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2006年3月14日 (火)

太郎乙の第一子・牧子

乙骨一族の交友誌「円交」五号より、太郎乙・継夫妻の第一子・長女のまき(牧子)について綴られた、孫娘鈴木はる氏の文章を引用いたします。おつきあいください。日本近代の教育がどんなもので、有形無形の精神がどのように今に引き継がれたか、など、勉強になります。つくづく、乙骨一族は腹の据わった教育者の一族であるなあと感心させられます。

  「江崎牧子とその子供たち・父の思い出」 

              鈴木 はる

 私の祖母江崎牧子(乙骨太郎乙の長女)は父の話によりますと、当時大変な才媛で特に文章家、閨秀歌人として地歩を築いており、色々な女学雑誌によく投稿していました。また、幼い頃、既に父太郎乙から英語の手ほどきを受け、語学力にもすぐれていました。

 当時の名家の婦女子が入門していたと言われる、閨秀歌人中島歌子の歌塾「萩の舎」にも通い、後に名を残した三宅花圃(田辺龍子)と共に先輩格として、後に入門して来た樋口一葉ともお付き合いがありました。一葉日記の所々に牧子が登場しております。

 明治四十二年の宮中歌会始めに牧子の歌が入選しました。その年の御題は「雪中松」で入選作は 

   君が代の幾千代こめて積もるらん

      小松が原の今朝の白雪

 と詠まれたものです。牧子の夫、江崎政忠は、その頃宮内庁の役人をして居り、それが他の選者たちの投票結果が良く、見事入選したので大変驚いたり喜んだりしたそうです。入選すると全国の方々から自筆の色紙や短冊を所望され、幾日もかけて書いていた情景を父悌三はよく覚えていると言っておりました。父の従兄妹の与田千代子さん(故人。牧子の夫江崎政忠の弟の娘で、志賀直哉の弟子になったり、円地文子等とも親交があり、自らも小説の投稿をし主婦でありながら白樺派の歌人でもありました)は、「牧子女史は家庭に入るよりは文学などで身を立てて、もっと長生きしてほしかったわ」と、よく私に言っておりました。併しそのような周囲の見方にも拘らず、牧子自身が随筆の中で語る所によれば、子供の教育には大変熱心で、たとえ夫であろうと一切口出しをして貰わない方針を堅持していたようです。従ってそれなりの教育論、方式もあったようで、五人の息子達にはそれぞれに適したユニークな指導を施しておりました。

 後年政忠が(明治四十三年)大阪に転勤した際も、彼女は子供達の教育のために東京に残りました。今でいう単身赴任の走りです。また、政忠・牧子夫妻には結果的には男の子しか授からず(女の子二人は生後間もなく死亡)牧子自身はこのことを非常に残念に思っていた節があります。そのため、義妹(夫政忠の末妹)や他家のお嬢さん二人を預かり養育しておりました。その義妹(私たちは山中のおばさんと呼んでいました)が後年私たちに語ったところでは、牧子は髪結いが好きで、その腕も中々のものであったらしく、よく義妹や預かっている他家のお嬢さんの髪を結っていたとの事です。

 さてこの彼女の子供達のことですが、先程も申したように、女の子、信子、義子は生後間もなく亡くなり、その後、恵一、孝夫、悌三、智夫、信五の五人の男の子が生まれましたが、四男の智夫は二、三才で早世、結局四人の男の子と義妹と他家のお嬢さん二人の計七人を育てたわけです。長男の場合は、夫政忠の幼名恵二郎(しげじろう)の一字を取り恵一と命名しましたが、次男以降は、南総里見八犬伝に登場する八犬士の名、仁、義、礼、智、信、孝、悌、のうちから順不同で採り上げ、それに誕生順が奇数の子には数字(一、三、五)を付け、それが偶数の子には「夫」を付け、それぞれ命名したのだと、先述の山中のおばさんに聞かされたことがありました。

 次にその四人の子供達(私どもの伯叔父たち)のことについて少し触れてみたいと思います。

 長男恵一について、牧子はどこまでも理屈を明らかにしなければ気がすまない性質だと書いております。この点少し符合するかもしれませんが、父悌三の話から察すると、機械的なことに興味を持っていたようです。長い廊下伝いに針金を引き、玄関の呼鈴が遠い居間でも聞ける装置を作ったり、自分の抽斗に今で言う警報ベルを仕掛けたり、色々なことに何かと工夫を凝らすのが好きだったようです。写真撮影も得意で、今でも彼の作品が残っておりますが、よく専門の写真館で出すような、花模様の型押しのある台紙に貼り付け、奥付けとして裏には「江崎恵一謹写」とゴム印か印刷かで記入したりして、仲々玄人はだしの凝ったものです。手許にある一枚の写真には、牧子と矢田部良吉博士の未亡人が一緒に写っており、明治四十三年と記されてあり、画像も今なおしっかりしております。明治四十三年といえば、恵一十六才の時です。

