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2006年3月15日 (水)

太郎乙の第一子・牧子 2

 江崎牧子とその子供たち・父の思い出」(鈴木はる)よりの引用、後半です。

 次男孝夫のことについては、牧子は「私の遣っている子供養育の実験」と題して、婦人界に寄稿した随筆の中で、「次男の文学趣味について」一項を書き、「化学も理学も深く頭脳に入れ、社会の事物について迂遠でない文学者にならなければならぬ。それだから、今のうち普通学を熱心に修めることが肝要と言い聞かせて居ります。」と書いています。この文学好きの孝夫は開成中学から三高、そして東大に進みましたが、特に芝居が好きで、何時も家の者を相手に芝居の真似事をやり、新聞紙をまるめて作った大小の太刀を腰に差し何やら科白らしい言葉を発しては、妹達(牧子の死後、政忠と後妻との間に生まれた子供)に竹光ならぬ紙光を抜いて斬りかかり、その斬られ方にも何かと注文をつけたりしたそうです。写真を見ても、兄弟の中で一番美男子に見えます。本人も役者になりたかったのでしょうか、私の主人のある友人の父君が七高で私の父悌三と同期だったそうですが、その方が、ご子息(主人の友人)を介して主人に話して下さったところによると、孝夫は東大時代に廊下を六方を踏んで渡り歩いたそうです。古山の綾夫さんのお話では、孝夫は卒業後も演劇の研究にとりつかれ、仲間達で劇団らしきものを作っていたようです。小山内薫とも懇意だったそうですが、孝夫の没した大正十三年(七月、二十七才で死亡)六月に築地小劇場が旗揚げをしています。その旗揚げに何らかの形で孝夫も参画してしたのか、或はそうしようとして身体の具合で果たせなかったのか、はたまた、命をながらえていれば、斯界に名を残したのではないかと、あれこれ想像は尽きません。お尋ねしたい方は大概物故されておられますし、寂しい限りです。

 さて五男の信五ですが、私が生まれてからも生存していたのは、父の兄弟の中ではこの叔父だけでした。私の父は府立四中から大阪の北野中学校に転校しましたので、多分この叔父も父と同様、北野中学を卒業したのではないかと推理しております。(そのうち誰かに確かめたいと思います。)

  此の文を綴っている合間に古い写真を出して居ました所、信五叔父の中学時代の写真が出て来ました。「大正七年静岡中学一年生」と書いてありますが、祖父の履歴書によると、静岡在住の記録はありません。何故信五叔父が単身静岡に住んでいたのか判りません。

 其後三高から東大に入り、卒業後は確か大阪瓦斯に就職したと聞いております。私達は父母に連れられて、九州から大阪の祖父の家によく遊びに行きました。そんな時には、神戸に住んでいた信五叔父が大阪まで訪ねて来てくれました。

 祖父は先立たれた妻牧子との間に生まれた末息子の信五叔父を大変可愛がっていたらしく、叔父の結婚の時には、日頃の恩顧に報いるため、大阪財界人を多数招待して、とても盛大な披露宴を張ったとのことです。この叔父には、博子、栄一、の年子の子供がありますが、叔父は栄一が生まれて一年ほどして、妻子を残してこの世を去ってしましました。(昭和十五年)まだ生まれて間もない栄一を抱いては、「この子は頭がいいぞ」と、よく自慢していたそうです。現在、博子は神戸に、栄一は高松に在住しています。

 最後に三男悌三(私の父)の事ですが、父は東京牛込の払方町に生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。小学校六年の五月に母牧子が亡くなりましたが、牛込の愛日小学校を卒業していますので、母の没後も大阪に行かず、暫く牛込の家に住んでいたものと思われます。また、大阪の北野中学校を卒業していますが、その前に東京の府立四中に入って、その後北野中に転校したとも聞いています。これも、誰方かに確かめなければと思っております。

