くに大塚先儒墓所(一名儒者棄て場)があり、そこも時々行った場所である。

 護国寺の先は雑司ヶ谷である。ここは現在豊島区であるから、その頃はまだ郡部だった。有名な鬼子母神があり、秋のお祭には父に連れて行って貰い、名物の里芋の田楽など食べさせて貰った。その辺一帯はまだ広々とした原っぱで、春には摘草に行って、芹など摘んだものである。

 小石川原町(現在白山四丁目)にある寂円寺が乙骨家の菩提寺で、ここには曽祖父耐軒、祖父太郎乙を始め、乙骨家代々の故人が眠っている場所である。我々の子供の頃にもよく亡き人々の法事が行われ、子供達も賑々しく参加したものである。植物園の裏に当たる場所にあり、市電でも行かれたが、子供達は大抵、氷川下から植物園のそばを通り、歩いて行った。その頃は寺の門も植物園の方を向いており、その正面突き当たりに昔風の本堂があり、墓地は右手の方にあった。現在ではすっかり様子が変わり、寺も門も立派になり門は反対側の広い通りに面しており、その通りの向いに京華学園がある。

 大正十二年の関東大震災、それにも増して昭和十二年からはじまり、仝二十年の敗戦に至るまでの長い戦争、そしてその戦争末期に於ける空襲によって焼土と化した東京、更にそうした敗戦直後には想像もつかなかった様な、昭和三十年代後半から始まる高度経済成長、著しい物質文明の発達で、東京も我々の子供時代とは全く変わってしまった。町名も殆ど変わった。それでもこの、大塚界隈は比較的変わらない方だと思われる。今でもあの辺りを歩くと、昔を偲ばせてくれる様なものにふと出逢い、往時懐かしの思いに感傷的になりさえする。

参考:http://www2a.biglobe.ne.jp/~poko/index.html

   :http://www.seido.or.jp/event/event.php?category=5

        :http://cache.yahoofs.jp/search/cache?ei=UTF-8&p=%E5%84%92%E8%80%85%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A0%B4&fr=top_v2&tid=top_v2&search_x=1&x=19&y=13&u=www.ch-sakura.jp/bbs_thread.php%3FID%3D16113%26GENRE%3Darchive&w=%E5%84%92%E8%80%85+%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A0%B4&d=PNViPhbfMYkH&icp=1&.intl=jp

2006年4月 8日 (土)

一心行の桜

一心行の桜

一心行の桜

一心行の桜

  母と見し一心行の桜かな

  稜線が区切るは空か匂鳥

  虻を入れ蜂集らせて山桜

  一斉にケータイで撮る花疲れ

  レ点みおとす蝶のあしあと

太郎乙の大塚の家

 「大塚・上の家下の家」 

               正木 みち

 私達の曽祖父乙骨彦四郎(耐軒と号す)は十九世紀前半の人物であるから、私達は全然知らないのであるが、乙骨家の寺、文京区原町寂円寺の墓地にその墓があり、私達は子供の頃から法事で寂円寺に行く度にいつも伯母や母等から「ひいおじいさんの耐軒先生は偉い学者」と聞かされ、そうかと思ってお墓の前で手を合わせたりしていたから、名前だけは早くから馴染みがあった。併し幕末のすぐれた漢学者としてその道の研究家の方には今も尊敬されている人物だという事などは全く知らなかった。その次の代、祖父太郎乙になると私にはずっと身近な存在になる。私の小学校六年の時に亡くなった祖父は、同じ地続きの邸内におられいつも庭の草むしりをしていた姿が今も胸に焼き着いている。大勢の孫に囲まれたあごひげの祖父の写真も残っており、我々には平凡なただのお祖父さんであったが、この祖父が幕末から明治初年にかけ蘭学や英学を修め、新しい日本にとって必要な新知識を翻訳紹介した偉い人であったという事などは、生きる事に精一杯だった若い頃には少しも知らなかった。漸く生活にゆとりが出来て来たこの頃になって初めて曽祖父や祖父の事跡に関心を向け、その偉さを知るに至ったというわけである。

 祖母継は杉田玄白の曾孫、明治四十三年に亡くなったというから、私の生まれる前年の事で、私はただ写真でその面影を偲ぶだけであるが、祖父にして見れば十余年男やもめの生活であったわけである。太郎乙には五人の息子、五人の娘、そのほか、一番年長に養女たき(甲野)がいたが、そのうち、長男敦(とむ)と四男四郎は幼い時に亡くなったという。私が幼い頃には半二伯父、父三郎、五郎叔父の三人の男、大阪の江崎政忠氏に嫁した長女まき伯母、古山栄三郎に嫁した次女さだ伯母、小室龍之助に嫁した三女ひさ叔母、まだ嫁入らぬ四女とく叔母、五女ろく叔母などがおられた。

 現在の様な核家族の時代ではないから、大塚辻町一番地の、門口は狭く奥へはずっと広くなっている崖地に建った家に半二伯父一家が住み、一寸した廊下を隔てて居間があり祖父太郎乙、そしてまだ一家をなしていない五郎・とく・ろく、が住んでいた。そして一族はなるべく近くにかためておくという昔風の考え方からか、私の父三郎宅は崖地をだらだらと段を下りて下の甲野家の貸家(大塚上町二十九番地)にあった。大正十二年夏、この家の隣になる伯父の所有の家の方に引っ越した。こちらの方も同じく崖下であるから、私達は、半二宅を上の家、三郎宅を下の家と呼んでいた。この上、下、の家の間の崖はかなり広い竹薮であった。地震の時はこの竹薮に逃げ込めば安全と小さい時から教えられていた。この年の九月一日正午近くに起きた例の関東大震災の際には皆この庭にとび出して一両日を野宿したものである。

 この、現在の東京では考えられない様な広々とした場所で私達が過ごした子供時代は全く幸せであった。半二宅には巴、元造、きぬ子、亨二、菊枝、花の六人、三郎宅にはみち、英一、俊二、昭三、達夫の五人の子供がいたわけで、学校から帰れば主として上の家の庭、段々などを舞台に、鬼ごっこ、かくれんぼ、国取り、石けり等、いとこ達だけで人数は充分なので他に友達を呼ぶ必要もなく、学校がすめば塾などという今の子供達には想像もつかぬ古き良き時代を只々遊びほうけた。

