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2006年3月 9日 (木)

東京、昭和二十年

   「空襲にあけくれた東京」(昭和二〇年) 前編

           乙骨 清一郎 (平成四年記す)

 十一月十四日の夜、永井菊枝さんから久しぶりにお電話がありました。円交会一世有志の方々が、若かりし頃の思い出等を書いて文集にしたいとの事。明治、大正、昭和にわたる面白いものになりそうだが、終戦間近の空襲下の東京の様子がないので、私の体験でよいから何か書いて欲しいとのことでした。私は一世の中では最年少ですが、それでもこの十月で六十六歳になりました。身体のあちこちに故障は出るし、記憶力はガタ落ち。もっとも年寄りは昔のことは、はっきり覚えていると言われています。しかし私の場合、四十~五十年前の空襲時の事はおぼろげです。従って思い違いもあると思いますので、多少の間違い等はお許し頂きたいと思います。

 それでもあまりでたらめでは申し訳ないので、当時の空襲の実態について、武蔵野市図書館で調べてみました。

  昭和十六年十二月 八日  太平洋戦争の開戦。

  〃 十七年四月十八日  空母ホーネット発の

  中型爆撃機B25、十六機による初空襲(東京・

    名古屋・神戸)を受ける。  

    (約二年間、空襲なし)

 〃 十九年六月十六日 中国の成都発の大型爆

撃機B29(米空軍)四十七機が北九州を空襲(B29

は四発で超空の要塞と呼ばれ、一万メートルの超高

度を飛び、日本の高射砲では届かないと言われてい

た。併し、超高度からの軍需施設への爆撃は余り目

標に命中せず、空襲のやり方の再検討に入った模様

で、昭和十九年十一月頃から毎日のようにB29一、二

機による空襲(偵察飛行)が三月まで続いた)

〃二十年三月十日 東京をはじめとする大都会を目標

、低高度からの焼夷弾による無差別爆撃が始まっ

 た。もうこの頃、制空権は完全に米軍にあった。

 即ち、三月十日未明の爆撃はB29三百機により二時間半に及び、東京は下町を中心に焼夷弾の無差別爆撃を受けました。

 死者十万人、負傷者四万人、被災者百一万人、焼失家屋二十七万戸という大被害でした。この死者の数は、広島の原爆禍に次ぐものでした。

 これを契機に、学童や、母子の地方への緊急疎開が相次ぎました。

 乙骨半二一家は、長野県富士見町の貸別荘に移りました。私ども一家の年寄り(母方原の祖父母)は、その富士見町の隣村で乙骨家出身の地、本郷村字乙事の農家、五味徳蔵さんの家の一室を借りて疎開しました。

 そこは八ヶ岳の麓、富士見高原と呼ばれる標高千メートル位の台地で冬の寒さは厳しく零下十度を超えることも珍しくありませんでした。その分、春夏秋はまことに気持のよい所で、高原野菜の産地でした。疎開した年寄り達は、農家の方々から食糧を分けて貰って、空襲の無い平和な生活を送ることが出来ました。因みに現在は、隣地の清里高原と共に、東京に最も近い高原リゾート地として注目を集めています。

 さて、問題の空襲の方は、四月、五月には山の手地区に及び、東京は焼け野原になりました。三月十日から八月十五日の終戦の日までに、東京、横浜では三十五回の空襲を受けています。日本全国の都市が空襲を受けた延回数は四百回を超えるようです。

 空襲によって非戦闘員の受けた被害は死者三十八万人、これに沖縄戦による県民九万四千人原爆後遺症で亡くなられた十万人(推定)を含めると、六十万人近い方々が銃後で死亡された事になります。また焼失家屋は二百四十万戸と言われています。数の多さに改めて万感の思いがします。

 前置が長くなりましたが、私と空襲の関わりは、三月十日の大空襲から始まります。私は成城高校の学生で、学校は授業よりも勤労動員優先の時代でした。

 三月の初旬、強度の腹痛があり、急性盲腸炎と診断され、すぐ手術を受けるようにとの事。ところが、その日は近年稀な大雪で、交通機関はすべてストップしていました。その上、その頃は、手術用の麻酔薬も不足して、一部の金持ちの間では、麻酔薬があるうちにと、健康な盲腸を手術することが、流行っていたそうです。

 父も困った末に、乙骨八重子さんのご親戚で父も存じあげていた外科医の野谷先生にお願いして、牛込の野谷外科病院に入院することになりました。

 所が大雪で交通麻痺。出入りの植木屋さんを拝みたおして、リヤカーの上に板を置き即席ベッドを造って貰いました。私はその上でウンウンうなっていましたが、それ以上に、植木屋さんと父は、滑る坂道に悪戦苦闘して病院まで運んでくれました。

 すぐ手術して頂きましたが、腹膜炎を起こしていて手遅れなので、生命は保証出来ないとの事だったそうです。

 それから数日後、三月十日の大空襲です。私ども入院患者は空襲警報と同時に、庭の防空壕に避難していましたが、焼夷弾で病院が火の海になってしまいました。ここは危なくなったので、九段坂病院に何とか逃げる様にと、野谷先生から指令が出ました。付き添いの小母さんの肩を借りて、寝間着にスリッパの格好で、牛込から靖国神社の側にある九段坂病院(ここも野谷先生が院長をされていた)に向かった訳です。

 一面に火の手が上がり、電車道の両側の家屋は焼け落ちて、電線が垂れ下がり、火の粉が舞っていました。恐怖心よりも、何とか九段坂病院への一心で、広い道の火勢の弱そうな所を探しながら、夢中で歩きました。付き添いの小母さんも私を捨てないで、必死に助けてくれました。

 どれくらい時間が掛かったか判りませんが、やっと九段坂病院にたどり着きました。

 ところが、この病院も、三階が焼けてまだくすぶっていました。水も電気も出ない有様でした。それでもやっと二階のベッドに寝る事ができました。しかし、三階がまだくすぶっている建物の二階というものは、あまり気分の良いものではありません。(後半につづきます。) 

※参考:http://blog.goo.ne.jp/skmn_2005/e/28c6e481ae10961febcee2d497e97432  

http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/tokyo.html         

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