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2006年3月 8日 (水)

生死について

昨日三分の二近く入力したところで突然とんでしまった文章です。拒まれた気がしてもう打つのは止そうかと思いましたが、気を取り直してもう一度やります。戦記は三編とも入力します。なお、筆者小室恒夫氏は乙骨太郎乙の三女・ひさの次男で外交官です。

  「生死について」 

             小室 恒夫

 第二次世界大戦さ中の昭和十八年頃、在独大使館に勤務していた私は、当時日独間のただ一つの直接交通手段であった潜水艦に乗って帰国することを志望しました。当時、この種の潜水艦の沈没率はすでに四十パーセントを超えていたので、「文官がそんな危険を冒さなくても」と、当時の大島大使(陸軍中将、駐独陸軍武官当時から三国同盟論者で、ヒットラーとも親交があった)は渋っておられましたが、強いてお願いして許可をいただき、搭乗する艦も内定しました。(仮に六番艦とします。)送別の席で大使は「跋浪蒼冥開」を、大使に次ぐ松島公使(昭和十四年、貿易省設置に反対して外務省通商局長の辞表を提出、貿易省を廃案に追込んだ立役者。終戦後、吉田茂兼摂外相当時の外務次官)は「奮翼高飛」という句を、またその他先輩、友人もそれぞれ署名して下さった日章旗はまだ手元にあります。敬愛する先輩、牛場信彦さん、家族ぐるみでお付き合いを願っている友人、中川忍一さん、惜しくも最近物故された菊地庄次郎さんなどの署名もあります。しかし何分四十余年前の署名者の半ばはすでにこの世の人ではありません。

 その直後、懇意にしていた海軍主計中佐がGという陸軍大佐と一緒に私を訪ねて来られ、Gさんの七番艦の席と私の六番艦の席を交換してくれないかという懇請がありました。Gさんは年は私より一回り以上上で、肥満体でもあったので、二ヶ月前後の苦しい潜水旅行に際して、たまたま六番艦に搭乗予定の医師(陸軍軍医中佐)との同行を希望されたのでした。当時二十代で痩せっぽちだった私にとっては六番艦も七番艦も同じことと、一言で座席交換に同意いたしました。

 やがて私は、当時、枢軸側の潜水艦基地だった南仏のボルドー(ガロンヌ川河口に近い大都会)に赴き、ドイツ海軍管理下シャポン・ファン(肥えたにわとりという意味)というホテルに入りました。暫くしてドイツ海軍の責任者から「六番艦が出航直後、ビスケー湾で米英空軍の爆撃を受けて沈没したので、七番艦の出航は装備改善のため暫く延期することになった」という極秘の連絡を受けました。その後私のフランス滞在は三ヶ月に及び、その大半はパリで待ちの日々を過ごしました。ボルドーのホテルに居ると、ホテル代、食事代、また土地柄豊富にある色々なお酒もすべて無料、個人的な用事をしてくれる従兵までつけてくれるという厚遇だったのですが、軍事機密上の理由で昼間の外出を認められませんでしたから、自由に羽を伸ばすことのできたパリに滞在し、時々連絡を受けてボルドーに戻るというふうでした。

 ところが、滞在三ヶ月で七番艦は(ドイツ海軍の責任者は「ヒットラー総統の命令により」という言葉を使いました)出航無期延期になり、私は空しくベルリンに戻ったのです。ちょうど米英空軍の絨毯爆撃の直後で一種のパニック状態に陥ったベルリンでは、ゲッペルス宣伝相兼ベルリン市長が一般市民の疎開を呼びかけていました。以後、私の大使館勤務は激しい連日の空襲下で行われ、空襲被害のため住いも五回にわたって転々とする始末でした。ある時は隣家の地下室で死者が何人か出たこともありました。結局のところ、ドイツの敗戦直後の昭和二十年五月五日、ベルリンを発ってソ連の対日参戦以前のシベリア経由で帰国したのでした。

 生死のことは、死にたいと願っても死にきれぬこともあり、紙一重の差で運命が変わることもあります。まことに天命というほかはありません。

 

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