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2006年3月31日 (金)

よど号事件

きのう、ニュースで「よど号事件」のことを言っていました。

日本で最初のハイジャック事件が起きたのは1970年昭和45年。赤軍派の犯人たちは羽田発福岡行きよど号を平壌へ飛ばす事を指示したが、機は金浦空港に着陸した。それは老練な機長の判断だったとする外交文書を韓国政府が昨日公開したというものです。

新聞では石田機長(八三歳)のコメントも載っておりますが、それによると機長は「事実と違う事ばかりで驚いている。わたしは犯人たちの要求どおり平壌へ行くはずだったが、国内線パイロットだったから位置がよくわからなかった。(中略)あれから三十六年たった今、事件に巻き込まれたのは運命で仕方ないと思うが、乗客全員を無事に帰せたことは機長として誇りに思っている。犯人たちに特に言いたいことはない。」と話されていました。

ちょうど先週このブログで「江崎悌三夫人シャルロッテ」をとりあげましたが、その引用文の中に、長男は日本航空のパイロットになり、よど号事件では副機長として乗り込んでいた、とありました。ふしぎですよね。乙骨太郎乙の直系の曾孫にあたる人がよど号事件の副機長だったなんて。その方にもコメントを聞いてみたいものですね。

前に一度書きましたが、わたしの最初の就職先が福岡空港の警備員でした。昭和五十年です。ということは日本初のハイジャック事件から五年しかたっていなかったのですね。(福岡空港ではその年から女性の警備員も入れるようになったそうです。)一年ほどしか続かなかった仕事ですが、その間に二度検査がありました。検査というのは雇用主の航空会社が抜き打ちでするんです。一般の搭乗客に交じって航空会社の役員がいろんな武器を隠して乗り込んでくるわけです。それをボディチェックなり手荷物検査なりで発見しなければならない。いつどんな人が乗り込んでくるか分からないわけですから、隊長以下、ものすごく緊張しました。私は結局なにもそういうトラブルに遭うことはありませんでしたが、リーダー格のベテランのKさんが男の背中に隠していたドスを発見しました。からだの真ん中に隠しておれば、探知機を潜り抜けても反応しなかった時代でした。(いまはどうでしょうか)彼女はボディチェックによってそれに気づいたのです。そうやって、みな一丸となって搭乗客の安全を守っていました。

参考ブログ:http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/asu/41.html

同上:http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yodo.htm

同:http://www.nhk.or.jp/kdns/_hatena/01/0519.html

石田機長死去のニュース:http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20060814p401.htm

平成18年8月13日お盆の入りになくなられました。

「かささぎの旗」で偶然取り上げることができましたことも他生の縁、謹んで哀悼の意をささげます。

無冠の男 8

(29日からのつづきです)

 ちょうどそこに、横須賀製鉄所の回収と米艦受領問題、長崎におけるイギリス人殺傷事件など、外国人相手の難問題が発生、これも大隈が見事に解決してしまった。

 会社においても、外国会社との提携や、海外支店工場の新設問題が発生すると、語学に強い社員の株はおのずと高くなる。ましてや維新早々のとき「英語で理屈をこねる」能力など稀少価値もはなはだしかった。長崎などに埋もれさせておくのはおしい、中央で働かせようではないか、というわけで、大隈はいきなり「外国官副知事」、つまり「外務次官」に抜擢されたのである。

 長崎支店の一課長から、東京本社の海外担当専務になったようなものだが、ともかく、正真正銘の腕一本ーいや舌一枚でそのポストをかちとったのだ。

 それほど「外国」の威力があったときである。外国ではこうだ、とか、某公使はこういっている、などという大隈のことばが権威ありげに見られ、それが財政問題への容喙(ようかい)となると、ひとかどの財政通、由利財政の批判者として重んじられたであろうとおもわれる。

 政府では、一般の不評、とくに外国公使らの抗議にあわてて、由利に一応の交渉をすることもなく、太政官札発行後半年ばかりで、その時価相場流通を公認、それまでに紙幣の相場を立てた罪で禁錮に処していたものを放免してしまった。井上馨の伝記(『世外井上公伝』第一巻)は、「(これは)自ら発行する紙幣の不信用を告白するものであって、財政上の不信任これに過ぐるものはない。しかもこの法令を発するに当り、会計当局者たる三岡(由利公正)に対し、何等の交渉もなかったようであるが、これは明らかに会計官を無視し、その不信任を表明したものであるから、三岡が憤慨して断然辞意を決するにいたったのもまた当然といわねばならぬ。爾来彼は疾(やまい)と称して出仕せず」と書いている。

 「三十にして立つ」といったのは孔子である。大隈の場合がまさにそれ。

 明治元年十二月、外国官副知事(外務次官)に抜擢(三十歳)。翌年二月、元旗本三枝家の令嬢綾子と結婚。三月、会計官副知事(大蔵次官)兼任。四月、築地に新居をかまえた。ここはもと戸田播磨守のもので、敷地五千坪の豪邸だ。大隈の開放的なところや、綾子夫人の客あしらいのよさもあって、多くの人間があつまった。

 その顔ぶれは、伊藤博文、井上馨、五代友厚、山県有朋、前田正名、山口尚芳、土居通夫、古沢滋、大江卓、中井弘などヒト癖もフタ癖もある男たち。そこで「築地梁山泊(りょうざんぱく)」とよばれた。

 梁山泊は、中国の小説『水滸伝』に出てくる。悪徳官僚に反抗した豪傑たちが山東省の山塞にたてこもり、これを梁山泊と称したのである。

 ただ、大隈邸の客人たちは、悪徳官僚に反抗する浪人ではなく、大半は新政府の役人だ。やがて、西郷、木戸、大久保が死んだあと、政府の中枢をしめて日本のカジ取りとなる。

 明治二年七月、官制改革によって「会計官」が「大蔵省」とかわり、「知事」は「卿」、「副知事」は「大輔」または「少輔」となった。

 大蔵卿には、由利公正の旧主君松平春岳がなったが、わずか二週間で伊達宗城(宇和島藩主)と交替した。

 しかし、松平、伊達とともに床の間の飾物。実権をもってきりまわしたのが大輔(次官)の大隈重信だ。

 このとき、伊藤博文は大蔵少輔、井上馨は造幣局知事から造幣権頭(ごんのかみ)となり、大蔵少輔となるのが翌三年十一月のことだ。

 年齢では、井上三四歳、大隈三一歳、伊藤二八歳。官歴としてはもっとも大隈がおくれていたが、ここにおいて二先輩を追いこした。そして、さらに三年九月には参議(財政担当)となり、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、薩摩の西郷隆盛と肩をならべる。このとき大久保利通は大蔵卿となった。

 明治四年五月十日、「新貨条例」が出て、「一両は一円」ということになる。貨幣の形を円形とし、十進法を採用すべきだと主張したのは大隈である。

 この点では手柄といえるが、すでに見てきたように、由利公正にくらべると財政上の経歴も造詣もはるかに及ばないのだ。

 このあと、井上騒動というのがあった。大蔵大輔井上馨が司法卿江藤新平と喧嘩をし、その子分の渋沢栄一といっしょに辞表を出したとき、「財政意見書」をつくり、これを新聞に公表したのである。今日から見ればなんでもないことだが、政府の秘密をバラしたというので大問題となった。しかも、歳入不足一千万円、政府の債務一億四千万円と、苦しい内情をあかしたので、世間に不信の念を植えつけた、とされたのである。井上のカオリどころか、イタチの最後っ屁になったわけだ。

 このとき大蔵卿大久保は外遊中。参議大隈に大蔵省事務総裁を兼務させたが、大隈は、井上の意見書を修正して公表したのである。これによると、歳入総計四八七三万余円、歳出総計四六五九万余円さしひき二一四万円の黒字。どういうカラクリだったかー。

 「財政意見書」の修正、というといかにもモノモノしい。だが大隈のやり方はまことに簡単なものだった。

 当時の歳入の基礎は米である。井上馨は、計算の基礎を米価一石二円七五銭とした。大隈はこれを三円にしたのである。すると、歳入総計は四八七三万余円にふくれ、よって「黒字二一四万円」となってしまった。

 これは他愛がない。第一、米価昂騰を考慮するならば、それにともなう一般物価の昂騰も見なければなるまい。そしてこれは行政費にも影響するだろう。米が上がれば支出もふえるのであるから、単に歳入だけをふやすのは片手落ちとなる。

 この計算がボロを出さなかったのは、この年度に予想外の金銭受入れがあったからだ。外国新公債の受入れがあり、さらに地租徴収事務が進んで、前期以来の滞納額をとり立てることができたのである。

 そのため、明治六年度は二二八二万円の黒字となった。「わが国の財政は破綻する」という井上理論(?)を否定した大隈理論(?)は、こういうフロックによって破綻しなかった。

 六年五月、大蔵省事務総裁。

 同年十月、参議兼大蔵卿。

 十三年に大隈は大蔵卿をやめるが、財政担当参議としてはおなじ。結局「由利路線」を否定したあと、十数年間「大隈路線」を独走することになる。  

 田口鼎軒が対決したのは、インフレをめぐる「大隈方式」だった。

(あしたにつづきます)

※ここを読んでわたしがすぐ思ったのは、明治五年末の突然の改暦でした。「日本の暦」(岡田芳朗著。新人物往来社刊)に書かれてますが、改暦を取り仕切ったのは大隈重信です。そしてその直接の理由が上記の理由、つまり政府の台所がとてつもなく逼迫していたからだったのです。 この点のからくりを、またあした「無冠の男」からと「日本の暦」からの引用をミックスしながらもういちど考えることにします。

2006年3月30日 (木)

筑紫次郎

筑紫次郎

久留米ゆめタウン裏

筑後うどん 2

はなしは、うどんに戻ります。「九州少年」で甲斐よしひろが書いていたのですが、うどんが好きだって。東京で博多味のを探すのは容易じゃないって書いてあった。そういえば、マリオットの盲点のブログマスター・あっさむさんも以前そんなことを書かれてたっけな。で、ノーマークの川柳人矢島さんが九州旅行へ来たとき、かろのうろん(固有名詞です)にとても感激して書かれてた文章をまだ忘れません。甲斐さんは「因幡うどん」を挙げていた。私も甲斐さんの意見に賛成。駅に(博多駅に)二つあるのですよね。(いまはもっとあるか)数軒隔ててうどん屋さんが並んでる。味も似てるんだけど、私は因幡がすきだった。微妙なとこなんです。しかもどっちも客は多い。今も同じ味なのかも気になるし。

ブログに書いた手前、気になりだして、このあいだ筑後の筑後うどんを食べにいったんです。そしたら二年前よりおいしくなっていた。びっくりした。客も多かった。ごぼう天は千切りのごぼう。麺がおいしい。以前食べたとき麺はおいしいけど、だしが出てなかったのです。国産の昆布やかつおを使い、人工ものは使ってないといってもおいしくなきゃ。それが今回はずっとおいしくなってた。日によって味が違うのかな。(これは「てうち庵」です。)

それと、桐乃家(八女)ですが、先日九州産とオーストラリア産小麦の混合って書かれてるのにきづきました。さいきん行ってなかったのですね。で、私のいつもずさんな記憶では以前はカナダ産百パーセントだったように思うのです。味ですが、私はカナダ産がおいしかった。九州産百パーのうどんを食べた事がありますが(さいきんスーパーで売ってる。たしか「つるみのうどん」だったっけな)、ちょっともちもちしすぎなんですね。決してまずくはないのですが、繊細な味わいにはほど遠い。それでいくと、桐乃家のには繊細でつややかな腰があった。透明感。どう表現しようもない。人はいつもないものねだりばかりするから、私のもそうでしょう。料理も恋愛や詩と同じだよなあ。

地産小麦で作るなら、むかし家で作った小麦で打っていたような色の黒い硬い麺をいりこだしのみのお汁で食べたい。野菜をいれて。これを筑後では「うちこみ」といいます。究極の素朴です。これは店では売ってませんし、店で食べようとも思いません。

外で食べたのでは、名古屋の味噌煮込みうどんが味が濃いけどもおいしかったです。ほかはしらない。

2006年3月29日 (水)

無冠の男 7

きのう書いたことです。「無冠の男」を読んで、ひとつの疑問が湧きました。それは、田口卯吉と犬養毅の経済論争について書かれた第三章です。明治新政府の財政は非常に逼迫していました。それを何とかし、さらには西南戦争の戦費も捻出しなければならない。それを解決できるものは不幸にして誰もいないというとき、越前藩の三岡八郎(由利公正)が手を挙げ、自藩の苦しい台所をこれでしのいだという実体験から、太政官札発行を提案します。他に何もなす手がないままそれをやることになる。でも、苦しい状況は改善されません。どころか新政府の対処のまずさに段々と官札の信用はおちてゆきます。そしてそこに登場するのが佐賀出身の「大隈重信」となるのですが、まずはそこのところをご覧下さい。とてもおもしろく、ついひきこまれます。以下「無冠の男」からの引用です。

 彼は、佐賀藩出身。四百石どりの砲術家だった父を十三歳のとき失い、母三井(みい)子の手で、二人の姉、一人の弟とともに成長した。

 十九歳のとき、藩内の若いサムライたちがつくった革新団体「義祭同盟」の仲間となり、藩当局に弾圧されると、今度は藩校弘道館の改革をした。このため、首謀者と見なされ、退校処分となったが、このため蘭学に転向、のちの政治家への可能性を身につける。人間、何が幸になるか、個々の現象だけではわからぬということだ。

