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2006年2月23日 (木)

乙骨家の人々 3

(昨日からのつづきです。)

 祖母つぎは私が満二才になって間もなく亡くなりましたから記憶にないのですが、十人の子供を産んで貧乏と戦って来た人です。身体も弱っていたのでしょう、冬の寒い日に便所で倒れて心臓麻痺で亡くなったそうです。頭のよい無口な辛抱強い冷静な人だったと、半二や五郎は口を極めて母を礼賛しました。特に晩年の苦労の多かった母を知るだけに、五郎は女の人はいたわらなければならないと口ぐせのように言っていました。後年非常な愛妻家になる下地が、若い時に出来ていたものと思われます。或る時、石油ランプが倒れて火が燃え上がった時、おっかさんは少しも慌てず、傍らにあった火鉢をさかさにして灰をかぶせ、障子などに燃え移るのを防いだと半二は母の沈着振りを讃えました。元来は、幕末の蘭医・蘭学者として盛名を馳せた杉田成卿(玄白の孫)の次女で裕福に育った人ですが、貧乏御家人の乙骨家に嫁し、太郎乙が大蔵省翻訳局の教頭に迎えられた、いっときの全盛時代を除いては只ただ貧乏の中で十人の子供を育てる事に専心しました。貧しかったので、恐らく着物などもまともなものは殆ど持っていなかったのでしょう、着替えをして外出したのは止むを得ぬ法事の時一度きりだったと母の話です。その代わり十人の子は秀才揃いでした。六十二・三で死ぬのは早すぎました。もっと長生きをして成人した子供たちで楽をさせて上げたかったというのが子供たちの願いだったようです。

 辛抱強い人でしたから、保守的でもあったのでしょう、そのおつぎ祖母さんが亡くなってから、しゅんの台所改造が、家計のゆるす限り実行されて行きました。

 昔は戸主の権力は絶大でしたから戸主太郎乙の所には色々な人が沢山出入りしました。又太郎乙は磊落な人で世話好きな社交家でもありましたから、来客も多くありました。

 太郎乙は十七位で父耐軒を失い、残された母と弟妹を養って来たのですから、若い時は随分苦労もし、よく働いたものと思われます。耐軒の長女錦(きん)は娘一人を抱えて若くして不縁になりましたが、その母子を引取り、娘は自分の養女として育てました。それがおたきで太郎乙が甲野棐(たすく)に嫁がせました。上田家に養子に行った弟絅二も若死でしたので、息子敏(びん)を一時牛込の家に引き取ったこともあり、吹田鯛六に嫁した妹こうが後家になった時も牛込の家の門長屋に引き取って世話を見たり、末弟兼三がしばしば失職した時もよく世話をみました。又、田口卯吉、外山正一などの人達にも種々の援助を惜しまなかったようです。若い時のこうした面倒見のよさが、後に自分が職を止めて貧乏になり子沢山で困窮している時に恩返しの形で現れ、経済学者として成功した田口卯吉は上田敏や乙骨三郎の才を惜しんで自分の邸に住まわせ大学に通わせましたし、文部大臣になった外山正一も何くれとなく援助を惜しまなかったという事でした。

 甲野たきなども、後に明治天皇の侍医となり眼科病院長として成功した甲野棐夫人でしたから、おじいさんの為に何くれとなく贈り物をされていました。私の知る太郎乙おじいさんは白髪の村夫子然とした好好爺で、なりふりかまわぬ、まめに庭掃除をする人でした。落ち葉を掃きながら「もうあんしゅうや」とつぶやいていました。意味は不明ですが、そこから来たあだ名でしょう、五郎・おとく・おろく達は太郎乙の事を「もうあんさん」又は「まるしゃがさん」と呼んでいました。いつもゆるいふんどしをしていて、しゃがむと一もつが丸出しになるという事でこの名が付いたようです。「もうあんさん」はいつでも庭掃除をするか沢山の本に囲まれた八畳の部屋で詩作にふけったり、同好の士から送られて来る詩に朱筆を加えたりしていました。詩作にふけっている時は「おじいさんご飯ですよ」などと呼び掛けても返事がなく、苦吟している様子でした。

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コメント

さっきから、からたちのや、を探してます
乙骨三郎さん、かなあ

乙骨家のからたちのやと、真木和泉のくちなしのや。
なんか気になる。

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