 両家一緒に遊ぶのは大体夕飯時までであったが、例外として夜も遊べる時があった。七月十三日のお盆に亡くなった祖先をお迎えする晩と、仝十五日同じくお送りする晩は下の家からは父も一緒に子供達全員上の家に集まり、大勢で門の所から玄関まで両側にならび提灯のあかりで仏様をお迎えし、仏壇に次々にお線香を上げる。そしてそのあと、いっとき他愛もないおしゃべりも出来るといったこの行事は子供達には一つの楽しみでもあった。夏には又、「四万六千日」と「お富士さん」の縁日があった。「四万六千日」は七月十日頃、「お富士さん」は八月十日頃、どちらも音羽の護国寺境内からその付近にかけて縁日の夜店が出る。これも子供達は一緒に行く事が出来た。いつも変わらぬ縁日風景だが、子供達には本当に楽しく、今思っても懐かしくてならない。冬はお正月。元日と二日は夕食後下の子供達は上の家に行く事を許された。百人一首のかるた取りを夜更けまで何回も興じた。読み手は大抵半二伯父であった。よその人達を呼んでこないでも、いとこ達だけで遊べたあの時代、半世紀たった今でも思い出すだけで涙が出る程懐かしい。そのあとが一月四日の円交会だ。これは一年一度昼夜とおして遊べる日だった。円交会については、その由来から発展、盛衰、更に戦後の復活に至るまで、別稿で詳しく述べる事にする。

 祖父太郎乙が亡くなった頃まだ幼かった子供達もその後五年も経ち年号が昭和と変わる頃には、中学校、女学校、更にその上の学校という具合に成長していた。三郎家にも大正十四年生まれの末弟明夫も加わって六人兄弟になっていたし、五郎叔父の所にも由紀ちゃんや清一郎君の様ないとこも増えていた。江崎家では悌三氏が東大を卒業して九州大学に勤務される様になり、その代わり大阪から信五氏が東京に来ていて三郎が保証人の関係もあって度々大塚には顔を出し、円交会の中心になった。

 昭和三年夏には江崎悌三氏が留学先のドイツから帰ってドイツ婦人のロッテさんと結婚されたり、古山綾夫氏と巴さんの結婚などの事もあった。次いで、半二伯父が検事をやめて弁護士を開業され、牛込横寺町に事務所を開き一家はそこに移る事になり、上の家、下の家の関係もここに終わることとなる。だから、大正の大震災のあとから巴さんの結婚される頃までが、大塚に於ける円交のあつまりの最盛期ではなかったろうか。永い間台湾住まいだった古山家も栄三郎伯父がお勤めをやめて浦和に移り住む様になり、古山家の丈夫さん、幸ちゃん、佑ちゃん、富ちゃん達も増えて賑やかになり、信五氏が中心になって円交会は更に楽しく面白いものであった。

 昭和四年五月、半二家が牛込に移られてから、今まで半二家のあった地所が二つに分けられ門から向かって右が三郎家、左が五郎家のものとなった。家は今まで半二家の住んでいたものを譲り受け、離れになっていた二室を切って二階に乗せた。五郎宅は別に新しく造られ、昭和五年十月に引っ越した。

 以上、私達が楽しい子供時代を過ごした土地、円交会発祥の地、東京市小石川区大塚辻町一番地、現在は東京都文京区大塚四丁目となっている界隈について、思い出すままをもう少し書いて見たい。(後半へつづく。)

※乙骨太郎乙一族の私的な交友誌「円交」をブログでご紹介することがはたしていいことかどうか、これっぽっちも考えずただやみくもに始めましたが、昨日いただいた永井菊枝氏からの返書を読み、これでいいのだと思いました。いつになるか分かりませんが、太郎乙には教育に関する建白書というものも残っており、そういう史料も全部、ここで御紹介できればなあと考えています。私にとってこれは銭金の問題じゃない、大事なしごとです。

太郎乙のもう一つの顔、漢詩人としての位置については、今のところ、作品は冒頭で紹介した(1月13日付ブログ)八十賀の祝宴連句の発句しか知りません。それすら私には読めませんでしたので、「連句誌れぎおん」にて、先だってどなたか読み解いてくださいと呼びかけたところ、近いうちにきちんとしたヨミが届けられそうです。「れぎおん」は本当にすごい人々が集っている本です。全的で有機的な連結力があるというかなあ。ほんま、めちゃくちゃすげえです。笑 

 

課題句「参」

  俳句誌「樹」4月号より   三月の課題「参」 

                  選者:太田 一明

特選

   参道まで海神出でし春隣        古永 房代

   節分やおもちゃの太刀に降参す    井上ちかえ

   乳よりも濃き白梅や宮参り        末永 春海

佳作 

   参考書重し二月の停留所        神無 月代

   人参によく効くという風邪薬       小森 清次

   笹鳴きの参道駈けるサッカー部     木村 賢慈

   真四角な人参畑にある秘密       竹原 ときえ

   小さき手鬼を参らす豆を撒く      宮川 三保子

    ひつくくる五十の髪や人参や      姫野 恭子

   長崎は人参広野風花す         林  照代

   持参金結納金なし四月馬鹿      依田 しず子

入選 

   早春や人参ジュースの纏め買い    猪ノ立山 貞孝

   背伸びして皇居参賀の日のありし   佐藤 綾子

   手水舎に参拝客の着膨れて       山下 整子

   参詣の庭の白砂に固き梅        島  貞女

   参拝の行き交ふ路や梅匂ふ      田中 恵

   参宮の雪道はるか遠き日よ      阿部 禮子

   参道にうっすら雪のあと残す      太田 つる子

選者吟 

   啓蟄や眼鏡で参謀眼を隠す    太田 一明

主宰吟

   たんぽぽのぽぽへぽぽぽぽ参画す  瀧 春樹

※五月号「即」三月二十日締切

 六月号「異」四月〃

 七月号「横」五月〃

(どなたでも参加できます。投句をどうぞ。景品はありませんが作品が残ります。)

