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2006年2月10日 (金)

無冠の男 5

(1・27付「無冠のおとこ4」からの続きです。太郎乙の出番がまだ残っていました。ぐうぜん間で挟んだ永井菊枝氏の文には菊枝氏の実父・乙骨半二が敏腕を揮うシーメンス事件への言及があり、引用せねばと思いました。前回まで・・明治二年五月、太郎乙につれられ沼津に行った田口卯吉少年は乙骨家から沼津小学校へ通った。その同級生に三つ年上の島田三郎がいた。この島田についての説明で始まる。)

 大正三年一月、衆議院予算委員会の席上、帝国海軍軍人の収賄をあばいたロイター電所載の時事新報を右手に、山本権兵衛内閣の斎藤実海軍大臣にくってかかり、「シーメンス事件」の導火線となった人物だ。十俵二人扶持の下級武士幕臣のせがれ。

 兵学校の学生は、資業生と本業生にわかれていた。前者は修業四年。後者は三年で卒業の上、得業生となり、士官の選に入る。

 島田は明治二年九月、第四期資業生に及第。卯吉も第六資業生となったが、科がちがっていた。明治二一年、欧米旅行に出る島田の送別会で、

「君はじつに将校たらんと欲した。故に孫子の兵法を学び、仏式の体操をならった。しかし自分は、臆病だったために、将校ではなく医者になろうとした」

 と卯吉は語ったことがある。

 しかし、兵学校は明治五年三月解散。その前の四年七月廃藩置県断行のとき、島田は中退して上京し、江藤新平の家に家庭教師として住みこんだ。

 卯吉の方は、さらにその前の三年一二月、乙骨太郎乙が静岡藩校の教官として転勤するとき、静岡病院で医学修業を命ぜられ、四年五月、静岡病院生徒を命じられた。

 このまま進めば、医者田口卯吉となり、日本最初の経済雑誌『東京経済雑誌』を刊行した経済評論家田口鼎軒は実現しなかったはずだ。

 ところが、院長が東京に転勤となったとき、卯吉も旧資格のまま、医学研究のため上京の命をうけた。ところが島田三郎と再会し、運命は医者コースから大きくはずれる。

 乙骨ー島田との出会いというホップ・ステップで、経済学にジャンプするのである。

 田口卯吉が上京して島田三郎と会った頃、官立東京大学科学専門学校というのが新設され、生徒募集中であることを知った。

「受験しよう」 

 と島田がいい、二人は合格した。ところが、この学校は開かれず、大学予備校に転入したが、間もなく島田といっしょに退学した。

 卯吉は、尺振八のつくった私立共立学舎に入ってまた医学の勉強に戻った。島田は独力で経済学の勉強をはじめた。

 五年十月、大蔵省では翻訳局をつくって生徒を募集した。翻訳局は、頭取が尺振八、教頭が乙骨太郎乙、英語教師には外人がいた。場所は浜町三丁目。「尺も乙骨も旧幕臣で新政府に仕えることをいさぎよしとしなかったが、官費をもって貧乏書生を教育する自由はこれを許されたので、節を屈して役職についたのである」と嘉治隆一は書いている(『田口卯吉』)。卯吉はここに入り、島田も入ったので、またいっしょになった。しかし島田は、そこを卒業する前に、横浜に出て、だれかの手づるをもとめて洋行したいと考えた。そこで「横浜毎日新聞」の翻訳記者となったのである。これは、明治三年一二月一二日に第一号を出した日本で最初の日刊新聞だ。

 

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