 長崎で宣教師フルベッキについて勉強した。フルベッキはオランダ人で、ユトレヒト工業学校を出てアメリカにわたり、土木事業をやるうち、伝道を志して神学校に学び、安政六年長崎にきた。この頃三一歳で、大隈は二四歳だった。フルベッキは語学の天才で、英語、中国語、日本語ができた。大隈は英語を学んだが、テキストはバイブルのほか、政治、法律、歴史、地理、財政のものにおよんだというから、「財政問題」と全く縁がなかったわけではない。しかし、由利公正の自己啓発、問題意識と実践力、そして現実の体験にははるかにおよばないものだった。

 「私は二人の非常に有望な生徒をもった。それは副島と大隈とである。彼等は新約聖書の大部分を研究し、アメリカ憲法の大体を学んでしまった」とフルベッキは書いている。

 この副島種臣がのちの外務卿。「蒼海伯いはく、金に潔にして女に汚きは伊藤(博文)なり。女に潔にして金に汚きは大隈なり」(『雲間寸観』)と古島一雄が書いた蒼海伯であることは前に書いた。

 王政復古の大号令が出たとき、長崎奉行河津なにがしは逃亡した。このあと、奉行所をおさめ、西国一六藩の志士たちと協力して長崎の動揺をおさえ、外国人関係を円満におさめたのが大隈の力だった。

 やがて、総督沢宣嘉(のぶよし)、参謀井上馨が赴任して長崎裁判所が開かれたとき、大隈は参謀に起用され、その身分は、徴士、参与、そして外国事務局判事と変った。

 このとき発生したのが浦上キリシタン処分事件である。

 周知のように、徳川三代将軍家光の禁止以来、キリスト教は国禁の邪宗門として弾圧された。ところが長崎の浦上地区には、いわゆる「かくれキリシタン」といわれる信者がひそんでいた。

 長崎裁判所沢総督は猛烈な攘夷主義者で、前からヤソ教を異端邪説ときめつけ、その処分の必要を力説していた男だ。長崎にくると、第一番目の仕事として、浦上の信者三四〇〇余人を逮捕、金沢など三四藩にあずけ、拷問を加えて転宗させようとしたのである。

 長崎のキリスト教弾圧を知って、まずいきり立ったのがイギリス行使パークスだ。

「排外主義のあらわれである。」

 と政府を非難し、処分の撤回をもとめてきた。

 政府首脳が閉口しているとき、

「私が談判いたしましょうか」

 といいだしたのが大隈重信だ。事件の担当官として、事情説明のため出張してきていた。無論、中央においては「無名」の存在。

「こ奴、名もしれぬ地方官のくせに・・・」

 とにらまれたが、結局他に人材がいないので、やらせてみよう、ということになった。

 談判の場所は大阪の本願寺。日本高官、外国公使たちがズラリとならんだ中で、パークスは、

「オオクマの身分が低すぎる。英国皇帝陛下の御名によって英国政府を代表する余は、かような下級官吏とは交渉はいたしかねる」と一蹴しようとした。ところが大隈は負けてはいない。

「貴下が英国皇帝の御名によって英国政府を代表されるのならば、わが輩もおなじく日本国天皇の御名によって日本政府を代表するものである。もしわが輩と談判できないというのであれば、これまでの抗議を自ら撤回したものと見なすが、それでよろしいか」

 とやり返す。パークスも、初めてホネのある日本官僚に会って、眼を見はり、態度を変えて談判に応じることとした。

 大隈がしゃべるのは、フルベッキ仕込みの英語である。

「今回の信徒処分は、日本国の内政問題であり、外国の干渉をうけるべきスジ合いはない。しかもこの処分は、国法にしたがって行っており、決して道理に外れたものではないのである」  

 するとパークスは、顔色を変えて掌でテーブルをたたき、

「それは暴言だ!」と叫んだ。

「信仰の自由は守られねばならぬ。今回の日本政府の処置は、まさに野蛮国の行為ではないか」

「私は、聖書や祈祷書を読んでいるから、この問題の本質はわかっている」

 大隈は、西洋文明史におけるキリスト教の功罪を列挙し、むしろ罪悪の行為が多かったようだ、といった。

 渋沢栄一は、この大隈によってスカウトされたのだが、その著『実験論語』の中で、明治元勲の人物批評をした。「知らないことはだれにもきく」という謙虚で率直な態度をとったのは木戸孝允であり、その反対が伊藤博文や大隈だった、と書いている。

「伊藤公はあれほどのえらい方であらせられたが、下問を恥じずというまでの心情となっておられなかった。何事においても、つねに自分が一番えらいものであるということになっておきたかった人である」

「世間には、好んで他人の言をきく人と、他人の言にはいっさい耳をかたむけず、自分一人でばかりしゃべって他人にきかせる人との二種類がある。大隈侯のごときは、他人の言をきくよりも、他人に自分の言をきかせるのを主とせらる御仁・・・」

 この談判でも、朝の十時から夕方四時まで、昼食ぬきで大隈はしゃべりまくり、さすがのパークスもゲンナリして、ついに引き上げてしまった。

 このとき、パークスのおともをしていたアーネスト・サトウは、のちに『一外交官の見た明治維新』という本を書いた。これは今日文庫本で出ているが、その中で、「大隈は、祈祷書(プレーヤー・ブック)を草原本(プレーアリ・ブック)といった」と笑っている。

 なるほど、そういう発音のまずさ、まちがいはあったかもしれない。けれども、ともかく英語で、朝の十時から夕方四時まで、昼食抜きでよくもペラペラしゃべるだけの知識をもっていたものだ。渋沢の批評に、大隈は「容易に他人の話をきこうとせぬわりには、他人がチョイチョイ話したことを、存外よく記憶していた」そうである。フルベッキ先生の雑談をちゃんとおぼえていたのが、このときプラスになったのだとおもわれる。

 ともかく、タフでおしゃべりの天才によってやかまし屋のイギリス公使をへとへとに疲れさせ、退散させてしまったのだから、

「大した男だ」

 という評価をうけたのは当然だ。(あしたにつづく) 

※佐賀へ私はよく行きますが、そういえば、「大隈重信記念館」の標識があるところを通ります。これを読むまで、大隈重信について何の興味もなかったのですが、俄然、もっとしりたいと思うようになりました。で、これがどう「君が代」問題とつながっているのか、ですか?それは自分でもわからないです。ただ、これが写したかった。「こよみ」が変る、それまで千年以上も使ってきた陰暦が、ころっとかわってしまうのが、この大隈重信の時代なんです。他にだれもいない(みんな外国へではらっていて)というようなドサクサの火急のとき、なぜかささっと西暦にかわるんですよね。それがどんだけ大きなことだったかを皆あまり認識していない。「無冠の男」にもそれには触れておられないようです。これが、私にはとても不思議なこととおもえました。無意識がかわる、ということ。それはそういうふうにやってくるのですね。どうぞ、もうしばらくかたちになるまで、おつきあいください。

大隈記念館のサイト:http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=2648

もっと詳しいサイト:

http://www.sagasubanta.com/sagayoyo/yokatoko/saga/okuma_memorial_museum/

2006年3月28日 (火)

無冠の男 6

 国歌に「君が代」を発見した乙骨太郎乙の研究をつづけます。あいだがあいてしまいましたが、このブランクの間に読みたいものを読みました。そのなかに、人様からお借りした「致知」が三冊あり、約一年前の号に「無冠の男」著者の小島直記先生の連載随想がありました。それを読むとお体の具合がよろしくないようで、ことしの致知には連載がないことを考えると心配です。八女に住みながら八女出身のこの偉大な文学者のことを何も存じ上げなかった自分が悔やまれます。その意味も込めて、「円交」からの引用を続ける前に、『無冠の男』上巻の「日本最初の経済論争」を途中で投げ出したことが気になっていましたので、この項の引用をやります。数日にわたりますが、どうぞお付き合いください。二月十日付『無冠の男 5』の続きです。

 「無冠の男」  小島直記著(昭和五十年新潮社刊)

  第三章  日本最初の経済論争

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今朝五時おきをして、二時間もかけて、かなりな分量を打ち込んだのです。で、何度も保存をしようとしましたが、これがなぜかできませんでした・・メンテナンス中だったことを知らなかったのです。・・それが終了した五時、もう一度トライする気力体力のこってませんでした。でも、おかげで一つ大きな気づきがありました。それは「無冠の男」の内容に絡む発見です。小島直記先生が気づかれなかった事実を私は偶然知りました。「暦論」を書いたとき、そこのところを丁度調べたからです。もう今日は時間がありませんので、明日書きます。別に新発見でもないのですが・・・一人の知識はどんなにすごい天才であっても限界があるなあということをつくづく思います。

2006年3月26日 (日)

あざみ通信特別号

 浪速の川柳家・倉本朝世個人誌「あざみ通信特別号」をいただきました。

「no mark」 倉本朝世のブログ「渾身・乱心の日々」からの編集版です。これを読みますと、彼女の現在の仕事(競輪の業界紙記者とおもわれます)と実益を兼ねた趣味(株式)がほぼ見えます。そういった雑多な日常すべてをまきこんで、川柳という生きた文芸の批評も創作もリアルタイムで展開されているのが改めて分かります。川柳の同人誌活動から一切身をひいたかに見えた倉本朝世は、どこにも逃げず、ちゃんと真剣に川柳を見つめているのが分かり、ちょっと胸が熱くなります。いちばん最後のページに、「水母と母と山」と題する作品があります。

 「水母と母と山」  

          倉本 朝世

 法律の底を漂う水母たち

 あちこちをめくって母を笑わせる

 車座になって私を囲む山

 裁判に小さな山を運び込む

 山田さんの靴を片方持っている

 ははのてのひらは小さな野原です

 空母ゆく億の水母を従えて

 塩を振りすぎて判定負けになる

 引き出しにあるのは犬の診察券

「車座になって私を囲む山」にはなぜか危うく涙がでそうになりました。連想したのは、「風の谷のナウシカ」で瀕死のナウシカをオーム(王蟲。芋虫の親方みたいな)がエネルギーを送って癒す場面。あるいは石橋秀野の「山肌の濃紫なる冬日かな」(東京時代昭和14年)も。秀野句ははるかに望める富士の山肌にふるさと大和の山やまを呼び覚ます想いがある句だと思います。この朝世さんの句はとても素直な句です。この中でいちばん好きです。

川柳としてみたときに、最も評価が高いのは、しかし、というか、やはりというか、空母の句でしょう。前に「九州俳句」誌の「俗の細道」でとりあげて書いた記憶があります。一句の大きさ、風格、ふかさ(句自体は一見なにも考えていない、それがミソ)、そして時代との共時性。ちょうどイラク派兵が決まったころの句だったんです。これをみたとき、私はやっぱり倉本朝世ってすげえなといたく感心したものです。そして根源川柳である句は、そうそう書けるものじゃないことも、だんだん分かってきました。

いつも見るわけじゃないテレビで米国の政治家が拉致家族を前に北を非難する談話をしているのを偶然見ました。それを見たとき、動乱を覚悟したほうがいいのかという不安がふっと脈絡なく浮かびました。誰も何もいわないけれど、ほんとはちっとも平和じゃない日本を思いました。というのもその少し前、新聞の国際面で自衛隊の撤退作業を米国の企業が請け負うという小さな記事を偶然読んでたのです。自衛隊は日本の軍隊じゃないのですね。米軍のいわば傘下に組み込まれている従属軍なんです。ことあらためていうべきことじゃないのですが。そういった諸事情もあれこれ思案させてくれる、批評性と諧謔性のあるすぐれた一句です。

2006年3月25日 (土)

恋の語彙

「no mark」の川柳家矢島玖美子の随筆「水曜は癖になる」に引用されていた句です。

 腐らないように時々うつぶせに  佐藤みさ子

      (「MANO」11号より)

この句をどう読むか。いろいろ読めますが、わたしは「張形としての川柳」に分類します。それはいま、「張形としての俳句」という思想を何とか立ち上げて、それで句を読もうとしている自分の意思でもあります。「張形としての~」とは何かといえば、とても簡単です。「女としての心身の飢えをみたす句」という定義です。こうはっきり書いてしまっては実もふたも無いのかもしれません。でもだからといって、ここをおろそかにしたり、照れたり、知らんふりしたりは、したくありません。からだでも意地でも注連縄でも張れるものはぜんぶ張って、書きたいのです。

わたしの詩の師安西均の詩に「朝、電話が鳴る」というのがあります。平凡で退屈な主婦が不倫の恋によって蘇るというテーマで、一編を暗誦するとこまでは行きませんが、サビの部分は覚えています。

 あなたは耳から口から指を入れて わたしの日常を裏返す

(かなり怪しい暗記ですのでそのうち確認します。)

日常を非日常に変えるものへの渇仰。それがおひるのおくさまドラマと同じ路線で、しかも品格を失うことなくきっちり綺麗に歌われている。読んでわたしはどきどきしました。そしてどきどきする自分に安心もしました。

主婦というのは何と地味で色気のない給料もないいたわりのことばすらない、仕事なんだろう。子作り、育児を終えてもなお残る、おんなとしての青いぶぶんにいやでも向き合わざるをえなくなったとき、そこでどう自分をなだめ、殺せるのか。そこのところが、文学であり芸術のしごとなんだとおもいます。(そしてこれがまさに2007年問題の核心かもしれず。)