   

2006年4月 7日 (金)

音楽家・乙骨三郎 2

(きのうの正木みち氏の文章引用のつづきです。なお、乙骨三郎を「音楽家」としておりますが、教育者の肩書きのほうが合っているかもしれません。)

 私が女学校を出て専門学校に行く時、絶対にとはいわなかったが希望は津田塾のようであった。私は女高師の理科へ行きたい気持があったが、高師は卒業後義務年限があって、地方のどこへやられるか判らないから離したくないという事で反対だった。ピアノを習いたいと言った時も、ピアノをやって音楽学校へ行って一流になるには健康が許さないし、お嬢さん芸でやるなら反対という事であった。津田か聖心女子大が一番よい学校というので、そのどちらがよいだろうという事で結局津田を受けた。入学試験のあと、問題とその出来栄えを私に言わせて「それならまあ入れるだろう」と言った。自分としてはとても駄目だと思っており、発表も母に見に行って貰った位だったが、合格を知った時、お父さんはやっぱり専門学校の先生だから、試験の合否の見当はつくんだなとひとり感心した。

 退官については、それに関する色々な事は余り聞かされてはいなかったが、父としては五十才にもならない年齢で、まだまだ勤めていたかったであろうと今にして推察する、しかし欠勤もながくなって辞めざるを得なくなったのであろうと思う。退官後は健康に留意しつつ奥の八畳間を書斎として音楽史の完成に取り組んでいた。もっとも、音楽史については、下の家に居る頃から取り組んでおりその頃からしばしば、太田太郎氏や高橋均氏が手伝いに来ておられた。昭和八年ころには当時音楽学校の学生だった福地静枝叔母(母千代の妹)も時々手伝いに見えていたし、中学を出て浪人中の弟俊二などもよく手伝っていた。

 私は昭和七年三月父の病気療養中津田を卒業したが、当時最高の就職難の時代で、暫くは今で言うアルバイトなどした後、昭和八年一月から川崎第百銀行外国部に勤めることになった。たまたまその頃の外国部の部長八杉直氏が、姉上がもとの音楽学校長湯原元一氏の奥様であったと言うことで、乙骨三郎の名も知っていて下さったりして、父も喜んでくれて、八杉部長にお礼の手紙を出してくれたりした。

 戦後医療も発達し、よい薬も沢山出来てきて、今や肺結核という病気も過去のものとして一般に殆ど関心も持たれなくなって来ているが、戦前は何より恐れられていた病気である。父は当時としては随分高価な薬なども手に入れて養生していた様だが、いつも隣に住む富田医師を信用して彼に任せ、別に入院することもなく、家で母の看護のもとに療養していた。今だったら決して死ぬことはないであろうような年齢で満五十三歳で他界した。日頃父に甘えて色々話をしたなどという事は一度もなかったが、一人娘の私をかわいがってくれた父、お父さん程偉く、愛すべき人はこの世にないと思っていたその父を失った悲しみは今なお忘れられない。仏壇の前でひとり長い時間じっとしていたものである。大塚辻町の八畳間で行ったお通夜や葬儀には、音楽学校関係の方達は勿論のこと、親類、近所の方そして私の勤務先の銀行外国部の部長以下同僚殆ど全員、昔の先生や友人が来て下さった。父が何より好きだったシューベルトの未完成交響曲のレコードをかけてあげた。

 父はそれ程色々な事を話してくれたわけではないけれども、日頃のいろんな言葉の中で人生に対する考え方も教えられたようだ。女学校を卒業したら、先ず嫁入り修業というような考え方がまだまだ多かった時代に父は女でも勉強しなければ駄目だという考え方で私を専門学校に入れてくれた。何と有り難い事であったろう。父の生前教職につけなかった事は心残りだったが。

 父は「やがて肉体的に死ぬことになっても、本でも書けば二十年位は生きのびることが出来る」といっていた事がある。父の死後五十年以上たつ。今なお私の心の中には「四つ葉のクローバ」「氷滑り」などの歌が生きており、昔の文部省唱歌中の「鳩ぽっぽ」「池の鯉」「汽車」などは世の一般の人達の心の中にもなつかしまれ、生きつづけている。

   「半二伯父・五郎叔父の思い出」

       正木 みち(太郎乙三男三郎の長女)

 親の思い出は色々あっても一般に伯父達の思い出というものはそれ程はっきりしてないのが普通だろう。私の場合かなり色々の思い出があるというのは、すぐそばに一緒に住んでいたという理由からであろうか。

 半二伯父は父より五才上というから、明治九年(1876)生まれ。「半二伯父さんは九つの時中学に上った」と昔母から聞かされた憶えがある。明治の始めで、日本の近代学校制度がやっと始まったばかりの頃の筈だから、そういうこともあったのかと思いながら聞いたものだ。

 伯父は検事という職業であったから、世間一般には何か怖い仕事に思われた。大塚時代の伯父について言えば、しじゅう会うわけではないが、夕方など伯父が役所から帰られる時など見かけた場合、矢張り子供にはこわい伯父さんに見えた。ところが、このこわい伯父が夕方お酒を飲むとすっかり変わってしまう。伯父はお酒が好きで毎晩一升近いお酒を飲んだ。飲むとすっかり機嫌がよくなり、陽気になられた。そんな伯父の姿が半世紀以上たった今でも思い出される。そのお相手のおしゅん伯母は大変だったろうなと子供の頃でも思ったものだ。仕事の方では鬼検事と言われる程腕をふるった伯父もお酒を飲んだ私生活ではすっかり人が変わって色々な逸話もあった様だ。大塚の近所の豆屋の豆を全部買ってまいたとか、神楽坂を裸で走ったとか、断片的な事を聞いた様な憶えがある。

