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2006年3月18日 (土)

江崎悌三夫人・シャルロッテ

 次は西日本新聞昭和53年6月29日付、追悼記事の引用(無記名記事)です。

 「日独民間交流のかけ橋・故江崎シャルロッテさん」

 ドイツ留学中の少壮の昆虫学者と大恋愛の末結ばれ、夫と手を携えて来日、四人の子を育てるかたわら日独の民間文化交流に尽くした江崎シャルロッテさん(太宰府町五条鉾の浦)が二十六日、五十年間暮らした第二の故郷、福岡で永眠した。葬儀は七月二日午後二時から福岡市中央区の積善社福岡斎場で行われる。福岡の多くの旧知の人々とお別れしたのち、最愛の夫・悌三氏が待つ東京・駒込の江崎家の染井墓地で、夫の墓に葬られる。戦前、福博の街にきらびやかな話題をまいたドイツ夫人の生涯は、こうして幕を閉じる。

 シャルロッテさんは、元九大農学部長や教養学部長を務めた故江崎悌三氏夫人。二人の出会いは、大正の末、オーストリアの都・ウィーン。留学中だった江崎氏は、ウィーンで開かれたエスペラント学会に出席、大会書記だったシャルロッテさんと知り合った。そして二年後、今度はハンガリーのブダペストのエスペラント学会で運命の再会が二人を待っていた。江崎氏はその後一年間、三百六十五日シャルロッテさんに恋文を送り「東洋の果てに一人娘はやられん」という父親をくどいて、出身地の西独ウェストファーレン州ヘルフォルト市で挙式、昭和三年福岡市にやって来た。

 戦火が激しくなるなか、書斎にとじこもりがちな夫とは対照的に、社交的で明るい性格のシャルロッテさんは、志賀島や姪浜の農家を訪ね、食糧を確保、育ち盛りの長女はるさん、次女るりさん、三女えりさん、長男の悌一さんを無事育てあげた。戦後は、福岡大学の前身、福岡外事専門学校や福岡女子大で独語、英語を教え、九大医学部を中心に発足した西日本日独協会の創設に参加、独語クラスを受け持った。

 シャルロッテさんは母国語のほか英語、ラテン語、エスペラント語などが得意で、九大に海外から有名な学者が訪れるたびに、ホステスとして活躍、今でも江崎家のサイン帳には案内した世界の一流の学者の署名が多数残っている。昭和三十二年、夫悌三氏が五十八歳で亡くなったあとも、九大でのドイツ語教授のほか、北九州市まで出かけ、八幡製鉄や安川電機の研修所で独語を教えるという歳月が三十七年ごろまで続いた。九大法学部教授手島孝氏にとつぎ、近所の太宰府町三条台で母を見守ってきた次女、るりさんは「非常におおらかで順応性があり人に好かれるたちでした。それに楽天的な性格も手伝って、あの戦争中を乗り越え、ガンで最愛の夫を亡くした時も異国の地で耐えられたのでしょう」。長男の悌一氏(四十)が三十八年日航パイロットになると、シャルロッテさんは、二年に一度は西ドイツへ里帰りするようになった。日本でならった生け花をドイツ婦人に教えるため、剣山をポケットにいっぱい入れて西ドイツ各地を回った。悌一さんが日航パイロットになったのが「親孝行の最大のプレゼント」と姉たちは声をそろえるが、四十五年三月末、悌一さんが副操縦士として乗り込んだ「よど号」がハイジャックされ家族は真っ青になった。事件がなかったら、大阪でいとこ夫婦にシャルロッテさんを交えて誕生日のパーティーをする予定だった。計画は狂い、「よど号」は金浦、平壌、東京と引っ張り回された。この間肝っ玉かあさんの、シャルロッテさんは「少しも騒がず、その間大阪で開かれていた万国博見物をしていた」という。

 刺し身や豆腐が大好きで、日本人になりきった反面、母国ドイツへの思いを込めて、息子へはいつも手づくりのドイツ菓子を送り続けた。脳血栓(せん)で倒れた時も、病室で愛きょうもふりまき、身振り手振りで話しかけ、婦長さんは「ドイツ切手をプレゼントにもらった」という。

 ※書き写しつつ、さまざまな思いが胸を去来しました。記事の出た53年に私はたった一人の弟を失ったのですが、当時勤めていた福岡の医院(心療内科)があったビルの地下二階には日独協会があって、名前を失念しましたが、ドイツ人の若い夫婦がドイツ語を教える教室を開いてあったのを記憶しています。医院は三階だったか四階だったか、でも薬局は地下二階でロッカーがその奥にあったのです。だから週に一度はその教室の横をよぎっていたわけで、とても印象深いです。・・こういうのを何というのでしょうね。縁の外周のへりがほんのちょっとだけ触れていたような・・そんなかんじです。