 キャベツの結球はじまる頭癈(しい)たるよ  中村マサコ 

 河口嘶くあなたも眠れぬ刻ですか       〃

 産道につづくは青き麦畑            〃

 柱より柱へ渡るおぼろの夜           〃

 チャイナマーブル転がる畳を荒野とす     〃

 もも熟れてうすい空気が啜られる        〃

 うす紅の骨とおもえりきさらぎは         〃

「俳句百景」第四集(東京四季出版)中村マサコの百句から抽出した。一句目。「癈(しい)たるよ」に転ぶであろう。廃棄物の廃の字の旧字。旧字という言い方はよくない。正字である。略していない正式の漢字。目癈(めしい)ということばを知っていてもあたまがしいるというのはおはつだ。ではあるものの、キャベツの結球が始まるというそのときは、きっとあたまがぼんくらになっているにちがいない。なにかあたまのちからをこえたものがきゃべつをまるくする。あたまのちからはたかがしれていて、生理的なものについてはおよびもよらない。・・・ほかの句は読んで感覚的にわかる句です。

引用していいかどうかわからないけど、引用したいので、引用します。

「国語が祖国を救う」  お茶の水女子大学教授  藤原正彦

 私はニュートンやアインシュタインのできなかった問題を、寝っ転がって鼻くそをほじくりながら解いてしまうんです(笑)。なぜか。私が「数学的語彙」において二人を圧倒しているからです。要するに、語彙というのはそれだけ重要であるということです。

 最近の若い人は言葉が乱れていると言いますが、そんなことは大した問題ではない。最も重要なことは、彼らの語彙が非常に乏しいということです。百か二百の語彙で喋っている。ということは、百か二百の思考しかないということです。これが非常に恐ろしい。

 語彙は、思考の一種の起点のようなものです。しかしそれだけではありません。この語彙が、情緒をも司どっているのです。

 例えば、好きと嫌いの二つの言葉しか知らない人がどんな恋愛をできるか。それだけだと、ほとんど獣と似たような恋愛しかできないと思うんです。恋焦がれる、ひそかに慕う、一目惚れや横恋慕といった、恋や愛についての言葉が、日本には数多くあるわけです。そうした言葉を多く知ることによって、初めて恋愛の襞(ひだ)というものが深くなるわけです。このように、ほぼすべての知的活動の基礎には、語彙の存在があるということです。 

 私の言う情緒とは、動物にもあるような、生まれつき備わっている喜怒哀楽ではありません。もう少し高次の情緒、他人の悲しみを悲しむとか、他人の不幸に敏感である。そういった、教育によって培われる情緒です。例えば、小説や詩などの文学作品を読む。そうして様々な環境や人の辛さを知ることによって、他人の悲しみを悲しみ、他人の不幸に敏感になれる、これが国語の領域なのです。

 (月刊誌「致知」四月号よりの部分引用。この文章はお気づきのように談話を編集者が起こしたものです。全体の五分の一ほど冒頭から引用しております。全文引用したいほど迫力がありました。文からオーラが出ているかんじで。)

 

 

2006年3月24日 (金)

バス通り

新聞連載の甲斐よしひろの随想「九州少年」今朝で26回、折り返し地点にさしかかる。萩尾望都の挿絵の絵柄がかわった。バスケ少年が膝を抱いてる図柄から、今度は足洗い場の水道蛇口に直接口つけて水を飲んでいる少年(右手は右ひざに)のカット。薄い彩色が絵の雰囲気になじんで、なんともいえず繊細である。この人は少年を(それもなよやかな美しい少年を)描くのがうまい。東京の弥生美術館の高畠華宵もまっさおというところだ。

甲斐よしひろをそんなに好きだったわけじゃない。普通にヒット曲を口ずさめる程度のファンだ。でも「バス通り」という曲の「風が僕の日記帳の頁をめくる 誓った言葉はどこにもない 日が暮れるのも忘れて歩いたバス通り」(これ一番二番ごったですかね)あたりを聴くとこみあげるものがある。歌詞だけを見るとくそロマンチシズムみたいでおセンチで・・でも声から受ける印象は野生的なものがある。どの歌もそうだ。同時代に青春を送った記憶が蘇る。

同時代に青春を送るとは、同時代に幼年期を送ってるってことです。

けさのは「台風」という題で、台風が来た日の柿泥棒について書かれていた。悪ガキ仲間と役割分担してよそんちの柿を台風のどさくさにまぎれてぶんどるという上品な話だ。こういうのは、別にむかしは普通だった気がする。(台風の日にと断っているだけ、むしろおくゆかしい。)台風の日のゆえなき興奮、動物としての本能がすべて解き放たれるような・・それを子供時代にあじわうことは、ヒトとして不可欠だと思う。泥棒は悪いことながら。

2006年3月22日 (水)

 即菩薩即煩悩のこの日かな  岡部飛行兵

二十日の写真につけた参考ブログの中に、見つけた句です。引用許可をお願いします。昭和二十年四月六日に宮崎の新田原飛行場から飛び立ち、米軍の空母に飛び込もうとして翼がかすめただけで海に落下、遺体は米軍にひきあげられ、首に巻いていたタオルは返還された・・と文中にはありました。享年24歳、出撃の前に書き残された句だということです。

ブログ筆者のかたを存じ上げませんが、書かれていた校歌が私と同じ出身高校のものでした。長男も同じ高校を出ましたが、そのときに丁度学校創立95周年の特別アルバムを頂くことができました。その「黐の木」(もちのき)という名の記念アルバムで探すと、確かに昭和28年卒業生のなかに名前を見出す事ができました。(なお、27年卒業生に作家の五木寛之がいます。本名松延寛之。)

縁の繋がりということで驚いたのは、写真のなかに存じ上げているお坊様がおられたことです。それと、白将軍という朝鮮動乱のときの朝鮮人英雄について書かれている文章があり、全く朝鮮戦争について無知なわたしは目を開かれた思いがしました。知識としては、朝鮮戦争があったからそのために軍備をする必要に駆られ警察予備隊から自衛隊が誕生した・・と知ってはいました。でも具体的な情報を何も知らなかったのです。知らないでも生きてこれましたが、今の日本があるのはそういう人々のおかげということをやはり知っておく必要があったと痛感します。

http://mituo433.exblog.jp/m2005-02-01/

わたしがこんなブログをはじめたのも、なにかわからないものに駆られてのことです。わからないけど、「ん?なんじゃこれは」という想いがふつふつ湧くシンクロに沢山出会います。

このところ二十日締め切り課題句「即」をいっしょけんめい考えていたのです。でも即という言葉があまりにもそっけなく、漢文的で理が勝ることばなために、苦戦を強いられていました。それでもなんとかひねり出し、投稿したのち、この「八女市岡山飛行場跡」での検索で上記のサイトに出会い、読んでるうちに岡部という名の特攻兵の詠まれた句と出会いました。岡部飛行兵は八女龍が原にあった飛行場で練習機をとばす訓練をされていたのだと思います。その兵士とブログ筆者の奥様(当時国民学校四年生)とは慰問袋を通じて知り合われ、何度か手紙のやりとりをし、福島(これは八女市の中心地です)で一度あったことがある・・と書かれていました。

 即菩薩即煩悩のこの日かな   岡部特攻兵

特攻兵の心情が直接伝わってくる句だとおもいます。死を前にした自分の気持ちを、冷静に鏡に映したものです。

梅崎春生の「桜島」という短編に出てくる特攻隊員の荒れた姿とはぜんぜん違う、崇高なものを感受します。即菩薩、即煩悩という詠みぶりにはまるで「色即是空、空即是色」にも通じるものがあります。その深い生への執着がわずか12文字に表現されていて、時がそのまま静止している。だから、姓しか知らない人なのに、きっちり記憶に濃い影として存在する。全存在を賭けて詠まれた句の重みだと感動します。そしてそれをブログにのこされた方もすごいとおもいます。ありがとうございました。

さいごに、岡部特攻兵のご冥福をお祈りいたします。合掌。

2006年3月20日 (月)

お茶畑

お茶畑

お茶畑

光の処理がまずくてすみません。大好きな茶畑がこの角をまがると豁然と現れる。右手の暗がりは竹の林です。八女市に戦時中そんざいした岡山飛行場跡あたりの景色です。

参考ブログです。おそらく文中の○が原は八女の岡山の龍が原(ホリエモンちの近く)だと思われます。

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%2C%E5%85%AB%E5%A5%B3%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1&tid=top_v2&search_x=1&y=11&ei=UTF-8&fr=top_v2&u=mituo433.exblog.jp/&w=%E5%85%AB%E5%A5%B3+%E5%B2%A1%E5%B1%B1+%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4+%E8%B7%A1&d=fndekG1aMMj4&icp=1&.intl=jp

2006年3月19日 (日)

車輪の唄

 車のオーディオ(というほどのしろものではございませんが・・)がこわれて二ヶ月、車検を受けるときどさくさにまぎれて新しいのを付けてもらいました。(支払いはチチになっております。)今回の車検はそうじゃなくても盗まれたタイヤホイールの補充や、新しく導入されたルサイクル法の料金上乗せでいつもより高かったので、チチは渋い顔をしておりました。

車種は軽のプレオ、今四年目くらいですが、もともとカセットテープレコーダーとラジオが付いてたんですよね。それがテープを入れても反応しなくなった。音がないと淋しいので、小型のレコーダーを持ち込んでそれで聴いていたのですが、今度はテープがぐにゅぐにゅになりました。でしようがないから、今度はCD方式にしてもらいました。

 こどもを塾に送迎するとき、片道30分の道を音楽流します。友達が入れてくれたというバンプオブチキンのアルバムが今一番の気に入りで、そればっかり聴いています。それも好みが実にはっきりしていて、「sailing day」と「カルマ」(表記はこれでいいかな)ばかり何度も。声がきもちいいです。しぜんなかんじで。それと歌詞がきれいな日本語です。(あたりまえでしょうか。)息子と一緒じゃないとき全部いちおう聴いたんですが、私は「車輪の唄」がすきです。年寄りみたいなことをいいますが、(ま、実際そうだけどね)車輪の歌ってタイトルからなんかしらんけどヘルマンヘッセを連想するわけ。で、『車輪の下』って文庫本のにおいやしおり紐やらいろいろと思いだし、この叙情的な味わいは青春よねえ泣けるねえと思う自分に安堵するのです。

 さいきん、鼻歌をするどく子供につっこまれることが多くなりました。「そこ違うよ!」って。よかじゃんね好きに歌わしてよ・・とははは開き直ります。

(WBC、韓国に勝ちましたね。一点もあげなかったのはすばらしい!さすがに今日はたかじんを見ませんでした。)

動画)

車輪の唄:

 http://jp.youtube.com/watch?v=wc97FWoPlks

この唄は、そういえば、昔、「木綿のハンカチーフ」ってあった歌の男性版ですよね。

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2006年3月18日 (土)

江崎悌三夫人・シャルロッテ

 次は西日本新聞昭和53年6月29日付、追悼記事の引用(無記名記事)です。

 「日独民間交流のかけ橋・故江崎シャルロッテさん」

 ドイツ留学中の少壮の昆虫学者と大恋愛の末結ばれ、夫と手を携えて来日、四人の子を育てるかたわら日独の民間文化交流に尽くした江崎シャルロッテさん(太宰府町五条鉾の浦)が二十六日、五十年間暮らした第二の故郷、福岡で永眠した。葬儀は七月二日午後二時から福岡市中央区の積善社福岡斎場で行われる。福岡の多くの旧知の人々とお別れしたのち、最愛の夫・悌三氏が待つ東京・駒込の江崎家の染井墓地で、夫の墓に葬られる。戦前、福博の街にきらびやかな話題をまいたドイツ夫人の生涯は、こうして幕を閉じる。

 シャルロッテさんは、元九大農学部長や教養学部長を務めた故江崎悌三氏夫人。二人の出会いは、大正の末、オーストリアの都・ウィーン。留学中だった江崎氏は、ウィーンで開かれたエスペラント学会に出席、大会書記だったシャルロッテさんと知り合った。そして二年後、今度はハンガリーのブダペストのエスペラント学会で運命の再会が二人を待っていた。江崎氏はその後一年間、三百六十五日シャルロッテさんに恋文を送り「東洋の果てに一人娘はやられん」という父親をくどいて、出身地の西独ウェストファーレン州ヘルフォルト市で挙式、昭和三年福岡市にやって来た。

 戦火が激しくなるなか、書斎にとじこもりがちな夫とは対照的に、社交的で明るい性格のシャルロッテさんは、志賀島や姪浜の農家を訪ね、食糧を確保、育ち盛りの長女はるさん、次女るりさん、三女えりさん、長男の悌一さんを無事育てあげた。戦後は、福岡大学の前身、福岡外事専門学校や福岡女子大で独語、英語を教え、九大医学部を中心に発足した西日本日独協会の創設に参加、独語クラスを受け持った。

