無料ブログはココログ

« 筑紫次郎 | トップページ | よど号事件 »

2006年3月31日 (金)

無冠の男 8

(29日からのつづきです)

 ちょうどそこに、横須賀製鉄所の回収と米艦受領問題、長崎におけるイギリス人殺傷事件など、外国人相手の難問題が発生、これも大隈が見事に解決してしまった。

 会社においても、外国会社との提携や、海外支店工場の新設問題が発生すると、語学に強い社員の株はおのずと高くなる。ましてや維新早々のとき「英語で理屈をこねる」能力など稀少価値もはなはだしかった。長崎などに埋もれさせておくのはおしい、中央で働かせようではないか、というわけで、大隈はいきなり「外国官副知事」、つまり「外務次官」に抜擢されたのである。

 長崎支店の一課長から、東京本社の海外担当専務になったようなものだが、ともかく、正真正銘の腕一本ーいや舌一枚でそのポストをかちとったのだ。

 それほど「外国」の威力があったときである。外国ではこうだ、とか、某公使はこういっている、などという大隈のことばが権威ありげに見られ、それが財政問題への容喙(ようかい)となると、ひとかどの財政通、由利財政の批判者として重んじられたであろうとおもわれる。

 政府では、一般の不評、とくに外国公使らの抗議にあわてて、由利に一応の交渉をすることもなく、太政官札発行後半年ばかりで、その時価相場流通を公認、それまでに紙幣の相場を立てた罪で禁錮に処していたものを放免してしまった。井上馨の伝記(『世外井上公伝』第一巻)は、「(これは)自ら発行する紙幣の不信用を告白するものであって、財政上の不信任これに過ぐるものはない。しかもこの法令を発するに当り、会計当局者たる三岡(由利公正)に対し、何等の交渉もなかったようであるが、これは明らかに会計官を無視し、その不信任を表明したものであるから、三岡が憤慨して断然辞意を決するにいたったのもまた当然といわねばならぬ。爾来彼は疾(やまい)と称して出仕せず」と書いている。

 「三十にして立つ」といったのは孔子である。大隈の場合がまさにそれ。

 明治元年十二月、外国官副知事(外務次官)に抜擢(三十歳)。翌年二月、元旗本三枝家の令嬢綾子と結婚。三月、会計官副知事(大蔵次官)兼任。四月、築地に新居をかまえた。ここはもと戸田播磨守のもので、敷地五千坪の豪邸だ。大隈の開放的なところや、綾子夫人の客あしらいのよさもあって、多くの人間があつまった。

 その顔ぶれは、伊藤博文、井上馨、五代友厚、山県有朋、前田正名、山口尚芳、土居通夫、古沢滋、大江卓、中井弘などヒト癖もフタ癖もある男たち。そこで「築地梁山泊(りょうざんぱく)」とよばれた。

 梁山泊は、中国の小説『水滸伝』に出てくる。悪徳官僚に反抗した豪傑たちが山東省の山塞にたてこもり、これを梁山泊と称したのである。

 ただ、大隈邸の客人たちは、悪徳官僚に反抗する浪人ではなく、大半は新政府の役人だ。やがて、西郷、木戸、大久保が死んだあと、政府の中枢をしめて日本のカジ取りとなる。

 明治二年七月、官制改革によって「会計官」が「大蔵省」とかわり、「知事」は「卿」、「副知事」は「大輔」または「少輔」となった。

 大蔵卿には、由利公正の旧主君松平春岳がなったが、わずか二週間で伊達宗城(宇和島藩主)と交替した。

 しかし、松平、伊達とともに床の間の飾物。実権をもってきりまわしたのが大輔(次官)の大隈重信だ。

 このとき、伊藤博文は大蔵少輔、井上馨は造幣局知事から造幣権頭(ごんのかみ)となり、大蔵少輔となるのが翌三年十一月のことだ。

 年齢では、井上三四歳、大隈三一歳、伊藤二八歳。官歴としてはもっとも大隈がおくれていたが、ここにおいて二先輩を追いこした。そして、さらに三年九月には参議(財政担当)となり、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、薩摩の西郷隆盛と肩をならべる。このとき大久保利通は大蔵卿となった。

 明治四年五月十日、「新貨条例」が出て、「一両は一円」ということになる。貨幣の形を円形とし、十進法を採用すべきだと主張したのは大隈である。

 この点では手柄といえるが、すでに見てきたように、由利公正にくらべると財政上の経歴も造詣もはるかに及ばないのだ。

 このあと、井上騒動というのがあった。大蔵大輔井上馨が司法卿江藤新平と喧嘩をし、その子分の渋沢栄一といっしょに辞表を出したとき、「財政意見書」をつくり、これを新聞に公表したのである。今日から見ればなんでもないことだが、政府の秘密をバラしたというので大問題となった。しかも、歳入不足一千万円、政府の債務一億四千万円と、苦しい内情をあかしたので、世間に不信の念を植えつけた、とされたのである。井上のカオリどころか、イタチの最後っ屁になったわけだ。

 このとき大蔵卿大久保は外遊中。参議大隈に大蔵省事務総裁を兼務させたが、大隈は、井上の意見書を修正して公表したのである。これによると、歳入総計四八七三万余円、歳出総計四六五九万余円さしひき二一四万円の黒字。どういうカラクリだったかー。

 「財政意見書」の修正、というといかにもモノモノしい。だが大隈のやり方はまことに簡単なものだった。

 当時の歳入の基礎は米である。井上馨は、計算の基礎を米価一石二円七五銭とした。大隈はこれを三円にしたのである。すると、歳入総計は四八七三万余円にふくれ、よって「黒字二一四万円」となってしまった。

 これは他愛がない。第一、米価昂騰を考慮するならば、それにともなう一般物価の昂騰も見なければなるまい。そしてこれは行政費にも影響するだろう。米が上がれば支出もふえるのであるから、単に歳入だけをふやすのは片手落ちとなる。

 この計算がボロを出さなかったのは、この年度に予想外の金銭受入れがあったからだ。外国新公債の受入れがあり、さらに地租徴収事務が進んで、前期以来の滞納額をとり立てることができたのである。

 そのため、明治六年度は二二八二万円の黒字となった。「わが国の財政は破綻する」という井上理論(?)を否定した大隈理論(?)は、こういうフロックによって破綻しなかった。

 六年五月、大蔵省事務総裁。

 同年十月、参議兼大蔵卿。

 十三年に大隈は大蔵卿をやめるが、財政担当参議としてはおなじ。結局「由利路線」を否定したあと、十数年間「大隈路線」を独走することになる。  

 田口鼎軒が対決したのは、インフレをめぐる「大隈方式」だった。

(あしたにつづきます)

※ここを読んでわたしがすぐ思ったのは、明治五年末の突然の改暦でした。「日本の暦」(岡田芳朗著。新人物往来社刊)に書かれてますが、改暦を取り仕切ったのは大隈重信です。そしてその直接の理由が上記の理由、つまり政府の台所がとてつもなく逼迫していたからだったのです。 この点のからくりを、またあした「無冠の男」からと「日本の暦」からの引用をミックスしながらもういちど考えることにします。

« 筑紫次郎 | トップページ | よど号事件 »

コメント

今朝ここへ最も長い検索用語でたどり着かれた方、おめでとうございます。一泊の宿泊券つきアンドロメダ星雲りょこうが当選となりました。つきましては、なのりでてくださいませんか。おまちもうしあげます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 無冠の男 8:

« 筑紫次郎 | トップページ | よど号事件 »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29