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2006年3月 4日 (土)

ミッドウェー海戦

 「円交」五号は乙骨太郎乙の縁に連なる人たちがそれぞれの記憶を持ち寄った貴い一冊で、編集者は本を戴いた東京在住の歌人・永井菊枝氏です。明治大正昭和三代にわたる一つの血族の歴史が意図されず多方面から語られていて、(これは文面を入力しながら感じたのですが)、小説家が一人の頭脳の中で編み出す式の物語では太刀打ちできぬ「実在の人物による多彩な織糸の魅力」があります。一冊をまるごと写してはいけないので、全部で長短あわせて25編の文章のうち、何を取り何を置くか。順序もあってむづかしいのですが、私の勘で進めます。きょうは、永井菊枝氏のご主人でありお医者様の永井友二郎氏の戦記を引用します。「男たちの大和」を観たばかりで、海軍が気にかかるからです。

   「ミッドウェー海戦と私の天然自然流」  

                    永井 友二郎

 私は昭和十六年十二月、太平洋戦争開戦による最初の繰り上げ卒業で千葉医大を卒業した。十七年一月十五日海軍軍医中尉に任官、横須賀海軍砲術学校、次いで築地の海軍軍医学校(今国立ガンセンターのあるところ)での教育を終え、五月二十日、東京駅から呉に向かう。同行五人の内、私と渡辺四良軍医中尉(北大出身)は第二連合艦隊司令部附、猪狩常彦、秋山清の両中尉は連合艦隊司令部附、そして松田源彦中尉は第一航空艦隊司令部附の辞令を受けていた。

 翌朝、我々は呉駅着、海軍桟橋から艦隊差廻しの内火艇で小一時間。到着した瀬戸内海柱島沖には、戦艦大和、陸奥、長門、比叡、霧島を初め、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母群、そして多数の重巡、軽巡、駆逐艦が、静かに錨を下ろしていた。ハワイと並んで中部太平洋に於けるアメリカ海軍最大の基地ミッドウェーを攻撃すべく、帝国海軍のすべてが出撃直前の姿でここに集合していたのである。

 私と渡辺中尉とが配属された第二艦隊は、巡洋艦と駆逐艦から成る艦隊で、我々の乗艦予定の重巡鈴谷と三隅は、七戦隊と呼ばれる熊野、鈴谷、三隅、最上の四隻の内の二番艦と三番艦であり、鈴谷は内科を主とする防疫担任艦、三隅は外科を主とする手術担任艦であった。

 私と渡辺中尉が第二艦隊司令長官や艦隊軍医長に着任の挨拶をすると、軍医長は二人のうち外科志望は、と聞かれた。私は将来の志望まで考えていなかったので、返事が出来ずにいると、渡辺中尉は元気よく、「私は外科志望であります」と答えた。これで、渡辺中尉の乗艦が三隅ときまり、自動的に私は鈴谷乗艦と決まった。そして翌二十二日、第七艦隊の四隻の重巡は駆逐艦数隻を従えて、豊後水道の両岸に別れを告げ一路南下、ミッドウェーへ向け出撃した。

 六月五日のミッドウェー海戦は、御承知の如く日本海軍初めての大敗北で、虎の子の空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失った。山本連合艦隊は全軍退避を命令したが、七戦隊の四隻、熊野・鈴谷・三隅・最上には、夜間、ミッドウェー島の艦砲射撃を命じた。四隻の重巡は夜の太平洋を、最大船速三○ノットでミッドウェーへ向け進撃したが、連合艦隊は、突如この攻撃計画を中止、直ちに退避する事を命令して来た。あと一時間でミッドウェーという所まで接近した時の事である。

 四隻の重巡は直ちに反転、全速力で退避を開始したが、その途中で三番艦三隅の後尾に、四番艦最上の艦首が衝突する事故が起こった。まだミッドウェー島に近く、米空軍の爆撃範囲内での事である。