 下落合の家に引っ越されたあとや、戦時中富士見に疎開されていた頃の晩年の伯父はもの静かな老人であった。

 五郎叔父のことについても、割合に早い頃から記憶がある。私が物心がついて小学校にはいった頃は、大塚上町の家に住んでいたが、その頃五郎叔父は上の家の離れの方に、とく叔母ろく叔母(※どちらも太郎乙の娘。引用者註)と一緒に生活しておられたのを憶えている。その後叔父は旧制岡山高校に勤務され、若いきれいな叔母(お美津叔母)と結婚された。その後新潟、次いで浦和高校に来られた。

 昭和五年に三郎宅が大塚の上の家に移った時、敷地を二分して片方に五郎叔父が住む様になってからは接することが多くなった。乙骨の兄弟が皆そうであったが、五郎叔父もあまり社交的ではなかった様な気がする。日曜日にはよく一家で外出するようなことはあったようだ。五郎叔父は私の母千代の一才下であったが、父が亡くなってからは母は何かと五郎叔父をたよりにしていた。私の結婚後、昭和十三年、母達が東長崎に移り住む様になってからも、当時一高在学中の弟昭三があまり勉強をしなかったということで五郎叔父には随分心配をしていただいた様である。その後私は神戸に行き、戦争は激しくなったりしたことで疎遠になり、五郎叔父の晩年については余り詳しい事は知らない。

※引用文中の「大塚の上の家」という言い方ですが、これは上の家=乙骨半二宅、下の家=乙骨三郎宅、です。当時は一族がなるべく近くに住む慣習があったようです。あした引用予定の正木みち氏「大塚・上の家下の家」と題する文には晩年の太郎乙おじいさんの懐かしい記憶から始まり、江戸時代をひきずる昔の東京風俗の秀逸なスケッチが生き生きと描かれています。

2006年4月 6日 (木)

大学生の国民年金

去年もだったけど、やはり今年も届きました。あれ、なんとかならないでしょうか。

本人が手続きをする前にいやおうなく届くぶあつい一年分の「払い込み書」。大学生は中途退学しないかぎり少なくとも四年間は大学生です。毎年払い込み猶予手続きを義務づけられているのは当然ですが、環境学部の学生が払込書一冊を無駄にごみばこに捨てるのはどんなにいやなきもちでしょう。たぶん事務経費の関係でこの方が安上がりなのかもしれません。機械化によるこんな無駄、ほかにもいっぱいあるのでしょうか。まるでコンビニのお弁当みたいです。

PS/大学生で実際年金掛け金が払える人の割合はどのくらいでしょうね。払い込み猶予二年目からは金利がつくみたいですが、それでも払えないでしょう、おおかたの学生は。

音楽家・乙骨三郎

今週は再び「円交」からの引用をつづけます。

乙骨三郎については一つの疑問があります。それはこれまで円交から引用をしたなかに、資料提供者永井菊枝氏が山梨文学館の会誌用に書き下ろされた御文章がございました。その中には太郎乙の子孫それぞれの簡略な紹介があったのですが、三郎のなした仕事のひとつに童謡の作詞があり、「はと」「汽車」「池の鯉」「日の丸の旗」・・と書かれていたのです。ええっと驚きました。すばらしいです。しかし、パソコンで検索しても「日の丸の旗」は別人の作詞です。それがずっと気になっていて、なぜなんだろう・・と思っていました。『円交』をていねいに読みますと、その謎も解けます。どうぞ最後までお付き合いください。なお、私は童謡の中で昔から「うみ」が一番すきでした。これは乙骨三郎ではなかったですが、今回童謡をしらべるうち、作詞者も作曲者も知ることができ、ふしぎな気分をあじわいました。あのうたを聴き、くちずさめば、涙がでるのですが、それは私だけじゃなかったようです。次のサイトを開いてください。ここに登場する正木みちさんも出ておられます。「汽車」のうたです。(「うみ」はなぜか表記が「ウミ」です。カタカナ表記の歌詞っていうのは哀しいですね。http://www.mmjp.or.jp/MIYAJI/mts/nihonnouta.html

 「父乙骨三郎の思い出」

       正木 みち(太郎乙三男・三郎の第一子で長女)

 父乙骨三郎については、昭和四十八年一月に昭和女子大近代文学研究室から発行された近代文学叢書第三七巻に詳しく書かれているから、一般的な業績などについて書く必要はない。娘としてありし日の父を懐かしみつつ思い出すままに書いてみたい。

 父は一八八一年つまり明治十四年生まれだから、今年昭和五十六年(一九八一年)はちょうど生誕百年にあたる。私が長女で女の子は一人、あとは弟五人だから私は一人娘として父にとってはこの上なくかわいい存在であったようだ。外でどのようであろうとも家庭に於いては只々子ぼんのうの父であった。

 私が小学校に入る前、学校に行くようになるのだから、手頃な机と本箱を買って上げようといい、「手頃な」の意味を教えてくれたのが物心ついてからの最初の思い出のようだ。

 小学校一年の十月三十一日(当時の天長節祝日)に音楽学校の学生さん達の菊見の遠足だかがあり、父が私を連れて行ってくれて学生さん達にかわいがって頂いた思い出がある。

 教師だから毎日の帰宅は五時頃までであって、夕食はいつも父と一緒であった。毎夕食の時一合の晩酌をとる習慣であったが、何かしら本を読んでいて、子供達と話をするということは殆どなかった。併し子供をかわいがることは人一倍で、夏などは夕食後両手に子供をぞろぞろ引き連れ散歩に出て、何かしら玩具を買ってくれるというふうであった。弟が沢山居たから母は殆ど外出することなく、私の年一回の父兄会にはいつも父が来てくれた。

 たまたま家にお客様が見えたりして、その場に私が居たりすると、「この子は津田梅子さんの塾に入れる」など、幼い私をさしてそのようによく言っていたので、子供の頃から津田塾に行くものだというように考えていた。

 当時音楽学校の奏楽堂で学校の定期演奏会があったり三月の卒業演奏会には父は娘の私だけを連れて行ってくれた。父は図書館の主任をしていたので、学校へ行くと、いつもその図書館に連れて行かれ、音楽会が始まるまでそこに待たされていた。今芸大の奏楽堂の処置について新聞などに色々書かれたりしているが、何回も連れて行って貰ったあの奏楽堂、私でさえこの上なく愛惜の気持を抱くのだから、父が生きていたらどんなに懐かしく思うことだろう。