 これも父から聞いた事ですが、恵一にはまた、とても茶目っ気な所がありました。例えば、母親から水飴をお箸ひと巻きだけ食べてもよろしいと言われると、それならばと、殆ど瓶がからになるまで器用に大きな一巻きを作って母親を困らせたりしました。また、当時、到来物の鮭の缶詰を食事のおかずの足りない時によく食べさせられたそうです。蟹の缶詰もありましたが、こちらは当時も貴重品で、余程の事がない限り食べさせて貰えませんでした。そこで恵一は一計を案じて、母親の知らぬ間に棚の上にある鮭缶と蟹缶のレッテルを貼り替え、最も取り易い所に鮭缶(実は蟹缶)を置いたりしました。さる、おかずの足りない食事時にいよいよその贋の鮭缶が登場、子供達が固唾をのんで見守る中で、母親の手で開けられた鮭缶から蟹が出てきた時には、歓声をあげて大喜びしたそうです。この恵一は生来身体が弱く、大正二年、母牧子が亡くなった翌年十八才で世を去りました

     ( 長文です。すみませんが、あしたにつづきます。 ) 

 ※参考サイト:http://www2u.biglobe.ne.jp/~horizon/dream1.htm

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コメント

さくらさん。ここに、乙骨太郎乙一族の物語の中に、南総里見八犬伝がでてきます。曲亭馬琴です。
なぜ、今日ここへでたのかといえば、今日ここへつながって見えた方がおられたからです。ドラゴンアッシュ、竜の灰とつながって、真珠郎ときて、金田一がでて。ここです。この馬琴さんはのち、失明してますね。滝沢馬琴でひいても、歳時記をかいたなんてことは一行もでてこない。でも、岩波からちゃんとでているのは立派な上下巻の歳時記。それに古川柳の本を読んでいても、この人の解説がでてきたりする。風雅人だったのだ。っていうより、風狂の人、かな。
早稲田大学の図書館にいけば、この人が解説をかいているとある芭蕉の弟子のことについての本があるのがわかっているけど、それが誰で、なんという本だったのかを、思い出せない。あまりメジャーな俳人ではなかったから。それをよみたい。とかささぎは思って。でも、じぶんではいけそうもないので、さくらさんがもしひょいと早稲田にいかれることでもあれば、頼もうかな。とおもって。だけど、だれのことかまず、思い出すのがさきってもんです。苦笑

ここ、よまれていました。
馬琴ともつながりましたね。

乙骨牧子さんに関する他にはない詳しい叙述、いろいろと読ませていただきました。現在、樋口一葉に関するサイトを作っていて、一葉と親交もあった乙骨牧子さんにも関心があります。
今回コメントさせていただいたのは、質問があるためです。乙骨牧子さんの生没年を調べているのですが、情報がありません。もしご存知であれば教えていただけないでしょうか。m(_ _)m

帰宅して調べてみます。
明日までお待ち下さい。
私は今から二時間残業します。

もし分からねば、沼津の明治資料館に尋ねられたらとおもいます。きっと親切に知りたいことに協力して下さるはずです。

 お忙しい中、ご迷惑をおかけしてしまいまして申し訳ございません。急ぎのお話ではなかったのですが、ご迷惑をかけてしまいました。
 沼津の明治資料館を教えていただきましてありがとうございます。確認したところ、資料館には沼津の兵学校の情報もあるようですね。乙骨太郎乙、田口卯吉、島田三郎など兵学校に関連した人々も多く、当時の時代背景として興味深々です。貴重な情報ありがとうございます。

いえいえ、こちらこそもうしわけありませぬ。
返信が遅れてしまいました。つぎつぎに用事がありまして。隣組長総会とか、お寺の用事とかです。集金もありましたし。でもそれよりも、
じつはこの十日余りパソコンが開けませんでした。コメントもブログ転載も携帯画面からやっておりました。
それがやっと今日つながりました。
長男がつなげてくれた。なんのことはない。
どうも、ういるすがはいったのか、ぶちぶちときれる。(はんげんぱつのこえとかこわだかにあげたからねらわれたのかもしれないです。)

