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2006年3月17日 (金)

昆虫学者江崎悌三 2

 「父の思い出」 鈴木 はる  (きのうからのつづきです。)

 写真にもかなり熱心でした。コンテッサ社のピコレットという小型カメラも使ったそうですが、私達が幼い頃の印象としては、大型のカメラ、イカ社の二クラスに三脚をつけ黒い布をかぶせ、乾板を一枚ずつ使って撮る大仰なやり方でした。その後ドイツの祖父からライカ(終生大事に使っておりました)をもらってからは、九大写真同好会と撮影会に行ったり、私共の学校の卒業式などにも、よく写真を撮りに来てくれました。

 前にも少し触れましたように、何によらず収集が好きで、この収集癖は人の評判でしたが、この中でも、切手収集が、趣味として最高の域に達していたものだと思われます。集めた種類も世界中にわたり、万を超す膨大なものでしたが、未使用切手を集めるのは本筋ではないとして、できるだけ使用済みのものを集める努力をしておりました。

 私達に申すには、先ずこの切手によって世界の国国の地名などを知ることができるばかりではなく、発行された時代背景、歴史的事実などの勉強にもなるのだ、とのことでした。特に昆虫関係の切手には目がありませんでした。父が、あるいは、父達昆虫学者が、指定に関与したと思われるのですが、国蝶に指定された「オオムラサキ」の記念切手が発行される際、解説を書いたのが父でした。父はその解説書にサインをして子供の私達に一枚ずつ与えました。

 父はこの切手収集を、換金や利殖の目的にすることを極度に嫌い、そのような目的が少しでも見える切手会を避け、余分の切手を交換するための切手会には熱心に通っておりました。お医者さんや、会社員の方々、電気屋さんなどの商店の方々と月一回、夜開催される会に出席するのを、晩年は最も楽しみにしておりました。その日には、大学がひけると、街のそば屋に立ち寄って、夕食代わりに支那そば(ラーメン)を食べ、開会までの時間つぶしをするのがお定まりでした。夜遅くなって、家に帰ってくるのですが、満足気に、そして何か照れ臭そうに、玄関先に立っていた父の顔が、今でも印象的です。

 皆様が仰言って下さるように父は斯界の権威であったかも知れません。子供たちも、それを誇りとし、尊敬の念をもって父に接しなければならなかったのかも知れませんが、やはり、正直のところ、私達から見れば、どこのご家庭でもそうであるように、自然な、身近な存在でした。他所様と同じように、極く普通の親子の関係が我が家にもあったことを、大変幸せに思っております。

 父は幼くして母と、又、それぞれ異った才能の持ち主であった兄弟達を次々に失い、不運と淋しさを歎いた時代もあったと思います。しかし概して自分の父と義母の慈愛に育まれ、親類縁者にも「悌ちゃん」と愛され、恩師旧友後輩にも恵まれ、好きな道を一筋に歩むことができた古き良き時代の幸せな人間の一人であったと思います。

 昭和五十八年十二月記す (江崎悌三著作集第三巻月報より) 

※江崎悌三は乙骨太郎乙の孫(第一子まきの三男)です。ドイツ人女性と熱烈な恋愛結婚をしています。あす、そのあたりを引用します。日本の蝶を「オオムラサキ」と決めた人が、日本の国歌を「君が代」と決めた人の孫であったことに、ふしぎな因縁を感じます。

※国蝶オオムラサキ: http://homepage2.nifty.com/oomurasaki/oomurasa.htm

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