 父は男の子達は文学方面に進ませたくなかったようで、皆理科へ行けといっていた。自分のやった事はやらせたくないという気持らしい。子供はかわいがったが、直接話をするということは殆どなかった。だから父に話しかけるなどということは余りなく、一目おいていた感じだ。現代とちがって昔は一家の主人とは何となくそういう存在であったようだ。夏休みには二、三回どこかへ遊びに連れていってくれた。子供を休み中にどこかへ連れて行くというのは、家事と育児に追われている母には出来ないからという事で父の義務のようであった。

 夕食後父はよく二階で歌など小声で歌っていたものだ。学校の試験期には、夜ふとんの中で横ばいになりながら、独り言を言いつつ、ざら紙の学生の答案に○をつけたりしていた。後年自分が生徒の四百枚にもわたる答案の採点をする身になって、昔の父の採点姿を思い出し「お父さんなんか、何十枚の採点をすればよいのだから楽だったろうに」など思ったものだ。

 父は明治三十七年九月に東京帝大文科哲学科を出て、そのあと大学院で美学を専攻し、一時母校の開成中学に教えたこともあったようだが、明治四十年東京音楽学校のドイツ語教師の嘱託となり、翌四十一年から教授として勤め、ドイツ語、英語、後には音楽史や和声学なども教えたようで、そのほかに色々の音楽関係の掛も仰せつかり忙しかったようだ。図書館の主任もやり後に同校に臨時教員養成所が設けられると、そこの教務主任も兼ねたので、卒業生の就職の世話も随分していた。この卒業生の就職の面倒を見たりしたので学生との接触が増したのだろう、卒業生がよく挨拶に見えたりしていたものだ。

 後に私が女学校の頃、東北帝大に招かれて音楽史や美学の講義に二週間に一度、仙台まで一晩泊りか二晩泊りかで出掛けていた。今の様に汽車の時間も短縮されていない頃だから、かなり疲れたのではないだろうか。

 父は呼吸器が弱かったので子供達の健康には特別心配した。身体を丈夫にするために「雑巾掛け」が一番だといってよくさせられた。女学校に入ってからはテニスをすることをすすめてくれた。この女学校時代にテニスをしたことが後になって私の人生にどれ程うるおいを与えてくれたことか。大いに感謝している。女学校の水泳部にも参加するよう、すすめてくれた。私が自分の健康に気をつかい何とか過ごして来られ、この年まで丈夫でいられるのは、こういう親の心配があったればこそと思っている。

 父は大塚の家から上野の音楽学校まで、市電(後の都電)で上野広小路まで行って、上野の山をのぼって学校へ行っていた。それで帰りにはよく上野の山下でせんべいや人形焼のようなものをおみやげに買ってきたりした。併し、いつからか省線電車(今の国電)が都合がよいと判りその方に切りかえた。辻町から大塚終点まで歩き、省線で鶯谷まで行き、そこから学校へ行くようにした。併し退職するすこし前には、疲労も多かったらしく、時々車をよんで学校に行ったりしていた。

 学校の勤務のほかに、音楽関係の本に色々原稿を書いたりしていたから、本屋さんの訪問もよく受け、原稿の催促などもされていたようだ。(後編へつづく) 

2006年4月 5日 (水)

花の雨

雨の日のさくらは、晴れた日よりも色を深める。

幹の色はより黒っぽくなり、花はピンク色がはっとするほど濃くなる。あしもとをたくさんのはなびらでよごしながらだまって雨にうたれている花は、風情があり匂いがある。

ことしもいきたいとおもう。阿蘇の白水村にある一心行の桜を見に。

去年、母を連れて初めて訪れたとき、そのひっそりとした絢爛さに圧倒された。大木の周囲は根を保護するために板が敷かれて、それが歩道ともなっていた。人の群れがゆっくりと移動する。流れに遅れながら、地に届きそうな花房に近づいたり、また遠くから台風で頭頂部を失った樹の全体を眺めたりして、飽きなかった。

なんにもないすりばちみたいな田圃のなかにぽつんと一本ある樹である。どなたか名のある武士の墓地を守る桜であったらしく、由緒書きもものものしくある。でもほとんどそういうことはとんでいき、ただ山の中の一本の桜の大樹のおおきな気息と風と人がいる。たくさんのたくさんの人を容れてくれる彼の息のおおきさ。

きっとまだ咲いてはいないだろう。

一心行のさくらのことを想い、落ちつかない日々である。

http://www.yado.co.jp/hana/kumamoto/issingyo/issingyo.htm

大隈伯昔日譚

4・3付「究極の粉飾決算」で引用した『日本の暦』から、下線部分の補足引用をします。

1.「曾て予は大隈侯に「わが国の新暦を採用せしは非常に早かったがドウいふ訳でしたか」とたづねたら、「それは主に財政上の閏月の関係から来たものだ」と答へられた、(以下略)・・・大藤時彦『年中行事』にある矢野文雄著『竜渓閑話』の引用。