とにかくよかった。携帯画面はちっちゃいので、地震のことでもよくわかりませんでした。やっと動画ニュースでまとめてみれてよかった。
ずいぶんひどいことになっていますね。
まいにち労働してたので、あまり詳しいことがわかっていませんでした。情報は大切ですね。

それと。
江崎まきこ(おつこつまきこ)について。
けさ、大事な本をおく棚から、うっすらとほこりをかぶった「円交五号」をみつけだしました。
ひさびさによみかえし、まだうちこんでいないものがあるのではとさがしました。未だもう一冊の本をみつけだしていません。
それにはかかれていたかなあ。。。
たしかになくなった年は大正元年ころだという記述がありましたが(この会の末尾あたりに長男の没年の前年になくなったことがかかれている)、そして次のくだりでは三男である悌三が愛日小学六年生だった五月に母牧子はなくなった、とかかれている。
此処で母がしたからわたしをよびまする。はいはいごはんのじゅんびね。すこし中断しますよ。

沼津の明治史料館 に、永井菊枝先生はすべての史料を寄贈されているのです。この文章の出典である円交誌もそこにあるとおもいます。
おかねではかえませんが、そこへいけば、すくなくとも、よめます。

ひめの様
お忙しい中、ありがとうございます。
永井菊枝先生の資料が寄贈されているのですね。知らない貴重な情報が多く、ブログを読ませていただいております。
先生の名前で検索したところ、『小伝 乙骨家の歴史』という著書があるようで、こちらも探して見ることにします。

そうそれです、その『乙骨家の歴史』、ぜひよまれてください。市販されています。

ところで、いま、えさきていぞう(まきの三男)がかよったという、愛日小学校をしらべてみました。

歴史がとてもきょうみぶかい。


>1922 11.4.20 ・新校舎が落成する。(戦災まで使用)
 児童数 1172名(男子588名、女子584名) 
 21学級(男子組9、女子組9、 男女組3)*4月20日を開校記念日とする。
1923 12.9.1 ・関東大震災発生する。本校は防火壁の外煉瓦塀崩壊する。 牛込区に火災は
 なかったが、避難者の収容のため9月末まで休業。職員一同救護にあたる。
1925 14.8.23 ・長延小学校へ砂土原、田町2・3丁目の児童が移る。

1935 昭和 10.5.25 ・開校55周年祝賀式を挙行する。
1941 16.4 ・勅令第148号により、東京都愛日国民学校と名称変更する。
1944 19.9.5 ・学童集団疎開を実施する。(栃木県栃木市、下都賀郡間々田村、芳賀村等)
1945 20.5.25 ・戦災のため校舎全焼する。
1946 21.4.1 ・愛日国民学校は閉鎖し、児童は市谷、津久戸、牛込仲之小学校に移る。
1946 21.8 ・校地跡に、戦災者都営簡易住宅が建てられる。
1952 27.9.19 ・東京都新宿区立学校設置条例により、愛日小学校の設置が決まる。
1956 31.12 ・東京都新宿区北町26番地に、小学校として我が国最初の4階建て
 鉄筋コンクリート校舎建築に着手する。(第一期工事)
1957 32.3.22 ・東京都教育委員会より、東京都新宿区立愛日小学校設置が認可される。


。。。↓のところが熊本地震と重なり参考になる。
1923 12.9.1 ・関東大震災発生する。本校は防火壁の外煉瓦塀崩壊する。 牛込区に火災は
 なかったが、避難者の収容のため9月末まで休業。職員一同救護にあたる。


また、ウィキからだとこう説明されている。

1870年(明治3年)7月15日 - 東京府仮小学第六校のうち、牛込の万昌院に設けられた東京府小学第三校が、学制発布ののちの吉井学校の前身となる。ちなみに第一校は鞆絵学校(現在の御成門小)、第二校は番町学校(番町小)などとなっている。
1880年(明治13年)7月31日 - 最古の小学校の一つであった加賀町の吉井学校と、牛込柳町にあった市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立された。
1946年(昭和22年)4月1日 - 愛日国民学校閉校。
1957年(昭和32年)3月22日 - 東京都新宿区立愛日小学校設置が認可される。(愛日小学校復興決定)
2014年(平成26年)7月 - 北町校舎立て替えのために平成21年に閉校した東京都立市ヶ谷商業高等学校の校舎跡地に仮移転[1][2]。新校舎は2017年2月に完成予定[3]。

つまり、いまは仮校舎、新校舎は建て替え中なんですね。こんなところ↓につながっていたとは、おそれいりやのきしもじん!

卒業生に、夏目漱石がいました。
昆虫学者江崎悌三博士も加えていただきたい。

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