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2006年3月29日 (水)

無冠の男 7

きのう書いたことです。「無冠の男」を読んで、ひとつの疑問が湧きました。それは、田口卯吉と犬養毅の経済論争について書かれた第三章です。明治新政府の財政は非常に逼迫していました。それを何とかし、さらには西南戦争の戦費も捻出しなければならない。それを解決できるものは不幸にして誰もいないというとき、越前藩の三岡八郎(由利公正)が手を挙げ、自藩の苦しい台所をこれでしのいだという実体験から、太政官札発行を提案します。他に何もなす手がないままそれをやることになる。でも、苦しい状況は改善されません。どころか新政府の対処のまずさに段々と官札の信用はおちてゆきます。そしてそこに登場するのが佐賀出身の「大隈重信」となるのですが、まずはそこのところをご覧下さい。とてもおもしろく、ついひきこまれます。以下「無冠の男」からの引用です。

 彼は、佐賀藩出身。四百石どりの砲術家だった父を十三歳のとき失い、母三井(みい)子の手で、二人の姉、一人の弟とともに成長した。

 十九歳のとき、藩内の若いサムライたちがつくった革新団体「義祭同盟」の仲間となり、藩当局に弾圧されると、今度は藩校弘道館の改革をした。このため、首謀者と見なされ、退校処分となったが、このため蘭学に転向、のちの政治家への可能性を身につける。人間、何が幸になるか、個々の現象だけではわからぬということだ。

 長崎で宣教師フルベッキについて勉強した。フルベッキはオランダ人で、ユトレヒト工業学校を出てアメリカにわたり、土木事業をやるうち、伝道を志して神学校に学び、安政六年長崎にきた。この頃三一歳で、大隈は二四歳だった。フルベッキは語学の天才で、英語、中国語、日本語ができた。大隈は英語を学んだが、テキストはバイブルのほか、政治、法律、歴史、地理、財政のものにおよんだというから、「財政問題」と全く縁がなかったわけではない。しかし、由利公正の自己啓発、問題意識と実践力、そして現実の体験にははるかにおよばないものだった。

 「私は二人の非常に有望な生徒をもった。それは副島と大隈とである。彼等は新約聖書の大部分を研究し、アメリカ憲法の大体を学んでしまった」とフルベッキは書いている。

 この副島種臣がのちの外務卿。「蒼海伯いはく、金に潔にして女に汚きは伊藤(博文)なり。女に潔にして金に汚きは大隈なり」(『雲間寸観』)と古島一雄が書いた蒼海伯であることは前に書いた。

 王政復古の大号令が出たとき、長崎奉行河津なにがしは逃亡した。このあと、奉行所をおさめ、西国一六藩の志士たちと協力して長崎の動揺をおさえ、外国人関係を円満におさめたのが大隈の力だった。

 やがて、総督沢宣嘉(のぶよし)、参謀井上馨が赴任して長崎裁判所が開かれたとき、大隈は参謀に起用され、その身分は、徴士、参与、そして外国事務局判事と変った。

 このとき発生したのが浦上キリシタン処分事件である。

 周知のように、徳川三代将軍家光の禁止以来、キリスト教は国禁の邪宗門として弾圧された。ところが長崎の浦上地区には、いわゆる「かくれキリシタン」といわれる信者がひそんでいた。

 長崎裁判所沢総督は猛烈な攘夷主義者で、前からヤソ教を異端邪説ときめつけ、その処分の必要を力説していた男だ。長崎にくると、第一番目の仕事として、浦上の信者三四〇〇余人を逮捕、金沢など三四藩にあずけ、拷問を加えて転宗させようとしたのである。

 長崎のキリスト教弾圧を知って、まずいきり立ったのがイギリス行使パークスだ。

「排外主義のあらわれである。」

 と政府を非難し、処分の撤回をもとめてきた。

 政府首脳が閉口しているとき、

「私が談判いたしましょうか」

 といいだしたのが大隈重信だ。事件の担当官として、事情説明のため出張してきていた。無論、中央においては「無名」の存在。

「こ奴、名もしれぬ地方官のくせに・・・」

 とにらまれたが、結局他に人材がいないので、やらせてみよう、ということになった。

 談判の場所は大阪の本願寺。日本高官、外国公使たちがズラリとならんだ中で、パークスは、

「オオクマの身分が低すぎる。英国皇帝陛下の御名によって英国政府を代表する余は、かような下級官吏とは交渉はいたしかねる」と一蹴しようとした。ところが大隈は負けてはいない。

「貴下が英国皇帝の御名によって英国政府を代表されるのならば、わが輩もおなじく日本国天皇の御名によって日本政府を代表するものである。もしわが輩と談判できないというのであれば、これまでの抗議を自ら撤回したものと見なすが、それでよろしいか」

 とやり返す。パークスも、初めてホネのある日本官僚に会って、眼を見はり、態度を変えて談判に応じることとした。

 大隈がしゃべるのは、フルベッキ仕込みの英語である。

「今回の信徒処分は、日本国の内政問題であり、外国の干渉をうけるべきスジ合いはない。しかもこの処分は、国法にしたがって行っており、決して道理に外れたものではないのである」  