 夜が明けた。速力の落ちた三隅と最上は米空軍の激しい爆撃を受け、三隅はついに沈没、最上は大破した。三隅の生存者、負傷者は護衛駆逐艦に先ず収容され、米空軍爆撃圏を出た太平洋上で改めて鈴谷、熊野に移された。私は三隅の生存者たちに、渡辺中尉はどうしたと聞いてまわったが、ついにその消息は判らなかった。そして、その日から、二百名を越す負傷者たちへの、私が医者になって初めての治療が始まった。

 負傷者たちの殆どが全身熱傷で、全身の皮膚が黒ん坊のように焼けただれ、頭髪は無く、眼だけが光って「水が欲しい、水を呉れ」と言いながら、私達三人の軍医、十名ばかりの衛生兵の治療を受けていた。そして、負傷者の中から、今日は三人、明日は四人と次々に死ぬ者が出る。その遺体は白い布に包まれ、後甲板から水葬され、白く泡立つ航跡の中を、大きく揺れながら、故国を遠く離れた太平洋のまっ只中に消えていった。

 私は半年前まで平和な学生生活をしていたのが、今こうして厳しい日々を送っている事の運びの激しさに目を見張る思いであった。そして、私が死なずに渡辺中尉が死んだのは何故だったろうと考えた。それは誰にもわからない。誰にもどうしようもない事だった。しかし、私はなぜか「私は外科志望であります」と自己主張した渡辺中尉が戦死し、自然の成り行きにまかせた私が生かされた事に、人の力の及ばない天の摂理を思った。

 私はこのあと、ガダルカナルへの輸送作戦、キスカ島の撤収、マキン・タラワ島海域への潜水艦による出撃など、次々に厳しい作戦に加わり、何度も死地に出会ううち、次第に、命ぜられるままに、自然の成り行きに身を任せることに救いを感じるようになっていった。出た目をよしとし、決して愚痴を言わず、素直にそれを受け入れるという考え方は、苛烈な戦争体験の中で自然に身についた、私の信仰のようなものだと思う。

参考:永井友二郎氏御著書紹介(2006・5・28コメントを下さった麻場利華さまのご紹介です。ありがとうございました。)

http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-149-0.htm

紹介者である麻場利華様についての参照記事:

http://www.astrorico.com/indexj.html

http://futaribiyori.com/top.html

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コメント

私の大叔父は重巡洋艦「鈴谷」に一般水兵として乗船。サマール沖海戦で散華しました。このことで、身内に関する情報を何でも良いので知りたいと思って関係ページに書き込んだところ、このページを紹介していただきました。早速、永井先生の著書『「人間の医学」への道』を購入。脈拍を上げながら読んでおります。永井先生にはご健在でいらっしゃるのでしょうか?このような機会を与えてくださり、情報をご提供いただいたことに感謝いたします。

追伸:もう一人の大叔父は、ガダルカナル島で戦死しています。両大叔父は、永井先生の体験の時空を共有していたので、先生の戦記は情報の無い身内の様子を垣間見るようで有り難いです。

利華様、
コメントいただきありがとうございます。
お便りを戴いてうれしいです。さっそく、東京三鷹の永井様ご夫妻にお伝えしようとおもいます。
もうすぐ永井菊枝さまが本を出されるそうです。現在88歳と高齢ですが、とても記憶力のいいかたでなんともいえず気迫のあるかたです。まだ電話と文通のみで一度もお会いしたことはございませんが。
ご主人の友二郎氏については俳句をなさるということしか私はうかつにも存じ上げません。御著書もおありだったのですね。現在、乙骨一族の紹介を打ち込むのをお休みしておりますが、また来月から再開するつもりです。おかげで、勇気がでました。
もし、必要でしたら、永井先生の連絡先をお教えいたします、メールください。
あなたさまの大叔父さまが散華されたときの事情を詳しく知りたがっておられるのと同様、私も大叔父がガダルカナルで戦死した、そのことをもっと知らなければとおもっています。あまりにも無知な自分を反省しつつ。

すみません。よく見たら、メールアドレスはどこにも記入しておりませんでした。どうしたらいいんだろう?とりあえず、なにかございましたら、こちらにお差支えのない範囲でご連絡いただければとおもいます。ほんとにしつれいしました。