 シャルロッテさんは母国語のほか英語、ラテン語、エスペラント語などが得意で、九大に海外から有名な学者が訪れるたびに、ホステスとして活躍、今でも江崎家のサイン帳には案内した世界の一流の学者の署名が多数残っている。昭和三十二年、夫悌三氏が五十八歳で亡くなったあとも、九大でのドイツ語教授のほか、北九州市まで出かけ、八幡製鉄や安川電機の研修所で独語を教えるという歳月が三十七年ごろまで続いた。九大法学部教授手島孝氏にとつぎ、近所の太宰府町三条台で母を見守ってきた次女、るりさんは「非常におおらかで順応性があり人に好かれるたちでした。それに楽天的な性格も手伝って、あの戦争中を乗り越え、ガンで最愛の夫を亡くした時も異国の地で耐えられたのでしょう」。長男の悌一氏(四十)が三十八年日航パイロットになると、シャルロッテさんは、二年に一度は西ドイツへ里帰りするようになった。日本でならった生け花をドイツ婦人に教えるため、剣山をポケットにいっぱい入れて西ドイツ各地を回った。悌一さんが日航パイロットになったのが「親孝行の最大のプレゼント」と姉たちは声をそろえるが、四十五年三月末、悌一さんが副操縦士として乗り込んだ「よど号」がハイジャックされ家族は真っ青になった。事件がなかったら、大阪でいとこ夫婦にシャルロッテさんを交えて誕生日のパーティーをする予定だった。計画は狂い、「よど号」は金浦、平壌、東京と引っ張り回された。この間肝っ玉かあさんの、シャルロッテさんは「少しも騒がず、その間大阪で開かれていた万国博見物をしていた」という。

 刺し身や豆腐が大好きで、日本人になりきった反面、母国ドイツへの思いを込めて、息子へはいつも手づくりのドイツ菓子を送り続けた。脳血栓(せん)で倒れた時も、病室で愛きょうもふりまき、身振り手振りで話しかけ、婦長さんは「ドイツ切手をプレゼントにもらった」という。

 ※書き写しつつ、さまざまな思いが胸を去来しました。記事の出た53年に私はたった一人の弟を失ったのですが、当時勤めていた福岡の医院(心療内科)があったビルの地下二階には日独協会があって、名前を失念しましたが、ドイツ人の若い夫婦がドイツ語を教える教室を開いてあったのを記憶しています。医院は三階だったか四階だったか、でも薬局は地下二階でロッカーがその奥にあったのです。だから週に一度はその教室の横をよぎっていたわけで、とても印象深いです。・・こういうのを何というのでしょうね。縁の外周のへりがほんのちょっとだけ触れていたような・・そんなかんじです。

 さらに思い出した記憶があります。江崎シャルロッテさんというお名前の響きには、むかしどこかで耳にしたような・・と感じていたのですが、ひょっとするとこの葬儀に先生が出られて、それで記憶が残っているのじゃないかと思い始めました。それとこのころだったと思うのですが、東京からドイツ文学者の高橋義孝先生が医院に見えたのです。先生にお茶をお出ししたのを鮮やかに覚えています。その人は毅然としてまさにこんなお姿でした。http://www.biwa.ne.jp/~tamu4433/takahasi.html (当時65歳くらいでした。)どういうつながりか存じません。ただ、医院の壁には高橋先生の書かれた書がさりげなく飾ってありました。梁塵秘抄の有名な一節です。「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶこどもの声きけば わが身さへこそ ゆるがるれ」たしかこんなフレーズです。記憶って妙なものですね。時間もまた。

 日独協会を調べていましたら、さらに記憶が不思議とつながりました。昭和53年当時ドイツ人の先生は、確かミッシェルという発音で呼ばれてありました。ビートルズの歌みたいなきれいな名前ですし、女性じゃなくて姿の美しい男性だった(長身で巻き毛だった)ので印象があざやかだったのです。で、その人は、ヴォルフガング・ミヒェルというお名前で、いまは九大大学院の先生をされているようです。驚きなのは、去年十月に沼津市明治史料館を訪ねましたとき、太郎乙関連の資料の他に、白隠和尚の資料ともう一冊、書架にあって妙に気になった「江戸時代の好奇心」という珍しい本から数ページ写真と絵のコピーをとってきたのです。(信州飯田のダ・ビンチ級コレクション。ていねいな植物の写生画や鉱物の写真のなかに石の張形もあった。解説なし。)このコレクションについて、ミヒェル先生が関係しておられることに気づき、非常に驚きました。時と人と物が円周率を作ってます。

http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~michel/media/texts/20040811Shinshunippo.jpg

2006年3月17日 (金)

筑後うどん

 「筑後うどん」というカテゴリーがあります。二年前くらいに気づきました。きっと何かのきっかけがあって、だれかが仕掛けたことばだろうと思いますがよく知りません。今のところあんまり有名ではありません。

 佐賀平野や筑後平野には小麦と米の二毛作がまだ健在で、見渡す限りの麦畑の平面の中を、麦秋のころに車の窓を大きく開けて駆け抜けていくと、とても懐かしいにおいがして思わずはらはらと泣きそうになります。笑

 この純国産の麦がどこに流通するのかまったくわからないんですが、一応イメージとしては「筑後=小麦産地」という強いアピール力があります。で、その小麦を使ったのかもという淡い期待感のもと、みなさん筑後うどんを食べましょう。

 こんなことを書いたら筑後の人に首しめられるかもしれないのですが、覚悟して書きます。筑後の筑後うどんより、八女の筑後うどんのほうがはるかにおいしいです。すいません。何か不都合があれば、「味覚の件は個人の舌の問題に帰すので、なんともいえないです」・・と言って逃げます。私は八女の「桐乃家のうどん」が大好きです。(でも、カナダ産高級小麦って書いてあった。→追伸・現在はAustlarian standard white種というのと九州産との混合小麦であることを確認。以前よりモチっとしたかんじです。)

 

昆虫学者江崎悌三 2

 「父の思い出」 鈴木 はる  (きのうからのつづきです。)

 写真にもかなり熱心でした。コンテッサ社のピコレットという小型カメラも使ったそうですが、私達が幼い頃の印象としては、大型のカメラ、イカ社の二クラスに三脚をつけ黒い布をかぶせ、乾板を一枚ずつ使って撮る大仰なやり方でした。その後ドイツの祖父からライカ(終生大事に使っておりました)をもらってからは、九大写真同好会と撮影会に行ったり、私共の学校の卒業式などにも、よく写真を撮りに来てくれました。

 前にも少し触れましたように、何によらず収集が好きで、この収集癖は人の評判でしたが、この中でも、切手収集が、趣味として最高の域に達していたものだと思われます。集めた種類も世界中にわたり、万を超す膨大なものでしたが、未使用切手を集めるのは本筋ではないとして、できるだけ使用済みのものを集める努力をしておりました。

 私達に申すには、先ずこの切手によって世界の国国の地名などを知ることができるばかりではなく、発行された時代背景、歴史的事実などの勉強にもなるのだ、とのことでした。特に昆虫関係の切手には目がありませんでした。父が、あるいは、父達昆虫学者が、指定に関与したと思われるのですが、国蝶に指定された「オオムラサキ」の記念切手が発行される際、解説を書いたのが父でした。父はその解説書にサインをして子供の私達に一枚ずつ与えました。

 父はこの切手収集を、換金や利殖の目的にすることを極度に嫌い、そのような目的が少しでも見える切手会を避け、余分の切手を交換するための切手会には熱心に通っておりました。お医者さんや、会社員の方々、電気屋さんなどの商店の方々と月一回、夜開催される会に出席するのを、晩年は最も楽しみにしておりました。その日には、大学がひけると、街のそば屋に立ち寄って、夕食代わりに支那そば(ラーメン)を食べ、開会までの時間つぶしをするのがお定まりでした。夜遅くなって、家に帰ってくるのですが、満足気に、そして何か照れ臭そうに、玄関先に立っていた父の顔が、今でも印象的です。

 皆様が仰言って下さるように父は斯界の権威であったかも知れません。子供たちも、それを誇りとし、尊敬の念をもって父に接しなければならなかったのかも知れませんが、やはり、正直のところ、私達から見れば、どこのご家庭でもそうであるように、自然な、身近な存在でした。他所様と同じように、極く普通の親子の関係が我が家にもあったことを、大変幸せに思っております。

 父は幼くして母と、又、それぞれ異った才能の持ち主であった兄弟達を次々に失い、不運と淋しさを歎いた時代もあったと思います。しかし概して自分の父と義母の慈愛に育まれ、親類縁者にも「悌ちゃん」と愛され、恩師旧友後輩にも恵まれ、好きな道を一筋に歩むことができた古き良き時代の幸せな人間の一人であったと思います。

 昭和五十八年十二月記す (江崎悌三著作集第三巻月報より) 

※江崎悌三は乙骨太郎乙の孫(第一子まきの三男)です。ドイツ人女性と熱烈な恋愛結婚をしています。あす、そのあたりを引用します。日本の蝶を「オオムラサキ」と決めた人が、日本の国歌を「君が代」と決めた人の孫であったことに、ふしぎな因縁を感じます。

※国蝶オオムラサキ: http://homepage2.nifty.com/oomurasaki/oomurasa.htm

2006年3月16日 (木)

昆虫学者江崎悌三

  「父の思い出」    

            鈴木 はる  

 父のことは折にふれてよく思い出しておりますが、いざ筆をとるとなかなかまとまりません。父の裏面と申せば大げさでございますが、私は日常生活などについて少しふれてみたいと思います。

 昆虫学者の父も、家では余り虫の話はしませんでした。虫の標本なども全く家にはなく、すべて大学に置いておりました。「自分は国からお金をもらっているのだから、自分が集めた標本は全部大学のものだ。しかもこれだけの標本は世界中さがしても滅多にあるものではない」と信条と自信の程を話しておりました。

 私は小学生の頃、父と同好会の方々の昆虫採集に二、三度付いて行ったことがあります。そんな時父は既に大方の虫を集めつくしていたせいか、自分からはほとんど捕ろうとはしませんでした。しかしたまに珍しい蝶などが飛んで来ると、その瞬間だけは真剣な顔つきに変わり、あの不器用な父もそれだけはしっかりと捕虫網で捕らえ決して逃がすことはありませんでした。この時ばかりは、さすが「本職」と感心したものでした。が、私共がただ興味本位に奇麗な蝶や、姿、形のいい虫などを、沢山捕ろうとすると、「たとえ虫でも必要以上に捕ってはいけない」とよく叱られました。事実父もいったん捕らえた虫を、ポケットから取り出した虫眼鏡で一通り観察し終わるとすぐ逃がしておりました。虫が好きで昆虫学者になった父には、それなりの虫に対する愛情があったものと思われます。

 父は学術調査研究のため、当時日本の委託統治領であった南洋諸島にも三度行っております。父の叔父が南洋庁の役人として、パラオ(少し不確かですが)に駐在していたことも、これらの遠征にとって好都合だった様です。サイパン、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペなど行く先々から、こまめに絵葉書などを送ってくれました。また、帰国の都度、珍しい物や面白い土産話を持って来ました。

 その南洋から大小二匹の生きた亀をお土産に持ち帰ったことがありました。家族はもちろんのこと、この時ばかりは父もこの亀達を可愛がり、ポンちゃん(大)、ペンちゃん(小)と命名するほどでした。このポンちゃんが或る日三個の卵を産みました。亀の卵は太陽熱でかえると言うことでしたので、母と私は土や砂を入れた木箱の中に卵を入れ、屋上のベランダに暫く置いておきましたが、結局かえらずじまいでした。そのうちポンちゃんペンちゃんにも逃げられ、南洋の亀との交流も束の間の楽しみで終わってしまいました。

 この他、大トカゲの剥製や大蛇の皮なども持ち帰り、自分の書斎に飾っておりました。亀といい、これらの飾りといい、父は、爬虫類にも興味があったのでしょうが、夜など書斎のガラスにヤモリがあらわれると、楽しそうにその動きを観察しておりました。

 所がこの父にも、動物学者にあるまじきことかも知れませんが、苦手な生物がありました。犬、猫、兎、鶏、などです。特に大の犬嫌いで仔犬すら、抱くことはおろか、撫でることもできませんでした。父の親友の一人、北大の内田亨教授(当時)を札幌のお宅にお尋ねして、久かつの情を叙そうとした時のことです。内田先生ご夫妻は子供代わりにシェパード犬を三匹も飼っておられ、犬もまた家族同様に邸内をかっ歩していたそうです。玄関先から応接間に至るまで、またご夫妻の歓待を受けているさなかにも、前後左右のうちの三方を、犬に囲まれ、生きた心地もなく折角のおもてなしも、うわの空だったそうです。「やっとの思いで帰って来たよ」と何とも情けなく申しておりました。

 父はどちらかといえば、多趣味の部類に属していた人だったと思います。エスペラント語、音楽、文学(広い意味の)、写真、収集(切手、浮世絵、マッチのラベル、煙草の箱、乗物の切符、貨幣などなど)と多方面にわたっていました。

 エスペラント語は、ドイツで母と知り合う契機となったようですが、私が物心つく頃にはそれほど熱中していなかったと思います。エスペラント語は、それほど普及しそうもなかったのでしょうか、後年父母の引出しの中から、それに関する刷り物を発見して「こんな事にも興味があったのかな」と思ったりしておりました。