 するとパークスは、顔色を変えて掌でテーブルをたたき、

「それは暴言だ!」と叫んだ。

「信仰の自由は守られねばならぬ。今回の日本政府の処置は、まさに野蛮国の行為ではないか」

「私は、聖書や祈祷書を読んでいるから、この問題の本質はわかっている」

 大隈は、西洋文明史におけるキリスト教の功罪を列挙し、むしろ罪悪の行為が多かったようだ、といった。

 渋沢栄一は、この大隈によってスカウトされたのだが、その著『実験論語』の中で、明治元勲の人物批評をした。「知らないことはだれにもきく」という謙虚で率直な態度をとったのは木戸孝允であり、その反対が伊藤博文や大隈だった、と書いている。

「伊藤公はあれほどのえらい方であらせられたが、下問を恥じずというまでの心情となっておられなかった。何事においても、つねに自分が一番えらいものであるということになっておきたかった人である」

「世間には、好んで他人の言をきく人と、他人の言にはいっさい耳をかたむけず、自分一人でばかりしゃべって他人にきかせる人との二種類がある。大隈侯のごときは、他人の言をきくよりも、他人に自分の言をきかせるのを主とせらる御仁・・・」

 この談判でも、朝の十時から夕方四時まで、昼食ぬきで大隈はしゃべりまくり、さすがのパークスもゲンナリして、ついに引き上げてしまった。

 このとき、パークスのおともをしていたアーネスト・サトウは、のちに『一外交官の見た明治維新』という本を書いた。これは今日文庫本で出ているが、その中で、「大隈は、祈祷書(プレーヤー・ブック)を草原本(プレーアリ・ブック)といった」と笑っている。

 なるほど、そういう発音のまずさ、まちがいはあったかもしれない。けれども、ともかく英語で、朝の十時から夕方四時まで、昼食抜きでよくもペラペラしゃべるだけの知識をもっていたものだ。渋沢の批評に、大隈は「容易に他人の話をきこうとせぬわりには、他人がチョイチョイ話したことを、存外よく記憶していた」そうである。フルベッキ先生の雑談をちゃんとおぼえていたのが、このときプラスになったのだとおもわれる。

 ともかく、タフでおしゃべりの天才によってやかまし屋のイギリス公使をへとへとに疲れさせ、退散させてしまったのだから、

「大した男だ」

 という評価をうけたのは当然だ。(あしたにつづく) 

※佐賀へ私はよく行きますが、そういえば、「大隈重信記念館」の標識があるところを通ります。これを読むまで、大隈重信について何の興味もなかったのですが、俄然、もっとしりたいと思うようになりました。で、これがどう「君が代」問題とつながっているのか、ですか?それは自分でもわからないです。ただ、これが写したかった。「こよみ」が変る、それまで千年以上も使ってきた陰暦が、ころっとかわってしまうのが、この大隈重信の時代なんです。他にだれもいない(みんな外国へではらっていて)というようなドサクサの火急のとき、なぜかささっと西暦にかわるんですよね。それがどんだけ大きなことだったかを皆あまり認識していない。「無冠の男」にもそれには触れておられないようです。これが、私にはとても不思議なこととおもえました。無意識がかわる、ということ。それはそういうふうにやってくるのですね。どうぞ、もうしばらくかたちになるまで、おつきあいください。

大隈記念館のサイト:http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=2648

もっと詳しいサイト:

http://www.sagasubanta.com/sagayoyo/yokatoko/saga/okuma_memorial_museum/

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コメント

10年ぐらい前でしょうか、娘が結婚する前に母子旅行したのが佐賀市で大隈重信記念館へ行きました。
佐賀が生んだ明治の立役者たちのことが展示され大隈はとりわけ外交上手だったことが認められて首相までになった・・・と書いてありましたが、そういうことだったのですか。
どんな手段でも相手を根負けさせればよいのだから
ね、知識も裏打ちされてのことでやっぱ外交上手ですね。
今の政治家はいいなりで気概が無さ過ぎます。
佐賀市めぐりの日記を貼り付けました。

さくらさん。この頁は以前一回開いた記憶あり。
不思議ですが、さくらさんがめぐられている佐賀のあちこちは、かささぎもすべて行っています。あまりにも懐かしくってなみだがでそうです。
さいごのさよなら博多の、キャナルシティさえ、そのすぐそばの病院にむすめが勤務していることを思い出させ、いちいちなんだかシンクロしてます。
大隈重信、逼迫する財政を奇跡の一発逆転大ホームランで立て直したということをこのとき、偶然つきとめ、すごいなあ、女好きでも仕方ないか。と思ったことだった。
ん。あれ?どっちだったっけ。金に潔にして女に汚いのは伊藤博文だっけ、そんで女に潔にして金に汚いのがしげのぶだったですかねえ。どっちがどっち。苦笑

昨秋も佐賀空港に降りて佐賀市内見物しました。
大隈記念館目の前にして妹がきついと言ったので素通りしました。
味わい深かった佐賀城址はきれいに整備されどでかい歴史資料館なんか建っちゃって、ちょっと味気なかったです。佐賀市内は相変わらず落ち着いたいい街でしたね。
大東亜戦争につながる現代史は好きだから「花もゆ」は見てますが、茶化しながらななめ目線で見ています。開港時の切羽詰まった心いきはわかるけど「手のかかる男だな!!」とか言いながらね。

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