2.「次に注意すへき改革は、太陰暦を変して太陽暦に更めたることなり。太陰暦は千有余年の往時より伊勢の太廟に於て発行し、太廟の御幣と共に広く世人に頒布し来りしものにして、之より生する収入は頗る多く、数百人の神官は之に依りて衣食住を全ふせし程なり。然れとも封建の廃滅と共に種々の階級も亦廃滅せられ、神官の如きも普通の官吏と其任免黜陟(ちゅつちょく)の式例を同ふせらるゝに至りては、何時までも斯る特権を与へ、斯る特別なる利益を受けしむへからす。是れ四民平等の主義に背反するものなり。且官吏の俸給と云ひ、其他の諸給と云ひ、王政復古の前に在りては、何れも年を以て計算支出せしといへとも、維新の後に至りては月俸若くは月給と稱して、月毎に計算支出することゝ為れり。然るに、太陰暦は太陰の朔望を以て月を立て、太陽の躔度(てんど)に合するか故に二三年毎に必らす一回の閏月を置かさるへからす。其閏月の年は十三ヶ月より成れるを以て、其一年だけは、俸給、諸給の支出額、凡て平年に比して十二分の一を増加せさるへからす。然るに国庫の収入を見るに、其当時の収入は重に土地より生し、毎年一定して左したる増減なし、斯く左したる増減なき収入は謂ゆる入を計りて出を制する財政上の原則に従ひ、恰好に平年の支出額に積算したるを以て、閏月あるの年は、収支の額は必らす相適合せすして、支出額上に平年の十二分の一即ち一ヶ月たけの不足を生することゝ為るへし。左れはとて平年の収支の上に於て、多少の余裕を生せしめ、予め其不足に対する準備を為さんとするも、当時の国庫は種々の事情の為痛く窮乏を告け、其平年の支出額にすら甚だ困難を感し居る程なるを以て、決して其余地あるなく、而して平年の支出額に比し、其十二分一の増加を要する閏月ある年は、正に近く明年(乃ち明治六年)に迫れり。此閏月を除き以て財政の困難を済はんには、断然暦制を変更するの外なし。啻(た)た是のみならす、其比は一、六の日を以て、諸官省の休暇定日と為せしを以て、休暇の日数は月に六回、年に七十二回の割合と為り、加ふるに五節句あり、大祭日あり、寒暑に長き休暇あり、其他種々の因縁ある休暇あり、総て是等を合すれは一百数十日の多きに上り、而して其頃の一年は平年三百五十余日なりしを以て、実際執務の日数は僅々百六七十乃至二百日に過ぎさりし。是乃ち一年の半か少くも五分の二は休暇日として消過し去りしなり。斯る事情なるを以て懶惰遊逸の風は自然に増長し、一般社会にまて及ほし。且政務渋滞の弊も日一日と多きを加へ、竟(つい)には国家の禍患を構ふに至るへし。其上、当時は外交漸く盛んにして、諸国との往復交渉頗る繁劇に赴きたるを以て、其執務と休暇の定日と彼我一致せされは、諸般の談判往々に渋滞するを免れす。固より休暇日の廃存変更は必らすしも暦制の如何には関係せす、上に立つものゝ意にて如何様にも之を動かし得さるにはあらされと、長の年月因襲し来りし慣例なれは、其根本なる暦制を改革するにあらされは、是等の弊患を全く洗除する能はさるなり。然れとも、暦制の改革は、其影響の及ふ所、少小にあらす、従て之を断行するも、亦容易の業にあらさるなり。左れはとて之を在来のまゝに放任し置は、理論上の弊害は兎も角も、実際上の禍患は益々増長し、竟に国家民人を不利不幸の境遇に沈落せしむるやも測り知る可からす。是に於て太陰暦を変して太陽暦に更むることゝ為せり。蓋(けだ)し太陽暦は太陽の躔度に従って月を立つるものなれは、一年一月の日子に多少の差異なきにあらされと、季候早晩の変なく、四歳毎に一日の閏を置き、七千年の後僅に一日の差を生するに過ぎさるを以て、之を太陰暦に比すれは最も精密に、且甚た便利なるのみならす、休暇日は一週中に一日、即ち日曜日を以て之に充つることゝ為りしを以て、七十二回の休暇は減して五十二回と為り。且朔望と云ひ、五節句と云へるかことき、旧来の休暇日は尽く(ことごとく)之を廃し、其上に一年は三百六十五日乃至三百六十六日と為り、而して別に閏月を置の要なきことと為りしより、独り政務処理の上に渋滞なからしむのみならす財政上も亦二三年毎に平年の十二分一を増額して支出せさるへからさるの困難なし。之を陰陽両替制より生する結果を比較すれは、其利害得失は固より同日の談にあらさりしなり。」・・・『大隈伯昔日譚』よりの引用。(の引用の引用であります。)

※『大隈伯昔日譚』・・・大隈重信が円城寺清に語ったところを伝記体に編述したもので明治二十八年発行とのこと。

参考:http://www.bunshun.co.jp/yonda/yenmaker/yenmaker.htm

2006年4月 4日 (火)

さかさけちゃっぷ

さかさけちゃっぷ

はいんつのです。

春休み

やれやれ。ようやくあと一日だ。長い春休みだった。

中学一年ってびみょうなところだ。この一年をふりかえってみると激動の思春期入り口だったなあと感慨深い。こども三人のうちで学校に呼び出されたり始末書書かされたりしたのは、末子だけだもの。とても目の行き届いた学校でよかった。それと離れていてもちゃんと叱ってくれる父親でよかった。私一人ではぜんぜん太刀打ちできないからだ。チチオヤから殴られ、先生から叩かれて、ようやく落ち着いた。去年の彼と今年の彼はもう別人だ。ただのガキから脱皮したショウネン。そういえばいつのまにかわたしを呼ぶのが「かあちゃん」から「おかあさん」になっている。いつまでもクレヨンしんちゃんじゃないよね。声もずいぶん低くなったし、背はまだ私より低いけどがっしりしてきた。サッカーするたび、やれ足がどうした腕がどうしたと泣きついてきたひよわな男の子はもういない。きみはもうはんぶんおとなのおとこだ。

さいきん洗面台に次男用の「ギャッツビーヘアーワックス」が置いてある。長男はそういうのにまるで無関心なのに、次男はおませだなあ。洋服も靴も私が買ってくる安物じゃ承知しない。じぶんでこだわりのものを買ってくる。それと忘れちゃいけない、ふとんに鼻血。笑

しょうねんよ。大志をいだけ。(・・ってそれはショウトクタイシのジャージだよ。増田こうすけの「ギャグ漫画日和」こんどおかあさんにもよませて。)

2006年4月 3日 (月)

究極の粉飾決算

(4・1よりのつづきです。「日本の暦」岡田芳朗著から引用しております。)

