無料ブログはココログ

« ドメスティック | トップページ | 九州少年、九州少女 »

2006年2月16日 (木)

乙骨半二

乙骨太郎乙を知るのに本人についての詳細な評伝はまだなく、だからこそ自分流に進めることにして次の資料に参ります。太郎乙の次男・半二について、半二の甥ごさんが書かれた文章があり、それを一部引用致します。「円交」とは乙骨太郎乙一族の親睦会の名称で、当資料も永井菊枝氏提供、これはその五号(平成四年)所収のものです。

    円交昔話

                  古山綾夫

 いつの間にか、私は円交中の最長老になってしまった。私が昔の事を一番よく知っている事になる。円交に関係のある事で私の知る古い記憶を辿って書いて見よう。

 私が尋常三年を終了して四年になったばかりの春休み、明治四十年の三月下旬の事だから、今から七十五年前の話である。私は母さだ(半二のすぐ下の妹、太郎乙の次女。姫野注)に連れられて、妹倭文、弟丈夫と共に大阪から上京して大塚の家に一週間余り滞在した事がある。

 日露戦争直後で朝野は戦勝気分に浮かれ、東京では上野不忍池畔に戦勝祝賀世界大博覧会が開催された。我々親子四人は之れを見物かたがた上京したのである。新橋駅に太郎乙祖父さんが迎えに来て下さり、一緒の人力車に乗せられ、折しもの烈しい雨風の中を、新橋、銀座、京橋、三菱ヶ原、大手町、竹橋、九段下、飯田橋、大曲り、安藤坂、と辿って、やっとの思いで大塚に着くことが出来た。

 大塚の家は大変暗く穴倉にでも引き込まれるような気がした。おつぎ祖母さん(太郎乙の妻、杉田玄白の曾孫。姫野注)が迎えてくれた。

 「綾ちゃん達遠い所をくたびれたでしょう」と言って、早速生卵を割って呑ませてくださった。今で言えばテンダーロイン・ステーキを焼いて下さったと同じ様なもの、当時大塚の家はー否、日本の一般庶民はその位質素な生活をしていたのである。(中段略。大塚ののどかな田園風景と鬼子母神の森へのピクニックで狐に道を迷わせられた牧歌的な話、電灯さえなかった当時、家ではランプであった頃、大博覧会のイルミネイションにたいそう驚いたこと、まき伯母さんちの江崎邸に一泊し庭に唾を吐いて叱られたこと、その件に関して他人の子を叱る伯母を偉いと讃えている。)

 さて、最後に乙骨半二の事。半二は偉い人だった。私は半二に学ぶ所が多かった。半二は公私の別を実にはっきりとわきまえた人であった。私生活では大酒をやるなどの点で批判する向きもあったが、公生活に於いては公正無私、正に範とすべきものがあった。今の政治家や役人共に半二の爪の垢でも煎じて飲ませたい位である。

 半二は東京地方裁判所の検事時代、時の検事正小原直に私淑して彼を尊敬していた。小原は後に検事総長になった人である。私は慶応の学生の頃大塚の家に遊びに行くと、半二は酒を飲みながら、よく小原の話をして呉れた。頭脳明せき、公平無私、テキパキと事務を処理して、小原の机の上には書類などは何もなかったと言った。その後半二は控訴審検事になった。半二は二階から三   階に移っただけだと恬淡としていた。その後古山の家は台湾から引き揚げて浦和住いとなった。半二が浦和の家を世話して呉れた関係で、私は半二を控訴院に訪ねた事があった。そして驚いた。法服を着た半二の机の上には塵一つなく灰皿が一つ置いてあった。他の検事の机はと見ると、そこは雑然とした書類の山であった。小原の後には中川某が検事総長となった。中川はき帳面な人だったらしい、乙骨を検事総長室に呼んで、

「君は仕事はよく出来るが、大酒をやるそうだ。酒は色々の弊害を生むから慎みたまえ」と訓戒を与えた。半二は「人の私生活にまで関与するとは何事ぞ」と激怒して辞表を叩きつけ野に下って弁護士となった。

 乙骨法律事務所は虎ノ門の目抜きの場所にあった。桜田門から三田へ行く市電の中からよく見えた。私はしばしば訪れたが、これ又驚きの一つ、法律事務所でありながら、事務所の棚にはウイスキー、ブランデー、ジン、ウォッカ、ベルモット等等、と洋酒がズラリと並び、まるでバーにでも入った錯覚を起こさせる。机の上は奇麗さっぱり、六法全書は何処にあるのかと探す程である。それでいて依頼人の来訪は引きもきらず、刑事弁護士の重鎮として斯界に重きをなしていた。

 或る日虎ノ門の事務所から牛込横寺町の自宅へ帰る途中、市ヶ谷一口坂の辺で他の車と接触しそうになり、急ブレーキをかけた為、乗っていた半二はガクリと来た。爾来半二は体調を崩した。頭が重い、頸と背中が痛いと訴えて床に就き勝ちになった。