姫野様、こんなに早くにお返事をありがとうございます。実は、永井先生の著書を早く読み終えて、本の最後にある住所にでも駄目もとで、お手紙してみようと思っていたところなんです。先生もご高齢ですので、こんなこと申しては失礼ですが、「なんだそんなことだったら遠慮せずに言ってくれればよかったのに・・」と手遅れになってから悔やむのもいやですから、本当に駄目もとで、と思っていました。鈴谷の大叔父は一般水兵ですが、腕の良い理髪師をしていて特別に艦長ほか上官の散髪を呼び出されてしていたそうなので、、もしかしてと。最近「硫黄島からの手紙」など、英霊の奮闘に接し、毎日を考えながら過ごしております。ぜひ、メールください。よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

またまた追伸:
あまりPCに慣れていなくて追伸ばかりですみません。メアドは、そちらに伝わっていますでしょうか?ちなみに、母方の大叔父は静岡で編成された歩兵123聯隊で愛知の38師団に合流!?したらしいです。昭和17年11月6日にガダルカナル島で戦死と靖国神社で記録を確認しました。姫野様の大叔父上と同じところと知って、とても親近感を持ち戦友みたいな気になります。

利華様。
私もさほど詳しくなく、てさぐりです。笑
メルアドは記入されておりますのでご安心下さい。自分のプロフィールのコンタクトのところに連絡先を記入しようかどうしようか悩みましたが、しばらくこのままでまいります。迷惑メールはさほど多くはないんですが、本名だと家族がいやだろうなと思いまして。笑
それにしても、靖国神社まで行かれたとはすごいです。英霊に呼ばれたのでしょうね。
腕のいい床屋だったという言葉に、俳人の石川桂郎を思い出しました。ちょうど今年「剃刀日記」という戦時中の日記を読んだからですが。いまもとても人気がある俳人・石田波郷が出征するとき、波郷自慢の豊かな髪を切ったのが桂郎でした。ちなみに桂郎自身は出征していません。床屋さんという職業は唯一配偶者以外に公然と人の素肌に触れることの可能な職業ですよね。だから、独得の感性が芽生えるような文章を石川桂郎は書いています。感心します。
長くなりますが、ほかにロックバンド甲斐バンドの甲斐よしひろさんちも床屋さんだったそうで、先ごろその自伝を読みましたが、やはりとっても鋭かったです。永井先生にお尋ねされてみたらと思いますよ。直接はご存知なくても、当時の頭髪処理について意外な話が聞けるかもしれませんから。うわ。だんだん興味がわいてきましたね。戦争中も淡々と日常があったんだなあ。
ガダルカナル戦は米国映画「シンレッドライン」にでてきますが、実際は地獄の飢餓戦だったようで、餓島と別名で呼ばれるほどですから、我が家の大伯父も餓死であったかもと思っています。一応十八年一月十二日となっています。
私も、さいきん、ふしぎとその大伯父をおもいます。これまでは、時代のノリとして、憲法九条はださい、世の中善悪じゃ動かない・・と思ってきたんですが。戦争ほどおそろしいものはないです。
永井先生のご本に住所が書かれていますなら、利華様、そこへ出されるべきです。私からもお便りいたしますからどうぞ。

なるほど、色々とありがとうございます。私はあまり俳句の方面は詳しくないですが、興味深いことですね。戦艦内には、床屋を専門とする部署があったらしいですが、どうも上官に気に入られて、また、上官もわざわざそこに行くより楽だったようで重宝されたようです。床屋さんの方も上官の散髪は、気を使う上に艦内の全員を受け持つのですから大叔父の存在は渡りに船だったかも。姫野様の大伯父上は昭和18年ということでしたら、かなり辛い目に遭っていらっしゃるでしょうね。私の大叔父はその前年の11月初旬ですから、まだ戦闘したかも。どちらも、いやなものですが。。いずれにせよ、私も姫野様と同じく昨年の夏に初めて靖国を訪れて以来、呉の海軍墓地にも行き、会ったことのない大叔父達のことをずっと考えています。二人とも25歳で死んでいます。戦争が終わったらそれぞれに夢を持っていたようです。大叔父達だけではなく、たくさんの日本男子は何のために死なざるを得なかったのか。彼らの無念を思うと、涙を堪えられません。今日は、これでPCの電源を切らないといけなくなりましたが、また、お邪魔します。このページのご盛会を祈念して!