 ところが明治五年の改暦断行では事前にそのことがなかった。改暦が発表になった時はすでに次年度の暦が発売になってから一ヶ月余もたってからであり、本来最初に文部省天文局から新暦原稿を渡されるべき弘暦商社が一般より遅れてそれを渡されるありさまだった。そのうえ政府は新暦普及のため弘暦商社以外の者でも地方官庁の許可を得て自由に暦の出版をすることを認めたため、弘暦商社は新暦の出版に立遅れてしまった。弘暦商社は同年春に当局から保証された暦の独占販売権を何の予告もなく破棄されたうえ、明治六年太陰太陽暦の販売を一切禁止された。この命令は大阪では十二月朔日に実施されたので、東京方面ではあるいは十一月下旬であったかもしれない。このため弘暦商社は旧暦本を購入した人々からは返金を要求されるという予想もしない災厄に見舞われたのである。かくして弘暦商社は厖大な売残りの旧明治六年暦の山と損害を背負い込んだのである。これについては大阪弘暦商社の残暦の記録がある。

 各種残暦の累計は二百六十二万部余にのぼっている。また明治六年十一月に弘暦商社総代降谷明晴代理林立守から暦専売五ヵ年延長を申請した願書には、明治六年太陰暦の長暦上中下等並びに大小本暦製造部数二百七十万部余に対し残部は百七十五万千部、 一枚摺り略暦六通りの製造枚数百七十万枚余に対し残部百二万八千枚で、これらの損害額は三万八千九百五十九円に達している。この数字は東京弘暦商社と大阪弘暦商社の合計であるから、大阪弘暦商社の二百六十二万部がその大半を占めていることがわかる。

 致命的な打撃を蒙った弘暦商社の救済策としては、再び向う三ヵ年間の暦の専売権の承認ということであったが、これは延長を重ねて明治十五年まで都合十ヵ年認められ、明治十六年に至ってようやく打切られ、以後政府編纂の暦は伊勢宮司庁から発売されることになった。

 このような結末になることはほぼ最初から分かっていたことであったから、何故にその年の春に文部省の指導のもとに結成させ暦の専売権を保証した弘暦商社を裏切ってまでも、年末に至って急遽改暦を断行しなければならなかったのだろうか。改暦の詔書などに記載できない真の理由は何であっただろうか。

 そこで大隈伯の言葉を思い返してみよう。(※下線部、後日補足引用します。)当時の予算規模は収入四千八百万円台で、そのうち田租が約四千万円、その他郵便などによる収入は八百五十万円前後、したがって暦の冥加金一万円は軽視できない収入だった。それを見捨ててもなおかつ改暦を断行するからには、それだけの原因があるはずである。当時支出のなかで人件費の占める比率はきわめて高かったが、中央地方の官公吏の数は急速に増加しつつあった。明治四年九月に採用された官公吏の月給制は、人件費の分割支出という点で、国家財政の窮乏を緩和する意図から出たものだが、太陰太陽暦のもとでは閏月の存在という致命的欠陥があった。

 閏月のある年には平年と同じ収入で、平年より一ヶ月分だけ余計に支出しなければならない。財政の健全化に腐心していた政府の要人、特に留守政府の中心人物であった大隈重信は明治六年六月に閏月が置かれていることを知って愕然としたはずである。明治六年の財政を健全にするためにはこの十二分の一の余分な支出を、何らかの手段で防禦する必要があった。その手段としては太陽暦の採用を決断するしか他になかったわけである。

 太陽暦を明治五年秋に至って突然決定をしたのは、そのような事情によるものでしかも年末に改暦を実施した結果、さらに一ヶ月の支出を削減する事ができた。それは五年十二月を二日で打切ったため略一ヶ月の短縮が行われ、それにともなって人件費その他の支出が節約できたことである。つまり太陽暦をこの時期さいようすれば五年十二月分と翌六年閏六月分の二ヶ月の支出を節約できたわけである。

 政府は改暦にともなう応急措置として「当十二月の分は朔日二日別段月給は賜はず」(十一月二十七日の太政官布達)と決めている。この身勝手な命令は実際に行われた。これを受けて、例えば駅逓寮は駅逓頭の名をもって管下役所に対し「壱ヶ月何程と定め御手当被下候向者当十二月分御渡無之候事」と布達を発している。

 グレゴリオ十三世がユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦を採用するに当っても、またイギリス及びその植民地でグレゴリオ暦に改暦するに際しても、数ヶ月の予告期間をおき、しかも年間でももっとも庶民生活への影響の少ない時期(前者は1582年十月十五日、後者は1752年九月十四日)を新暦実施第一日と定めたのである。ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦はわずかに十日日付を跳ばすだけの、きわめて簡単な作業ですむことだが、その改暦でさえ庶民の生活を守るためこれほどの慎重さが要求されたのである。これによって、いかに明治の改暦が政府本位で庶民の立場を無視したものであったかが理解できると思う。

当ブログ3・31付「無冠の男8」(カテゴリーの「君が代研究ノート」所収)で明治六年度歳入と歳出(井上馨がバラした実際の赤字額と大隈による粉飾後の数字)を御確認ください。その上で上記の数字をもう一度見ます。大隈重信の一発逆転大ホームランがあざやかに浮かび上がり、政治家ってすげえなあと感心させられます。有無を言わせぬ大博打みたいなもんです。しかもそれしかなかった。国家の火急のとき「庶民の立場」に何の意味があるのでしょう。歴史のイキオイの前に敬虔なきもちでこうべをたれます。暦学者岡田氏の最後の文章にも、「そげんかこつば言うたっちゃアンタ、しゃあなかろうもん」と反論したくなってくる自分がこわいです。かくいうわたしも「無冠の男」を読むまでは、岡田氏とおなじように思ってました。

続きを読む "究極の粉飾決算" »

2006年4月 1日 (土)

無冠の男 9

(きのうのつづきです)

 参議専任となった大隈は、「通貨ノ制度ヲ改メン事ヲ請フノ儀」を政府に提出した。その要旨は、インフレは紙幣増発のせいでない、というのである。彼は、通貨調整のため、外貨五千万円を募集し、国庫貯蔵の千七五○万円を加え、合計六七五○万円の正貨をもって紙幣七八○○万円を消却、正貨の通用を健全化する考えだった。