 半二が手がけた最後の大事件は大阪の松島事件であった。松島事件と言うのは大阪の飛田遊郭の移転問題に絡む疑獄事件で、時の大物政治家、高級官僚を巻き込んだ大事件であった。半二は政界の大物箕浦勝人の弁護を引き受けた。当時の大阪朝日新聞は「乙骨弁護人は下世話に砕け人情の機微を穿つ弁護をした」と評した事を私は昨日のことのように覚えている。思うに、他の弁護人が法理論を盾に堂々の論陣を張ったのに対し、乙骨弁護人は一人「元来人間とは過ちの多い者である。被告人は平素は人格高潔の士であるが、魔がさしたとでも言うべきか。積極的に悪事を働いたのではない。その様な人間を縛るのは法の精神ではあるまい。どうしても法に触れると言うなら、罪は最小限度に止めて頂きたい」、というような弁護をしたのであろう。決して黒を白と言いくるめる様な、き弁を弄する人ではなかった。先にシーメンス事件に際しては鬼検事として被告人どもを震駭させ、松島事件では野に下って弁護人として人情の機微に徹する弁論をした。半二の面目まさに躍如たるものがあった。之れを最後に弁護士界から手を引いた。半二は自信を失った様だった。「自分はもう乙骨半二にふさわしい弁論は出来ない」と言って持って来る事件は皆他に回した。「頭をそれ程使わずに、収入も多い公証人の仕事はどうだ」と勧める人もあったが「乙骨半二ともあろう男が公証人などになり下がれるか」と半二の矜持が之を許さなかった。虎ノ門の事務所を閉ざして、自宅を改築して事務所に当てた。

 妻のしゅんは何とかして半二を戻らせようと懸命に努めた。半二の気を紛らす為に二人で熱海に逗留した事もあった。当代一流の医者にも診せた。併し総てが徒労に帰し、半二は漸く老境に入って行った。半二自身は名古屋の宿で酔って寝ている時頭に西日が当ったのが原因だと言っていたが、今にして思えば一口坂のショックの後遺症に相違ない。今ならギブスをはめるなり何なりやり方もあったものをと痛恨に堪えない。 

 半二は昭和二十三年二月九日、新宿区下落合の自邸で静かに逝った。享年七十二才だった。(筆者の古川綾夫氏は平成三年二月十四日没) 

※引用しつつ、感じたことを記しておきます。

乙骨半二の人となりで最も目を引いたのは、やはり酒を好んだことと、そのことをとやかくいう上司に憤慨して辞表を叩きつけた、という一件です。これは、先日来せっせと写した小島直記著「無冠の男」の、「日本最初の経済論争」の項に登場する田口鼎軒(卯吉)を彷彿とさせるものがあります。というかまったくおんなじであります。卯吉も最初の就職で大蔵省に入ったものの五年間ひらのまんまだった、それはなぜというに「余は柔弱なれども人に屈下する能はざる性質を有するをもつて、紙幣寮(大蔵省)にありしときにも、三度まで紙幣頭(局長)に逆らひしことあり。ために五年間奉職せしかども位一級をも進まざりき」、自分のすることにけちをつけるボスには逆らったからです。結局卯吉はせっかくの職場を退きます。まだ年代の重なりぐあいを計算しておりませんが、太郎乙に少年時代ひきとられ養育された田口卯吉と太郎乙の次男(長男敦が系図に見えぬのは幼少に亡くなったものと思われる)の半二が、そのまっすぐな気性においてよく似ているのは、おそらく太郎乙の気性を、またその父乙骨耐軒の「狂狷」を引き継いだものと思われます。               

« ドメスティック | トップページ | 九州少年、九州少女 »

コメント

「小伝 乙骨家の歴史」永井菊枝著に半二氏もふくめ乙骨家の江戸末期以降の記述があります。参考まで。

長尾様、コメントありがとうございました。拙ブログにお立ち寄りいただき、お目にとめていただきまして、感謝いたします。
『小伝 乙骨家の歴史』 は、すぐれた本であります。乙骨家の血族には綺羅星のような偉人が多く、目を瞠ります。われら凡人からすれば、神様はつくづく不公平な偏りをなさるものだとおもうほどに。
以前、杉田玄白の血を引くお方から戴いた情報ですが、玄白はクリスチャンだったかもという推理とか、考えさせられました。歴史は日に日に変化しているんだと気づかされます。このブログで「君が代を国歌としたり太郎乙」についてしつこく取り上げていたおかげで、いろんなことを教えていただきました。

いま、中断している恰好になってますが、菊を国の紋章とした、というより、皇室の紋章としたのは、後鳥羽院だったことを最近ようやく知りました。この天皇はすごい人で、後白河とおなじくらいおもしろい。すこし和歌との関連で調べてみようとおもいます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 乙骨半二:

« ドメスティック | トップページ | 九州少年、九州少女 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31