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2006年3月 7日 (火)

血のつながりということ

(乙骨太郎乙のえにしに連なる人たちの交流誌『円交』五号より) 

   「血のつながりということ」  

                 乙骨 明夫

 いまから二十七年前、私は大学の卒業論文「日本象徴詩の研究」を書くにあたって、蒲原有明と上田敏についてかなり勉強した。とくに上田敏については、安田保雄氏が「上田敏研究文献稿」(昭和二四・一一)という謄写ずりの二十六ページのプリントを出しておられたのを二部ゆずっていただき、上野図書館にアルバイト勤務していた立場を活用して、その研究文献を片っぱしから読んで勉強していった。安田氏のあげられた文献はあまりにも数多く、すべてに目をとおすことは不可能であったが、できるだけ多く読むことにつとめた。

 それらを読みながら私が第一に感じたことは、敏には私と似ているところがある(ほんとうは逆で私には敏と似ているところがある)ということであった。上田敏と私とは五等親の間柄にあるが(筆者は敏の甥です。姫野注)、ディレッタントの血が私の曽祖父の乙骨耐軒からわかれて、敏にも私にも流れているのかしら、等と思ったものである。私にその思いをもっとも多く起こさせた文献は、島崎藤村の、「昨日、一昨日」(「飯倉だより」所収)であった。藤村は「文学界」時代を回顧して、自分と敏との相違に触れ、「上田君は純然たるエキゾオチシズムの立場から学芸の鑑賞を楽しもうといふのであつて」と書いている。つまり、上田敏はディレッタントだったというのである。

 泥酔して溝におっこち、江戸中の溝の深さを知っていたと伝えられる乙骨耐軒にはディレッタントの匂いがつきまとう。古本のつくろいを趣味としていたという祖父の乙骨太郎乙、音楽を趣味としてオルガンをひきながらシューベルトの歌曲を口ずさんでいたという父乙骨三郎も多分ディレッタントであったのだろうと私は卒業論文を書いていたころに考えていたし今もそう考えている。上田敏の父絅二(太郎乙の弟)については何も聞くところがなかったのでディレッタントであったかないかなどと思いめぐらすことはできないが、敏は明らかにディレッタントであった。

 すなわち、私は卒業論文を書きながら、私と他人ではない敏を感じていたわけで、有明に対しては全くこの感じをもつことがなかった。そして、私は自分の中のあるものには愛着し、あるものには反発する心を持つのと同様に、敏の中のあるものには共感を覚え、あるものには否定の心を示したのであった。耐軒、太郎乙、敏、三郎、私をディレッタントという同列に置くことは間違っているかもしれないが、同列に置いてみようという考えは二十七年前も今も全く変わっていない。

 定本上田敏全集月報5より

 (白百合女子大教授) 昭和六十四年一月七日没

※ この謙虚ともいえる一文に、まるで詩におけるリフレインのようにしつこく繰り返されてる「ディレッタント」にはびっくりします。あるとき、なにかを乙骨耐軒がらみで検索しておりましたら(もう忘れてしまって提示できませんが)漢詩を研究していらっしゃる人のぼやきが書かれていて、「まるで乙骨耐軒の詩みたいにことばが難解だ!」というものがありまして、つい笑ってしまいました。耐軒の詩集は一冊もないのに、研究なさってる人たちがいらっしゃることがすばらしいです。そのひとたちもきっと、好事家(ディレッタント)とおもわれます。

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コメント

この乙骨明夫氏の命日昭和64年1月7日ってどっかで見たけどなんだっけ。
そうです。昭和天皇崩御の日です。ぜったい忘れない日です。次の日から平成だし。

久々に読み返しました。

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