 愛日小学校を卒業する際、優等生として、牛込教育会から戴いた硯箱を父は亡くなるまで愛用していました。蓋の裏には「賞 牛込区教育会」と記入してあり、硯そのものには、側面に「明治三十九年愛日小学校入学記念に購入したものである」と彫ってあります。その後、他に戴いたもっと高級な硯箱や硯も沢山ありましたが、それらは全く使っていませんでした。愛日小学校は今なお現存しており、昭和五十五年に百周年を迎えました。先日、小室恒夫さん、永井菊枝さんとご一緒に愛日小学校に行って見ますと、百周年記念の碑が校庭の一隅に建てられていました。父の幼い頃を偲び感無量でした。父はやがて牛込を去り、祖父の仕事の関係で、大阪に移り住み、北野中学を卒業して、七高(鹿児島)に入学しました。当時七高には父の又従兄に当たる、吹田順助助教授がドイツ語を教えていらっしゃいました。

   ※付随して、同著者による江崎悌三著作集の月報掲載「父の思い出」という文章がございますが、昆虫学者で九州大学教授だった人の私的なエピソードが綴られていて面白く明日また引用させていただきます。(なんだか日本近代の教育者探訪みたいになってきました。今まで色々と打ち込んできて、打ち重なる名前に出会うことがあります。するとすぐに、あ、この人は以前登場したっけ・・と貧相な私のあたまのメモリー装置が反応するんですが、その人が近代史に名を残しておられる偉大な人であるというのが判るゆえに滅多なことは書けません。時間をかけて調べなきゃ書けない。たとえば、木村熊二という人が「無冠の男」で田口卯吉少年の姉・鐙子toukoの夫として登場しています。卯吉がまだ12,3歳のころ、通りでものを売ってたのにちょうど熊二が出くわして、不憫に思う場面を忘れていませんよね。その熊二は妻の鐙子とともに「明治女学校」を起こした、やはり素晴しい教育者でした。しかもアメリカ帰りの牧師であります。ミッションとしてそれをやっている。あぶみこという印象的な名を冠された田口鐙子は若死だったようですが、この人の生涯をたどるだけでも分厚い一冊の本が出来るでしょう。もしかしたらあるのかもしれません。自分の無知を段々さらけ出す羽目になります。(笑)それにしても思いますのは、意外とクリスチャンが多いなあということです。西洋の真髄にふれるためにそうなったのか、根っから信仰してそうなったかはわからないところですが・・多分両方でしょうか。

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コメント

見知らぬ方から突然お電話をいただきました。
(かささぎが知らないだけで、父が問い合わせの電話を受けていたようです、そちらにひめのきょうこさんはおられますかと。)
ブログ上にはそういえば連絡先を書いておらず、どうして連絡をとったらいいか迷われたようで、八女市の姫野姓のお宅にかたはしからお電話をなさって十数軒目で見つけ出された由。もうしわけございませんでした。お手数をおかけしました。
このブログの、カテゴリー『円交五号』に入っている乙骨太郎乙の直系子孫である江崎悌三博士(太郎乙の長女牧子の三男だったと記憶していますが)のことを調べているオーストラリア在住イギリス人のかたがいらして、その人から依頼された名古屋のある大学教授が、さらに福岡在住の昔の生徒さんに私のブログ記事をみて、なにかわかるなら教えてほしいとおっしゃっているらしいのですが・・・。このはなし、ややこしいでしょ。
で、かささぎはすこし困っています。
たぶん、江崎博士のご家族はいまも福岡にお住まいではないかと想うのですが、その住所を調べるのに、東京の永井菊枝さんに問い合わせてわかるものだろうか。それより九州大学にたずねたらわからないだろうか。・・・ところが、これがやっぱりプライバシーがどうのと教えてくれないらしいのです。相手側の了承を得なければならないらしくて。
やっぱり永井菊枝氏に尋ねてみるしか方法はないんでしょう。
ひさびさのかんじですが、お元気でありましょうか。すっかりご無沙汰いたしました。

ときおり円交5号が読まれています
乙骨太郎乙のご長女、永井菊枝さんから譲っていただき、持っていれば失くすから、ぶろぐにながいことかけて転載しました
私的な記載なれど、資料価値が高いので、良しと判断しま
した
時に菊枝さんを思い出します
一度もお会いしませんでしたが、お声が耳に残っています

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