お久しぶりです。たった今、永井先生への手紙を書き終えました。思い立ってから毎日、早くお手紙を書きたいとイライラしていましたが、何せ、本業もあり、毎日が追われていて「今日こそ、何をおいても書くぞ!」と意気込み、何とか、、、しかしながら、はじめての手紙にしては、本題に単刀直入に入りすぎて失礼な内容になったかも・・と懸念しております。んがっ、そんなこと言っていたら一生手紙は書き上がらないので恥を忍んで書きました。あとは、投函する準備です。先生に私のことも知っていただきたいので・・・
ところで、本日は訂正をさせてください。
5月28日付けの私の記述に間違いがありました!何と言うこと(¨;)
「母方の大叔父は静岡で編成された歩兵230聯隊」が正しい内容でした。もちろん第38師団に属したのですが、聯隊の数字を間違えました。なんたる間違い!
大叔父貴、ふつつかな孫姪!?をお許しあれ!
追伸:色々なところで私の活動をご紹介ください、ありがとうございます。

りかどの。私は第何聯隊とかさっぱりわからんですが、中には熱心な読者がいらっしゃって興味がおありやもしれず、間違いの訂正ありがとうございました。
こちらも昨日聞きましたよ、ラジオをパソコンで。大浦みずきさんとの分とカフェでの公開録音のです。でもまだ肝心のアストロリコのヴァイオリンとボスの演奏をきいてないなー。笑。cdを買って聞きましょうね。麻場利華は宝塚出身だったのか。
大浦さんとの話は不思議だ。ばってん縁ってそんなんですもんね。こちら今日、注文してた「人間の医学への道」の本が届きました。あすは私も手紙を書きます。あ、それから永井先生の奥様の菊枝氏は乙骨家の娘だけあって虚飾が大嫌いみたいで、先生をつけるのを嫌がられます。だからご主人も推して知るべし、単刀直入が一番いいとおもいます。

そうですかぁ。。。。手紙には、「永井先生」とさんざん先生、先生と書いてしまいました。けど、ご主人はお医者様ですから、先生とは呼ばれ慣れていらっしゃると一方的に自分を納得させて・・・
では、また、メールにて。

余談:ここ一年で色々な事がわかりました。小説家の五味コウスケ(漢字忘れてすみません。)氏の上官で彼をかなりサポートした陸軍の元軍医殿が、アストロリコのファンでいらしたり。長年、知っている方だったのに元軍医殿とは最近知りました。日本の兵隊さんだけでなく、戦地にいる地元民の命もたくさん助けられた方です。

そういうご縁はいただくものなのですね。
タンゴは黒猫のタンゴ(ふるい)とラ・クンパルシータしか知りません。笑。それでも生きてこれました。利華さん。タンゴと出合って何が変化しますか、しましたか。思い切り個人的な質問だな。笑
何がタンゴへプッシュするのでしょうね。それとね、ヴァイオリンていうと、ツィゴイネルワイゼンをまず連想しますが、チゴイネルってジプシーじゃろ。地語彙寝る。あれはタンゴっぽいけど、違うのですか。

そうですね、なんなのでしょうね??
情熱的とか哀愁とか、結構ベタな表現ですが、それ以上に何か人間の心に潜む悪魔的な面と天使的な面を露骨に表現した音楽かと思います。誰でもが持っている人間らしさ(悪魔と天使の裏表の感情)、表面ではきれい事言っているけど、本当はあなたはこうなのよ、、と突きつけられるたようなドッキリ感というか。。。ツィゴイネルは確かにロマの人々の音楽で、タンゴはラテン系の移民と現地のネイティブ・アメリカン、アルゼンチンでは少数ですがアフリカから連れてこられた人々、そんな人種のルツボの、しかも大都会の影の部分から出た人々の魂の叫びってな感じです。ですから、人生の年輪を重ねるほど心に染み入る音楽といって良いでしょうね。それには、まだまだ、私なんざ、修行不足ですが・・・

