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2006年3月16日 (木)

昆虫学者江崎悌三

  「父の思い出」    

            鈴木 はる  

 父のことは折にふれてよく思い出しておりますが、いざ筆をとるとなかなかまとまりません。父の裏面と申せば大げさでございますが、私は日常生活などについて少しふれてみたいと思います。

 昆虫学者の父も、家では余り虫の話はしませんでした。虫の標本なども全く家にはなく、すべて大学に置いておりました。「自分は国からお金をもらっているのだから、自分が集めた標本は全部大学のものだ。しかもこれだけの標本は世界中さがしても滅多にあるものではない」と信条と自信の程を話しておりました。

 私は小学生の頃、父と同好会の方々の昆虫採集に二、三度付いて行ったことがあります。そんな時父は既に大方の虫を集めつくしていたせいか、自分からはほとんど捕ろうとはしませんでした。しかしたまに珍しい蝶などが飛んで来ると、その瞬間だけは真剣な顔つきに変わり、あの不器用な父もそれだけはしっかりと捕虫網で捕らえ決して逃がすことはありませんでした。この時ばかりは、さすが「本職」と感心したものでした。が、私共がただ興味本位に奇麗な蝶や、姿、形のいい虫などを、沢山捕ろうとすると、「たとえ虫でも必要以上に捕ってはいけない」とよく叱られました。事実父もいったん捕らえた虫を、ポケットから取り出した虫眼鏡で一通り観察し終わるとすぐ逃がしておりました。虫が好きで昆虫学者になった父には、それなりの虫に対する愛情があったものと思われます。

 父は学術調査研究のため、当時日本の委託統治領であった南洋諸島にも三度行っております。父の叔父が南洋庁の役人として、パラオ(少し不確かですが)に駐在していたことも、これらの遠征にとって好都合だった様です。サイパン、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペなど行く先々から、こまめに絵葉書などを送ってくれました。また、帰国の都度、珍しい物や面白い土産話を持って来ました。

 その南洋から大小二匹の生きた亀をお土産に持ち帰ったことがありました。家族はもちろんのこと、この時ばかりは父もこの亀達を可愛がり、ポンちゃん(大)、ペンちゃん(小)と命名するほどでした。このポンちゃんが或る日三個の卵を産みました。亀の卵は太陽熱でかえると言うことでしたので、母と私は土や砂を入れた木箱の中に卵を入れ、屋上のベランダに暫く置いておきましたが、結局かえらずじまいでした。そのうちポンちゃんペンちゃんにも逃げられ、南洋の亀との交流も束の間の楽しみで終わってしまいました。

 この他、大トカゲの剥製や大蛇の皮なども持ち帰り、自分の書斎に飾っておりました。亀といい、これらの飾りといい、父は、爬虫類にも興味があったのでしょうが、夜など書斎のガラスにヤモリがあらわれると、楽しそうにその動きを観察しておりました。

 所がこの父にも、動物学者にあるまじきことかも知れませんが、苦手な生物がありました。犬、猫、兎、鶏、などです。特に大の犬嫌いで仔犬すら、抱くことはおろか、撫でることもできませんでした。父の親友の一人、北大の内田亨教授(当時)を札幌のお宅にお尋ねして、久かつの情を叙そうとした時のことです。内田先生ご夫妻は子供代わりにシェパード犬を三匹も飼っておられ、犬もまた家族同様に邸内をかっ歩していたそうです。玄関先から応接間に至るまで、またご夫妻の歓待を受けているさなかにも、前後左右のうちの三方を、犬に囲まれ、生きた心地もなく折角のおもてなしも、うわの空だったそうです。「やっとの思いで帰って来たよ」と何とも情けなく申しておりました。

 父はどちらかといえば、多趣味の部類に属していた人だったと思います。エスペラント語、音楽、文学(広い意味の)、写真、収集(切手、浮世絵、マッチのラベル、煙草の箱、乗物の切符、貨幣などなど)と多方面にわたっていました。

 エスペラント語は、ドイツで母と知り合う契機となったようですが、私が物心つく頃にはそれほど熱中していなかったと思います。エスペラント語は、それほど普及しそうもなかったのでしょうか、後年父母の引出しの中から、それに関する刷り物を発見して「こんな事にも興味があったのかな」と思ったりしておりました。

 音楽といえば、七高か東大時代の写真に、チェロを抱いている姿がありました。大学時代までは、同好会かなにかで、多少の演奏をしたそうですが、腕の程は確かではありません。父の母方の叔父、乙骨三郎が東京音楽学校(芸大)の教授をしていたせいでしょうか、その叔父の大塚の家で、合唱を習ったりしたそうです。その経験からか、娘の私達が女学校に上がると、それぞれパートに分け妹のるりのピアノ伴奏で合唱させられることが、時折りありました。よく歌ったのは滝簾太郎の「花」、モッツィーニの「浦のあけくれ」、シューマンの「流浪の民」などでしたが、父が独りで好んで歌った歌はシューベルトの「菩提樹」、ヴェルディのリゴレットの中の「女心の歌」や滝簾太郎の「箱根八里」などで、その他ヨーロッパの民謡のいくつかを口ずさむこともありました。風呂に入ればお定まりの寮歌でしたが、寮歌は短調で作られたものが多く、哀愁を帯びすぎ、当時の私には歓迎すべからざるものでした。

 文学では近世(江戸)文学に興味があったと思われます。また何によらず書くことが好きでした。新聞社から頼まれた記事は専門分野に関するものが多かったと思いますが、随筆調で書いたものも多く、そのスクラップブックなどを今、ひろげてみると、机に向かって書きものをしている父の姿がほうふつとしてきます。また墨で字を書くことも好きでした。

    長文のため、明日につづきます。

※上記文中の「南洋庁」とは、1922-1945まで存在した大日本帝国の南洋群島統治機関の総称。パラオのコロールに本部を置き、さまざまな支庁があった。学校や司法や気象観測などまで一糸乱れぬという表現がふさわしいくらいの整然たる秩序が、その膨大な機関名や役職名を一瞥しただけでも、見て取れる。二月にご紹介した西牟田靖著「写真で読むー僕の見た大日本帝国」は、この点がよく分かる労作である。第五章の「ミクロネシア」にドイツ支配からベルサイユ条約を経て日本の統治となったいきさつが詳しい。ほかに「関東庁」や「樺太庁」があったことを思えば、私達が想像する植民地支配という言葉からの圧政イメージはかなり薄れる気がする。むしろ日本と同列に置こうとした・・という志気のほうををより感じるからだ。それは、先月ご紹介した俳人村田治男の「北緯十度あたりを僕の故郷とす」(「句集みくろねしあ」)などの作品にも熱いほど表出されている。日本の兵士が戦地となった島をいまなお恋しがるように、かの地の人々も日本が残したもの(神社だったり教育だったりを含めたなにかの精神的な遺産)を大事に思ってくれているという事実。それをよくもわるくも忘れたらいけないと思う。参考:当ブログの2月20日付「ペリリュー神社」。小説家の中島敦について書かれた研究文のサイト(引用をお許しください。)http://www.chatran.net/dispfw.php3?_artist/_nakazima

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コメント

よまれていた
先日、情熱大陸でだったか、なんだったか、昆虫学者を追った番組を見た
すごかった、じっとくいついて離れない先生
小さな虫がうじゃうじゃいて、移動する中から、めざとく狙ってた虫を吸い取り器で捕獲される、その早さ
夜になり、村のひとが危ないからとせかしても、まだいたいよーとごねていた


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