無料ブログはココログ

« 青き踏む | トップページ | 軽トラで行こう »

2006年3月10日 (金)

東京、昭和二十年

    空襲にあけくれた東京 (後編)

             乙骨 清一郎

 しばらくして、野谷先生が「無事だったか。よかった、よかった」と声を掛けてくださいました。先生も患者を探して歩かれたようでした。私も、もう大丈夫、助かったとの実感が湧いてきました。

 窓から見える神田、日本橋方面の空は真っ赤です。病院のすぐ下の野々宮写真館の大きなビルは、赤い炎を出してそれからも、半日位燃え続けていました。

 九段坂病院も全く機能しないので、翌日、目白の自宅に帰り、近所の外科医で治療を受けることになりましたが、無理がたたって手術後の回復ははかばかしくありません。

 五月二十四日、目白の自宅も空襲で焼けてしまいました。仕方なく、吉祥寺にある、父(太郎乙の五男・乙骨五郎)の勤務先(成蹊高校)の寮に住むことになりました。

 こちらはすぐ近くに、中島飛行機武蔵野製作所があり、昭和十九年十一月二十四日、二十七日、十二月三日、二十七日と爆撃され、焼夷弾ではなく、爆撃によるものでしたが、命中率が悪く、却って周辺地区に被害があり、近所にも焼夷弾による穴が数箇所あり、不気味な地域でした。

 この頃になると、のべつ頭上に敵機がいる様なもので、米軍機のキーンという金属製の爆音が聞こえると、道を歩いてもすぐ、近くにある防空壕に逃げ込むような毎日でした。

 こんなことで、盲腸の傷口は一向に治らず、六月に赤紙(軍隊の召集令状)が来て、千葉の佐倉に入隊した時も「三ヶ月で治してこい」と即日帰郷でした。

 佐倉の隊で帰りの汽車の切符の証明書(汽車の切符を買うのは至難の時代でした。併し、軍隊の公用証明書があれば優先購入が出来ました)を買いに、隊の事務所に行ったところ、私の乙骨の名前を見て、この間までここに居た乙骨昭三(大石昭三。筆者には伯父です。姫野注)さんのお前は親戚かという事で、当時貴重なおにぎりの弁当を支給して貰って、大喜びで汽車に乗り帰ったのを覚えています。

 その後、姉(小山由紀子)夫婦のいる滋賀県の大津に行きました。大津日赤病院で傷の治療をして貰うためです。そこは陸軍病院にも指定されていて、治療室には、足や手を切断した傷病兵が大勢、ガーゼの取り替えをしていました。太ももの切断面から湯気がたちのぼったりしていて、目を覆いたくなる大へんな病院でした。

 七月になって小山の義兄が山口に転勤になり、私は東京の父の許に戻り、今度は母と中学生の弟(乙骨 剛)が山口の姉夫婦の家に疎開。一家離散です。

 間もなく、八月十五日終戦を迎え、空襲はなくなりました。が、私の盲腸炎の傷の治療はそれからも一年位続きました。

 私は山の手に住んで居ましたので、空襲により死んだ親戚、知人も少なく、爆弾や焼夷弾などは滅多に直撃するものではないと思っていました。その頃空襲による死傷者数は全く発表されなかったせいだったかもしれません。

 戦後十年位たって、三月十日の東京大空襲だけで死者十万人と聞かされて、鳥肌の立つ思いでした。煙や火事による被害者が多かったのでした。

 戦後五十年、日本は平和を謳歌しています。世界は民族問題、宗教問題、等々で各地に戦争が多発しています。これからの日本も平和を守り、自由を守るためには、積極的に努力をしなければならない時代になるように思えてなりません。

 戦争悲劇の体験者の一人として、二世、三世、四世の方々が、戦争を知らないで一生を終わることを念じています。

            (平成四年十月十八日)

※ 系図によれば筆者の乙骨清一郎氏はキリンビール取締役とあります。

戦記を三編、入力引用させていただくうちに、石橋秀野を書いたとき心をかすめたいろんな疑問のいくつかがが解ける思いでした。秀野を書くことは、即ち戦争を書くことでしたので、避けて通れませんでした。参考にした本はいろいろありましたが、こまかな事柄を書くのに最も有効だったのが、小学館の「昭和の歴史7 太平洋戦争」木坂順一郎著でした。これを読んで、たとえば建物疎開のことや、米軍の爆撃機にはB25,29とあって戦争の途中から29が登場するけどそれまでは25だったことなどを知りました。この乙骨清一郎氏の書かれた文章は、より精確に歴史を記録、記憶しておこうとする静かな闘志を感受するものでありました。緊迫した場面が続くにもかかわらず、なぜか、底の方にゆたりとしたものがあり、それは最初に引用した戦記二編にもありました。これはいったいなんなのかと興味が湧きます。この国に残る武士道とは、ほんとうはこんなに静かなものかもしれません。

東京大空襲の実態が世の中に知られるようになったのが、戦後十年後だった、という事実。占領が終わってからでも二年です。

« 青き踏む | トップページ | 軽トラで行こう »

コメント

こんなところにゴメンなさい。
現在、@niftyのブログ、有料の方のココログ(ボクが入っているやつ)がアクセス障害を起こしています。見ることはできますが、コメントやトラックバックが不能となっています。
すでに24時間くらいそういう状況です。
回復の見込みは立っていないようです。
ご容赦下さいませ。

昭和8年麹町区九段四丁目15の14に生まれる。生後7か月で腸重績発症、九段坂病院院長野坂先生(院長先生のお名前が間違っている可能性あり、亡き母親の話の記憶)の執刀により一命を得る。
昭和20年妻の母親が空襲により落下してきた焼夷弾が右足に当たり重傷。家族で九段坂病院に担ぎ込み、院長先生の執刀により一命をえる。

九段坂病院の野谷先生、と乙骨清一郎氏は書かれていますが、同時に、四十年五十年も前の話だからどこかに記憶間違いもあるだろう。そのときには、どうぞご寛恕いただきたい、とも書かれていますね。

山上さま、どうも貴重な記憶のコメントをいただきまして、ありがとうぞんじます。山上さまの亡きおかあさまのお話ですと、野谷先生ではなくて野坂先生だった由。どちらが正しいでしょうか。
俳人石橋秀野みたいにお医者さんの名前を前書して一句認めておけば忘れなかったかもしれませんね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東京、昭和二十年:

« 青き踏む | トップページ | 軽トラで行こう »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29