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2006年4月 1日 (土)

無冠の男 9

(きのうのつづきです)

 参議専任となった大隈は、「通貨ノ制度ヲ改メン事ヲ請フノ儀」を政府に提出した。その要旨は、インフレは紙幣増発のせいでない、というのである。彼は、通貨調整のため、外貨五千万円を募集し、国庫貯蔵の千七五○万円を加え、合計六七五○万円の正貨をもって紙幣七八○○万円を消却、正貨の通用を健全化する考えだった。

 これに対して、

「今日不換紙幣をして斯価格を失はしめ空商の気をして民間に勃興せしめたることは、申すも憚りあることなれども実は其責は政府の理財法に存することなり・・・」と田口は書いたのである。

「憚りあることなれども」に、当時の官憲の権威、言論人の遠慮がある。けれども、そういうことばづかいを入れたとしても、批判は批判だ。いくら鄭重なことばづかいをしてみても、「ああ今日の財政を治する別に奇法なし。其原因既に明かなり。願くは有司真正の病源を治せよ」とこっぴどく政府をやっつけている以上、インギン無礼だといういい方もできる。

 主張の適否よりも、こういう官憲批判の姿勢が当時としては大問題。大隈が腹を立てたのは当然として、『東京経済雑誌』のスポンサー、メインバンクの中に「お上のご機嫌を損じてはタメになるまい」といい出すものがいた。昔も今も似ているが、スポンサーの意向として、田口の論調に文句が出たわけだ。

 渋沢は田口説とおなじ考えで、あくまでも彼を擁護しようとした。大隈は渋沢の失脚をはかり、銀行家たちにも圧力をかけた。

 ここにおいて田口は、拓善会からの資金援助をことわった。すなわち、「御用雑誌」のカラを脱ぎ捨てて、言論の自由を守ろうとしたのである。

※『無冠の男』上巻第三章から引用しておりますが、田口卯吉から大隈重信へ話がうつる途中を数枚ぶんすっとばしておったためわかりづらいかと案じもうしあげます。それと、私の引用対象が、最初は「乙骨太郎乙」がらみの部分のみにしぼっておったのですが、引用がすすむうちに、だんだん目的自体が移動していって、といいますかズレてゆき、いま現在は「こよみ」と「経済」、裏とおもて、潜在意識と顕在意識、時のずれ・・などなどに焦点がいってしまってます。それで、これもまた前から興味のあることですので、いましか追えないと思いますから、このさい、考えます。「無冠の男」をあたまにおきつつ、「日本の暦」を今から引用します。これがまた長いのであります。13歳の息子がパソコンつかわしてとさっきから寄ってくるのをしっしっと追い払う気力が果たして51歳のばばあにどこまで残っているか・・自分に健闘を祈るのみです。

  『日本の暦』   岡田芳朗著

            新人物往来社平成八年刊

 明治の改暦

  「改暦の直接的原因」

 明治維新以後早晩欧米の暦法ーグレゴリオ暦ーを採用することになったであろうが、それを明治六年(一八七三)から実施することにした直接的原因は何であろうか。

 この改暦が唐突に実施されたことと、一部関係者の間で極秘裏に準備が進められたことは、きわめて不可思議な感をあたえるのである。政府部内でも直前まで秘密が保たれたことは次の一例をもっても推測することができるだろう。それは十一月五日に陸軍省から市川斎宮の改暦案を上申してきたことで、「暦法ノ儀ニ付市川兵学中教授ヨリ別紙ノ通致建言候処、当節右暦法御改正御取調中ニモ有之候間、御参考ノ為差出申候此段申進候也」という添書がついている。市川斎宮の改暦案は明治二年に建議されたものと同内容で、それに明治五年暦の試案を添付してある。陸軍省がこの時期にすでに改暦の計画あることは知らされていたが、「暦法御改正御取調中」程度の認識しかなく、市川案が参考になる段階と判断したからこそ、この上申があったわけである。

 しかし皮肉なことに、この頃すでに太政官権大外史塚本明毅は、改暦の詔書の草稿となった改暦の建議を執筆しており、明治六年用太陽暦は出来あがっていたのである。塚本明毅の建議の要項は、第一に国家百度維新勉めて旧習を革めようとする時で人心一新のため改暦が必要である、第二に太陰太陽暦の置換法が不便である、第三に時刻法が不便である、第四に中下段の迷信暦註は民知の開達を妨げる、第五に太陽暦は七千年の後僅に一日の差を生ずるのみの優れた暦法である、第六に各国は普通太陽暦を用いているので交際上不便である、したがって改暦すべきであり、両三年旧暦を併記し、また時刻法を定時法に改めていただきたい、このことは広義を尽し、その可否を審定して上裁を請うべきである、というのである。

 この建議は十一月某日ということしか分かっていないが、添付された明治六年暦の名称が「日本明治六年神武天皇二千五百三十三年歳次癸酉太陽暦」とあるのが、実際に十一月九日発表されたものでは「神武天皇即位紀元二千五百三十三年明治六年太陽暦」と変っており、建議の暦案に無い四方拝や元始祭が記載されているところなどから、十一月早々に記されたのでなければなるまい。塚本明毅の建議は、改暦の準備がほぼ完了した時提出されたもので、末尾の「此宜シク公議ヲ尽シ其可否ヲ審定シテ上裁ヲ請フヘキナリ」とある改暦公議のための会議は十一月八日以前に開催された。それは当時ロンドンに滞在中の特命全権大使岩倉具視に対し正院が十一月八日付で送った通報に「今般太陽暦に御改正の議右院において各省長次官に御下問あいなりそれぞれ協議これあり衆議一決別紙詔書の通明九日御発礼の事にお治定あいなり(下略)」(『岩倉公実記』)とあるのによって知ることができる。しかしこの会議の性格はすでに準備が完了した改暦の実施を承認するものにすぎなかった。

 政府部内に対してさえかくのごとき秘密主義が保たれたのであるから、一般国民に対してはいうまでもなく改暦の計画は事前に発表されなかった。しかしすでにみたように江戸時代の改暦に当って、新暦の頒布を円満にするために、暦師に対しては改暦が公式に決定される以前に、秘密保持を条件として改暦の事実が通報されており、また新暦による次年暦発行の準備が命じられていたのである。このことは同時に暦師に不要な損害を出させないことにもなったのである。

※ここで、おじゃまむし登場、もはやここまで。あさってにつづきます。

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コメント

市川斎宮暦
検索で読まれていました。
難しい。

市川斎宮暦

検索で慶應大学からみえていた

そうか、前回も、おなじ人かな。

ちょっと、気になる。

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