表面ではきれいごといってるけど、ほんとはあなたはこうなのよ。
うっわ。きつかーですわ。それとおなじことを、ふうふげんかしたとき、何度かオットのくちから聞いたなあ。身につまされることで。笑
パソコンのラジオできいた「マロニエの木陰」、日本の軍歌にもあるようなメロディーですね。私は「帰り船」が好きですが、軍歌ではないのかも。聞けば悲しくなる。

追伸:
最近たまたまテレビニュースでアメリカへの不法移民を締め出せというデモをみた。
同時にカリフォルニアかどこかのイチゴ農園でそりゃもう沢山の違法な移民がイチゴを収穫しているのも見ました。その数に驚いたのなんの。あちらのイチゴは露地ものばかりみたいで、ハウスものじゃない。
「腰がいたい」と一様に言ってた彼ら。
日本でも近い将来同じようなことにならぬともかぎらないと思って見た。

私、本当に最近、本を沢山読んでいます。といっても偏っていますが(笑)永井先生の「人間の医学への道」もですが、それと前後して「硫黄島からの手紙」。これは、この秋に公開されるクリント・イーストウッド監督の2本の映画のうちの一つのもとになったようなもの。硫黄島の攻防をアメリカ側と日本側との二通りの見方で描いた物。アメリカ側は「父親たちの星条旗」というタイトルです。イーストウッドは、とてもまじめに映画を作ってくれたようです。出演者たちも、英霊に対して畏敬の念で演じたとか。最近、映画は体力を使うので年寄りみたいですが、観に行っていないのですが、この2本は、何としてでも観たいです。「男たちの大和」観逃しました(涙)。あれもエキストラ出演した若者達が、撮影前と撮影後では、かなりの変化がありキリっとした日本男子らしくなったらしいですね。

追伸:
アメリカの不法移民の話。やっぱり、不法なんだから、締め出しは筋が通った話とは思うのですが・・・今まで、アメリカが都合良く見て見ぬふりして、都合悪くなってから急に厳しくするからおかしな事になるんじゃん・・・ってのは、あまりにもわかっていない発言かしら?とかく、音楽家は政治経済に弱いから単純な内容になってしまいます。あ、自分だけのことを音楽家全体に一括りにしてはいけませんね!

おっしゃるとおりです。フランスも同様。男たちの大和、あちこち不満もありますが、臨場感があり、戦闘シーンこわかった。「樹」で毎月随想を書いてる広重さんという元外国航路の船乗りだった人が「戦艦大和」という題で書かれた三月号を見つけ出したので、全文引用しました。ふつうのわれわれが見るのと視点が違います。広重さんは昭和28年生れ門司在住。暇なときに読んでください。

永井友二郎先生から、直筆でお返事を頂戴しました!!
残念ながら、大叔父と「鈴谷」内での接点はなかったようですが、私の手紙が到着してすぐにお返事くださり、誠に持って恐縮至極です。内容も実に、丁寧親切でお優しく、お人柄の大きさに感無量です。こんな素晴らしい方に手紙を出すことができるだけでも光栄なことですのに、こんなにすぐにお返事をくださるなんて、、、、
この場をお借りして、このご縁を頂戴するに至り、関係してくださったすべての方々に心より感謝申し上げます。ありがとうございましたm(_ _)m
追伸:近々、先生の書かれた『「人間の医学」への道』から戦争体験部分を除く、死を迎えるにあたり「死は苦しくない」の部分が出版されるそうです。

おわ!早いですねえ。
お忙しい人ほどきっちりなさっておられる。利華さんよかったですね。私のご紹介のほうが二日ほど遅れてしまいました。笑
(手紙じゃなく速達の葉書でかくかくしかじかと事情を書き送りましたが、利華さんが投函なさった翌日の夜でしたから、間に合わなかったことでしょう。お許しを)いまの縁はずっと深いところで繋がっているのでしょうね、きっと。