 音楽といえば、七高か東大時代の写真に、チェロを抱いている姿がありました。大学時代までは、同好会かなにかで、多少の演奏をしたそうですが、腕の程は確かではありません。父の母方の叔父、乙骨三郎が東京音楽学校(芸大)の教授をしていたせいでしょうか、その叔父の大塚の家で、合唱を習ったりしたそうです。その経験からか、娘の私達が女学校に上がると、それぞれパートに分け妹のるりのピアノ伴奏で合唱させられることが、時折りありました。よく歌ったのは滝簾太郎の「花」、モッツィーニの「浦のあけくれ」、シューマンの「流浪の民」などでしたが、父が独りで好んで歌った歌はシューベルトの「菩提樹」、ヴェルディのリゴレットの中の「女心の歌」や滝簾太郎の「箱根八里」などで、その他ヨーロッパの民謡のいくつかを口ずさむこともありました。風呂に入ればお定まりの寮歌でしたが、寮歌は短調で作られたものが多く、哀愁を帯びすぎ、当時の私には歓迎すべからざるものでした。

 文学では近世(江戸)文学に興味があったと思われます。また何によらず書くことが好きでした。新聞社から頼まれた記事は専門分野に関するものが多かったと思いますが、随筆調で書いたものも多く、そのスクラップブックなどを今、ひろげてみると、机に向かって書きものをしている父の姿がほうふつとしてきます。また墨で字を書くことも好きでした。

    長文のため、明日につづきます。

※上記文中の「南洋庁」とは、1922-1945まで存在した大日本帝国の南洋群島統治機関の総称。パラオのコロールに本部を置き、さまざまな支庁があった。学校や司法や気象観測などまで一糸乱れぬという表現がふさわしいくらいの整然たる秩序が、その膨大な機関名や役職名を一瞥しただけでも、見て取れる。二月にご紹介した西牟田靖著「写真で読むー僕の見た大日本帝国」は、この点がよく分かる労作である。第五章の「ミクロネシア」にドイツ支配からベルサイユ条約を経て日本の統治となったいきさつが詳しい。ほかに「関東庁」や「樺太庁」があったことを思えば、私達が想像する植民地支配という言葉からの圧政イメージはかなり薄れる気がする。むしろ日本と同列に置こうとした・・という志気のほうををより感じるからだ。それは、先月ご紹介した俳人村田治男の「北緯十度あたりを僕の故郷とす」(「句集みくろねしあ」)などの作品にも熱いほど表出されている。日本の兵士が戦地となった島をいまなお恋しがるように、かの地の人々も日本が残したもの(神社だったり教育だったりを含めたなにかの精神的な遺産)を大事に思ってくれているという事実。それをよくもわるくも忘れたらいけないと思う。参考:当ブログの2月20日付「ペリリュー神社」。小説家の中島敦について書かれた研究文のサイト(引用をお許しください。)http://www.chatran.net/dispfw.php3?_artist/_nakazima

2006年3月15日 (水)

単身赴任

 きのう、お昼ご飯を佐賀で夫と一緒に食べました。二時でした。月に一回ぐらいでしょう、昼食を一緒に食べられるのは。週に一度は行ってアイロンがけや洗濯掃除買い物などのおさんどんをするようにしていますが、たいてい忙しくてお昼は帰れずすれ違ってばかりです。でも昨日は娘の話をしました。やっと大人になってきたよねとそんなことをです。

 単身赴任となって四年目だと思いますが、このごろこの関係のよさに気が付きました。最初のころはむやみに腹が立ってました、さびしくて。けれどもほんとうに寂しいのはあちらさんなんですね。たった一人で大変だろう・・と思って訪ねていくと、のうのうと遊んでたりするしそれを隠さない人だし、どうしていいかわからなかった。加えてこれが最大の障害だったかもしれないのですが、うちの父が一度も遊んだことのない人で、母と二人で非難する側に立つのです。勿論むすめかわいさのあまりではありましょうが。いまでも夫とチチはろくに口もききません。酒を呑めない夫ですし、だからこそ遊びたいわけでしょう。・・と、こんな風にゆたっと余裕で言える様になったのは、白状しますと、つい最近のことです。夫をマザコンと思っていたけど、じつは自分のほうが親離れできていないのでした。

 「国家の品格」を書いた数学者の先生が、いまのわかものは語彙が圧倒的に少ないから、恋をするにしてもケダモノなみの関係しか築けない、と書かれていました。(「致知」四月号)

国語力がなくなった国は滅びるしかない。私は俳句をしていて、それをいつも感じます。平明な言葉で深い句を。俳句の先生方がよく言われる教条です。でも、これが落とし穴でもあるわけです。似たような句ばかり氾濫させて、なにが楽しいのでしょう。いやしくも俳人ならば、ペダンティックと言われることを恐れず、手垢のついていない言葉を使ってみたいものです。そんなまだ誰も使ってないきらきらした新鮮なことばを発掘できたら、そしてそれを生かせたら、死んでもいいぐらいの気概を持って、どうせならやりたいなあと思っています。(思ってはいますが実行はチョーむずかしいんですよねえ、やっぱり。いつも墜落です。)だから、せめて歴史的仮名遣いくらいはちゃんとマスターしたいと思ってます。(何度も失敗してだんだんと身に着いていくものですね、あれは。)

  

  

太郎乙の第一子・牧子 2

 江崎牧子とその子供たち・父の思い出」(鈴木はる)よりの引用、後半です。

 次男孝夫のことについては、牧子は「私の遣っている子供養育の実験」と題して、婦人界に寄稿した随筆の中で、「次男の文学趣味について」一項を書き、「化学も理学も深く頭脳に入れ、社会の事物について迂遠でない文学者にならなければならぬ。それだから、今のうち普通学を熱心に修めることが肝要と言い聞かせて居ります。」と書いています。この文学好きの孝夫は開成中学から三高、そして東大に進みましたが、特に芝居が好きで、何時も家の者を相手に芝居の真似事をやり、新聞紙をまるめて作った大小の太刀を腰に差し何やら科白らしい言葉を発しては、妹達(牧子の死後、政忠と後妻との間に生まれた子供)に竹光ならぬ紙光を抜いて斬りかかり、その斬られ方にも何かと注文をつけたりしたそうです。写真を見ても、兄弟の中で一番美男子に見えます。本人も役者になりたかったのでしょうか、私の主人のある友人の父君が七高で私の父悌三と同期だったそうですが、その方が、ご子息(主人の友人)を介して主人に話して下さったところによると、孝夫は東大時代に廊下を六方を踏んで渡り歩いたそうです。古山の綾夫さんのお話では、孝夫は卒業後も演劇の研究にとりつかれ、仲間達で劇団らしきものを作っていたようです。小山内薫とも懇意だったそうですが、孝夫の没した大正十三年(七月、二十七才で死亡)六月に築地小劇場が旗揚げをしています。その旗揚げに何らかの形で孝夫も参画してしたのか、或はそうしようとして身体の具合で果たせなかったのか、はたまた、命をながらえていれば、斯界に名を残したのではないかと、あれこれ想像は尽きません。お尋ねしたい方は大概物故されておられますし、寂しい限りです。

 さて五男の信五ですが、私が生まれてからも生存していたのは、父の兄弟の中ではこの叔父だけでした。私の父は府立四中から大阪の北野中学校に転校しましたので、多分この叔父も父と同様、北野中学を卒業したのではないかと推理しております。(そのうち誰かに確かめたいと思います。)

  此の文を綴っている合間に古い写真を出して居ました所、信五叔父の中学時代の写真が出て来ました。「大正七年静岡中学一年生」と書いてありますが、祖父の履歴書によると、静岡在住の記録はありません。何故信五叔父が単身静岡に住んでいたのか判りません。

 其後三高から東大に入り、卒業後は確か大阪瓦斯に就職したと聞いております。私達は父母に連れられて、九州から大阪の祖父の家によく遊びに行きました。そんな時には、神戸に住んでいた信五叔父が大阪まで訪ねて来てくれました。

 祖父は先立たれた妻牧子との間に生まれた末息子の信五叔父を大変可愛がっていたらしく、叔父の結婚の時には、日頃の恩顧に報いるため、大阪財界人を多数招待して、とても盛大な披露宴を張ったとのことです。この叔父には、博子、栄一、の年子の子供がありますが、叔父は栄一が生まれて一年ほどして、妻子を残してこの世を去ってしましました。(昭和十五年)まだ生まれて間もない栄一を抱いては、「この子は頭がいいぞ」と、よく自慢していたそうです。現在、博子は神戸に、栄一は高松に在住しています。

 最後に三男悌三(私の父)の事ですが、父は東京牛込の払方町に生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。小学校六年の五月に母牧子が亡くなりましたが、牛込の愛日小学校を卒業していますので、母の没後も大阪に行かず、暫く牛込の家に住んでいたものと思われます。また、大阪の北野中学校を卒業していますが、その前に東京の府立四中に入って、その後北野中に転校したとも聞いています。これも、誰方かに確かめなければと思っております。

 愛日小学校を卒業する際、優等生として、牛込教育会から戴いた硯箱を父は亡くなるまで愛用していました。蓋の裏には「賞 牛込区教育会」と記入してあり、硯そのものには、側面に「明治三十九年愛日小学校入学記念に購入したものである」と彫ってあります。その後、他に戴いたもっと高級な硯箱や硯も沢山ありましたが、それらは全く使っていませんでした。愛日小学校は今なお現存しており、昭和五十五年に百周年を迎えました。先日、小室恒夫さん、永井菊枝さんとご一緒に愛日小学校に行って見ますと、百周年記念の碑が校庭の一隅に建てられていました。父の幼い頃を偲び感無量でした。父はやがて牛込を去り、祖父の仕事の関係で、大阪に移り住み、北野中学を卒業して、七高(鹿児島)に入学しました。当時七高には父の又従兄に当たる、吹田順助助教授がドイツ語を教えていらっしゃいました。

   ※付随して、同著者による江崎悌三著作集の月報掲載「父の思い出」という文章がございますが、昆虫学者で九州大学教授だった人の私的なエピソードが綴られていて面白く明日また引用させていただきます。(なんだか日本近代の教育者探訪みたいになってきました。今まで色々と打ち込んできて、打ち重なる名前に出会うことがあります。するとすぐに、あ、この人は以前登場したっけ・・と貧相な私のあたまのメモリー装置が反応するんですが、その人が近代史に名を残しておられる偉大な人であるというのが判るゆえに滅多なことは書けません。時間をかけて調べなきゃ書けない。たとえば、木村熊二という人が「無冠の男」で田口卯吉少年の姉・鐙子toukoの夫として登場しています。卯吉がまだ12,3歳のころ、通りでものを売ってたのにちょうど熊二が出くわして、不憫に思う場面を忘れていませんよね。その熊二は妻の鐙子とともに「明治女学校」を起こした、やはり素晴しい教育者でした。しかもアメリカ帰りの牧師であります。ミッションとしてそれをやっている。あぶみこという印象的な名を冠された田口鐙子は若死だったようですが、この人の生涯をたどるだけでも分厚い一冊の本が出来るでしょう。もしかしたらあるのかもしれません。自分の無知を段々さらけ出す羽目になります。(笑)それにしても思いますのは、意外とクリスチャンが多いなあということです。西洋の真髄にふれるためにそうなったのか、根っから信仰してそうなったかはわからないところですが・・多分両方でしょうか。

2006年3月14日 (火)

太郎乙の第一子・牧子

乙骨一族の交友誌「円交」五号より、太郎乙・継夫妻の第一子・長女のまき(牧子)について綴られた、孫娘鈴木はる氏の文章を引用いたします。おつきあいください。日本近代の教育がどんなもので、有形無形の精神がどのように今に引き継がれたか、など、勉強になります。つくづく、乙骨一族は腹の据わった教育者の一族であるなあと感心させられます。

  「江崎牧子とその子供たち・父の思い出」 

              鈴木 はる

 私の祖母江崎牧子(乙骨太郎乙の長女)は父の話によりますと、当時大変な才媛で特に文章家、閨秀歌人として地歩を築いており、色々な女学雑誌によく投稿していました。また、幼い頃、既に父太郎乙から英語の手ほどきを受け、語学力にもすぐれていました。

 当時の名家の婦女子が入門していたと言われる、閨秀歌人中島歌子の歌塾「萩の舎」にも通い、後に名を残した三宅花圃(田辺龍子)と共に先輩格として、後に入門して来た樋口一葉ともお付き合いがありました。一葉日記の所々に牧子が登場しております。

 明治四十二年の宮中歌会始めに牧子の歌が入選しました。その年の御題は「雪中松」で入選作は 

   君が代の幾千代こめて積もるらん

      小松が原の今朝の白雪

 と詠まれたものです。牧子の夫、江崎政忠は、その頃宮内庁の役人をして居り、それが他の選者たちの投票結果が良く、見事入選したので大変驚いたり喜んだりしたそうです。入選すると全国の方々から自筆の色紙や短冊を所望され、幾日もかけて書いていた情景を父悌三はよく覚えていると言っておりました。父の従兄妹の与田千代子さん(故人。牧子の夫江崎政忠の弟の娘で、志賀直哉の弟子になったり、円地文子等とも親交があり、自らも小説の投稿をし主婦でありながら白樺派の歌人でもありました)は、「牧子女史は家庭に入るよりは文学などで身を立てて、もっと長生きしてほしかったわ」と、よく私に言っておりました。併しそのような周囲の見方にも拘らず、牧子自身が随筆の中で語る所によれば、子供の教育には大変熱心で、たとえ夫であろうと一切口出しをして貰わない方針を堅持していたようです。従ってそれなりの教育論、方式もあったようで、五人の息子達にはそれぞれに適したユニークな指導を施しておりました。

