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2006年4月14日 (金)

西片町界隈「のて」と「まち」 2

(『西片町界隈「のて」と「まち」』 土方 辰三 後編)

 乙骨一家は牛込横寺町に住み後に大塚辻町の大通りから段々で降りて行く谷間に二軒の家を建てて住んだ。もと甲州から出たが、中興の祖は昌平黌教官をしていた乙骨耐軒(1806)で、学殖深く、大いに酒をたしなんだ。本所・深川の堀の深さを全部そらんじていたと伝えられるが、是は酔っては川に落ちこんだからである。その子太郎乙、号は華陽、妻つぎは杉田玄白の曾孫にあたる。その弟は上田姓を冒し、その子が敏で、父絅二の死後しばらく乙骨家にあずけられた。次女こうの子が独乙文学の吹田順助である。華陽は漢学、蘭学、英学に通じる八宗兼学の碩学で父に劣らず酒を愛し、晩年は漢詩をつくり、興に乗じて書き残した七言絶句は清冽明澄である。長男半二は検事正として腕をふるい、酒をたしなみ、司法部内に逸話を残している。三男三郎は美学を修めて東京音楽学校教授となり、五男五郎は英語英文学を修め浦和高等学校教授となった。文学者のみか、自然科学者も多く、長女まきの子江崎悌三は昆虫学者として世界に知られているが、この人も江戸っ子気質は失わず、俳諧、川柳にくわしく、「玉虫を浅草餅の子が見つけ」などの難句の意味はこの人に聞くと氷解した。その後上田敏は西片町に移り、太郎乙は亡くなり、半二は牛込横寺町に家を建て、辻町は三郎、五郎がそれぞれの家に住んでいた。二人が同じような職業でよく間違えられた。五郎教授が浦高に赴任した時も当時の吉岡郷甫校長は乙骨三郎君と紹介した。五郎教授はいつも飄々として教室に現れ、新刊の教科書の頁を切って、ゆっくりと考えながら解釈した。その読みは極めて精確で、ラスキンの「胡麻と百合」のなかでミルトンのリシダスが出て来たとき、全詩を暗記しているように、すらすらと解明した為、これは底力のある学者だと思った。小説はコンラッドの作品を続いて教えていた。「英文学の中で面白い小説を教えてください」と言ったところ「トム・ジョーンズだね」といわれた。「詩人としてはシェイクスピアよりミルトンが上だ」と誰も言わないことを時にずばりと言った。三郎教授は専攻の美学のほかに、小学校の唱歌「池の鯉」「一本足の案山子」「今は山中」等の歌詞を沢山つくった。「ぶなの森の葉がくれに」の名訳も彼の作だそうだが、他の人の名になっている。英詩その他訳詩もあるが自分の名を出していない。他人の名になっていても一向に平気で、書物を矢鱈に出版することは学問の外道だと思っていた。私は戦前A・E・ハウスマンの詩を訳し五郎先生に一本を献じたところ、「こんな詩を訳すとはもっての外の不心得」と叱られた。西片町の住人は「ノテ」の東京人という色彩が強かったが、牛込・大塚の住人には「マチ」の江戸っ子気質が多分に残り、乙骨一族にも、旗本御家人的反骨精神ともいうべきものがあって、名利を求めず、半二、順助は浅酌低唱酒仙の風を伝え、五郎教授は時に三味線の爪弾きをして心の疲れを払っていた。今これらの方々は故人となり、戦後子孫は分散陵夷したが、それでも世界的な業績を持つ学者も二、三は出ている。

参照「詩人・ミルトン」http://homepage2.nifty.com/tanizoko/Milton.html

   「玉虫」http://kohiyama.wem.sfc.keio.ac.jp/insect/k_tamamushi.html

   「同上」http://www.ntv.co.jp/megaten/library/date/03/07/0727.html

   「同上」http://cache.yahoofs.jp/search/cache?ei=UTF-8&p=%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%82%B7&fr=top_v2&tid=top_v2&search_x=1&x=24&y=13&u=kan.turi.daa.jp/%3Feid%3D198082&w=%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%82%B7&d=GsPluEaqMnlw&icp=1&.intl=jp

   「同上」http://www.monster.ne.jp/~beetles/sugi/01.html

「のて」というのは、「やまのて」の略でしょうか。「まち」は「下町」?(まるで、スカジャンとスタジャンの違いみたい。)うーむ。どうも今ひとつ地方人にはぴんとこないです。それと文中の難解な川柳、わたしもまったくお手上げです。どなたか御解説をお願いします。

ここにきて、こないだの謎が解けましたね。乙骨三郎作詞の童謡に別人の名が冠されていることです。作った本人がまるで著作権に拘泥していなかったのです!そもそも著作権という概念自体、なかった時代ではあります。いま、永井菊枝氏に「日の丸の旗」についても確認中です。上記の曲名中「今は山中」は「汽車」です。もう一つの「汽車」(きしゃきしゃぽっぽぽっぽ・・の歌詞の)と区別するための表記でしょう。あの歌で小さい頃はよく遊びました。向かい合ってすわり、手をパチンとたたいて、相手のてのひらと交差させて打ちあう・・歌にあわせて。たのしかったなあ。確か最後の「やみをとおってひろのはら」のところでジャンケンポンをしてました。

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