 これに対して、

「今日不換紙幣をして斯価格を失はしめ空商の気をして民間に勃興せしめたることは、申すも憚りあることなれども実は其責は政府の理財法に存することなり・・・」と田口は書いたのである。

「憚りあることなれども」に、当時の官憲の権威、言論人の遠慮がある。けれども、そういうことばづかいを入れたとしても、批判は批判だ。いくら鄭重なことばづかいをしてみても、「ああ今日の財政を治する別に奇法なし。其原因既に明かなり。願くは有司真正の病源を治せよ」とこっぴどく政府をやっつけている以上、インギン無礼だといういい方もできる。

 主張の適否よりも、こういう官憲批判の姿勢が当時としては大問題。大隈が腹を立てたのは当然として、『東京経済雑誌』のスポンサー、メインバンクの中に「お上のご機嫌を損じてはタメになるまい」といい出すものがいた。昔も今も似ているが、スポンサーの意向として、田口の論調に文句が出たわけだ。

 渋沢は田口説とおなじ考えで、あくまでも彼を擁護しようとした。大隈は渋沢の失脚をはかり、銀行家たちにも圧力をかけた。

 ここにおいて田口は、拓善会からの資金援助をことわった。すなわち、「御用雑誌」のカラを脱ぎ捨てて、言論の自由を守ろうとしたのである。

※『無冠の男』上巻第三章から引用しておりますが、田口卯吉から大隈重信へ話がうつる途中を数枚ぶんすっとばしておったためわかりづらいかと案じもうしあげます。それと、私の引用対象が、最初は「乙骨太郎乙」がらみの部分のみにしぼっておったのですが、引用がすすむうちに、だんだん目的自体が移動していって、といいますかズレてゆき、いま現在は「こよみ」と「経済」、裏とおもて、潜在意識と顕在意識、時のずれ・・などなどに焦点がいってしまってます。それで、これもまた前から興味のあることですので、いましか追えないと思いますから、このさい、考えます。「無冠の男」をあたまにおきつつ、「日本の暦」を今から引用します。これがまた長いのであります。13歳の息子がパソコンつかわしてとさっきから寄ってくるのをしっしっと追い払う気力が果たして51歳のばばあにどこまで残っているか・・自分に健闘を祈るのみです。

  『日本の暦』   岡田芳朗著

            新人物往来社平成八年刊

 明治の改暦

  「改暦の直接的原因」

 明治維新以後早晩欧米の暦法ーグレゴリオ暦ーを採用することになったであろうが、それを明治六年(一八七三)から実施することにした直接的原因は何であろうか。

 この改暦が唐突に実施されたことと、一部関係者の間で極秘裏に準備が進められたことは、きわめて不可思議な感をあたえるのである。政府部内でも直前まで秘密が保たれたことは次の一例をもっても推測することができるだろう。それは十一月五日に陸軍省から市川斎宮の改暦案を上申してきたことで、「暦法ノ儀ニ付市川兵学中教授ヨリ別紙ノ通致建言候処、当節右暦法御改正御取調中ニモ有之候間、御参考ノ為差出申候此段申進候也」という添書がついている。市川斎宮の改暦案は明治二年に建議されたものと同内容で、それに明治五年暦の試案を添付してある。陸軍省がこの時期にすでに改暦の計画あることは知らされていたが、「暦法御改正御取調中」程度の認識しかなく、市川案が参考になる段階と判断したからこそ、この上申があったわけである。

 しかし皮肉なことに、この頃すでに太政官権大外史塚本明毅は、改暦の詔書の草稿となった改暦の建議を執筆しており、明治六年用太陽暦は出来あがっていたのである。塚本明毅の建議の要項は、第一に国家百度維新勉めて旧習を革めようとする時で人心一新のため改暦が必要である、第二に太陰太陽暦の置換法が不便である、第三に時刻法が不便である、第四に中下段の迷信暦註は民知の開達を妨げる、第五に太陽暦は七千年の後僅に一日の差を生ずるのみの優れた暦法である、第六に各国は普通太陽暦を用いているので交際上不便である、したがって改暦すべきであり、両三年旧暦を併記し、また時刻法を定時法に改めていただきたい、このことは広義を尽し、その可否を審定して上裁を請うべきである、というのである。

 この建議は十一月某日ということしか分かっていないが、添付された明治六年暦の名称が「日本明治六年神武天皇二千五百三十三年歳次癸酉太陽暦」とあるのが、実際に十一月九日発表されたものでは「神武天皇即位紀元二千五百三十三年明治六年太陽暦」と変っており、建議の暦案に無い四方拝や元始祭が記載されているところなどから、十一月早々に記されたのでなければなるまい。塚本明毅の建議は、改暦の準備がほぼ完了した時提出されたもので、末尾の「此宜シク公議ヲ尽シ其可否ヲ審定シテ上裁ヲ請フヘキナリ」とある改暦公議のための会議は十一月八日以前に開催された。それは当時ロンドンに滞在中の特命全権大使岩倉具視に対し正院が十一月八日付で送った通報に「今般太陽暦に御改正の議右院において各省長次官に御下問あいなりそれぞれ協議これあり衆議一決別紙詔書の通明九日御発礼の事にお治定あいなり(下略)」(『岩倉公実記』)とあるのによって知ることができる。しかしこの会議の性格はすでに準備が完了した改暦の実施を承認するものにすぎなかった。

 政府部内に対してさえかくのごとき秘密主義が保たれたのであるから、一般国民に対してはいうまでもなく改暦の計画は事前に発表されなかった。しかしすでにみたように江戸時代の改暦に当って、新暦の頒布を円満にするために、暦師に対しては改暦が公式に決定される以前に、秘密保持を条件として改暦の事実が通報されており、また新暦による次年暦発行の準備が命じられていたのである。このことは同時に暦師に不要な損害を出させないことにもなったのである。

※ここで、おじゃまむし登場、もはやここまで。あさってにつづきます。

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31