 後年政忠が(明治四十三年)大阪に転勤した際も、彼女は子供達の教育のために東京に残りました。今でいう単身赴任の走りです。また、政忠・牧子夫妻には結果的には男の子しか授からず(女の子二人は生後間もなく死亡)牧子自身はこのことを非常に残念に思っていた節があります。そのため、義妹(夫政忠の末妹)や他家のお嬢さん二人を預かり養育しておりました。その義妹(私たちは山中のおばさんと呼んでいました)が後年私たちに語ったところでは、牧子は髪結いが好きで、その腕も中々のものであったらしく、よく義妹や預かっている他家のお嬢さんの髪を結っていたとの事です。

 さてこの彼女の子供達のことですが、先程も申したように、女の子、信子、義子は生後間もなく亡くなり、その後、恵一、孝夫、悌三、智夫、信五の五人の男の子が生まれましたが、四男の智夫は二、三才で早世、結局四人の男の子と義妹と他家のお嬢さん二人の計七人を育てたわけです。長男の場合は、夫政忠の幼名恵二郎(しげじろう)の一字を取り恵一と命名しましたが、次男以降は、南総里見八犬伝に登場する八犬士の名、仁、義、礼、智、信、孝、悌、のうちから順不同で採り上げ、それに誕生順が奇数の子には数字(一、三、五)を付け、それが偶数の子には「夫」を付け、それぞれ命名したのだと、先述の山中のおばさんに聞かされたことがありました。

 次にその四人の子供達(私どもの伯叔父たち)のことについて少し触れてみたいと思います。

 長男恵一について、牧子はどこまでも理屈を明らかにしなければ気がすまない性質だと書いております。この点少し符合するかもしれませんが、父悌三の話から察すると、機械的なことに興味を持っていたようです。長い廊下伝いに針金を引き、玄関の呼鈴が遠い居間でも聞ける装置を作ったり、自分の抽斗に今で言う警報ベルを仕掛けたり、色々なことに何かと工夫を凝らすのが好きだったようです。写真撮影も得意で、今でも彼の作品が残っておりますが、よく専門の写真館で出すような、花模様の型押しのある台紙に貼り付け、奥付けとして裏には「江崎恵一謹写」とゴム印か印刷かで記入したりして、仲々玄人はだしの凝ったものです。手許にある一枚の写真には、牧子と矢田部良吉博士の未亡人が一緒に写っており、明治四十三年と記されてあり、画像も今なおしっかりしております。明治四十三年といえば、恵一十六才の時です。

 これも父から聞いた事ですが、恵一にはまた、とても茶目っ気な所がありました。例えば、母親から水飴をお箸ひと巻きだけ食べてもよろしいと言われると、それならばと、殆ど瓶がからになるまで器用に大きな一巻きを作って母親を困らせたりしました。また、当時、到来物の鮭の缶詰を食事のおかずの足りない時によく食べさせられたそうです。蟹の缶詰もありましたが、こちらは当時も貴重品で、余程の事がない限り食べさせて貰えませんでした。そこで恵一は一計を案じて、母親の知らぬ間に棚の上にある鮭缶と蟹缶のレッテルを貼り替え、最も取り易い所に鮭缶(実は蟹缶)を置いたりしました。さる、おかずの足りない食事時にいよいよその贋の鮭缶が登場、子供達が固唾をのんで見守る中で、母親の手で開けられた鮭缶から蟹が出てきた時には、歓声をあげて大喜びしたそうです。この恵一は生来身体が弱く、大正二年、母牧子が亡くなった翌年十八才で世を去りました

     ( 長文です。すみませんが、あしたにつづきます。 ) 

 ※参考サイト:http://www2u.biglobe.ne.jp/~horizon/dream1.htm

2006年3月12日 (日)

ひみつ基地

ひみつ基地

ひみつ基地

ひみつ基地

家の裏風景。右手前ハゼの木がある場所に子ども時代は竹藪があり、川も野生種の川だった。竹の暗がりのなかに基地を作って遊びました。今はどこも明るくて隠れる場所はありません。写真では見えませんがハゼは川向こう。川っていうより溝かも。柿の木には二羽のカササギがいます。わかりますか?

2006年3月11日 (土)

山本健吉の戦記

去年六月末、戦時中、松江に疎開していた石橋秀野・山本健吉の未見資料を山陰中央新報社のご好意で送っていただきながら、八月中旬「乙骨太郎乙」との突発的な出会いが挟まり、そっちの追っかけにのめりこんでしまった。自分でもわけがわからないときにはものを考えないで自然な流れにのるに限る。そして、ここへきて漠然と見えてきたことは、大きな全体の中の小さなピースを自分でもよく分らぬままかき集めている、集めさせられているようだ・・ということである。依然として誰にかは分らないのだが。さいわいにも夫は単身赴任であり、それなりに自由がきく現在の家庭環境に感謝して、そのままに取り置いていたものを、今ここで蔵出ししようと決めた。そのためにこの記事はあったようだ。例によって、わたしはただ引用するだけです。引用元は「湖都松江」9号、2005年3月発行。

 コラム 戦中・戦後の松江③(無記名記事)

   山本健吉の空襲体験記

 本格的空襲とはほとんど無縁だった松江地方だが、昭和二十年七月末から執拗にグラマン機の編隊が山陰の上空もうかがった。あとで分かったことだが、玉湯町湯町の宍道湖岸で海軍航空隊の飛行機基地の建設が進められていたためらしかった。

 最も大きな被害が出たのは七月二十八日の玉湯町空襲だ。同町湯町ではロケット弾の直撃を受けて二十四人が死亡、三十余人が重軽傷。また玉造に疎開していた山本健吉が乗っていた列車も機銃掃射で十四人が死亡、十四人が重軽傷を負った。当時の新聞によると、この日やってきた米軍機は延べ二百六十機にも上った。玉湯町での空襲被害が、先の大戦での島根県内で最大のものとなった。玉湯町では当時、一般は知らなかったが、湯町の宍道湖岸(元旅館八勝園付近)に海軍航空隊基地が建設中で、これを狙った攻撃だった。湖岸のロケット弾直撃による死傷者は海軍軍人がほとんど。また列車を機銃掃射したのは一般への威嚇の意味もあったようだ。

 二日後の七月三十日付島根新聞には石橋貞吉(山本の本名)の署名入りで『空襲体験記』が二面の四分の一を割いて載っている。空襲体験記などは、普通なら「国民の恐怖心をあおる恐れがある」として、新聞に載るようなことはなかったが、『立派に物をいったぞ日頃の訓練 心得たい待避の時期と場所』という「見出し」が、厳しい検閲の目をパスするキーワードになったらしい。

 (以下、健吉の書いた記事から引用。現代文表記に改めてある。姫野注)

 『○○駅発上り○○列車は約一時間遅れて発車。発車間際に空襲警報があったが、構わずすべり出した。○○にさしかかるあたりの山峡で停車する。「しばらく停車します」と車掌がふれ回る。(中略)「敵機が見える」と乗客の声。車掌がガラス窓を明け、よろい戸を降ろすよう注意する。一人の男が「敵機が引き返してくる」という。目標を発見したに違いない。この列車じゃないかとフト思った。誰いうともなく座席の下に隠れろという。思い思いに座席を外して下に潜り込んだ。相当な人数なので辛うじて低い姿勢を取っているに過ぎない。私は窓側の紳士と二人で座席を頭の上に支えた。爆音が近づく。息詰まる瞬間、ダダダッ・・・と機銃の音、頭のそばでパッと火花が散る。本能的に身をかわしたが、そのとき眼鏡が吹っ飛んだのと、掌に傷を受けたことを意識する。見ると一緒に座っていた紳士が顔を紅に染めて倒れている。車内にいては危ないと、皆争って乗車口や窓から飛び降りた。私も飛び降り、線路脇の萱山(かややま)の急斜面をよじ登って叢(くさむら)に身をひそめた。(中略)爆音が去り、しばらくして私は再び車内に入った。足元に血のついた眼鏡が飛んでいた。一尺と離れていないところで銃弾が炸裂しながら、つつがなかったわが身を思い、一場の悪夢を見たような気持ちがしばらく続いた・・・(後略)』

 この後に空襲を受けたときの注意が細々続いている。(○○は原文のまま)。

 山本は、疎開するまで東京で月刊の総合雑誌『改造』の敏腕記者だったが、まだ無名で島根新聞では本名の石橋で勤務していた。

※以上がコラム全文です。付け加えますと、健吉と秀野がこの時期参加していた地元の俳句文芸誌「雲」には、石橋貞吉ではなく筆名の山本健吉を名乗っているのが目につきます。この文は松江の一部の人々の目にしか触れないものと思われます。それを惜しみ、勝手ながらここに引用いたしました。記事を書かれた記者の方と、記事を送ってくださった山陰新報社(元島根新聞)の岡部康幸記者に深く感謝いたします。

2006年3月10日 (金)

軽トラで行こう

きょうは庭の紅梅、白梅、沈丁花がとてもつよく香る日です。

でもヒヨドリが来ないし、うぐいすもさっぱり来ません。なぜでしょうか?

去年は台風がたいしたことなかったので(八女は目の中に入ってたかんじです)、柿の実がたくさん、いつまでも木にくっついてました。鳥たちも食傷気味なのは見てわかりました。それでかな?たべるものがたくさんあるのでしょうか。

久留米の俳人・中村マサコさんと電話でおはなしをしました。そうしたら、やはり鳥が今年は来ないことを気にしておられました。マサコさんの記憶ですと、十年前くらいに一度こんなふうに鳥が来ないことがあったそうです。いつもいる鳥は、かささぎやカラス、雀、それに鶫(つぐみ、これはもうじき帰るのか)、ハト、あとはほぼ全ての種類のサギです。ことに我が家の裏には川が流れていますから、サギの観察には事欠きません。

青サギは英語で、グレイ・ヘロンというのですよね。見たまんまの名づけです。だってこぎたない灰色のおおきな鳥なんですから。それがなぜ品のいい「青鷺」なんて名を昔の人は与えたのか。それは、じっと観察しているとわかります。ある昼下がり、休耕田に草が生えぬよう水が張ってあるところに、たくさんの白鷺がきていました。(夏です。)そこへ舞い降りた一羽の青鷺。他の白い鷺は小さくて数も多かったので、よけいにそう思えたのかもしれませんが、色はさえないのにあおさぎの雰囲気は他を圧していた。優雅ですらあった。しかも、真ん中にいた。(笑)おお、きれいじゃないか!と、素直に感動しました。

青鷺は鳥の本質を捉えたとても綺麗で繊細な名づけだったとおもいます。

雨が降って、未舗装の道に水溜りができるころ、軽トラにのって結構なスピードでそこを走るのは、一度やってみるべき楽しい怖い経験だと思います。あなたのたいくつな人生が、薔薇色に変わる事まちがいありません。あと、山の斜面や稲刈り後のたんぼの切り株だらけの中をぐいんぐいん走るってのも、いかがでしょうか。一度、おすすめです。

東京、昭和二十年

    空襲にあけくれた東京 (後編)

             乙骨 清一郎

 しばらくして、野谷先生が「無事だったか。よかった、よかった」と声を掛けてくださいました。先生も患者を探して歩かれたようでした。私も、もう大丈夫、助かったとの実感が湧いてきました。

 窓から見える神田、日本橋方面の空は真っ赤です。病院のすぐ下の野々宮写真館の大きなビルは、赤い炎を出してそれからも、半日位燃え続けていました。

 九段坂病院も全く機能しないので、翌日、目白の自宅に帰り、近所の外科医で治療を受けることになりましたが、無理がたたって手術後の回復ははかばかしくありません。

 五月二十四日、目白の自宅も空襲で焼けてしまいました。仕方なく、吉祥寺にある、父(太郎乙の五男・乙骨五郎)の勤務先(成蹊高校)の寮に住むことになりました。

 こちらはすぐ近くに、中島飛行機武蔵野製作所があり、昭和十九年十一月二十四日、二十七日、十二月三日、二十七日と爆撃され、焼夷弾ではなく、爆撃によるものでしたが、命中率が悪く、却って周辺地区に被害があり、近所にも焼夷弾による穴が数箇所あり、不気味な地域でした。

 この頃になると、のべつ頭上に敵機がいる様なもので、米軍機のキーンという金属製の爆音が聞こえると、道を歩いてもすぐ、近くにある防空壕に逃げ込むような毎日でした。

 こんなことで、盲腸の傷口は一向に治らず、六月に赤紙(軍隊の召集令状)が来て、千葉の佐倉に入隊した時も「三ヶ月で治してこい」と即日帰郷でした。

 佐倉の隊で帰りの汽車の切符の証明書(汽車の切符を買うのは至難の時代でした。併し、軍隊の公用証明書があれば優先購入が出来ました)を買いに、隊の事務所に行ったところ、私の乙骨の名前を見て、この間までここに居た乙骨昭三(大石昭三。筆者には伯父です。姫野注)さんのお前は親戚かという事で、当時貴重なおにぎりの弁当を支給して貰って、大喜びで汽車に乗り帰ったのを覚えています。

 その後、姉(小山由紀子)夫婦のいる滋賀県の大津に行きました。大津日赤病院で傷の治療をして貰うためです。そこは陸軍病院にも指定されていて、治療室には、足や手を切断した傷病兵が大勢、ガーゼの取り替えをしていました。太ももの切断面から湯気がたちのぼったりしていて、目を覆いたくなる大へんな病院でした。