 さらに思い出した記憶があります。江崎シャルロッテさんというお名前の響きには、むかしどこかで耳にしたような・・と感じていたのですが、ひょっとするとこの葬儀に先生が出られて、それで記憶が残っているのじゃないかと思い始めました。それとこのころだったと思うのですが、東京からドイツ文学者の高橋義孝先生が医院に見えたのです。先生にお茶をお出ししたのを鮮やかに覚えています。その人は毅然としてまさにこんなお姿でした。http://www.biwa.ne.jp/~tamu4433/takahasi.html (当時65歳くらいでした。)どういうつながりか存じません。ただ、医院の壁には高橋先生の書かれた書がさりげなく飾ってありました。梁塵秘抄の有名な一節です。「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶこどもの声きけば わが身さへこそ ゆるがるれ」たしかこんなフレーズです。記憶って妙なものですね。時間もまた。

 日独協会を調べていましたら、さらに記憶が不思議とつながりました。昭和53年当時ドイツ人の先生は、確かミッシェルという発音で呼ばれてありました。ビートルズの歌みたいなきれいな名前ですし、女性じゃなくて姿の美しい男性だった(長身で巻き毛だった)ので印象があざやかだったのです。で、その人は、ヴォルフガング・ミヒェルというお名前で、いまは九大大学院の先生をされているようです。驚きなのは、去年十月に沼津市明治史料館を訪ねましたとき、太郎乙関連の資料の他に、白隠和尚の資料ともう一冊、書架にあって妙に気になった「江戸時代の好奇心」という珍しい本から数ページ写真と絵のコピーをとってきたのです。(信州飯田のダ・ビンチ級コレクション。ていねいな植物の写生画や鉱物の写真のなかに石の張形もあった。解説なし。)このコレクションについて、ミヒェル先生が関係しておられることに気づき、非常に驚きました。時と人と物が円周率を作ってます。

http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~michel/media/texts/20040811Shinshunippo.jpg

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コメント

あの時代、ヨーロッパから遥かに遠い東洋の国へやってくるなんて、本当に勇気がいったことと思います。それを思うと、例のそら恐ろしいどこやらの鬼嫁(夫殺しの、あ、未遂だった?)が、国を背負った妖怪にまで思えてきます。たまたまうちの方にも、佐野エンネさんという、ドイツからやってきた女性がいらしたので(もうとっくに亡くなりましたが)、懐かしく思い出しました。

エンネとはえんね。シャルロッテという名前は多いのでしょうか。「二人のロッテ」などを夢中で読んでたころがあったなあ。少女小説で忘れないのがあって、たしか記憶に違いがなければ、津村節子だった。とても純情で気立てのいい少女がいて、その子の恋愛を描くのですが、これが身につまされるというか。少年にとって最初理想的だった少女が、だんだんわがままな暴君になっていく・・。あるよなあって思ったから忘れんのじゃろうね。笑

アクセスをみて、今気づきました。
おかげで、このページに久しぶりに来ることができました。
縁の重なりはよみかえすたび、濃くなります。
シャルロッテさんのご主人、私が君が代研究でおっかけていた乙骨太郎乙一族であられた、そして昭和32年に亡くなってる、その年生まれでした、私の弟。
博多帯の椅子、なんと素晴らしいアイデアでしょう。シャルロッテさんの遺品。見れて良かったです。👇

今日、このページがおひるころから沢山読まれています。
理由が知りたい。

よど号?

山内令南のコメントも懐かしい。

こんなスクープ記事にぶつかる👇

よど号ハイジャックのおかげで空港警備の仕事をした。
福岡市の国保担当だった親戚のおじさんのおかげで、天神の医院に転職できた。
木村まさすけ先生は確か八女にも縁のあられるおかたでした。
思えばおそるべきご縁。
ぜんぶ、つながっているからです。
まるで過去に呼びかけられたような。

ブログをはじめてすぐのころに、ふしぎとおつこつたろうおつが気になっておっかけをはじめた。
当時は専業主婦で自由もあったため、沼津の資料館へいったところ、乙骨一族の長老だったかたを紹介してくださり、そのかたから一冊の私家本をいただく。それが「円交五号」です。これもそのなかにはいっていたものです。
それをネット上に書き写すうち、わたしの歴史をも呼び覚まされていきました。
偶然と呼ぶにはあまりにも縁が濃い。何かの必然性があったかのようにです。
しかも、そのことにきづいたのはうんと時間がたってからだった。

江崎悌三のwikiをよみ、果たして大阪生まれは本当かとうたがう。東京生まれではなかろうか。

おつこつまきこは、太郎乙の長女だが、岐阜に嫁いだ、と、樋口一葉資料でよむ。
当時も今も、お産は実家でしたろう。

とはいえ、
乙骨家の人々を読めば、家に結核が二人いたとあります。
それでも看病しながら育児もやったおとくさん。
詳しい話が知りたいですね。

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