んまぁ、速達で、、とは、恐れ入ります。
私は、今回のことで、本当に見ず知らずの方々がこんなにまで深い情をくださったことに感激しています。人ごと扱いではなく我が事のようにしてくださる・・・。
なんと有り難きこと。
しばらく公演が続き、またPCと距離をおくことになり、姿を消しますがまた何か変化があったらご報告します。

お久しぶりです。
永井先生から、鈴谷のTシャツのお礼にと、ミニ色紙に直筆で一句、裏には私と先生ゆかりの重巡洋艦「鈴谷」、そして先生が忘れられない「三隈」が並んで勇壮な航行姿の写真、先生の軍服姿の写真がありました。
そして、たくさん、英霊を思って書いた俳句も手紙の中で紹介してくださいました。
どの句にも、深い思いが込められて思わず涙しました。
いつもお返事の早い、永井先生には兜を脱ぎます。っていうか、はじめから勝負になっていませんが、参ったm(_ _)m
先生のあふれるお気持ちに、伝えたい気持ちは、こちらも一杯!
でも、まだ、お返事していない、駄目な私です。

利華さん。こんばんは。ってさっき、バービーボーイズにかきこみしてなんなのですが。おいそがしそうですねえ。ブログを拝見しますと、どのような方々がアストロリコサウンドを聞いてらっしゃるのか、わかります。タンゴにお詳しいかた、熱心なかたがついておられ、書かれてることがそのまま解説になっていて、勉強になります。
永井先生とはあつい友情で結ばれたようで、すばらしいです。とむらひ、弔いのために生きる生もあるのですね。

バービーボーイズは、記事タイトルが目に入ってしまって、つい、余計なことを書いてしまい、失礼しましたm(_ _)m
ところで、ブログ初心者でトラックバックがどうの・・・とか、良く理解できておらず、拙ブログ内「Ricaおすすめネタ」で永井先生の著書紹介のところで、このページを紹介させていただきました。ご了承くださいませ。

さっき、永井先生のミニ色紙を入れる額縁を購入してきました♪

こんばんは。ご紹介ありがとうございました。そういえば。バービー人形とリカちゃん人形、そういうつながりもありますね。関係ないけど。
むすめが幼かったころ、こどものいないいとこの嫁ぎ先のお姑さんが、きものをリフォームして、りかちゃん人形のドレスや着物を作ってくれたのを、ふとおもいだしました。満州からの引揚者でした。もうお亡くなりになったんですが、ときに懐かしくおもいだす、とてもやさしいひとでした。

検索サイト Yahoo  検索ワード 最上 三隅

2位

今日ようやく間違いに気づく。
三隅ではない、三隈川の三隈だという事に。
日田を流れる川の名前でした。帰ったら、訂正しなければ。

みくま、みすみのままですね、まだ訂正してなかったようです。面目ない。

永井先生のかかれたご文章のなかで、
>私は半年前まで平和な学生生活をしていたのが、今こうして厳しい日々を送っている事の運びの激しさに目を見張る思いであった。そして、私が死なずに渡辺中尉が死んだのは何故だったろうと考えた。それは誰にもわからない。誰にもどうしようもない事だった。しかし、私はなぜか「私は外科志望であります」と自己主張した渡辺中尉が戦死し、自然の成り行きにまかせた私が生かされた事に、人の力の及ばない天の摂理を思った。

 私はこのあと、ガダルカナルへの輸送作戦、キスカ島の撤収、マキン・タラワ島海域への潜水艦による出撃など、次々に厳しい作戦に加わり、何度も死地に出会ううち、次第に、命ぜられるままに、自然の成り行きに身を任せることに救いを感じるようになっていった。出た目をよしとし、決して愚痴を言わず、素直にそれを受け入れるという考え方は、苛烈な戦争体験の中で自然に身についた、私の信仰のようなものだと思う。

このところが胸にしみこみます。
よまれていました。

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