 七月になって小山の義兄が山口に転勤になり、私は東京の父の許に戻り、今度は母と中学生の弟(乙骨 剛)が山口の姉夫婦の家に疎開。一家離散です。

 間もなく、八月十五日終戦を迎え、空襲はなくなりました。が、私の盲腸炎の傷の治療はそれからも一年位続きました。

 私は山の手に住んで居ましたので、空襲により死んだ親戚、知人も少なく、爆弾や焼夷弾などは滅多に直撃するものではないと思っていました。その頃空襲による死傷者数は全く発表されなかったせいだったかもしれません。

 戦後十年位たって、三月十日の東京大空襲だけで死者十万人と聞かされて、鳥肌の立つ思いでした。煙や火事による被害者が多かったのでした。

 戦後五十年、日本は平和を謳歌しています。世界は民族問題、宗教問題、等々で各地に戦争が多発しています。これからの日本も平和を守り、自由を守るためには、積極的に努力をしなければならない時代になるように思えてなりません。

 戦争悲劇の体験者の一人として、二世、三世、四世の方々が、戦争を知らないで一生を終わることを念じています。

            (平成四年十月十八日)

※ 系図によれば筆者の乙骨清一郎氏はキリンビール取締役とあります。

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2006年3月 9日 (木)

青き踏む

 ゆらゆらとゆれるえにしや青き踏む   恭子

相良観音へ参拝した月曜から、急展開でことがすすむ。

娘は仕事より恋をえらんだ。たぶん、そうするだろうとは思っていたが・・

一昨年、弟の年とかわらない年下の学生と付き合い始めたときには、ここまで続くとは思ってなかった。相手の男の子の母親が、「あなたのほうが年上なんだから、別れてあげて」などと娘に頼まなければ、あの子はさっさと振って別れていたと思う。ところが、事情を聞けば複雑なのだった。彼の両親は離婚しており、母は再婚して赤ちゃんが出来たばかりだった。わたしはその話を娘から聞いて、とても身勝手なその子の母親に腹がたった。あなたがそうだから息子は淋しくてうちの娘に保護されてるんでしょう。むしろありがとうっていうべきじゃないの・・と。

でもでも、もし、自分が逆の立場であれば、やはりその母親のように「うちの息子と別れて」と取り乱すのかもしれない。それは、わからない。

就職したばかりなのに県外へ移動がきまった男に、自分の仕事を辞めてまでついていくという娘。・・意外な事に、わが娘ながら偉いと思えてきた。恋のためにそこまでできるなんてすばらしい。

がんばれ!おかあさんは応援するからね。

東京、昭和二十年

   「空襲にあけくれた東京」(昭和二〇年) 前編

           乙骨 清一郎 (平成四年記す)

 十一月十四日の夜、永井菊枝さんから久しぶりにお電話がありました。円交会一世有志の方々が、若かりし頃の思い出等を書いて文集にしたいとの事。明治、大正、昭和にわたる面白いものになりそうだが、終戦間近の空襲下の東京の様子がないので、私の体験でよいから何か書いて欲しいとのことでした。私は一世の中では最年少ですが、それでもこの十月で六十六歳になりました。身体のあちこちに故障は出るし、記憶力はガタ落ち。もっとも年寄りは昔のことは、はっきり覚えていると言われています。しかし私の場合、四十~五十年前の空襲時の事はおぼろげです。従って思い違いもあると思いますので、多少の間違い等はお許し頂きたいと思います。

 それでもあまりでたらめでは申し訳ないので、当時の空襲の実態について、武蔵野市図書館で調べてみました。

  昭和十六年十二月 八日  太平洋戦争の開戦。

  〃 十七年四月十八日  空母ホーネット発の

  中型爆撃機B25、十六機による初空襲(東京・

    名古屋・神戸)を受ける。  

    (約二年間、空襲なし)

 〃 十九年六月十六日 中国の成都発の大型爆

撃機B29(米空軍)四十七機が北九州を空襲(B29

は四発で超空の要塞と呼ばれ、一万メートルの超高

度を飛び、日本の高射砲では届かないと言われてい

た。併し、超高度からの軍需施設への爆撃は余り目

標に命中せず、空襲のやり方の再検討に入った模様

で、昭和十九年十一月頃から毎日のようにB29一、二

機による空襲(偵察飛行)が三月まで続いた)

〃二十年三月十日 東京をはじめとする大都会を目標

、低高度からの焼夷弾による無差別爆撃が始まっ

 た。もうこの頃、制空権は完全に米軍にあった。

 即ち、三月十日未明の爆撃はB29三百機により二時間半に及び、東京は下町を中心に焼夷弾の無差別爆撃を受けました。

 死者十万人、負傷者四万人、被災者百一万人、焼失家屋二十七万戸という大被害でした。この死者の数は、広島の原爆禍に次ぐものでした。

 これを契機に、学童や、母子の地方への緊急疎開が相次ぎました。

 乙骨半二一家は、長野県富士見町の貸別荘に移りました。私ども一家の年寄り(母方原の祖父母)は、その富士見町の隣村で乙骨家出身の地、本郷村字乙事の農家、五味徳蔵さんの家の一室を借りて疎開しました。

 そこは八ヶ岳の麓、富士見高原と呼ばれる標高千メートル位の台地で冬の寒さは厳しく零下十度を超えることも珍しくありませんでした。その分、春夏秋はまことに気持のよい所で、高原野菜の産地でした。疎開した年寄り達は、農家の方々から食糧を分けて貰って、空襲の無い平和な生活を送ることが出来ました。因みに現在は、隣地の清里高原と共に、東京に最も近い高原リゾート地として注目を集めています。

 さて、問題の空襲の方は、四月、五月には山の手地区に及び、東京は焼け野原になりました。三月十日から八月十五日の終戦の日までに、東京、横浜では三十五回の空襲を受けています。日本全国の都市が空襲を受けた延回数は四百回を超えるようです。

 空襲によって非戦闘員の受けた被害は死者三十八万人、これに沖縄戦による県民九万四千人原爆後遺症で亡くなられた十万人(推定)を含めると、六十万人近い方々が銃後で死亡された事になります。また焼失家屋は二百四十万戸と言われています。数の多さに改めて万感の思いがします。

 前置が長くなりましたが、私と空襲の関わりは、三月十日の大空襲から始まります。私は成城高校の学生で、学校は授業よりも勤労動員優先の時代でした。

 三月の初旬、強度の腹痛があり、急性盲腸炎と診断され、すぐ手術を受けるようにとの事。ところが、その日は近年稀な大雪で、交通機関はすべてストップしていました。その上、その頃は、手術用の麻酔薬も不足して、一部の金持ちの間では、麻酔薬があるうちにと、健康な盲腸を手術することが、流行っていたそうです。

 父も困った末に、乙骨八重子さんのご親戚で父も存じあげていた外科医の野谷先生にお願いして、牛込の野谷外科病院に入院することになりました。

 所が大雪で交通麻痺。出入りの植木屋さんを拝みたおして、リヤカーの上に板を置き即席ベッドを造って貰いました。私はその上でウンウンうなっていましたが、それ以上に、植木屋さんと父は、滑る坂道に悪戦苦闘して病院まで運んでくれました。

 すぐ手術して頂きましたが、腹膜炎を起こしていて手遅れなので、生命は保証出来ないとの事だったそうです。

 それから数日後、三月十日の大空襲です。私ども入院患者は空襲警報と同時に、庭の防空壕に避難していましたが、焼夷弾で病院が火の海になってしまいました。ここは危なくなったので、九段坂病院に何とか逃げる様にと、野谷先生から指令が出ました。付き添いの小母さんの肩を借りて、寝間着にスリッパの格好で、牛込から靖国神社の側にある九段坂病院(ここも野谷先生が院長をされていた)に向かった訳です。

 一面に火の手が上がり、電車道の両側の家屋は焼け落ちて、電線が垂れ下がり、火の粉が舞っていました。恐怖心よりも、何とか九段坂病院への一心で、広い道の火勢の弱そうな所を探しながら、夢中で歩きました。付き添いの小母さんも私を捨てないで、必死に助けてくれました。

 どれくらい時間が掛かったか判りませんが、やっと九段坂病院にたどり着きました。

 ところが、この病院も、三階が焼けてまだくすぶっていました。水も電気も出ない有様でした。それでもやっと二階のベッドに寝る事ができました。しかし、三階がまだくすぶっている建物の二階というものは、あまり気分の良いものではありません。(後半につづきます。) 

※参考:http://blog.goo.ne.jp/skmn_2005/e/28c6e481ae10961febcee2d497e97432  

http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/tokyo.html         

2006年3月 8日 (水)

生死について

昨日三分の二近く入力したところで突然とんでしまった文章です。拒まれた気がしてもう打つのは止そうかと思いましたが、気を取り直してもう一度やります。戦記は三編とも入力します。なお、筆者小室恒夫氏は乙骨太郎乙の三女・ひさの次男で外交官です。

  「生死について」 

             小室 恒夫

 第二次世界大戦さ中の昭和十八年頃、在独大使館に勤務していた私は、当時日独間のただ一つの直接交通手段であった潜水艦に乗って帰国することを志望しました。当時、この種の潜水艦の沈没率はすでに四十パーセントを超えていたので、「文官がそんな危険を冒さなくても」と、当時の大島大使(陸軍中将、駐独陸軍武官当時から三国同盟論者で、ヒットラーとも親交があった)は渋っておられましたが、強いてお願いして許可をいただき、搭乗する艦も内定しました。(仮に六番艦とします。)送別の席で大使は「跋浪蒼冥開」を、大使に次ぐ松島公使(昭和十四年、貿易省設置に反対して外務省通商局長の辞表を提出、貿易省を廃案に追込んだ立役者。終戦後、吉田茂兼摂外相当時の外務次官)は「奮翼高飛」という句を、またその他先輩、友人もそれぞれ署名して下さった日章旗はまだ手元にあります。敬愛する先輩、牛場信彦さん、家族ぐるみでお付き合いを願っている友人、中川忍一さん、惜しくも最近物故された菊地庄次郎さんなどの署名もあります。しかし何分四十余年前の署名者の半ばはすでにこの世の人ではありません。

 その直後、懇意にしていた海軍主計中佐がGという陸軍大佐と一緒に私を訪ねて来られ、Gさんの七番艦の席と私の六番艦の席を交換してくれないかという懇請がありました。Gさんは年は私より一回り以上上で、肥満体でもあったので、二ヶ月前後の苦しい潜水旅行に際して、たまたま六番艦に搭乗予定の医師(陸軍軍医中佐)との同行を希望されたのでした。当時二十代で痩せっぽちだった私にとっては六番艦も七番艦も同じことと、一言で座席交換に同意いたしました。

 やがて私は、当時、枢軸側の潜水艦基地だった南仏のボルドー(ガロンヌ川河口に近い大都会)に赴き、ドイツ海軍管理下シャポン・ファン(肥えたにわとりという意味)というホテルに入りました。暫くしてドイツ海軍の責任者から「六番艦が出航直後、ビスケー湾で米英空軍の爆撃を受けて沈没したので、七番艦の出航は装備改善のため暫く延期することになった」という極秘の連絡を受けました。その後私のフランス滞在は三ヶ月に及び、その大半はパリで待ちの日々を過ごしました。ボルドーのホテルに居ると、ホテル代、食事代、また土地柄豊富にある色々なお酒もすべて無料、個人的な用事をしてくれる従兵までつけてくれるという厚遇だったのですが、軍事機密上の理由で昼間の外出を認められませんでしたから、自由に羽を伸ばすことのできたパリに滞在し、時々連絡を受けてボルドーに戻るというふうでした。

 ところが、滞在三ヶ月で七番艦は(ドイツ海軍の責任者は「ヒットラー総統の命令により」という言葉を使いました)出航無期延期になり、私は空しくベルリンに戻ったのです。ちょうど米英空軍の絨毯爆撃の直後で一種のパニック状態に陥ったベルリンでは、ゲッペルス宣伝相兼ベルリン市長が一般市民の疎開を呼びかけていました。以後、私の大使館勤務は激しい連日の空襲下で行われ、空襲被害のため住いも五回にわたって転々とする始末でした。ある時は隣家の地下室で死者が何人か出たこともありました。結局のところ、ドイツの敗戦直後の昭和二十年五月五日、ベルリンを発ってソ連の対日参戦以前のシベリア経由で帰国したのでした。

 生死のことは、死にたいと願っても死にきれぬこともあり、紙一重の差で運命が変わることもあります。まことに天命というほかはありません。

 

2006年3月 7日 (火)

乾杯

 黒い土から乾杯が盛り上がる    

             札幌市  中村 迷々亭(「点鐘」115号)

 一つ年下の従妹が葬祭の司会業をしていて、ときに「こういうときにはどういうふうにいえばいいかな」と事もあろうに私に聞いてくる。先日も、「まだ若い四十代の男性が亡くなったんだけど、地位のある人で、弔問客も多いし、どうしよう。癌だったそうで、葬儀には長渕剛の’乾杯’を流してほしいと遺族に頼まれているけど。ああどうしよう。うちのお父さんもおなじくらいで死んだから泣きそう。言葉が出なかったらどうしよう」という。

 あまり言葉を飾らず、そのまんまを紹介すればいいんじゃない。心をこめて言えば、ちゃんと思いは通じるよ、だいじょうぶだよと、たいした励ましにもならないことを言って電話を切った。そのときに教えてもらったのだが、長渕剛の「乾杯」という曲は人が亡くなったときの歌だという。てっきり結婚式の歌と思っていた。

 東京のどっかの駅のホームに咲いてた諸葛菜の碧い花を春は思い出す。土が黒かったことと共に。そしてすぐに東大弥生門前の立原道造記念館でみた、詩にはなりそこねた言葉の断片「ぼくにはカラスがいるんです」 っていうフレーズも一緒に出てくる。あのようなことばは、今わの際にいる人にしか吐けないものだから、ものすごく印象にのこる。 

 黒い土から乾杯が盛り上がる。死と再生が同時に噴出するような不思議な書きかただと思う。立派です。川柳なんだけど、一凝視、一行詩です。札幌の人だから書けた。雪解けが始まっています。

 同じ作者の他の作品に、

  暇なので空と一緒に流される

 大滝詠一の「スピーチ・バルーン」その他いろいろ目の前を流れていきます。

血のつながりということ

(乙骨太郎乙のえにしに連なる人たちの交流誌『円交』五号より) 

   「血のつながりということ」  

                 乙骨 明夫

 いまから二十七年前、私は大学の卒業論文「日本象徴詩の研究」を書くにあたって、蒲原有明と上田敏についてかなり勉強した。とくに上田敏については、安田保雄氏が「上田敏研究文献稿」(昭和二四・一一)という謄写ずりの二十六ページのプリントを出しておられたのを二部ゆずっていただき、上野図書館にアルバイト勤務していた立場を活用して、その研究文献を片っぱしから読んで勉強していった。安田氏のあげられた文献はあまりにも数多く、すべてに目をとおすことは不可能であったが、できるだけ多く読むことにつとめた。

 それらを読みながら私が第一に感じたことは、敏には私と似ているところがある(ほんとうは逆で私には敏と似ているところがある)ということであった。上田敏と私とは五等親の間柄にあるが(筆者は敏の甥です。姫野注)、ディレッタントの血が私の曽祖父の乙骨耐軒からわかれて、敏にも私にも流れているのかしら、等と思ったものである。私にその思いをもっとも多く起こさせた文献は、島崎藤村の、「昨日、一昨日」(「飯倉だより」所収)であった。藤村は「文学界」時代を回顧して、自分と敏との相違に触れ、「上田君は純然たるエキゾオチシズムの立場から学芸の鑑賞を楽しもうといふのであつて」と書いている。つまり、上田敏はディレッタントだったというのである。

 泥酔して溝におっこち、江戸中の溝の深さを知っていたと伝えられる乙骨耐軒にはディレッタントの匂いがつきまとう。古本のつくろいを趣味としていたという祖父の乙骨太郎乙、音楽を趣味としてオルガンをひきながらシューベルトの歌曲を口ずさんでいたという父乙骨三郎も多分ディレッタントであったのだろうと私は卒業論文を書いていたころに考えていたし今もそう考えている。上田敏の父絅二(太郎乙の弟)については何も聞くところがなかったのでディレッタントであったかないかなどと思いめぐらすことはできないが、敏は明らかにディレッタントであった。

 すなわち、私は卒業論文を書きながら、私と他人ではない敏を感じていたわけで、有明に対しては全くこの感じをもつことがなかった。そして、私は自分の中のあるものには愛着し、あるものには反発する心を持つのと同様に、敏の中のあるものには共感を覚え、あるものには否定の心を示したのであった。耐軒、太郎乙、敏、三郎、私をディレッタントという同列に置くことは間違っているかもしれないが、同列に置いてみようという考えは二十七年前も今も全く変わっていない。

 定本上田敏全集月報5より

 (白百合女子大教授) 昭和六十四年一月七日没

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2006年3月 6日 (月)

相良観音霊場

相良観音と書いて「あいらかんのん」です。

子供の出来ない人たちに圧倒的な人気があります。それだけ霊験あらたかみたいです。何年も子が出来ず悩んでいた知人数人が、ここにおまいりして本当に授かりました。聞くところによると、あの大きな観音様と目が合った・・だから出来そうな気がした・・そうです。お悩みのかた、お勧めです。

参考サイト:www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/kikuka/kanko/airakannon/airakannon.html

きのう、久留米に制服のボタンを買いに行った帰り思いつき、ちょっと行ってきました。八女から久留米経由であいら観音往復、四時間半でありました。娘の良縁を数年前に頼みに行ってたので。(ずっと契約社員とパートの掛け持ちだった娘が、きちんと就職ができましたので、お礼参りにいきました。良縁への第一歩・・と思いまして。)

相良観音様

相良観音様

熊本県山鹿市の山ふところにあります。子授け安産の観音様としてとても有名です。

2006年3月 4日 (土)

ミッドウェー海戦

 「円交」五号は乙骨太郎乙の縁に連なる人たちがそれぞれの記憶を持ち寄った貴い一冊で、編集者は本を戴いた東京在住の歌人・永井菊枝氏です。明治大正昭和三代にわたる一つの血族の歴史が意図されず多方面から語られていて、(これは文面を入力しながら感じたのですが)、小説家が一人の頭脳の中で編み出す式の物語では太刀打ちできぬ「実在の人物による多彩な織糸の魅力」があります。一冊をまるごと写してはいけないので、全部で長短あわせて25編の文章のうち、何を取り何を置くか。順序もあってむづかしいのですが、私の勘で進めます。きょうは、永井菊枝氏のご主人でありお医者様の永井友二郎氏の戦記を引用します。「男たちの大和」を観たばかりで、海軍が気にかかるからです。

   「ミッドウェー海戦と私の天然自然流」  

                    永井 友二郎

 私は昭和十六年十二月、太平洋戦争開戦による最初の繰り上げ卒業で千葉医大を卒業した。十七年一月十五日海軍軍医中尉に任官、横須賀海軍砲術学校、次いで築地の海軍軍医学校(今国立ガンセンターのあるところ)での教育を終え、五月二十日、東京駅から呉に向かう。同行五人の内、私と渡辺四良軍医中尉(北大出身)は第二連合艦隊司令部附、猪狩常彦、秋山清の両中尉は連合艦隊司令部附、そして松田源彦中尉は第一航空艦隊司令部附の辞令を受けていた。

 翌朝、我々は呉駅着、海軍桟橋から艦隊差廻しの内火艇で小一時間。到着した瀬戸内海柱島沖には、戦艦大和、陸奥、長門、比叡、霧島を初め、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母群、そして多数の重巡、軽巡、駆逐艦が、静かに錨を下ろしていた。ハワイと並んで中部太平洋に於けるアメリカ海軍最大の基地ミッドウェーを攻撃すべく、帝国海軍のすべてが出撃直前の姿でここに集合していたのである。

 私と渡辺中尉とが配属された第二艦隊は、巡洋艦と駆逐艦から成る艦隊で、我々の乗艦予定の重巡鈴谷と三隅は、七戦隊と呼ばれる熊野、鈴谷、三隅、最上の四隻の内の二番艦と三番艦であり、鈴谷は内科を主とする防疫担任艦、三隅は外科を主とする手術担任艦であった。

 私と渡辺中尉が第二艦隊司令長官や艦隊軍医長に着任の挨拶をすると、軍医長は二人のうち外科志望は、と聞かれた。私は将来の志望まで考えていなかったので、返事が出来ずにいると、渡辺中尉は元気よく、「私は外科志望であります」と答えた。これで、渡辺中尉の乗艦が三隅ときまり、自動的に私は鈴谷乗艦と決まった。そして翌二十二日、第七艦隊の四隻の重巡は駆逐艦数隻を従えて、豊後水道の両岸に別れを告げ一路南下、ミッドウェーへ向け出撃した。

 六月五日のミッドウェー海戦は、御承知の如く日本海軍初めての大敗北で、虎の子の空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失った。山本連合艦隊は全軍退避を命令したが、七戦隊の四隻、熊野・鈴谷・三隅・最上には、夜間、ミッドウェー島の艦砲射撃を命じた。四隻の重巡は夜の太平洋を、最大船速三○ノットでミッドウェーへ向け進撃したが、連合艦隊は、突如この攻撃計画を中止、直ちに退避する事を命令して来た。あと一時間でミッドウェーという所まで接近した時の事である。

 四隻の重巡は直ちに反転、全速力で退避を開始したが、その途中で三番艦三隅の後尾に、四番艦最上の艦首が衝突する事故が起こった。まだミッドウェー島に近く、米空軍の爆撃範囲内での事である。

 夜が明けた。速力の落ちた三隅と最上は米空軍の激しい爆撃を受け、三隅はついに沈没、最上は大破した。三隅の生存者、負傷者は護衛駆逐艦に先ず収容され、米空軍爆撃圏を出た太平洋上で改めて鈴谷、熊野に移された。私は三隅の生存者たちに、渡辺中尉はどうしたと聞いてまわったが、ついにその消息は判らなかった。そして、その日から、二百名を越す負傷者たちへの、私が医者になって初めての治療が始まった。

 負傷者たちの殆どが全身熱傷で、全身の皮膚が黒ん坊のように焼けただれ、頭髪は無く、眼だけが光って「水が欲しい、水を呉れ」と言いながら、私達三人の軍医、十名ばかりの衛生兵の治療を受けていた。そして、負傷者の中から、今日は三人、明日は四人と次々に死ぬ者が出る。その遺体は白い布に包まれ、後甲板から水葬され、白く泡立つ航跡の中を、大きく揺れながら、故国を遠く離れた太平洋のまっ只中に消えていった。

 私は半年前まで平和な学生生活をしていたのが、今こうして厳しい日々を送っている事の運びの激しさに目を見張る思いであった。そして、私が死なずに渡辺中尉が死んだのは何故だったろうと考えた。それは誰にもわからない。誰にもどうしようもない事だった。しかし、私はなぜか「私は外科志望であります」と自己主張した渡辺中尉が戦死し、自然の成り行きにまかせた私が生かされた事に、人の力の及ばない天の摂理を思った。

 私はこのあと、ガダルカナルへの輸送作戦、キスカ島の撤収、マキン・タラワ島海域への潜水艦による出撃など、次々に厳しい作戦に加わり、何度も死地に出会ううち、次第に、命ぜられるままに、自然の成り行きに身を任せることに救いを感じるようになっていった。出た目をよしとし、決して愚痴を言わず、素直にそれを受け入れるという考え方は、苛烈な戦争体験の中で自然に身についた、私の信仰のようなものだと思う。

参考:永井友二郎氏御著書紹介(2006・5・28コメントを下さった麻場利華さまのご紹介です。ありがとうございました。)

http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-149-0.htm

紹介者である麻場利華様についての参照記事:

http://www.astrorico.com/indexj.html

http://futaribiyori.com/top.html

2006年3月 3日 (金)

すたみな太郎

いま13才の次男に迫られていることが三つあって、その一つが食べ放題に連れていって、というのです。調べたら久留米に「すたみな太郎」があります。ぞぞぞ。わたしはバイキングが大嫌いなんですが、いくしかないのでしょうか。

長男が小学生のころは、少年野球チームに所属していました。万年補欠でかなり浮いてたのですが、本人は無邪気に楽しんでいました。ある日今は亡き監督さんがみんなを当時はやっていた食い放題の店に連れて行ってくれました。食べ盛りの上に集団です。どうなったか火を見るより明らかでした。山の少年Aはまるで山猿みたいにメロンばかりをかっくらって目の前のお皿に皮を積み上げる。Bは焼肉をせっせと食い漁る。(といっても火力が弱すぎるので、生焼けです。)ケーキはごっそり持ち帰る。あっちの列こっちの列、目も当てられない無法地帯の大惨事みたいになってしまいました。いま思い出すさえぞっとするほどです。笑

あんなに食べて、採算が合うんでしょうか。(当時の店はつぶれていました。)

麦青む

麦青む

佐賀県千代田町の次郎の里近くです

2006年3月 2日 (木)

のりしろ

付箋っていうのがあります。

ラジオでその製造会社の人がいわれますには、付箋のノリは結構むづかしいそうです。といいますのも、強すぎたらくっついてはがれないし、弱すぎても用をなさないからです。へええ・・と思って。

ひとさまから本をいただくと、よく付箋がはられていたりします。それははいでしまったら跡形もないのです。本が厚いとき記事をさがすのに便利です。でも、じぶんではやったことがありません。なぜかためらいます。

どうしてこう人様から指図されるのがいやな横着な人間になってしまったんでしょう。人からはいやなのに、付箋のようなおつきあいをしていることがあります。まるで、のりしろがそこに最初からあって、そこにくっつかなきゃいけないような気がして。

2006年3月 1日 (水)

ひやめし草履

 ひやめし草履というのが「乙骨家の人々」(古山巴)に出てきました。

 どんな草履なんだろうかと思って調べてみたけど、実物の写真は出てきませんでした。語感からさぶーいパサパサとした感じの上等の反対をいく正統派「俗の細道」草履だと、思った。大分の下毛郡三光村(もう村じゃないし、シモゲグンもないんだったなあ。なんかさびしいので、村のまんまにしとこう)在の俳人・瀧春樹氏から以前うかがったことがあります。氏は昭和十四年大分県宇佐の山奥の生まれだそうです。学校まではるかに遠い山道を毎日通うとき、草鞋がすぐだめになるので予備と履き替えたり自分で挿げ替えたと仰っていました。あ、これはぞうりじゃないな。なんとなく草履とわらじがごっちゃになるですね。笑

 草履はぞうり。わらじは草鞋。カエルは蛙。青鞋は俳人。

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